最後の天使
抱き上げた弟は、あらぬ方向を見ていた。
呼びかけても、力ない躰は重く、返事はない。
―――どうして、
部屋には、床から天井まで、酸化した赤が飛び散って何かの抽象画のようで。
部屋の隅で、妹が怯えた目でこちらを見ていた。呼びかけると、見開かれた眸からいくつもの涙が零れ落ちた。
弟をそっと床に寝かせて、立たない足腰で、妹に這い寄る。震える妹は、しかし金縛りにあったように動けないで。
抱きしめると、震えはダイレクトに服を通して伝わってきた。
―――どうして、
凄惨な静止画のなか。
僕は―――。
1.
殺すしかない。
思った。
殺すしかないんだ。
だけど、どうやって?
どうすればいい?
わからない。わからない。
わからない。
もしかしたらそれは、”わかりたくない”のかもしれない。
***
3ヶ月が経った。
郊外の一軒家で起こった一家惨殺事件は、犯人の目星もつけられないまま。僕は親戚の用意した自宅から数キロ
離れたアパートに、妹とふたり暮らしを始めることになった。
2階の子供部屋で、弟が死んでいた。1階のリビングに母が、玄関には父が。それぞれ数十箇所刃物で刺されて死んでいた。命こそ助かったものの、妹も手足に深い切り傷を負い、出かけていた僕だけが、惨事を逃れた。
毎朝配達される新聞には、事件の記事が掲載されていた。3ヶ月経って、飽きっぽいマスコミはすぐに次の事件に目移りしたけれど、それでも毎日のように小さな記事を載せ続けている。
僕は鉛筆立てからはさみを取り出すと、事件の記事を切り抜いた。もう一度読み返してから、スクラップブックに綴じる。たった3ヶ月で、スクラップブックは2冊目になっていた。僕はスクラップブックを閉じると、本棚の上に見えないように置いた。妹には見せないほうがいいだろう。彼女にとって、この事件は辛い記憶以外の何ものでもないはずだ。それは僕にとっても同じだけれど、僕は21歳で、妹はまだ13歳だ。それに僕には、事件の終わりまでを見届ける義務があった。
今日は、3ヶ月ぶりに妹が帰ってくる。仮の住まいであるこの部屋に。創傷が思ったより深かった妹は、茫然自失な精神状態もあって、市の中心部にある総合病院に入院していた。僕もなるべく毎日見舞いに行くようにしていたけれど、何を話しかけても、妹は無反応だった。無反応なのは僕にだけではなく、医師や看護師に対しても同じであるようだった。
妹には、僕しか家族がいない。同時に、僕には、妹しか家族がいない。父も母も弟も、みんないなくなってしまった。
みんな死んでしまったから。
アパートの窓から、大家さんが育てている紫陽花が見えた。まだつぼみすら実らせていないそれは、時折吹く風にゆらゆら葉を揺らしている。乾いた陽気は、いつの間にか汗ばむ湿気を含んでいた。
僕は妹のために用意した部屋の襖を開ける。用意したといっても、布団と文机があるだけの、質素な部屋だ。家から物品を持ち出すことは警察から止められていたため、すべてが真新しく、何処かよそよそしい。
「仕方ない、か」
襖を閉めると、僕は妹を迎えに行くために、部屋を出た。
妹は僕を見ると、またもとのように俯いた。長い髪が、表情を暗闇に落とす。薄い青のブラウスに隠れた両腕には、まだ傷を覆う包帯が巻かれている。
医師の簡単な説明を聞いて、病院を後にした。ちいさく纏められたボストンバックを肩にかけると、もう片方の手で妹の背に触れた。この3ヶ月で、もともとすらりとしていた妹は、さらに痩せた。薄い生地越しに、生々しい背骨の感触がした。
バスに揺られている間、妹はじっと流れる景色を見ていた。窓硝子越しに、妹の表情が見て取れた。事件の日から、妹はことばを発しなくなった。精神的なショックのためだろうと医師は言っていた。実際僕もその可能性が大きいと思っている。しかし、妹がことばを発しなくなったのには、別の理由がある。そんな気もしていた。
どんな理由にしろ、僕や医師には推測することしか出来ず、妹が自ら真意を語らない限り、本当のことは永遠に闇の中だ。
本当のこと。
家族が殺された家で、生き残ったのは妹ひとりだった。犯人の足取りはカケラも掴めていない。
たったひとり、生き残った妹―――何を考えているんだか。
僕は妹から目を逸らすと、前方に視線を向けた。平日昼間のバスは、忙しない街の中を直方体に切り抜いて運んでいく。切り抜かれた空間は、そこだけ別世界のように静かに揺れている。
僕は膝の上に置いたボストンバックを所在無く掴んだ。化学繊維が点字のように何かを語りだすような気がした。
妹とふたりの暮らしは、静かに過ぎていった。静養を言い渡されている妹は、学校に行くことも部屋から出ることもなく、窓も開けないで、カーテンだけを開けて日を入れる。
わらうこともなく、涙を流すこともない。
僕と暮らしているのは、本当に妹なのだろうかと思うほどに。
僕が眠るまで、妹は決して眠らなくなった。僕が学校の課題のために徹夜をすれば、妹も同じく寝ない夜を過ごした。だからこの暮らしを始めてから、僕は妹の寝顔も、目を閉じた姿も見たことがない。
僕が家を空けるとき、妹はいつも玄関までついてきた。僕が家の鍵を閉めるとすぐに、なかからチェーンをかける。帰宅した僕が鍵を開けると、ほどなくチェーンが外れて、僕はドアを開けることが出来る。
過剰なほどに音や光に敏感で、家に居るときはいつでも僕と一緒に居た。
週に1度通う病院で、一緒に入る診察室でも、妹は何も言わない。ただ医者の言うことに首を横に振るか縦に振るか、どっちか。
「時間が解決してくれるものもあるでしょう」
医者は僕をひとり診察室に残して、穏やかに言った。兄妹ふたりきりになって、一応なりにも成人している僕は妹の保護者で。
家族はもう死んでしまったから。
両親ももう居ないから。
たったひとりの妹。妹にとって、僕はたったひとりの兄。
ふたりきりの家族。
***
殺すしかない。
でも。だけど。
殺してしまったら、同じになってしまう。
***
這い上がるような寒気を感じた。
レポートを打ち込むパソコンから目を上げる。辺りを見回すと、薄く開いた襖の隙間が、蛍光灯が明るく照らす家のなかで暗く。
パソコンの前を離れて、襖の隙間を覗き込んだ。
目があった。
思いもよらない目に、僕は愕いて身を引く。襖の向こう側から押し当てられた妹の眸。子供らしく、顔のなかで、目の占める比率はまだ大人よりもずいぶんと高い。
「……薫、」
呼ぶと、見開かれた妹の目が、少し細まる。
「ど、どうしたんだ?」
「…………」
「薫?」
襖を開けようと手を伸ばしたら、僕の目の前で、襖は音をたてて閉じた。
それ以来、僕は妹がずっと僕の「そばに居る」のではなく、ずっと「僕のことを見ている」のだと気づいた。
視線を感じて顔を上げると、そこには妹の顔があった。
呼びかけても、妹が声を発することはない。じっと僕を見ている。その視線は恐怖映画のようで。
僕はどうして妹が僕をそんな目で見るのかよくわからない。
わからないのか。
――わかりたくないのかもしれない。
2.
暑さは日ごとに増して、家の窓を常に開け放すようになった。
だけどそれは居間の硝子戸に限ったことで、妹はいまだに自分の部屋の窓を開けようとしない。開けると日が入って余計に暑いのか、カーテンすら、最近は朝の10分ほどしか開けなくなった。
事件が起きたのは肌寒い3月のことだった。今は梅雨の明けた7月になる。
少しふっくらしていた妹は、この4ヶ月の間にずいぶんと細くなった。やつれた、というのかもしれない。
僕はまだ、妹の眠る姿を見ていないし、妹はずっと僕を見ていた。
朝と晩の食事は妹が作っていた。逆を言えば、妹は自分が作ったものでなければ食べなかった。買ってきたものはもちろん、僕の作ったものも。
妹の心は底の底まで凍りついてしまっているのかもしれない。
あの、3月の日のまま。
週に1度の通院は、2週に1度の頻度に落ちたけれど、まだことばを発することもない。一時期安定剤の服薬も勧められたが、妹は飲まなかった。
妹はまるで、そこにただ居るだけの人形のようだった。
僕はその姿を見ながら、何を思って生活していたのだろうか。
刑事と名乗る男に呼び止められたのは、そんな毎日が永遠に続いていくかのような感覚に囚われ始めたころだった。
「福島保宏さん、ですね」
「……」家から出たばかりで、ちょうど陽射しに目が慣れたころで。振り返った僕に、男は警察手帳を胸元から覗かせた。日を受けた男の顔は、不健康なほど日焼けしていた。「何か…?」
「3月の事件のことでお聞きしたいことがありまして、」
「あのことなら散々お話しましたけど」
妹の証言が取れなかったのもあって、僕は1週間、ほとんど毎日警官と向き合って居なければならなかった。
事件の第一発見者として。
「いやですね、ちょっと気になることがありまして」
「捜査本部も解散したって聞きましたけど?」
妹が退院したころ、親戚づてにそんな話を聞いた覚えがある。まったくつかめない犯人の足取りと、証拠のなさに、捜査はあっという間に行き詰ったという。
「正確には解散したのではなく、大幅に縮小されたんですよ」
それを解散したというのではないのだろうか。
「私はあの事件の捜査責任者の関崎と申します」
「……」
警察官という人種は、きっと生まれたときから普通と少し違うんだ。僕は何度も思ったことを、また思う。
「改めて現場の状況を見ていると、どうにも奇妙な点がありまして」
目つきが違う。
野犬みたいな。詐欺師みたいな。
一瞬の隙でも絶対に見逃したりしない、獰猛な嗅覚。
「……なんですか、」
僕が問いかけると、今度は柔和な笑みを浮かべる。目はちっとも笑っていないのに。
「まあ、たいしたことでもないんですが――」
そう前置きして、関崎はことばを繋げる。
***
破裂音がした。
関崎の話を思い出してぼうっとしていた僕は、音がしてから少したって、振り返る。台所で妹が、呆然とした目をして立っていた。
何かを持っていたのか、胸の高さに上げられた手。そこから視線を落としていくと、床に淡い青色の硝子が散らばっていた。
かつて硝子コップだったそれらは、大きく3つに割れていて、周囲にかけらを撒き散らして。
「…………」
妹も、僕も、何も言わなかった。
何処を見ているかわからない妹の視線が、ゆるゆる、床に落ちていく。
膝を折らずに腰をかがめる。腰まで長い妹の髪が、肩から背中から、重力に、滑らかに滑り降りる。
迷うことなく、いちばん大きくて、いちばん鋭い破片を手にとった。
触れた瞬間割けた肌から、ひとすじ血が流れる。
あの日、最後に見た色は、赤色。
妹の目が、僕に焦点を合わせる。何度か細かい瞬きをして、一歩、足を踏み出す。
「――、」
ぱり、
妹の裸足の足の裏に、細かい硝子が潰されて食い込む音がした。
…ちゃ、
あふれ出す血液が、床と妹にまとわり付いて、耳障りな音がする。
足の裏に硝子が突き刺さっているのに、妹の表情は変わらないままで。
どうしてか、僕も何も言えない。
濡れた足音と息遣いだけが、聞こえる。
僕の目の前に立った妹が、見上げる僕の首に、破片を押し当てる。皮膚は弾力など無視されて、ぷつり、裂ける。
ああ、このまま。
もしかしたらこのまま、僕は殺されるのだろうか。
妹に。たったひとりの、僕の家族に。
あの日に死んだ、家族のように。
それならそれで、いいような気もする。
「――――」
妹が、何かを、言った。
僕が妹の手首を掴むと、破片はあっさりと床に落ちて、更に粉々になった。
簡単な応急処置だけして、僕は妹を抱えて近くの外科に駆け込んだ。
処置室で足に包帯を巻かれる妹の目は、虚ろだった。僕はその様を遠めに見る。首に貼ってもらったガーゼから、病院特有の匂いがする。
どうして――
妹はひとこと、それだけ言った。
疑問系ではなく、ただ、言っただけ。
「どうして、」
誰にも聴こえないように、僕も口にする。
何が、どうしてなのだろうか。
僕に対して? 自分自身に対して? それとも、もっと違う何かに対して?
――台所で、2階で殺されたはずの弟さんの血液が検出されていたんです
関崎が話したのは、事件のなかの、ほんの些細なこと。今更に、僕に話すようなことでもない。そのことを知ったからといって、僕が何を理解できるというのだろうか。
家族に抵抗した様子はなく、家は荒らされていたけれど、何かを取られた形跡もない。父親は玄関で、母親はリビングで、弟は二階の子供部屋で。それぞれ殺されて。
そして何故か、妹だけが殺されなかった。
妹は二階の子供部屋の隅で震えていた。部屋の真ん中で、弟は血だらけで死んでいた。凶器と見られる包丁は、妹のすぐそばから見つかった。
弟は子供部屋で死んでいた。だけど、その血液が台所からも検出された。
当初は妹の犯行かと思われたけれど、妹に母親や弟はともかく、屈強な父親が殺せたのかといえば、それは甚だ疑問だったし、妹自身が酷い傷を負っていたのも否定に対するひとつ大きな理由として挙げられた。
たとえ妹が家族を殺したとしても、どうして弟をわざわざ2階に上げなければいけなかったのか。
血の海と化した家のなか。たったひとり、傷だらけになりながらも生き残った妹。
解決しない事件。
看護師に呼ばれて、妹のそばに行く。まっすぐに見上げた妹の眸には、魚眼のように丸く歪んだ僕が映っていた。
僕は救急受付で会計を済ませると、妹を背負って、家路に着いた。
「薫、」
「……」
「どうしてって、何のこと?」
「……」
妹は何も言わない。ただ、かすかな呼気が僕の首筋にかかる。妹の声は、どんなだっただろうか。
記憶は時間に、薄っぺらに押しつぶされていく。
「まあ、いっか。そんなのはどうでも」
本当は、良くなんてないのに。
「なあ、盆には、父さんたちの墓参りに行こうな」
背中で、妹が小さく頷いた。
3.
大学が夏休みに入り、僕はずっと家に居るようになった。
出かけることはほとんどなかった。もともと交友関係は狭いほうだったし、妹をひとり家に残して遊びに行くのも違うと思ったから。
足の傷の治りが思いのほかよくない妹は、1日のほとんどを座り込んだまま過ごす。食はますます細くなり、病院に行くときに抱き上げたりすると、びっくりするくらい軽くなっていた。
白い診察室のなかで、主治医と3人。事件から5ヶ月が過ぎようとしていたけれど、妹はいまだにことばを発しない。
文字は読めるし言語も理解できている。ただ、声を出さないだけで。
行き帰りのバスに揺られながら、妹は何を考えているのか、まっすぐに前を見て。たまにちらりちらり、僕を見る。
最近、妹には変な癖がいくつか出てきた。
ひとつは、硝子を割ること。
それはコップだったり、皿だったり、瓶だったり。割ったあとはしばらくぼうっとそれを眺め、そのあとは部屋の隅で膝を抱えてじっと僕を見ている。
もうひとつは、夜中に僕を起こすこと。
妹は相変わらず僕の前では眠らなかったけれど、僕を起こすことはなかった。それが、此処最近は、夜中に僕を揺り起こすのだ。
寝ぼけ眼をこすりながら僕が起き上がると、妹は僕の袖を細い指で掴んだまま、首を振る。
理由はわからない。そうして起こされた夜は、たいていそのまま朝まで眠らせてもらえないで過ぎていく。
妹はその心に何を押し込めたまま黙り込んでいるのだろうか。
***
どうして自分だったのだろうか。
どうして他の誰でもなかったのだろうか。
選ばれたのか。それとも選ばれなかったのか。
どうして。なんで。何故?
疑問詞ばかりが浮かんでは消えず、心のなかに降り積もっていく。
――殺さないといけない
その考えはいつも唐突に現れては、焦燥に似た苛立ちを残して。
***
玄関の扉を開けると、関崎が立っていた。愛想を貼り付けた笑顔で会釈する。
「こんにちは、今日も暑いですねぇ」
「いきなりなんですか」
「いえね、ちょっとまた、お話がありまして」
「だから何も話すことなんか…」「おや、妹さんですか?」
関崎の台詞に振り返ると、妹が自分の部屋から四つんばいで出てきてこちらを見ていた。
「帰ってください」
こんなものを、妹に見せてはいけない。
「こんにちはぁ、私、刑事の関崎っていいます」僕を無視して、関崎は勝手に奥の妹に話しかける。「足、怪我したんだってねぇ、もういいのかい?」
「ちょっと…!」
僕は裸足のまま関崎を外に追い出すと、僕自身の背で扉を閉めた。
「どういうつもりですか、」「何がです? 私がしているのはただの挨拶ですが?」「妹を変に刺激しないでください」「刺激…ですか、」「そうですよ。こんな、いきなり来て。妹はまだ快復してないんです。だから――」
「だから?」
目が細まる。この目を、僕は何度も見たことがある。
「だから、かえって、ください」
俯く僕に、関崎が息をつく。かすかにヤニのにおいがした。
「仕方ないですねぇ…じゃあ今日のところはお暇しますよ。でも、」
逆接に、顔を上げると、関崎は少しだけ、わらっていた。僕の耳元に顔を近づけて、囁く。
「もうすぐ、裏が取れますよ」
僕にとっての世界は、小さくても確かに均衡が取れていた。
あの日、家族が死んだ日までは。
景色は確かにフルカラーで、五感もまた、確かに僕に情報を与え続けた。
なのに。
あの日。
すべてが壊れた僕に、たったひとつ残った妹。
きっと妹にとっても同じはず。
たったひとり残った家族。たったひとりの兄。
僕は、妹は、世界で寄り添う相手がひとりきり。
時間が過ぎ、時間が修復してくれていた日常が、また、壊れる予感がした。
まだ仮縫いの現実は、些細な力で裂けてしまう。そんな変革など、誰も望まないのに。
座り込む妹の向かいにたって、僕は妹を見下ろす。
僕を見上げる妹の眸には、僕じゃない僕が映っている。
「かおる、」
呼びかけても、妹は眉ひとつ動かさないで。じっと僕を見上げたまま。
「違うよな…?」
屈みこんで、妹と同じ視線。瞬きすらしない妹は、僕のたったひとりの家族。
「薫、」頬に触れる。さらりとした感触に、僕は俯く。「違うよな…薫…違うよな?」
妹は何も言わない。ただ、そこに居るだけ。あの日から、妹は妹なのに妹じゃなくなってしまったよう。
「…………」
「お願いだから、何か言ってくれよ!」
前髪の隙間から見える妹の視線は、浅い憐憫に満ち溢れ。
何かじゃない。
僕が望んでいるのは、何にも変えられない、ただのひとことだけなんだから。
「違うよな?」
妹の眸に映る僕は泣いていた。妹は静かに何も言わないままで。
「薫!」
叫び声に、妹は目を見開いて、そのまま横に倒れた。
***
何が壊れていて、何が正しく動いているのだろうか。
何が正常で、何が異常なのだろうか。
正解は何なのだろう。
間違いは何なのだろう。
歯車が歪んでしまったのはいつだろう。歪みに耐えられなくなって歯車がはじけ飛んでしまった瞬間はいつなのだろう。
わからない。
わからないし、わかりたくない。
世界の均衡なんて、もしかしたらはじめからなかったのかもしれない。
――いや、
「もしかしたら」なんかない。そこにあるのは、はじめからに微塵も変わらないただの現実で、ただの事実で、誰の目にも明らかで紛れもない真実。
仮定なんてない。あるのはただ、結果のみ。
――どうして、
問いかけに、彼は何もこたえなかった。
それがこたえのような気がした。
まだらに赤く染まった家のなかで、取り残されて。
家族は死んでしまって、たったふたりで残されて。
どうしてふたりじゃないといけなかったのだろうか。
何故、このふたりじゃないといけなかったのだろうか。
考えてもわからないし、わかったところで、何をどうしたらいいというのか。
――どうして、
そのこたえを探して、見つからないまま、あの日は現在に押し流されて過去になる。
――どうして?
こたえはみつからないんじゃない。
きっと、すぐ目の前にある。
***
現実から剥離された空間に、僕は居る。
***
倒れた妹はほどなくして意識を取り戻した。見開いていた目からは、ただ単に眼球が乾燥したせいか、幾筋か涙が流れた。
「……、」
妹が口を開いた。
扉が開く。そんな音がしたようで。
僕の中のゆっくり張り詰めていたものが、限界強度を、超えた。
「…――あなたが、」
零れ落ちた単語は、いやに他人行儀で。僕はそのことばの続きを待つ。
僕の望まないことば。
こんな未来なんか、望まない。
「あなた…は、どうして…みんなを殺したの?」
「どうして、?」
僕の指が、妹の頬から涙をすくいとる。
「なんでそんなことをいうの? 薫」
「あなたが、みんなを殺した」
「あなたじゃないだろう? おにいちゃん、て、前にみたいに」
もうそこにあるのは、あのころに続く今じゃないのに。
「どうして…、」
妹の眸が震える。その視線は、兄を見る目ではなく、人を見る目でもない。
5ヶ月前に、僕が救った妹のものではない。
「なあ、薫。薫だって同罪なんだよ」
片手を添えていた妹の顔を、そのまま両手で挟む。僕の方を向かせる。抵抗したけれど、妹の力なんてたいした障害ではない。
「僕は薫を救ったじゃないか。薫を護ったじゃないか。なあ、忘れたのか?」
3月のあの日。
「薫がみんなを殺したんだよ。忘れたの?」
すべての均衡が崩れた日。
「違う…わたしは、」
あの日から、世界はフルカラーから、赤色に染め上げられた。
「わたしは、」「かおる」「わたしは――」「何度も僕を殺そうとしたね。いつ何時も、僕から目を離さなかったね」
僕の前で眠らなくなったことも、硝子を割るようになったのも、夜中に僕を揺り起こすことも、声を発しなくなったことも、すべてはあの日にある。
妹の主治医は心的なものが原因だろうといった。あの推測は間違っては居ない。あの日は、妹の精神に深い傷を与えた。僕が刻んだ足や腕の傷とは違う類のものを。
「薫、僕は薫に殺される日を待っていたんだ」
はじめて妹が硝子コップを割った日、僕はとっさに理解していた。妹の奇行の理由。妹が望む未来。望まなかった現実。
その現実に、この未来を接続した僕。
「僕を憎んだ?」「……」「僕を恨んだ?」「……」「僕に、感謝した?」
妹の未来を紡いだのは時間でも妹でもない、僕だ。
「何も言わなくていいよ」
妹の口を、掌で覆う。「何も言わなくていい」
真実など容易い。それゆえに、脆い。
掌から、妹の震えが伝わってくる。
「僕は薫を護るから」
だから、今までどおりで居よう?
何も変えなくていいじゃないか。変革なんか望まない。たったふたりで残されたのなら、たったふたりで居よう。ずっと。ずっと。それは、僕が選んだことでもあるし、妹自身が選んだことでもあるのだから。
ずっとだよ。
ずっと。
「薫。薫は今までどおり、何も言わなくていいよ。何も言わずに、僕のそばに居てよ」
たったひとりの妹。真っ赤な家で、僕のなかに残った、最後の天使。
僕が救い、僕が助けた。だから、妹は僕に感謝すべきだ。
僕がね、必ず護り通して見せるから。
妹の眸が、僕を通り越して。何処か遠くを見ている。
僕の掌に添えられていた手が、ゆっくりと垂れる。
「もう一度約束だ、薫」
――誰にも言わないで
「薫も僕も、被害者なんだ」
――やくそくだからね?
「犯人は別に居る」
0.
事故だった。
わたしは台所で、ふとした瞬間に、弟を刺してしまった。あふれ出る血液に、わたしは動揺して。家族に見つからないように、弟を2階の子供部屋まで運んだ。血が零れないように、毛布で包んで。
2階に運んで、でもわたしにはどうすることも出来なくて、ぐったりした弟は、そのまま動かなくなった。
兄が帰ってきたのは、それからしばらくもしないうちだった。
家は郊外にあって、周囲に民家はなかった。
兄は母親とことばを交わしたあと、子供部屋に入ってきて、すべてを見た。
部屋の隅で震えていたわたしと、部屋の真ん中で死んでいる弟を交互に見て。わたしは兄がわたしのしたことをみんなに言ってしまうのだと思った。
人殺し、と。
「かおる…、」
歯の根の合わない私に、兄は優しく言った。
「大丈夫だよ。何も問題ない」
それから先は、記憶が酷く曖昧になる。
でもわかったのは、兄はわたしのしたことを誰にも言わないということだった。
階下で物の落ちる音がした。窓の外が暗くなったころ、兄が子供部屋のドアを明けた。その手には、私が弟を刺してしまった包丁が、柄にビニールに巻かれておさまっていた。
兄はゆっくりと弟のそばを通り過ぎると、わたしの前に立った。
「僕が薫を護るからね」
ぽつり、兄が呟く。
「やくそくだ」
振り上げられた包丁が、暗くなり始めた部屋に鋼色。
「誰にも言っちゃだめだよ、薫」
「……」
「何も言っちゃだめだよ」
兄が優しく笑う。
「やくそくだ」
わたしは兄が好きだった。
8つ離れた兄は、大きくて優しくて。
大好きだった。
痛いのではなく、熱かった。
わたしの腕や足を、わたしが弟を刺した包丁が、わたしを傷つけていく。
罰なんだと、思った。
わたしが弟を殺してしまったから。
だから、わたしは今傷つけられている。
両親は居ない。居ても、わたしは何も言えない。
気がついたとき、部屋は真っ赤で、部屋の真ん中で、兄が弟を抱いて泣いていた。
寒い。思った。
3月の冷気が、床から這い上がってくる。
わたしをからめとって凍りつかせようとする。
弟が死んでいる。
兄が泣いている。
腕や足が、熱くて動かない。
きっと両親も、もう居ないのだろう。
わたしが悪いんだ。
哀しくはなかった。何の感情もなかった。わたしの前には、ただ罪状がつきつけられている。
(2005/12.29 10244文字)