君ヲ想フ


 人間の感情なんて、哀しいくらい曖昧だよね―――



   1.

 その日は何かが違っていたんだと思う。
 深夜のコンビニでバイトを始めて、半年ほどが経つけれど。
 彼女はもう何度となくやってきている常連さんで。今更何がどうこうってわけではないのに。
 彼女はいつもまるで男のような軽装で、サンダルを引っ掛けてやってくる。
「いらっしゃいませー」
 マニュアル通りの挨拶。彼女はこちらを見向きもしないで店内を物色する。
 先程運び込まれた雑誌を棚に並べながら、ちらりと彼女を見た。近所に住んでいるのかもしれないけれど、名前は知らない。知っているのは顔と、いつも決まって深夜にやってくるということと、その背中が小さいことだけ。
「すいません、」
 声に振り返ると、彼女がレジのところで待っていた。否、別に僕を待っているわけじゃない。僕が店員だから、早く会計を済ませたいだけなんだ。
 わかっているのに。わかっているのに。
「いらっしゃいませー」
 言いながら、レジを打つ。菓子パンひとつ、緑茶のペットボトルひとつ、ゆで卵ひとつ。
「3点で357円になります」
 彼女は無言で小銭をカウンタに置く。「ちょうどお預かりします」
 言い終わるか否かのときに、彼女は袋を取ってさっさと出て行ってしまった。
「ありがとうございました」
 後姿に、取り残された僕は言う。呟くように。
 雑誌の陳列に戻ろうとカウンタを出たところで、床に何かが落ちているのを見つけた。パスケースのようで。さっきの彼女のものかもしれない。
 上品な茶色の皮製で、開くと、有名な俳優養成所のカードが入っていた。
『西ノ宮俳優養成所/研究生 英 梨緒』
 名前と番号と、顔写真。写真の中の彼女は、少しきつめの視線を投げかけている。
「はなぶさ、りお」
 裏返すと、住所が書かれていた。すぐ近所の、単身者用のアパートだった。
 もう一度表面をみて。
 ココロに絡まるような、しびれるような。甘い痛みを感じた。





   2.

 扉を開けた彼女は、不審そうな目で僕を見た。
「どちらさま?」
「あの、僕、そこのコンビニでバイトしてる鈴村朋也っていいます。あの、英さん、ですよね?」
「……そうですけど…勧誘なら要りませんから」
「いや、あのそうじゃなくって、これ」差し出したパスケースに彼女の表情が変わった。
「どうして…、」
「あの、昨晩うちのコンビニにこられましたよね。そのときに落とされたみたいで、」
「……」
 チェーンロックをかけたドアの隙間からパスケースを受け取ると、彼女は扉を閉めた。けれどすぐに扉は開いて。
「ありがと。入って。お茶入れるから、」
「え、あ。ありがとう、」
 言われるまま、僕は彼女の家に足を踏み入れた。
 部屋のなかは、女の子の部屋とは思えないくらい質素で、家具らしい家具といえばベッドと机しかなかった。
「何もないけど、座って」
 彼女はそういってぽつりと置かれた座布団を指差した。僕は言われたとおりに座る。
 後ろ姿の彼女は思いのほか細くて。抱きしめたらきっと折れてしまう―――て、僕はいったい何を考えているんだろう。でも女の子のひとり暮らしに男を連れ込む何てきっとイコールオッケーってことなんだ。きっと、そうだ。でも、嫌がられたりしたら嫌だし。
「ハイ、」
 目の前に置かれたマグカップには、甘い匂いがくゆる紅茶が7分目まで注がれている。
「どうも、」
「あなた、名前なんていうの?」
「え、あ。鈴村、です」
「鈴村。へぇ、下は?」
「朋也」
「トモヤ。いい名前だね。もう知ってると思うけど、あたしは英梨緒。珍しいから覚えやすいでしょ、」
 にっこりわらった彼女の表情は。
 深夜のコンビニでは見たことのないもので。
 いろんな感情やことばが、ぐるぐる浮かんでは消えて。
 僕のココロを締め付ける糸は、どんどんきつく苦しくなって。
「あの、」
「ん?」
「英さん、」
「梨緒」
「え、」
「梨緒でいいよ。朋也」
 囁かれた、自分のものとは思えない、でも、自分の名前。
 ぐぅ、と。
 胸が。締め付けられて苦しくて。締め付けられて食い込んだ部分から、得体の知れない感情が。染み出して。流れ出して。
 否。
 得体なんて知れている。
 この感情をなんというのか、僕は知っている。
「梨緒、」
 呼んで。彼女は小首をかしげて。そのしぐさが愛らしくてたまらなくてもう何がなんだかわからなくてただただ目の前の彼女が欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて―――。
 後のことなんて。それがどういうことだったかなんて。
 僕にはどうでも良くて。何でも良くて。理由なんかあってもなくてもよかった。
 ただ僕は目の前の。
 彼女を。
 梨緒を。
 ただ僕は目の前の。
 彼女を。
 梨緒を。
 欲していただけで。





   0.

「キミは、アレだね。次期当主としての自覚はあるのかな?」
「いやーまーあるっちゃあありますけど」
「何そのユルい態度!」
「あははははははっ」
「朱雀くんっ」
 絶えず雪の舞い散る篁邸にて。母屋の客室で、向かい合う青年と少女。
 銀髪の青年は「いやーはっはっはー」と頭をかき、黒ずくめの少女は青年に対して真面目に説教をかましている。
「まあまあ。私の糸は全然、ホラ、害はないですから」にこやかに青年は言う。
「そういう問題じゃないんだよっ。害はなくても不当に出回っちゃうことが駄目なんじゃん! しっかりしてよ朱雀くん莫迦なんじゃないのっ?」
「…! 酷いなあテルさん。仮にも次期当主に向かって莫迦だなんて…」
「だってだってだって! ありえないよ! 管理甘すぎるよ!」
「だってー。まあまあ、とりあえず、お願いされてくださいよ」
「嫌だよ!」
「切り返しがすばやいなー。まあまあ、コウさんも何かとテルさんのことは評価されてるんですよ? あの子はよく頑張る子だって」
「社長が…ホントに?」
「ええ、本当に」
 ぐぅ、上目遣いで睨む少女に、青年は笑顔を崩さずに言う。
「ホラ、それにテルさんは再生課とはいえ、もはや糸関連のエキスパートじゃないですかっ」
「別に好きでやってるわけじゃないんだよ…」
「それにー。今回はそんな、ね、重い話じゃないでしょう」
「そりゃ、まあ、そうなんだけど…」
「いいじゃないですか。手を抜いても害はない! むしろある意味倖せになれるんですよ」
「……そう、なのかな…」
「そうですよ。恋のキューピッドなんて、そうそう出来るもんじゃないですしねっ」
「………」
 黙りこんでしまった少女に、青年はさらにまくし立てる。
「ついでにこの際服も真っ黒から真っ白に変えてみたらどうです? レースのひらひらなんてテルさん似合いそうじゃないですか」
「もういいよ。わかったよっ。行くよ! 行けばいいんでしょ?!」
「わあ、テルさん素敵! ステキング!」
「……」立ち上がっていたテルは、勢い殺がれて、またすとん、と座った。「朱雀くん、」
「はい?」
「それ、死語だよ」
「あはははは」
 わらい声に、深く深くタメ息をついた。


 あの世と呼ばれるこの世界のさらに奥に、篁一門と呼ばれる一族がいる。彼らは”糸”を創る一族として、あの世の中でも特別の地位を得ている。”糸”を創る、といっても、それぞれに創ることの出来る糸の色は一色に限られており、また色により、人間に死をもたらしたり、逆に死なせなかったり、人間がテルたち死神などの霊体に触れられるようになったりと、その作用も様々である。
 当主である”篁彩”は代々親から子へ受け継がれ、現在15代目を数えている。
 そしてその、次期、篁一門16代目当主が、先程から少女と向かい合っている銀髪の青年――篁朱雀である。彼は”赤糸”を創り出す。
 赤糸とは、俗に言う”赤い糸”のことで、人間同士の恋愛感情に作用する。数ある”糸”のなかでも、害がないといえば害のない類ではある。
 その赤糸が、なくなった。
 本来ならば糸は神棚に祀られ、あるべき場所へその都度放たれる。放つのもまた、糸を創りだした篁一門の仕事である。
「ついうっかりしちゃってて。誤爆しちゃってー」
 わらいながら、朱雀は言う。なんの悪びれもなく。それはひとえに”害がない”という観念によるものかもしれないし、まったく違い意図を持っているのかもしれない。
「ね、テルさんよろしくお願いしますよ」
 そのヒトコトに屋敷を追い出され。
 詳しい経過も知らされないまま、現在テルは下界―――人間たちの世界にいる。
 なんだかんだで。押しに弱いところを何かと巧く利用されているような気がする。出来れば気のせいであって欲しい。”押しに弱い”とか言うところを特に。
「はーああぁぁあぁぁ…」
 死にたい。いや、死神は既に死んでるから死神なわけだけど。
 今回の仕事のやりやすさは、誤爆とかぬかしながらも、糸の放たれた先がわかっていることだ。
 鈴村朋也。
 19歳。フリーター。コンビニのアルイバイト店員で生計を立てているとか。
「鈴村くん、ね」
 先程ちらりと見た鈴村は、見下ろす世界の、それこそ何処にでも居そうな。何の特徴もない、地味な青年だった。
 しかし目を細めれば、確かに彼に赤糸は結びついている。
 赤糸に害はない―――。
「ホントにないと良いんだけど」
 ため息混じりに呟くと、テルは高度をおろした。





   3.

 イマドキの子供のファッションは、イマイチよくわからない。
 レジカウンタの前で、にこにこわらっている全身黒ずくめの女の子は、何故か背中にハリセンを携えている。
「あの、」
 そして、今は深夜。とても10歳程度の子供が出歩いていい時間ではない。
「どうしたのかな、こんな時間に。お父さんとかお母さんは…」
「いないよ」
 にっこり。笑顔で。女の子は言う。
「え、でも…」
「すいません、」
 カウンタから身を乗り出して、顔を上げると、他のお客が不審そうな顔で立っていた。
「あ、はい」
 お客はすたすた、女の子なんて見えてないかのようにカウンタの前に来て。カップ麺と缶ビールを置いた。
「あ、」
 女の子はにこにこ笑ったまま立っている。女の子とお客を交互に見る。お客は不審そうな顔からだんだん不機嫌そうな顔になる。
「あ、えと…」
 慌ててレジを打つと、会計を済ませたお客は憮然とした表情で出て行った。
「どうかした?」
 ちらりと横目で見た女の子が、笑顔のままで言う。崩されない笑顔が逆に嘘くさい。
「あの、きみ、なんなの?」
「ボク?」
 女の子はどう見たって女の子なのに、一人称は”ボク”で。その前に、この梅雨前の季節に、全身長袖長ズボン手袋に足袋の黒ずくめなんておかしい。
「ボクはね、」すぅ、と目を細めて。黒目がちなめは、むしろ白目の部分が異様なほど少なくて。わらった口元が、開いて。
「死神だよ」
 幻聴だと、信じたい。


「最近の男の子って言うのは、動じないのもいれば、キミみたいに繊細なのもいるんだね」
 目を開くと、目の前に女の子が頬杖を着いて覗き込んでいて。
 僕はまだまだ夢のなかにいるらしい。


「あ、起きた」
 目を開いて、閉じた。まだまだらしい。


「ねえ、鈴村く―――」
 まだまだまだまだ。


「………」
 目を開くと、ああ、まだいる。まだいるよ。これは幻覚なのかそうなのか。
「ねえ、」
 ふぅ、遠のきかけた僕の意識を引っつかむように――事実引っつかんだのは襟だったが――女の子は先程のとは打って変わってドスのきいた笑顔になった。
「エンドレスに繰り返すつもりなのかな? いい加減にしないとボクちょっと怒っちゃうんだな」
「す、スイマセン」
 と、謝って。何故僕は謝っているのだろうか。
「ところで、あの、きみは…」
「ボクはテル。よろしく。死神やってるんだな。よろしく」
 引っつかんだ手を離して、敬礼のポーズ。当たり前だがいきなり解放された僕は控え室の畳に後頭部を強打した。
「あ、ごめんごめん。だーいじょうぶかなー?」
 全然、そんな、気持ちがこもってません。
「ねえ、鈴村くんだよね」
「なんで…僕の名前…」
「死神だからね!」まったく根拠のないことばで押し切られた。しかし、何処となく説得力のある台詞でもある。
「ねえ、鈴村くん。単刀直入に訊くよ」
「は、はあ…」
「最近、恋してる?」
「……は?」
「ねえ、恋してる? ラバーラバー」
「ラバーって、卓球の?」
「そんなボケはいらないから」
 にこやかに一蹴。
「愛のことだよ。わかってるよね?」
 ハリセンを構えた相手にこれ以上どんなボケも出来ない。いや、もとからボケとかツッコミとかよくわかんないけど。
「し、してます、けど」
 言うと、テルはふぅん、とそっけなくうなずいた。
「そうなんだ。紹介してよ」
「いやですよ」
「えー」
「えーってアナタ」
「いいじゃん。普通にデートしてさ、ボクは後ろから見てるから。大丈夫だよ、彼女にはボクは見えないからサ」
「……」
「なにその疑いの目は? 疑ってるの?」
 僕がうなずくと、後頭部にハリセンがお見舞いされた。痛い。何でだ。痛いぞ痛すぎる…!!
「まあまあ、そう堅い事いいなさんなー」
 堅いのはハリセンです。とは言わなかった。いや、言えなかった。痛すぎて。
「絶対に見えないんですよね?」
「約束するよ。絶対見えない。針千本は飲めないけどね!」
「……」微妙だ。でも。「わかりました、信じますよ」
「そりゃよかった。ところで、深夜って鈴村くんひとりなの?」
「ええ、ま……………!!」
 血の気が引いていく。
「頑張れ若人!」
 明らかに僕より年下な外見のテルに声援を送られながら、僕は控え室を出た。ひぃっ。





   4.

 部屋に入るとすぐ、梨緒のにおいがする。
 いつ部屋を訪ねても、梨緒は必ず居て、僕を迎え入れてくれる。
「おはよう朋也」
 いつもの笑顔で。やわらかいことばで。僕を迎え入れてくれる。いつもならすぐにでもハグするのだが…。
 僕の背後には見物人が居るのでそうもいかない。だってハグにしろキスにしろ、そういうのは見世物ではないのだから。そんな、お金を貰ったとしても、見せたくない。
「どうしたの?」
 後ろを気にする僕に、梨緒。
「え、あ。なんでもないよ」
 平静を装う僕。とりあえず本当に梨緒にテルは見えていないらしい。一安心。テルは室内を物色している。あんまり人様の家をじろじろ眺め回すものじゃないと教えてあげたい。
「バイト終わってすぐ来たの?」冷蔵庫から麦茶をだしながら、梨緒。
「うん、」ふたつ並べたグラス。
「じゃあ、寝てないんだ?」赤茶色の液体が注ぎいれられて、氷が浮かぶ。
「そうだね、」
「うちで寝ていく?」顔だけ振り返った梨緒の表情は。艶めいて。バイト明けの寝不足な頭は。眠気以外のものにくらりとする。
「……」後ろの人物が。気に、なる…けど。「うん」
 本能には勝てない生き物だ。人間って奴は。
 隣に座った梨緒を引き寄せると、迷いなくキスをした。


 ありゃりゃ。始めちゃったヨ。
 ある意味予想通りの展開ではあったが、テルは苦笑いをした。予想通りではあったが、出来れば遭遇したくはない場面でもあった。他人様のセックスなんて見たくないし、昔のことを思い出すから。
 でも目の前のアレはあくまで和姦であり、双方合意の上のこと。テルが云々言うことでもなければ何の間違いもありはしない。
「あーあ、」
 朋也にも聞こえない声で、呟く。
 赤糸の効果は甚大だな、思う。バイトを終えて此処まで来る間に、なれそめは一通り聞きだしたが、突然もいいところだ。そしてあまりにも予定調和。普段なら疑って、わらって、気味悪がるようなことなのに。
 何の疑問も持たない鈴村朋也は。
 いまやもう、彼女の虜。
「若いって、………若さは関係ないか、赤糸のせいだもんね」
 だからそこに感情の行き来はなく。あるのはただ赤糸のちからと赤糸のもたらした陳腐な”運命”だけ。
 漏れ聴こえる声が聞こえないように持参しておいた耳栓を装着する。自分の体内を血液が回る音だけがごぅごぅ聴こえる。
 気を取り直して視線を上げたら。
「?」
 開け放たれたクローゼットの一角に、何かきらりと光るもの。
 目を凝らしても、よく見えない。
 浮かび上がって、闇に目を凝らすと―――。
 振り返った先。見たくもない光景が広がるその場所で。
 恋とか愛とか。
 例えそれが赤糸のせいであるにしても、そこにあるはずの感情は。
「完全なる、一方通行、か…」
 闇に手をかざしても、テルが”それ”に認識されることはない。


「鈴村くん、」
 夕方近くなって梨緒の家をでたところで、テルが僕の前にまわりこんで話しかけてきた。
「何です?」
「英梨緒ちゃん、だっけ? 彼女」
「そうですよ」
「本当に、梨緒ちゃんのこと、すきなの?」
 僕の顔を覗き込んで、テル。
「すきですよ」
「本当に?」
「本当に」
「本当の本当に?」
「本当の本当に」
「本当の本当の本当に?」
「…しつこいですよ」
「ごめん。でも、大事なことなんだよ」
「大事?」
「だってボクがここにいるのは、そのためなんだもん」
「…は?」
「ねえ、鈴村くん。落ち着いて考えようよ」
 テルは僕の前で宙に浮かびながら頬杖を付いて。
「どうして梨緒ちゃんをすきになったの?」
「どうしてって、そりゃ、いつの間にか」
「本当に”いつのまにか”なの? 本当は、何かしらきっかけがあったんじゃない?」
 きっかけ。
 きっかけと、あえて言ってしまうのならば。
「梨緒が、パスケースを落として、それを拾って」
「で、届けに行ったら、彼女が居て。そのまま付き合うことになった、」
「はあ、まあ、そういうことです」
「なに照れてんのさ」
「…」言い方に、少しムッとした。「なにって、そりゃ、照れもしますよ」
「ねえ、梨緒ちゃんと逢うのってさ、いっつもあの部屋で?」
「え…あ、そう、ですね」
「付き合ってどれくらい経つの?」
「2月…くらい、」
「外では一回もあってないんだ?」
「……あって、ない…ですけど、」
「不思議には思わなかったの?」
「何をです?」
「逢うのはいつも梨緒ちゃんの部屋で。外でデートしたりはしない。部屋でいつも何してるの?」
「………」
「まあ、口に出しては言いづらいようなことをしているわけだよね」
「………」
「ねえ、そこに愛はあるのかな?」
「何を言ってるんですか、」
「文字面通りの質問だよ。ねえ、鈴村くん。梨緒ちゃんとキミの間に、愛はあるのかな?」
「ありますよ。僕は梨緒を愛してるし、梨緒だって…」
「それを、確かめたことはあるの?」
「…、な、ないですけど…」
「じゃあ、真実はわからないね」
「何が言いたいんですか?」
「クローゼットの棚」
「え?」
「そこを見てみると良いよ」
「クローゼットの…それって、」
「あ、ところで鈴村くん、ひとつ言い忘れたことがあるんだ」
「何ですか、」
「今キミと僕がこうして会話をしているけど、この会話、ていうか、ボクが発言している部分はね、他の人には聞こえないんだ。もちろんボクの姿もキミ以外には誰にも見えない」
「………」
「つまりぃ、」
 テルはくるりと、人差し指をまわして。ふふ、わらった。
「今までの一連の会話は、鈴村くんの大きな大きなヒトリゴトになっちゃうわけだね」
「……」ぐるり、周囲を見回すと。ちらりちらり、視線が、刺さる。「あー…なるほど、」
「かわいそうな子になっちゃったかな?」
「誰のせいですか、」声を落として、言う。「そういうことは最初に教えといてくださいよ」
「うっかりしちゃってたんだな」
 悪気はなかったんだよ? 実に嘘っぽい口調で。
 テルは外見相応の笑顔でいった。





   5.

「どうしたの?」
 梨緒の部屋に入って。
 そわそわ落ち着かない僕に、彼女はいいながら、抱きついてきた。女の子の――彼女の柔らかい躰は、僕の思考をくらくら、駄目なものにしてしまう。
「ううん、なんでもないよ」
 わらって言って、正面から彼女を抱きしめて。何度もキスを繰り返す。
「梨緒、」
「ん、」
「愛してるよ」
「うん、あたしも」
 そのことばだけで。僕はどれだけ救われるのだろうか。愛してるということばひとつで。
僕はどれだけ倖せになれるのだろうか。
「梨緒、」
 呼んで、それに呼応するような感触。愛しい愛しい。彼女は。
 例え此処でしか会うことがなくても。それがイコール愛がないということに通じるわけではない。例え今此処にある愛に、存在が証明できなくても。愛情の有無が証拠を有して証明できなくても。
 僕は梨緒を愛しているし。
 彼女だってきっと―――。


 僕は彼女を愛している。
 それは確かなこと。
 確かな確かなこと。
 だって僕の気持ちは僕にしかわからないから。
 でもそれは、梨緒の気持ちは梨緒にしかわからないということで。
 僕は僕以外の誰の気持ちもわからないということだ。
「朋也、」
 背後の声。衣擦れの音。
 振り返ると、梨緒がこちらをみていて。僕の手元で視線を止める。
「朋也」
「梨緒、」
 僕は手に持った小さなカメラのレンズを指で押さえて。うなるように呼ぶ。「梨緒、」
 カメラの先には、コードでこれもまた小さなデッキが繋がっていた。デッキの中のテープはゆっくり回っていて、録画を表す赤いランプが暗闇の中に浮かんで見えた。引きちぎったコードからは、赤と緑の線が覗いていて。
 僕はその色に、苦しいばかりで。
 苦しいのに、胸を締め付ける愛情という感情は、まだ僕の中に居座ったままで。
 考えたくない結論にいとも簡単にたどり着いてしまう思考をどうしようも出来ないまま。
「これは、どういうこと、なのかな」
 ベッドの方向を向いたカメラ。
 カメラに続くデッキ。録画。
 逢うのはいつもこの部屋で。
 何をするって、たいていはセックスだけで。
 そんなことにも気づかないほど、僕は彼女に溺れきっていて。
 でもそこには確かに愛情があると思っていた。
 一方通行なんて、考えもしなかった。
 僕は僕の持つ感情が、彼女の中にもあるものだと。
 疑うこともしなかった。疑うという選択肢なんかなかった。

―――ねえ、そこに愛はあるのかな?

 テルの台詞。
 テルは気づいていた。カメラの存在。梨緒のしていたこと。
「これはどういうこと?」
 こたえない彼女に、僕は繰り返す。
「どうもこうも、ないわ」
 静かな声で。梨緒は言った。
「レッスン代とか、莫迦にならないの」
 僕の手からデッキを取り上げて。見上げた彼女は一糸まとわぬ姿で。蛍光灯がまぶしい。
「だから、こういうのを売ってお金にしてるの。結構高く売れるのよ」
 なんの悪びれもなく。言う。きっと此処で、僕は怒るべきなのだろうけれど。僕の躰は、彼女の裸体に反応してしまう。
 情けなくて。
 涙が出そうになって。
 でも泣けなくて。
「りお、」
 自分の膝を見つめて。彼女の顔なんて見ことができなくて。
 呼んでも、彼女は僕の名前を呼んではくれなくて。
 僕もそれ以上、何も言えなかった。
 彼女はいったい、どんな表情をしているのだろうか。


「赤い糸って知ってる?」
 6畳一間の僕の部屋で。
 テルは向かいに座って、頬杖をついて僕を眺めている。
「運命の赤い糸。鈴村くんと梨緒ちゃんの間にあったのはただそれだけなんだよ」
「運命なんて…なら、どうして梨緒は僕を愛してくれなかったんですか?」
 運命というのなら。
 赤い糸というのなら。
 どうして愛情は一方通行だったのだろうか。
「赤い糸はね、ふたりともに結ばれているから意味があるんだよ。鈴村くんの赤い糸は、鈴村くんにしか結ばれてなかった。相手はいないんだ。ただ、誰かを愛する運命だっただけで。、相手は別に、梨緒ちゃんじゃなくたって良かったんだよ。たまたま、鈴村くんに赤い糸が結ばれたそのときに、梨緒ちゃんがいたから、彼女を愛した―――それだけなんだ」
「そんなの、赤い糸でもなんでもない」
「そうかもしれないね」
「僕は、彼女を愛してた。この世界中の誰よりも、彼女が大事で。彼女がいればよかった。それくらい愛してた」
「でももう、愛していない?」
 ふるふる、首を振る。もしそうだったら、どれだけ楽だろう。すっぱり彼女を諦められたら、いっそ、嫌いになれたら。僕はどれだけ楽なんだろうか。
「まだ、すきなんだ、?」
「僕も自分がわからない。これは、たぶん裏切りっていうものなのに。憎んだって誰も僕を責めたりしないのに。なのに、憎むことなんて出来ないし、僕はまだ、梨緒がすきなんだ」
 一方通行だとわかった今でも。
 僕はまだ、梨緒を愛していて。
 求めていて。
「これも、赤い糸の、せいなんですかね」
「そうだね」
 さらりと、何の躊躇も慰めもなく。テルは。
 言った。
「だったら、僕の気持ちって、なんなんでしょう? ただ赤い糸に惑わされていただけなんですか?」
「そうだよ。人間の感情なんて、哀しいくらい曖昧だよね。それに、そういうものだからね。赤い糸ってやつは」
「僕は、」
 彼女の笑顔を見たときに。
 かけがえのないものを手に入れた子供のように。
 わきあがる感情が心地よいほどで。
「僕は、梨緒を愛してる」
 ことばと同時に、何故か涙までもが溢れ出してきて。
「赤い糸なんて、そんなの…」
「”関係ない”?」
「……」
 関係ない、言い切りたい。言ってしまいたい。でも、いえない。あんなに人をすきになったのははじめてで、周りが見えないほどすきになったのははじめてで、おかしいことにもあまりにも予定調和なことにも気づかないほど。
 盲目になりすぎていて。
 それすらも、テルに指摘されるまでまったくわからなくて。
 なのに、
 赤い糸のせいだとわかってもなお、
 僕はまだ。
 梨緒がすきで。梨緒を愛していて。
 たまらなくて。
「僕は、どうしたらいいんですか、」
「どういうことかな?」
「梨緒を諦めればいいんですか。忘れないといけないんですか、」
「それが、きっと鈴村くんにとっては倖せかもね」
 倖せ。
 彼女がいることが倖せだった。
 彼女の存在がイコールぼくにとっての倖せだった。
 彼女に対する愛情のすべてが。
 僕のココロのすべてで。
 赤い糸のせいなんかじゃない。
 これは僕の感情で。僕の感情は僕だけのもので。わかるのもどうにかできるのも僕だけで、ほかの誰のものでもない。他の誰にもどうにも出来ない。
「僕は、梨緒がすきなんだ」
 顔を覆って。呟く。
「本当に?」
 僕にしか見えないというテルは、誰にでも聞こえるような声で。僕に問いかける。「本当に、梨緒ちゃんがすきなの?」
 たとえ、そこに赤い糸がなくても。
 僕は彼女のことをすきになっただろうか。
 こんなにもおぼれることが出来ただろうか。
 そんなのはわからない。
 出来た、と。言い切れればどんなに楽か。わからないのに。
「僕はね、鈴村くん。キミのその、赤い糸を取るためにきたんだ。回収って言うのかな、運命なんて陳腐だけどさ、やっぱりそういうのもこの世界には存在するんだよね」
「………」
「キミがこうして、梨緒ちゃんと出会って、愛して、それだって言ってしまえば運命なわけだけど。でも、運命じゃないんだ。ただの、捏造された感情に過ぎないんだよ」
 捏造。
 そのことばが、重くて。重くて。
 潰されてしまいそう。
「…どうして、」喉に引っかかった声。「とるなら、どうして、もっとはやくにしてくれなかったんですか? どうして僕に接触する必要があったんですか? どうして、どうして―――」
 そうすれば。
 何も知らないままだったら。
 梨緒への愛情がなくなって。
 それだけですんだのに。
 こんなに傷つくこともなくて。
 こんなに苦しむこともなくて。
 なのに。
 どうして。
 何故。
 こんなに僕を苦しめるの?
 そんな必要性なんて、何処にもなかったのに。
「運命だから」
 顔を上げて、見た、テルの顔は。
 歪むようにわらっていて。
 その笑顔に、僕は何も言えずに。泣きわらいで。





   7.

「どうして、赤い糸なんて、ロマンチックなものが存在するんでしょうね」
 手の中の、回収された糸を眺めながら、朱雀が言った。
「それは、キミが言うべき台詞かな」
 屋敷の縁側で。舞い降りる雪に目を細めながら、テルが返す。
「そうかもしれませんね」
 閉じて、開いた掌には、もうすでに糸は何処にもなく。
 運命はいつだってまわり続けていて。
「鈴村くんは、どうなったのかな、」
「私は知りませんよ」
「だと思った」べろりと、舌を出して。「結局彼は、翻弄されただけだったのかな」
「”運命”に?」
「そう。誤爆という名の運命に」にやり、わらって、テル。
「嫌な言い方しますね」いいながら、朱雀もわらっていて。
「感情なんて―――特に、愛情なんてさ。誰かに干渉されるべきものじゃないのにね」
「まあ、愛情が特別そうってわけじゃないですけどね」
「まあね。……ねえ、朱雀くん」
「なんですか、」
「運命って何なんだろうね。愛情って、何なんだろうね」
「哲学的な発言ですね」
「でもないヨ。だって、ボクは考えたりしないもん。考えないから、翻弄もされないね」
「そうですか、」
「多少嘘だよ」
「どっちなんだか、」
 くすり、わらった朱雀に、テルもわらった。
「まあ、私に言えることとしてはひとつだけですか、」
「なになに?」
「何にもない場所にも、運命ってものは存在しているんですよ。私が篁一門の跡取りなのも運命。赤糸が鈴村朋也にたどり着いたのも運命。その相手が英梨緒だったことも運命。今此処で、こうしてテルさんと私が話をしているのも運命なんですよ」
「すべてが運命なわけだ。―――で、朱雀くんっていつから運命論者になったの?」
 にやり、わらってテル。「はてさて、いつからでしょう?」おどけて朱雀は肩をすくめた。
「運命はどんなカタチであっても、変えられないんです」
「否定的だね」
「そうですか、」
「そうだよ、」
 何度か瞬きを繰り返して。朱雀はやわらかく、わらう。
「私たちだって、ただ翻弄されているだけなんですよ」
「うん?」
「…いいえ、」
「なんだよ言いなよ。気になるんだよっ」
「言いませーん」
「えーっ」
「あー聞こえない聞こえないー」





   6.

 深夜のコンビニで。
 僕はいつもどおりに雑誌の陳列をする。
 彼女は来ない。来たところで、僕は一体どうしたら良いのか。
「すいません、」
 呼び声に、レジに顔を向ける。
 そこには、彼女がいて。
 僕を見て、すこしだけわらった。
 赤い糸のなくなった僕のココロは、それなのにまだ苦しくて。
 苦しさに泣きそうになる。
「いらっしゃいませ、」
 カウンタのなかで、レジを打ちながら。
 僕はなるべく、彼女の顔を見ないように。
 視線を伏せて。
「ともや、」
 呼ばれても、顔を上げずに。
「467円になります」
 ただこのときが過ぎ去ればいいと、苦しさを抱えながら。
 カウンタに置かれた小銭を、とって、おつりを渡して。
 マニュアルに載っている言うべき台詞すら、浮かんでこなくて。
「ともや、」
 彼女が、もう一度、僕の名前を呼んで。
「ごめんね、」
 小さく小さく、言った。
 彼女が手に取ったビニール袋が、かさり、やけに耳に残る音をたてて。
 見慣れた背中は、いつもと同じで小さくて。
「りお、」気づいたら、名前を呼んでいて。小さすぎる声では、彼女は振り返らなくて。「梨緒」もう一度呼んで。
 赤い糸のなくなった僕のココロは、まだまだ苦しいまま。
 振り返った彼女の、梨緒の表情に。
 運命なんてものは、いとも簡単に僕の中で存在感をなくしていく。
 きっと、それ自体が運命なんだと、陳腐なことばが、浮かんで消えた。


(2004/07某日 12413文字)