こうして僕は大人になる。


 理由なんかないよ。
 ただ愉しいってだけさ。


          *


 梅雨明けから一週間が過ぎた。
 中学に入ってからはじめての期末考査も終わり、教室のなかには、日を追うごとに夏休みの透明で極彩色の開放感が、何処からか溢れてくる。
 夏休みを数日後に控えたその日、橋本和馬は前日までとなんら変わらず声をかけてきた。
「いっくん、かえろ」
 こいつは俺のことを「いっくん」と呼ぶ。世の中でこいつだけだ。俺のことを「いっくん」なんて呼ぶのは。
 ふざけたあだ名の始まりは、中学の入学式。俺の名前を呼び間違えたことがはじまり。それも、今思えば確信犯的なところもあるように思う。
 あっけらかんとした、背負うものなど何もないというような、笑顔と雰囲気と。
 何も知らないかのような表情が、いちいちムカつく。
「俺、掃除当番だから」
「あ、そっか。じゃあさ、僕図書室で待ってるよ。終わったら声かけて。一緒にかえろ」
 やんわり断ったつもりだったのに、こいつはそんなことお構いなしに待っていると言う。
「行かないかもよ?」
 机の中身をしまい終わった鞄を机の脇にかけ、立ち上がりながら言う。疑問系だけど、言外にはっきり、さっさと帰れ、という意味合いをこめて。
「大丈夫」なのに、まったく俺の気持ちを汲まない返答。「僕はいっくんが来るって信じてるから」
「ああそう―――…、」

―――信じてるから。

 何気ないことばに、スルーしてしまいそうになって。
 あまりにも当たり前のことのように言うから。
 信じるなんてことばを。
 そのことばの重みなんか知らないかのように。

―――ばーか。

 笑い声。
 嘲笑。
 俺が見ていたのは嘲笑の裏の、ちゃちな友情とかいうクサい青春物語。

―――お前ホント単純だな、

 信じてたのに。
 怒ることも哀しむことも出来ないで。すべての感情は完全麻痺。視覚も聴覚も触覚も。何もかもを奪われ。

 信じてたのに。

 人間は器用だから、感情とは裏腹な行動をとることが出来るのだということを知った。
 人間は不器用なんてとんでもない嘘だ。
 人間は器用だから、嘘をつくことが出来る。出来ないのは、欠陥品な一部の人間だけで。
 俺はそんな欠陥品のひとりで。
 こいつはきっと、完全なる人間なのだろう。

―――僕はいっくんが来るって信じてるから

 そんなに軽々しく信じてるとか言うな。
 時間が経てば経つほどに、自分のなかにわきあがる感情を、はじめは処理できないでいた。
 憎しみも哀しみも。疑問も。
 何もわからないふりをしていれば良いのに、何もかもをわかろうとしてしまう。わかったところで、そこには更なる絶望しか待っていないのに。


          *


「さいじょう、いち?」
 出会いは、入学式の日。そのひとこと。
「はじめ。」
 律儀に訂正した俺に、橋本和馬はきょとんとした顔で。すぐにわらった、
「じゃあ、いっくん。僕は橋本和馬。すきに呼んでいいよ」
 なにが「じゃあ」なんだ。俺の訂正なんか聴こえなかったように、間違った読み方であだ名をつくる。
 それ以来、橋本和馬は俺のことを「いっくん」と呼び続けている。俺は特に訂正はしなかった。特別嫌な気はしなかったし、別に呼び方なんかどうでもいいと思っていたから。
 俺は未だに、橋本和馬のことを固有名詞で呼んだことはない。
 すきに呼べば良いと言うのだから、すきに呼んだらいいのに、名前で呼ぶのも苗字で呼ぶのも、「くん」とかつけるのも。全部何か違うような気がして。しっくりこなくて。
 親しげな呼び方。
 一方通行で。進入禁止。
 俺は回りこむ道すら、上手く見つけられないまま。

 信じるとか、あんまりにも軽々しく言うもんだから、あやうく信じてしまいそうになる。
 本来の重みなんか、ガン無視だから。逆に。

 ほうきを握る手に、ぐっと力をこめる。クラスメイトのざわめきも、放課後の浮ついた空気も、橋本和馬の言動も。
 すべてが、ムカつく。
 人のことを易々と信じていそうで。
 裏切られたことなんかないみたいな、態度が。
 他人を信じれば裏切られる。期待すれば裏切られる。そんなのは自明のことなのに。あまりにもあからさまな真実なのに。
 のほほんと発される、態度とは対極なことば。

 ごみ棄てに行った女子の帰りを待たずにバラバラ解散していく掃除当番のクラスメイトたちを横目で見ながら、俺は誰に何を言われたわけでもないのに、窓際の作り付けの棚に腰掛けて、女子が帰ってくるのを待つ。

 さっさと帰ればいいのに。
 ばかだな。

 自分のなかのあいつが、嗤う。

 お前、ホントに単純だな。
 単純すぎて逆にわらえるよ。

 今はもう、日常の何処を探してもあいつは居ないのに。記憶のなかに、目を逸らせないほどにリアルな爪あとを残して。
 爪あとは未だに血を滲ませて、夏の湿気に、あっという間に腐敗していく。
 細胞が腐る臭いと、痛みを通り越した感覚が、大量の膿を吐き出す。
 そして、傷は乾くこともなく、ぐちゃぐちゃのドロドロ、どんどんひどくなる一方。

「西條くん、」
 かけられた声に、目をやると、ごみを棄てに行っていた女子が空のごみ箱を手に立っていた。
「そ、掃除、終わったよ…」
 何でそんなに怯えてるんだよ。
 思ったけど言わずに。言えずに。
「うん、」
 別に待ってたわけじゃない、そういうように。
 女子はおどおどしたまま。きっと女子のなかで、俺は無愛想で付き合いづらい男子の筆頭なのだろう。
 橋本和馬とは逆だ。
 橋本和馬は誰とでも仲良くしていた。当たり障りの良い笑顔で、親しみやすい態度で、まだ声変わりのかけらも見られない、心地よい高めの声で。
 相手と自分の垣根を、ないもののように、あっさりと越えて。
 いつの間にか相手のテリトリーのなかに。
 侵入。どんな精密なセンサーさえも反応しない。
 鞄を肩に引っ掛けて、図書室で待ってるといった橋本和馬のことばが頭を掠める。
 信じてるから。
 帰ってしまえば良い。帰ったところで、誰も自分を非難しないだろうし、たとえ非難されたって聴こえないふりをすれば良い。不感症なふりをしていれば、世の中は思っている以上に生き易くなる。

 信じてるよ。
 信じてたのに。

 だけど、自分までもが他人を裏切ってしまうのは、どこか抵抗があって。
 裏切られる痛みを知っているのに、知っているから、その痛みを他人に与えるのは気がひけた。
 こんな態度が、ずるずると橋本和馬との付き合いを続けている最たる理由なのだろう。
 一度、昇降口に向いた足を、反対の図書室に向けた。
 青い上靴が、きゅ、床にこすれる。

 半数以上が帰ってしまった校内で、俺のことを知っている生徒は少ない。否、全校生徒がいたって、そのうちの一握りも俺の存在なんてハナから知らないだろう。
 学区内の三つの小学校から集まった公立中学で、俺はせいぜいひとりかふたりしか居ない、学区外からの生徒だった。
 小学校を卒業して、親の都合で引越しした。本来ならば、近隣の学区であるもともとの公立中学に進学することも出来たけれど、俺は誰も知り合いのいない、今の市立小島中央中学に進学することを決めた。
 親は不思議がったけれど、学区外の学校に通う手続きのめんどくささも相成って、あっさりと小島中央中に通うことを了承した。
 二階にある教室から、階段を四階まで上がる。図書室は校舎の最上階に、ワンフロアすべてを独占して設置されている。ワンフロアとはいっても、敷地の半分は屋上なので、実際はたいした広さはない。
 三階の踊り場に差し掛かったところで、いきなり角を曲がってきた女子とぶつかりそうになった。
 俺はびっくりして硬直してしまい、相手も不意の鉢合わせに一瞬足を止めた。

 目があった。

 ほんの数瞬も経ったわけではないのに、その時間がやたら長く感じられた。
 女子は顔を隠すように俯くと、俺の脇をすり抜けて階下に降りて行った。低い天井に、足音が反響する。走り去る上靴の色は、彼女がひとつ上の学年――二年生であることを示していた。
「…」
 女子が駆け下りて行った階段。
 きっと橋本和馬なら、ここで彼女に気の利いたひとことでもかけただろう。
 なのに、俺は何も言えなかった。

 泣いていたのに。

 角で誰かとぶつかりそうになるのは良くあることだけど、相手が泣いているなんてことはそう滅多になくて。
 非日常的な出来事に、瞬きも出来ず。

 信じてたのに。

 まだ小学生だったあの日。安易に人を信じていた、あのころ。
 あいつに指摘されるまで、涙を流していることにすら気づかずに。半笑いの指摘に、俺は何のリアクションも出来ず。
 指された指の先に、自分自身がいるのだということも、いまいち実感が持てず。
 自分が自分ではないような、乖離感。

 今の女子も、きっと自分が泣いていることにも気づいていないのだろう。
 自分と同じ。
 他人なのに。
 同じ。
 ときどき起こす、他人とのちょっとしたシンパシー。

 視界と記憶に残る、女子の残像から目をはがすと、階段のすぐそばの教室の扉が開いているのに目がいった。
 さっきの女子が飛び出してきたのはあそこの教室だろうか、中途半端に開いた引き戸が、静かにその事実を肯定しているよう。
 そんなものは気にせずに、さっさと図書室に行けばいいのに、俺は階段を上がらないで、扉に引き寄せられて。
 手をかけて、なかを見る。
 斜め後ろに背を向けた、男子の姿。
 見慣れた背格好。
「…あ、」
 漏れた声に、男子が振り返る。
「あ。」
 橋本和馬、だった。
 橋本和馬は痛そうに赤くなった頬を押さえながら。意外そうに少し目を見開く。
「あちゃー、変なトコみられちった」
 ちょっとした悪事が露見したときのように。いつものような軽い口調で、言う。失敗失敗。そう言っているのに、さして思っているふうもなく。
「お前、こんなとこで何、してんだ?」
 教室のプレートを見上げると、二年五組とあった。俺たち一年には、普通何の縁もないクラスだ。
「んー、」頬が痛いのかちいさく呟いて。「まぁ、たいしたこともない、ただの別れ話らよ」
 腫れ物を触る指はおっかなびっくり。微妙にろれつの回らないことばは舌ったらずになている。
「別れ話…?」
 せいぜい十三歳でしかない自分たちの歳には耳慣れないことばに、俺は鸚鵡返しに聞き返す。
「そうらよぉぁたた…」
 振り返る姿勢から、躰を反転させて、こちらに躰を向ける。
「んあー、なんていうんらろ。たいしたハナシれもないけろさ」
 はは、わらいながら。ときどき痛そうに表情を歪める。口の中でも切っているのかもしれない。きっとさっきの女子に平手でも喰らったのだろう。貧困な想像力でその様子を思い浮かべる。
 別れ話だと、橋本和馬は言う。
 きっと、ロクな話ではなかったのだろう。
「ホント、なんか情けないなー」
 ホントにそう思ってるのか? 疑問は声にならない。
「忘れちゃってー」
 あはは、わらいながら言うけれど。
「で、でも、さっきのひと、泣いてたし…」
「あー、まぁ、別にそこれいっくんが気にすることはないのらよー」
 やんわり、見て見ぬ不利をすればいいと、橋本和馬は言う。
 そんなことを言われても。気になってしまう。世間一般のイメージとは違い、精神的に優位に立ちたいと思う女子だからこそ、そんな、恋愛ごときで、人前で泣くことなんてないのに。
 泣くなんて、そんな、たとえ演技であるとしても、少なからず素の自分を剥き出しにしてしまうような行為。
「でも…」
「…いつになく食い下がるねぇ」
 頬の痛みに慣れたのか、普通の話し方になって、橋本和馬。
「なになに? 今の子いっくんの好みなの? やめといたほうがいいよ、あんまりオススメ出来るような子じゃない」
 そんな、人をモノや商品のように。
「たしかに顔はそこそこ可愛いと思うし、いろいろ悪い子じゃないけど」いろいろってなんだろうか。「ちょっとアタマが足りないんだよね。信じてたのにって、勝手に信じられても困るのにね」
 そのことばで、思った。橋本和馬は、頬の痛みに慣れたのではなく、物理的な痛みになれているだけなのだ。そして、他人の心の痛みにも。慣れきってしまっている。
 だから、既に痛みを痛みとも感じなくなっているのだ。
 感覚が、麻痺してしまっていて。
「いっくん?」
 声をかけられて、俺は何も言えずに。
 脳裏に記憶が駆け巡る。走馬灯のように。おかしいな、俺、まだ死なないのに。まるで死ぬときのように。臨死体験なんて、したこともないのに。


          *


 親の仕事の都合で、幼いときから引越しを繰り返していた。同じ土地に三年いれば長い方。幼稚園には行っていないし、小学校は二度転校した。中学に上がるときも、同一県内ではあったけれど、引越しをした。
 俺の周りには、いつも知らない土地の空気と、知らない人間が溢れかえっていた。ひとりっ子だったから、身内と言えば両親くらいしかいなくて。
 来るものは何者も拒まないようなふりをして、周囲に高いハードルをめぐらせた幼い子供たちの輪に入ることは、簡単なようで難しかった。
 親が見る限り、仲間に入ることは簡単だ。でも、本当の友達になるためには、いろいろと踏まなければならない順序があった。
 俺は何度もその手順を踏んだ。
 新しい土地に行くたびに、その土地の子供たちから洗礼を受けた。グループごとにルールがあって、それをことばではなく感じ取って理解しなければならなかった。
 俺はいつでも懸命だった。仲間に入れてもらうことに。そして本当に幼かった俺は、見かけの友達付き合いと、本当の友達付き合いの区別を上手くつけることが出来なかった。
 小学三年のとき、あいつの居た小学校に転入した。転入生が珍しいのか、はじめはクラスメイトが取って代わって話しかけてきた。でもそれに飽きてしまうと、俺はあっさりひとりになった。
 そんな俺と、いちばんはじめに友達≠ノなってくれたのが、あいつ――紙谷伸司だった。

―――はじめ。

 あいつは俺のことを親と同じように、名前で呼び棄てた。はじめ。間違うことなく、正しく。
 中学に上がるまでは、たいていの同級生は「一」という名前を正しく読めずに、間違えて呼んで、訂正することが多い名前なのに。あいつははじめから間違えずに呼んだ。

「はじめ」

 なんのことはない。ただそれだけのことなのに、嬉しかった。

「伸司」

 俺はあいつと同じように、名前で呼び棄てた。それが赦されると思っていた。
 あいつのおかげで、俺は一度は孤立したものの、すぐにクラスに馴染むことができた。踏むべき手順の半分以上を、あいつが補助してくれた。
 クラスのリーダー格で。クラス委員で。
 あいつと一緒に居れば、輪からあぶれることなんかなかった。
 何より愉しかった。
 あいつといると、いろんな人と関わることが出来て。
 信じていた。
 呼ばれる名前も、呼ぶ名前も、接する態度も。
 何もかも、俺とあいつを繋ぐ、絆なんだと。俺たちは友達で、親友で。
 信じていた。

 忘れもしない、小学六年の九月一日。
 夏休みが明けたその日、久しぶりに会うクラスメイトたちの態度が、何処か違っていた。
 朝、教室の扉を開けると、迎え入れる雰囲気は、転入したその日に戻っていた。否、そんな生易しいものではなかった。  興味も関心もない、塵を見るかのような。
 なんの色彩も温度もない、眸の群れ。

「あ、おはよう」

 それだけ言うのが、やっと。
「…」
 クラスメイトはみんな無反応で。俺はおかしいとは思っても、それが何なのかわからなかった。
 夏休み明け。
 ほとんどのクラスメイトが、一ヶ月ぶりに会う。
 自分が何かしただろうか、思い返して。でも思い出すものがない。
 一学期の終業式。いつも通りに、ことばを発せば、誰かから何かしらのレスポンスが返って来た。その時点で、今のようなことはなかった。
 クラスメイトは俺を見たけれど、実際には俺を見ていない。
 俺の向こうの、壁を見ている。
 開いた扉を見ている。
 視線の先に、俺≠ヘいない。
 俺は確かに此処に居るのに、彼らの視界のなかに、俺は居ない。
 誰も、俺≠見ていない。
 誰も見ていないのに、全身の至るところに突き刺さる視線を感じながら、教室を控えめに横切って、自分の席につこうとして。
 そこで、俺はようやく、異変の正体に気づいた。

 ばか
 死ね
 ムカつく
 学校くんな
 キモい

 そんなことばが、縦横無尽に、机の上。
 筆跡は様々で、ブラウンの木目に、えんぴつで。薄いものから、こすれば滲むような、筆圧の濃いものまで。
 俺がもう少し大人だったなら、逆にそのことばの羅列に、何て低レベルなんだとわらえたかもしれない。
 でも、そのころの俺は、どうしようもない子供で。どうしようもない甘ちゃんで。
 目の前の事実を、そのまま受け止めるしか術もなく。
 机を見下ろしたまま、座ることも顔を上げることも出来ず、硬直。
 躰中の筋肉がゆるゆるになってしまって、立っているのさえ困難に感じてしまう。
 不自然な沈黙が、逆に耳に痛い。
 耳鳴りが、近くで遠くで繰り返す。

 くすり、

 誰かの笑い声がした。
 それを皮切りに、あちらこちらから小さなくすくすわらいが漏れる。
 嘲笑。失笑。
 机の上にぱたぱた、滴がたれた。
「泣いてんじゃねえよ」
 声に、それが自分の涙であることを知る。
「はじめ」
 顔を上げると、あいつが、居た。
 椅子に逆向きに座って、背もたれを抱え込むように腕を組んで。
 にやにや、こちらを見る目は、は虫類のそれに酷似している。
「…あ、」
 出てきたのは、たいして意味を持たないことば。
 頭のなかがまっさらになって、何を言ったらいいのか、何を言えば良いのか、なんて言ったらこの状況を打破できるのか。
 考えるばかりで、考えるふりをして、でもアタマは全然動いていない。
 ことばばかりが素通りしていく。

 どうして。
 なんで。
 なんで。
 どうして。

 俺が一体何をしたって言うんだ?

「あ、お、俺…」
「んー?」
 完全に見下された口調に、かろうじてでかかっていたことばが、再び行き場を失う。
「しんじ、」
「…」
 呼んでも、あいつは何も言わなかった。
 いつもなら、なんでもない返事を返してくれるのに。
「し、伸司、お、おれ…」
 ことばが、上手く繋がらない。どもってしまう。
 ひとつことばがつまるたびに、わらい声はかすかにだがその声量を増していく。
 違う。
 何かの間違いだ。
 思いながら、自分自身に問う。これの何処が、何が間違いだって言うんだろうか。
 何も間違いじゃない。目の前で起こっていることは、すべて、紛うことなき事実じゃないか。
「おれ、」
「キモいよ、お前」
 こころがひとつ。砕けた。
「しんじ、」
 あいつは自分を取り囲むクラスメイトたちと目を合わせてわらった。
 こころがふたつ。砕けた。
「一体、なにが…」
「お前ホントばかだな、」
 こころがみっつ。砕けた。
 わらうあいつの表情が、歪んでいる。愉しそうに愉しそうに。
 新しいおもちゃを見つけた。そんな、幼子の眸。
 純粋で、故に残酷。
「ゲームだよ」
 あいつが言う。クラスメイトたちの声に出さないわらい声がBGM。
「毎日暇だしさ。今日からお前いじめて遊ぶことにしたんだ」
 宣告。
 卒業までの残り半年間。そのすべてが、あいつとあいつの仲間たちの暇つぶしの対象になる。
 なんで、だろうか。
 回らない頭では、いくら考えてもこたえなんて出てこなかった。きっといつも通りの思考回路を保っていたとしても、こたえになんてたどり着けなかったと思うけれど。
「なんで、…俺、伸司の友達、だろ?」
 何も考えられなかった。
 小学三年の春。誰ひとり知り合いのいない新しい学校で、いちばん初めに親しくなってくれたじゃないか。いちばん最初に俺のことを名前で呼ぶようになったじゃないか。
 友達になったじゃないか。
 それは何だったのだろうか。
 俺が転入してきてからの、二年と半年は。
 いちばん近くに居る友達じゃなかったのかよ。
「キモいよ。お前」
 再度、あいつが言う。
「何勝手に思い込んでんだよ。誰がいつお前のことを友達だなんて言った? いつ誰がお前と俺は友達だなんて言った? 独り善がりもいい加減にしろよな」
 違う。
 誰も友達だなんていわなかったけれど、それでも友達なんじゃなかったのか。
 そんな、確認なんか必要なくて、友達は友達で。
 違う?
 何も違わないじゃないか。
「…」
 なのに、今現在目の前で起こっているこの出来事はすべて。
 すべて、それらが違うと言うことを、無言で物語っている。
「…、…―――」
 信じてたのに。言いかけて、止めた。
 信じたのは自分だから。
 裏切ったのはあいつでも、そもそも俺があいつを信じなければ、裏切られることになんてならなかった。
 裏切りと言う行為をされても、それを裏切りと感じることはなかった。

 誰が悪い?
 信じた俺?
 裏切ったあいつ?

 そんなの決まってる。わかりきっている。

 信じた俺だ。

 それから半年は、ところどころ記憶が欠落している。雨で滲んだ文字のように、曖昧な記憶で、少なくともそれ以後愉しいことが何ひとつ無かったのは覚えている。
 俺はあいつらのおもちゃに過ぎなかった。
 そして卒業と同時に、俺は逃げるようにあの町を離れて、学校も変わった。

 どんなに考えを変えようとしても、あいつが俺を裏切ったと感じてしまうことは変えられなかった。
 俺は裏切れれた。
 でも、俺が悪かったんだ。
 軽々しく、他人を信じていた俺が。諸悪の根源。
 あいつは生きていくうえで、とても大事なことを、身をもって俺に教えてくれた。
 他人を信じるな。
 信じれば裏切られると思え。
 信じた自分が悪い。信じなければ傷つかない。傷つきたくなければ誰も信じるな。
 だから俺は、他人を信じることをやめた。
 傷つきたくないから。
 痛いのは、もう嫌だから。

 あいつから逃げるように、小島中央中に進学して、橋本和馬と出会って。
 橋本和馬の、あまりにも軽々しく発する「信じる」ということばに、思いのほかぐらついている自分がいた。
 きっと裏切られたことなんて無いから、こいつはこんなにも軽々しく、易々と信じるなんて言うんだ。
 俺かあいつか。そう考えたら、橋本和馬は、間違いなくあいつの側に居る人間なのだ。
 俺は確信に満ちて、思っていた。
 信じるな。
 信じればやがて、あいつと同じように、橋本和馬も俺を裏切るときが来る。


          *


 入学式の日。
 同じ教室のなかで、数週間ぶりのクラスメイトたちと挨拶を交わすなか、ひとり、誰ともことばを交わさない生徒が居るのに気づいた。
 僕は式の前に配られたクラス名簿を見たけれど、学区の三つの小学校から集まったクラスメイトには、知らない顔も多く、彼が誰なのかはわからなかった。
 僕は彼に近づく。彼は気づかないのか、頬杖をついてぼんやりと窓の外、ほとんど散ってしまった桜を見ていた。
 名札を視認できるところまで近づいても、彼は無反応で。
『西條』
 書かれた苗字から、名前を見つけ出す。
「さいじょう、いち?」
 西條一。
 名簿の名前をそのまま読み上げると、彼は思ったよりのんびりした動きで、こちらを見た。
「はじめ」
 無愛想な声音で。律儀に、訂正する。
 ホントのところ、僕は彼の名前が「いち」ではなく「はじめ」であることはわかっていた。あまり見かけない名前ではあったけれど、その程度の知識はあった。
 それでも僕は、彼のことをあえて間違えて「いち」と呼んだ。
 訂正する彼の声を聞いたとき、僕は絶対的な確信を抱いた。

 彼は僕にとってトクベツになるんだ。

 理由も根拠も無く。
 ただ雨が天からすべり落ちて来るのと同じように当たり前に、思った。
「じゃあ、いっくん」
 僕は思ったことばを、そのまま口に出す。あまり見ず知らずのひとにはしないこと。本来ならば、どんな人間なのか、二、三歩間を空けて観察してから、することだけど。
 彼には必要ないと思った。
 理由も根拠もないけれど。
 そんなものは要らない。
「僕は橋本和馬。すきに呼んでいいよ」
 僕のことばに、彼は何も言わずに視線を元に戻した。
 否定も拒絶もされなかった。
 入ってくるなと、沈黙は警告なのかもしれないけれど。
 僕は否定も拒絶もされなかったのをいいことに、彼のことを「いっくん」と呼び続けた。そう呼ぶ権利を、沈黙のなかに得た気がしたから。
 いっくんは僕が呼び続けることに何も言わなかった。
 僕は嬉しくて、生まれて初めて、無条件に人を信じた。いっくんに対しては、疑うと言う行為がひどく愚行に思えた。

 僕は両親が十七歳――高校生のときに生まれた。
 幼いころの記憶なんて少ないけれど、歳を重ねるごとに、両親の関係が冷めていくのは、子供の僕でもわかった。
 何で離婚しないのだろうかと不思議に思ったけれど、理由は僕だと、すぐに気づいた。
 両親は僕への僅かな愛情と世間的な責任から、せめて僕が十八になるまではどんな形であれ夫婦≠続けていくことを決めていたのだ。
 それはもう、契約に等しかった。
 いつかは両親の絆の象徴でもあったはずの僕は、いまや足枷でしかなくなっていた。
 両親は僕を叱ることはなかったし、甘やかすこともなかった。ただ存在しているだけ。人形と同じ。無機物と接するのと同じ。
 僕が小学校に上がるころから、父親は外に女をつくって滅多に帰ってこなくなったし、母親は僕が学校に行っている間に家に男を連れ込んでいた。
 そんな両親の姿に触発されるように、僕は十一歳のときに、クラスメイトの、まだ初潮も迎えていない女子と生まれてはじめてセックスをした。帰った家で、母親が僕の知らない男としている行為を、そのままなぞるように。
 僕は行為の名前すら知らずに、行為に没頭した。
 そこそこの快楽はあったけれど、絶頂を迎えることは出来なかった。躰のなかに、鉛のようなけだるさが残っただけで。
 名前も知らない行為に没頭することで、僕は少しでも両親に近づこうとした。同じような感覚を得ることによって、少しでも近くに存在していたかった。
 そんなこと、出来るわけもないのに。
 誰かと一緒に居たかったけど、誰とも一緒に居たくなかった。やがて、離れていくのが怖かったから。
 両親でさえ厭う自分の存在が、他人に喜ばれるわけがない。
 他人と表面的に付き合っていくのは、ひどく楽だった。みんなと一緒に居るふりをして、孤独に浸る子供っぽい自虐さで、僕は自分を保っていた。
 関係をもつ女の子とも同じ。
 もう両手の指では足りないくらいの女の子と関係を持ったけれど、どの子とも恋人関係に発展することはなかった。行きずりと何も変わらない。
 僕は誰も信じていなかった。でもそれでは生きていけないから、信じているふりをしてきた。たいていの人間関係は、多少の演技で誤魔化して構築していけると知った。
 だけど、いっくんは違った。
 彼は明らかに誰も信じていなかった。僕と同じ。だけど僕とは違って、演技なんてしなかった。はじめから誰とも交わらず、はじめから誰とも付き合わない。
 ふりではなく、本当に孤独で。
 その存在自体が、僕を惹きつけた。彼なら、何の打算も演技もなしに、信じられると思った。
 僕と同じだから。
 僕とは決定的に違うから。
 信じれば、やがて彼も僕を信じてくれると信じている。
 両親は僕を愛しんではくれなかった。僕が近づこうとしても、決してその距離が縮まることは無く。
 僕は焦るばかりで、形だけでも近づきたくて。
 でも、いっくんなら。
 彼は僕のトクベツになる。自分の直感を疑うことはしなかった。
 自分で、信じようと決めた。
 自分で決めたことだから、何も迷ったり疑ったりすることはなかった。


          *


「ねぇ、いっくん」
 橋本和馬の声に、我に返る。
「僕はいっくんだから信じてるんだよ」
 いつになくまじめな表情で、あっさり、橋本和馬は俺に言う。
 だからどうして、そんなにもあっさり言い切ってしまうのだろうか。
 なのにどうして、俺は納得してしまいそうになるのだろうか。
「別に誰でも彼でも信じてるわけじゃない」
 肩を竦めて。女子に受けのいいしぐさで。
「入学式の日を覚えてる? 僕がいっくんに話しかけたとき」
「…」
 忘れるわけがない。クラスメイトの誰とも挨拶すら交わさなかった俺の、ファーストコンタクト。

―――さいじょう、いち

 間違って呼ばれた名前。あいつとは違う。あいつは正しく俺の名を呼んだ。そして、あいつとの関係は一方的に構築して、一方的に破綻した。
 信じれば裏切られる。
 あいつと過ごした三年間で教わったこと。
 教えて欲しくなんかなかったのに。知らなくてもよかったのに。
「僕はね、そのとき直感で思ったんだ。この人は、僕のトクベツになる≠ト」
 教室に差し込むひかりが、橋本和馬の顔にうっすら陰影を刻む。
「僕は自分で、僕の意志で、いっくんを信じるって決めたんだ」
「…、裏切るかも、しれないのに?」
 出てきたことばは、半年間、俺のなかを蝕み続けたことば、
 信じれば裏切られる。
 真理のような宣告。
「かもしれないけど、それでも良いんだ。僕が自分で決めたんだから」
 自分で決めたことだから。たとえ裏切られたって良い。

 自分で決めたなら。

「あ、そういう言う意味ではさっきの子と変わんないかな。勝手に信じてるんだもんね」
「…変だな、」
「うん? ま、僕は別に僕の期待に副ってくれなくってもわめいたりしないけどね」
 そう言う意味ではなくて。
 じわじわ。躰のなかに湧き上がってくる感情と、感覚。
 不思議なほど、暖かくて、心地よくて。
「変なやつ。」
 言うと、橋本和馬は、入学式の日のように、きょとんとして。
「やだなぁ、いっくんだって変なやつだよ?」
 少しだけ不服そうに。
「俺はいいんだよ」
 誰も信じるな。信じれば裏切られる。
 あいつを信じたのは俺自身だった。あいつは俺に信じろといったりはしなかった。ただ、俺が一方的に信じきっていただけで。
 相手が必ずしも自分の期待に副ってくれるとは限らないのに、人間は――俺は弱いから、副ってくれることを無意識に、無条件に望んで思い込む。
 信じこむ。
 勝手に。
 期待に副ってくれると思いこむ。そして、それが裏切られたとき、どうしてなんだと責めたてる。
 信じたのは自分で、裏切られたのも自分なのに。
 信じれば裏切られる。あいつはそれを教えてくれた。盲目的になれば、自分で自分を傷つけるようになってしまう。
 俺はあいつを赦せない。小学校生活最後の半年間を、忘れることも出来ない。無かったことにもできない。あいつと出会ったのは事実で、あいつを信じたのも事実。
 あいつが「愉しいから」という理由だけで、俺をいじめはじめたのも、事実。
 だけど、底が見えないほどに深く傷ついてしまったのは、自分自身の盲目的な信心のせいでもある。
 あいつは信じれば裏切られるということを教えてくれたけれど、それ以上のこともそれ以下のことも教えてくれなかった。
 橋本和馬は、あいつの教えてくれなかった部分を教えてくれた。
 傷にばかり目をやってしまう俺に、信じることの本当の意味を。
 他人を信じる。
 橋本和馬は、俺だから信じるんだと言った。俺は、まだ橋本和馬のことを、橋本和馬だからという理由だけで信じることは出来ない。
 だけど俺もいつか、信じられたらいいと思う。
 いつかは離れていくかもしれない。いつかは裏切られるかもしれない。
 でも、もう一度、信じてみてもいいのかもしれない。
 自分の意志で。
 盲目的に思い込むのではなく。信じると決めて。
「いっくん?」
 不思議そうな声。
「なにわらってるのさ」
「別に、」
 俺は拳を、額にあてる。自分がわらっているんだとわかったけれど、表情筋はわらいをやめない。
「和馬」
 俺は初めて、名前を呼んだ。
 入学式で出会ってから、和馬はいつだって俺のことを「いっくん」と呼んで、いつでもそばに居た。
「なんだい、いっくん」
 和馬がわらう。笑顔は、嘲りなんか微塵も存在しない。

 他人を信じるな。
 信じれば裏切られる。
 それは、動かしようの無い真理。
 だけど、信じるという行為も裏切るという行為も、そこには自分自身の意志が存在している。幼い俺は、意志も行為もごちゃまぜの混在で。判別もつかずに傷ついたことばかりに目を奪われていた。
 あいつを信じていたのは俺なのに。何もかもを被害者顔するのはおかしい。
 あいつを信じていたのは俺で。あいつに言わせれば、勝手に信じて勝手に裏切られて、俺はひとりでばたばたしていた。
 些細なことに表情を変える赤ん坊と、俺はなんら変わらなかった。
 どうしようもない子供。
 でも俺は、大人になっていく。それは誰にでも言えることで。
 和馬にもあいつにも、同じこと。
 信じれば裏切られると、教えられたことを、俺はまた同じように、信じきっていた。何もかもがそれに通じると。

「帰ろうか、」

 でも、違うんだ。
 信じるも信じないも、決めるのは俺自身。
 信じるって言うことは、そのあとにあることもすべてひっくるめて引き受けるということなんだ。

「うん」

 和馬の返答に、俺は自分のなかの何かが、ゆるゆると融けていくのを感じた。

「頬、大丈夫か?」
 俺が問うと、和馬はわらいながらこたえる。
「いやー、これは相当痛いよ?」
「モテる男は大変だな、」
「うん、全然褒めてないねそれ」


(2005/08.13 13084文字)