なんにもない、


 それは、神さまがみせてくれた、可哀想なわたしへの、ほんの一時の夢。
 忘れるなという、警告のための。
 冷たくて暗い世界で、たった一度きり。
 垣間見えた、ひかりのかけら。


         *


 抜け出したい。
 ぼんやりと、そんなことばかりを考える。
 間違えて生まれてきた家で、悠は必死になって、その家の子どもになろうとした。けれど、結局、どうにもならないまま、居場所だけをなくした。
 父は国立大医学部教授、母は有名私立大教授。三つ年上の兄は、国内最高学府の最難関の学部に通う、二十歳。必要でもないのに、毎年学内奨学金をもらっている。それだけ、頭がいいということ。
 死に物狂いで勉強して、やっと受かった県でいちばんの公立高校を、悠は一年と半年で辞めた。勉強も苦しかったし、入学したときから受験を意識するクラスメイトたちに、どうしても馴染むことが出来なかった。
 兄が机にかじりついているのを、悠は一度も見たことがない。なのに、兄はいつでも首席を誰かに譲ったことがない。
 父も母も、勉強なんて愉しいからやるんだろうあれに何の努力が必要なんだと、平然とした顔で言う。
 勉強を特別愉しいと思ったことなんかないし、努力しないと人並みにでは出来ない。どうして家族と感じることが違うのだろうか――散々悩んだあと、悠はひとつの結論にたどり着いた。
(私は、生まれてくる家を、間違えてしまったんだ)
 わかった瞬間は、楽だった。出来なくても仕方がないんだ。間違いなんだから。けれど、ほんの少し時間が経って、わかったという興奮がぬるくなったころには、また違う考えが浮かんだ。
(でもどうしたって、私はあの家に生まれてしまったんだ)
 家族との距離を埋めようと頑張ったぶんだけ、歪みが出来た。歪みをなくそうともがいたぶんだけ、亀裂が出来た。
 やることなすこと、うまくいかなかった。
 疲れてしまった。ほんの、十六年で。
 間違いは、どんな角度から見ても、間違いでしかなかった。
 居なくなればいいのに。死んでしまえばいいのに。
 思ったけれど、死ぬのは怖かった。家族の汚点のような自分が居なくなったところで、父も母も兄も、誰も涙を流してくれないと考えたら、それほど恐ろしいことはなかった。
 百円均一の店ではんこを買って、高校に退学願を出した。「高校を退学しました」とだけ書置きをして、家を出た。上流家庭といえる裕福な家だったから、お小遣いはたくさんもらっていた。贅沢を言わなければ一か月二か月生活出来るだけの貯金はあった。
 二日分の着替えとあるだけのお金は、通学に使っていたのと同じ大きさのかばんに、余裕を持っておさまってしまった。携帯電話も好きだった本も、CDも、何も持たなかった。
 最寄の駅から、いちばん高い切符を買って、電車に乗った。けれど終点までは行かずに、三十分で電車を降りた。たった三十分でも、じゅうぶん知らない土地にたどり着くことは出来る。
 歳を偽って六畳一間のアパートを借りた。女性の一人暮らしには危ないですよ、と不動産の主人は言ったけれど、危なくてもまったくかまわなかった。
 無料配布の求人雑誌を穴が開くほど眺めた。駅前で配っていたティッシュに挿んである水商売の時給はよかったけれど、怖くてやめた。
 いくつか面接を受けに行って、ことごとく不採用で。やっと、アパートから歩いて十五分のコンビニに採用された。
 コンビニの仕事は、思っていたより楽ではなかった。なにより、労働という行為がはじめてのことで、常識と言われることが出来なくて右往左往するばかりだった。
 生まれてはじめての労働はしんどかった。すぐに辞めてしまいたくなったけれど、やめた後のことを考えたら、もっと怖かった。
 人に誇れるような特技がない。履歴書の特技欄には散々迷った挙句、初級バイエルまでしか弾けない「ピアノ」と書いた。
 何度も、水商売という選択肢を考えたけれど、特別容姿が良いわけでもないし、スタイルが良いわけでもない。身長は低い。痩せているけれど、これはほとんど食べていないからで、惨めな痩せ方だ。胸だって小さい。
 平均という枠組みのなかに、すっぽりおさまってまだ余裕が出来てしまう。
 つまらないな、思っても、いまさらどうこうなるものもない。
 万年床から、もそもそ這い出す。安普請のアパートらしく、畳の網目から冷気が染み出してくる。物件は値段なりということ。
「さむい、」
 家に居るころは、寒いと思ったらスイッチひとつで温かくなった。そもそもが二十四時間空調で床暖房だったから、リモコンを手に取ることも少なかったけれど。
 ダンボールの上、文字盤を上に向けた腕時計を見る。十三時十七分。あと三十分もしないうちに家を出ないといけない。
(おなかすいた…)
 押さえた腹部は哀しくなるくらいまっ平らで硬かった。昨日はアルバイトが休みだったから、ほとんど何も食べていない。休みなんか要らないのに。廃棄でも、悠にとってはありがたい食事に代わりなかった。
 気持ちばかりのシンクで顔を洗う。来ているパーカーで顔をぬぐうと、万年床の枕元に無造作に重ねてある洗濯済みの服から適当に選んで着替えた。絶対数が少ないのだから、着替えるにも選択肢は少ない。
 まあいい。どうせ、アルバイト先の誰とも、たいした会話をするわけではない。
 手櫛で髪をまとめると、コートとマフラーをかぶって家を出た。今は何でも、百円か千円だせば買える時代になったのだと、この生活を始めて知った。
 年末を強烈に意識した商店街を抜ける。赤と緑のクリスマス。電飾で飾られた街路樹。店を這い上がるサンタの飾り。浮き足たつ世間と少しだけ違うのは、何処の店主も、笑顔にときどき般若のごとき必死さが見え隠れするところだ。
 それに比べ、行き交う買い物客たちに、死活問題をかけた必死さなどかけらもない。
 悠は、生活に必死になっている商店街の店主たちのほうに、なんとなくの親近感を持った。立場は違うし、年末やクリスマスという時期は無関係だが、悠も生活に必死なのは変わらない。
 吐く息が白い。もやもやは穏やかに空気に溶けていくけれど、悠のなかのもやもやは、一向に消えることはない。それはおそらく、この生活に安定と言うものが生まれるまで、ずっと。
 果たして、安定なんて、生まれるのかすら、わからないのに。
 商店街を抜けてすぐに、アルバイト先のコンビニがある。大きな道路に面しているわけでもなく、近隣の住民を相手に、ほそぼそと営業している。もともとは酒屋を営んでいたらしく、店の四分の一のスペースを占める酒の品揃えは商店街の酒屋に並ぶものがある。
 商店街の酒屋に負けたから、コンビニに店舗替えしたというのも、もっぱらの噂ではある。
「おはようございます、」
 店頭のクリスマス商品を並べている店長に、挨拶をする。顔だけ振り返った初老の店長は、目じりにしわを寄せて返事をした。「はい、おはよう」


 コンビニで、客がまったくのゼロになることは意外と少ない。昼間はお年寄りがのんびり徘徊し、夕方は学生が漫画を立ち読みする。夜は会社帰りのサラリーマンが、夜食を買いに、深夜には得体の知れない人たちが、何の用があるのかやって来ては数十分粘ってゆく。
 週五日でシフトに入っていると、馴染みの常連客の顔も自然と覚えてくる。悠はだいたい夕方から深夜に入っているのだが、夜も更けると、自然とおかしな客も増えてくる。
 毎晩のように夜食を買いに来る初老のサラリーマンが居る。彼は綺麗なロマンスグレーの髪を七三にわけ、コンビに弁当と決まった銘柄の缶ビールを買っていく。そして、お会計のときに必ず、何かひと言、声をかけていくのだ。「今日は寒いですね」とか「星が綺麗ですよ」とか、天候に関することがほとんどで、悠の返答が曖昧でも、にこにこ笑っている。
 迷彩柄のスボンを穿いたスキンヘッドにサングラスの年齢不詳の男が、日付が変わるころにやってくる。立ち読み防止のビニールがついた成人向け雑誌をいかに立ち読みするかを研究しているようだが、いまだに上手い方法は見つかっていないらしい。観念して、来るたびに一冊買っていく。
 どう見ても四十歳は越えている女性が、女子高生ルックで化粧品を買いにくる。彼女の服装は日によってまちまちで、セーラー服の日もあれば、ブレザーの日もある。共通しているのは、上着に飲まれてしまいそうなほど短いスカートと、今どき誰が穿いているのかと思うほどの白いルーズソックス。
 悠の通っていた高校は真面目な校風だったけれど、近くの私立女子高にも、ここまでの人物は居なかった。
 常連がひとりくるたびに、なんともいえない変な安心感を得る。ああ、今日も変わりないんだ。変われば良いのにと思う生活のなかで、こんなことを思うのは、悠自身、腑に落ちない部分が大きいのだが。
 ぼんやり。そうやって、時間が過ぎていく。繰り返しだ。毎日が、ひたすらに。
 変革など、そう簡単には、訪れはしない。
 家を出ると言うことが、悠にとってみれば、最大の変革だった。良くも悪くも慣れ親しんだ環境と状況を棄てて、何の保障も安定もない、ひとりの暮らしを始めた。
 次の変革など、当分、来ることはないように感じる。
 小さく息を吐く。レジの右上に表示されている時計が、二十二時を告げている。
 顔を上げて、入り口を見ると、ちょうど彼がやってきた。
 キンコーン、入り口のセンサーが反応して、電子音が鳴る。「いらっしゃいませ」何の気持ちもこもらない、条件反射の声。
 コロッケ=\―アルバイトのなかで、彼はそう呼ばれていた。高めの身長に、がっちりした体型で、立派な眉をしている。
 コロッケはまっすぐレジに歩いてくると、決まったせりふを言う。「コロッケ」
「おひとつでよろしいですか?」
 ひとつしか買わないことはわかっているが、一応訊ねる。
「うん、」
 悠がケースからコロッケを出している間、彼は百円をカウンターに置いた。
「九十七円になります。こちらお先に商品になります。百円お預かりします」
 袋には入れない。以前「そんなもの要らない」と強い口調で言われたことがあるからだ。
 悠がレジを打つほんの数秒の間に、彼はコロッケにかぶりつく。
「なんだこの不味いコロッケは!」
 このせりふも、毎日変わらない。
「三円のお返しになります」
「いいよ、要らない」
「…………」
「あー、まっずー」
 いいながら、残りを一口で片付けて、コロッケはまたまっすぐ店を出る。キンコーン、「ありがとうございましたまたお越しくださいませ」
 もう来なくてもいいよ、声には出さずに、思う。
 悠には何の関係もないコロッケだが、否定的なことを毎回言われて、良い気分はしない。
 掌のなかのレシートと三円を見た。蛍光灯に、アルミの銀色がかすれたひかりを反射している。
「なんだかなぁ」
 誰にも聞こえないように呟くと、レシートを足元のゴミ箱に棄てて、三円を募金箱に入れた。ほかのお金に弾いて、からから、何のありがたみもない音がした。
 コロッケが商店街のコロッケ屋の息子だと言うことを、悠は知っていた。何度か見かけたことがある。肉屋が副業的にコロッケを売っているのではなく、本当にコロッケを専門に売っているのだ。店頭にはありとあらゆるコロッケが並べられているが、基本すべて茶色いので、派手さはまったくない。
 コロッケがどうして毎日コンビニにやって来ては彼曰く不味いコロッケを買って食べ、しかも「不味い」と言うのかはわからない。けれど、こんなコンビニのただ温めているだけのコロッケより、自分の店のコロッケのほうが断然美味しいだろうというのは、悠でもわかる。
 人は自分よりも下の存在を見て、哀れむふりをして優越感を抱く。そうしないと、気分よく生きていけないから。
 きっとコロッケもそういう人種なのだ。自分の店よりも、格段に不味いコンビニのコロッケをけなすことで、プライドを保っているに違いない。
 そんなふうに、悠はひとりで推測する。


 アルバイトから帰ると、たいてい二十四時を越えている。ここから、翌日のシフトまで、移動時間を抜いて、約十三時間。そのほとんどを寝てすごす。起きていても空腹感を増徴させるばっかりで、何か実のある趣味があるわけではない。
 かばんから、廃棄の弁当を出して食べる。さすがに食あたりは怖いので、少々多く感じても、早めに食べてしまう。
 廃棄の弁当ふたつを食べるのに、十分かからなかった。すっかり早弁の癖がついてしまった。よく父親に怒られたものだ。ご飯は三十回噛みなさい。
 少しの息を吐く間もなく、タオルをもって部屋を出た。部屋を出てすぐの廊下を右手に突き当たったところに、共同の風呂トイレがある。隙間風の絶えない風呂は、深夜になればなるほど湯の出が悪くなる。
 アパートの住人はみな一様に事情があるらしく、何処の部屋も明かりのつく時間はまちまち。だからか、風呂もトイレも、空いている時間というのは、ほとんどない。
 ひとりしか入れない風呂も、当たり前に順番待ちになる。
 入り口に番号札があり、それぞれ待っている順番に、下の箱に入れてある部屋の札をかけていくのだが、あいたときにちゃんと待機していないと、あっさり飛ばされてしまう。
 常駐の管理人は居るのだが、アパートのなかのことは、ほとんどが住民の自治になっていて、滅多に口を出してくることはない。
 順番待ちの札はかかっていなかったが、なかにひとり入っている。仕方なく、悠は入り口のすぐ横に座り込んだ、板張りの廊下が冷たい。腰の、骨の髄まで、凍り付いてしまいそう。
 躰をめぐる血液が、凍っていくさまを想像した。
 躰が内側から凍っていけば、少しでも寒さを感じなくなるだろうか。だとしたら、凍ることも、そんなに悪いことのように思わない。
 背後で、さあさあ、水の流れる音がする。扉の隙間からは、かすかな湯気。
 夜が更けてゆくのを、皮膚で感じる。夜の空気は、いろんなものを、地面に沈めていく。
 目が覚めるたびに、倦怠感にうんざりする。眠りにつくたびに、安堵する。こうして、ずっとずっと、眠っていられたらいいのに。
 水の音が止んだ。立ち上がって、扉から離れる。数分もしないうちに、引き戸の扉が開いた。頭を拭きながら、体格の良い茶髪の青年があくび交じりに出て行く。
 十二月も半ばになろうかというのに、ジャージにタンクトップ一枚という、真夏のようなかっこうで。肩や腕から、オーラのように、湯気がたっている。
(変な人)
 自分の部屋の札をはずして箱に戻すと、悠は開けっ放しの引き戸を、内側から閉じて、錠を下ろした。


 引き戸を開けたら、折り重なるように女がふたり、廊下に倒れていた。悠の部屋のならびに住んでいる双子の姉妹だ。実際双子かどうかはわからないほど似ていないが、本人たちがそういうのだから、そうなのだろう。
 彼女たちは水商売をしているらしく、朝方ドタバタいいながら帰ってくることが多い。たいていが酔っ払っていて、こうして行き倒れていることもしばしば。
(…どうしよう…)
「まぁたかー」
 顔を上げると、二階に住んでいる男が、階段から顔を覗かせていた。「ったく、毎晩毎晩よくやんなー」
 いいながら、彼はひとりずつを両脇に抱えあげると、彼女たちの部屋の扉を足で開けた。そのまま、また足で扉を閉める。
(変な人、ばっかりなんだよなぁ、ここ)
 嘘みたいな安い部屋には、嘘みたいな人が集まるのかもしれない。
 悠は半乾きの髪をタオルで押さえながら、彼女たちの部屋を通り過ぎ、自分の部屋に戻った。


 後ろ手で、扉を閉めた。そのまま、錠を下ろす。鍵はかけるものではなく、おろすものだと言うことを、ここに住み始めて知った。
 窓からうっすらもれる街灯の黄色みの強い、白い明かり。
 ひっくり返したダンボールの上には、刃を出しっ放しにしたカッターナイフと、使いかけのポケットティッシュ。
 明かりが妙な陰影を作っていて。まるでカッターナイフがポケットティッシュに襲い掛かっているように見えた。
 そういう、妄想。
 髪の先から、音もなく、服に雫が染みる。ちゃんと乾かさないと風邪を引く。引いてしまえば良い。そのまま、肺炎にでもなって、死んでしまえば良い。
(わたしに、何の意味がある?)
 自身への問いかけに、こたえが出ることはない。
 風邪を引いたら、アルバイトに行けなくなる。行きたくなんかないんだから、良い。だけど、働かないと、生きていけない。
 霞を食べても、おなかは膨らまない。
 食べるために働くなんてナンセンスだと、父が言っていた。今の悠をみたら、父はきっと笑うのだろう。
 愚かな娘だと、笑う。
 三歩歩くと、ダンボールがすぐ目の前にあった。見下ろしたカッターナイフは、鈍い、鋼色。
「……」
 ことばなんて、でてこない。
 立ったまま、腕を伸ばして、カッターナイフを手に取る。それは掌に、すんなりおさまった。
「意味なんか、」
 顎と喉の間、きゅぅっと、こみ上げてくる感情は。
「要らない」
 要らないのではなく、本当は、ないだけ。
 刃を、左手首に当てた。何本も走る赤い筋の間を縫って、ゆっくり、皮膚をなぞった。
 なるべくゆっくりがいい。
 なるべく、痛いほうがいい。
 だってこれは、正気を保つための、必要な痛みなのだから。
 やめたほうがいいのはわかっている。けれど、しないと、眠りにつけなくなっていた。
 目をさすような血液の赤色と、全身に鈍く響く痛み。
 ティッシュで傷口を押さえて、何度か深呼吸をする。その間は、なんにも、考えなくてよかった。
「寝よう」
 ぽつり、呟いて。冷たい万年床に、もぐりこんだ。


          *


 定期試験のあとが嫌いだった。
 互いに切磋琢磨して高めあおうが校風で、定期試験のあとは必ず廊下に、学年全員ぶんの順位が張り出された。
 悠の名前は、いつも真ん中にあった。
 上位の生徒が謙遜しているのが、酷く腹立たしかった。同じだけ、自身に対しても。
(がんばったのに…)
 結果がついてきたことなんて、一度もない。
 両親はけっして叱ることはなかった。
 見切りをつけられているのだと、肌で感じた。馴染もうと頑張って、ひときわ浮いていく自分が、情けなかった。
 成績表を見て、ただひとこと。
「どうして出来ないんだ?」
 そんなことは、悠が訊きたいくらいなのに。
 頑張っているのに。きっと、ほかの誰よりも。なのに、その努力は誰にも認めてもらえない。
 両親の目が言っている。
 駄目な子。
 たまにしか顔を合わさない兄の目が言っている。
 駄目な子。
 周りの人間の目が言っている。
 駄目な子。
 被害妄想だと、振り払おうとしても、既に身動きが取れなかった。
 気がついたら、切り立った崖に、つま先がかかっていて。
(駄目なら、生まれてこなければよかった)
(駄目なら、頑張っても無駄なら、もうこんなの、やだ)
(駄目なんだから、仕方がない)

 両親と兄が、目の前に立っていた。
「「「お前は駄目な人間だ。我が家の汚点だ」」」


          *


 薄汚れた壁が、目の前にあった。心臓が破裂しそうなくらい、暴れている。
 瞬きすると、こめかみに涙が伝った。
(いまさら、なんだっていうんだろう)
 もうなんにも、ないのに。
 苦しくて息が出来なくて。渋い顔の両親をもうみたくなくて、自分とはまったく違う、優れすぎた兄を見たくなくて。家を出た。
 そうすれば、息が出来るようになると思っていた。
 実際、家を出て思う。
 そんなのは、体のいい妄想に過ぎなかったんだ。
 布団のなかで、膝を抱えた。目を閉じても、何も見えない。それでいい。
 それがいい。
 もう少し時間が経ったなら、夢も見なくなる、はず。きっと。
 そう、願う。息を潜めて、遠慮がちに、呼吸を繰り返して。


 アパートを出ると、息が白かった。空は重く垂れ込めて、雨を零しそう。否、ひょっとしたら、雪かもしれない。
 アスファルトの紺色が、くっきり濃い。自身の足が、浮いて、なんだか、不思議な気持ちになる。ふわふわ、浮かれることなんて、ひとつもないのに。
 街灯に取り付けられたスピーカーから、軽快な音楽が流れてくる。耳慣れた曲なのに、タイトルが出てこない。
 ふと、足を止めて、スピーカーを見上げた。電飾を巻きつけられた街灯が、昼間はなんとなく、滑稽に見える。真昼間から、拘束プレイ。
 クリスマスを愉しいと思ったことはあっただろうか。
 幼かったころは、あったような気がする。起きたら枕元にプレゼントが置いてあって――なんてことは、一度もなかったけれど。なんとなく、周りの浮かれた空気に同調して、愉しいような、気がしていた。
 中学に入ってから、クリスマスは憂鬱な気持ちで居ることが多かった。
 二学期の期末試験が終わってすぐ、冬休みに入ったから。
 十二月二十五日は、変わらない、ただの一日。
 目線をアスファルトに戻して、目をこすった。
 昔のことを思い出したって、仕方がない。いまさら、何も変わらない。わかっているのに、悠は、何度も、繰り返す。
 たぶん、死んでしまうまで。
 商店街は、今日も必死だった。
 コロッケ屋の前を通る。店の前には、数人の主婦がにぎやかに笑いあっている。
 店先には、コロッケがエプロン姿でバンダナを巻いて接客していた。コンビニに来るときには、絶対にしない表情。
 コロッケが身振り手振りで何かを言っている。ところどころ、かけらが聞き取れるけれど、何を言っているのかは、よくわからない。
 主婦たちが裏のない顔で笑う。「んもうー、シンちゃんったらぁ」
(愉しそう、)
 ぽつり、思った。
 学生時代、悠が決して混じることのなかった、教室のなかのような。
 最後に、あんなふうに誰かと笑いあったのは、いつだっただろう?
 辿ろうとした記憶の糸を、すぐに見失った。
 一度もなかったかも、しれない。忘れてしまったら、それは、悠にとってなかったも同然のこと。
 店の奥から、コロッケと同じ格好をした中年の男が出てきて、コロッケの頭をはたいた。そこでまた、大きな笑いが漏れる。
 店の主人――コロッケの父親だろうか。顔の雰囲気が、よく似ている。
(愉しそう)
 あそこだけ、きっと、温度が違う。
 悠には、絶対に、触れることの出来ない、温度。
 スニーカーの足元から、冬の冷気が、伝って這い上がってくる。
 コロッケの家は、決して裕福ではないだろう。
 商店街のなかでも、古い店構え。コロッケの専門店で、相当な利益が出るとも考えられない。
 悠の家は、裕福だった。お金に不自由したことなんてないし、ほかの家にあるものもないものも。なんでも、あった。
 生きていくうえで、必要な物品は、あふれかえっていた。
 だけど、
 目の前にある、あの温度は、なかった。
 コロッケが笑っている。父親に、お客に、囲まれて。完全に、受け入れられた世界で。
 受容されて。
 愉しそうに。
 笑っていて。
(あんなのが、よかったなぁ)
 裕福な家には、空調で暖められた空気しかなかった。
 なんでもあった。けれど、なんにもなかった。
(うちも、あんなだったら)
 こうして、家を出ることも、なかったのかもしれない。
 顔の内側が、きゅんとなる。慌ててうつむくと、口元を隠した。
(ないものねだりだな、)
 他所の芝は、青く見えるもの。
 止まってしまっていた足を、また、動かした。
 ひどく、重たく感じられた。
 自分と他人は決して交わることはない。似ている人間は居ても、同じ人間は居ない。
 悠は、悠でしかない。
 コロッケの環境を羨んでも、妬んでも、悠がコロッケと入れ替わることなんてありえない。
 何も知らなければ、悠がもっと優秀であったなら、あの家はきっと心地よい環境だった。何よりも、何処よりも。
 でもそうはなり得なかったのは、ひとえに、悠の力が足りなかったからだ。
 悠が、優秀ではなかったから。
 原因は、何処にある?
 地面にめり込みそうなほど重たい足を、持ち上げては、また、前へ。
 沈み込んでしまえばいい。このまま、アスファルトの紺色に。紛れて、踏まれることが当たり前なら、きっとすぐに、慣れて何も感じなくなる。
 電気屋の前を通ったとき、聞きなれた声が聞こえた。
 無意識に、顔を向けていた。
 画面に映っていたのは、父の顔だった。
 著名人の手術後の会見らしいと、画面下のテロップでわかった。
 悠が家を出る前、父が、誰か有名人の手術をすると言っていた。大変名誉なことだと。
 白衣を着た父は、何も変わっていなかった。髪の色も、顔も、仕草もなにもかも。
(ちゃんとやってるのか?)
 何度も聞いた声が、耳の奥で。
 何度も、言われたことばが、躰の内側で。
(どうしてお前は…)
 手術は成功したらしく、父の顔は晴れやかだった。
 晴れやか、だった。
 ぷつり、ぷつり、
 悠と外界を繋いでいた、数少ないコードが、切れてゆく。
 周りの音が、ひとつずつ、消えてゆく。
 焦りに似た、落ち着かないざわざわしたものが、心臓の辺りから。
 それはゆっくりと、四肢に広がって。
 自分ではない何かが、叫んでいるよう。
 周りが、塞がれていく。
 あの感覚に似ている。いつの間にか、身動きが取れなくなっていた、家に居るころのように。
 気がついたら、息すら、出来なくなっていた、あのころ。
 逃げ場なんか、何処にもありはしない。
(苦しい、)
 息が、出来ない。
 どうしてわたしは此処に居る?
 わたしは、此処に居ていいの?
 わたしは、何処に居たらいいの?
 何処に居ることが、赦されるの?

 何処にも、居てはいけない――。

 ざわざわが、指先まで。そこで、留まって。ざわめきで、悠にしか聞こえない音で。
 不安でも、恐怖でもない。懼れでも、憐憫でもない。
 世界が、違う。
 間違えて、あの家に生まれてきたと思っていた。
 違っていた。
 世界は、あまりにも狭くて、何処もかしこも、繋がっていて。
 間違えて、あの家≠ノ生まれてきたのではない。間違えて、この世界≠ノ、生まれてきてしまった。
 間違いだった。
 こんなことを感じる悠も、息を潜めて生きていかなければならなかったことも。
 間違えていたから。
(ああ、そうなんだ)
 顔が、破裂しそう。
 額の奥、脳が、悲鳴を上げている。
 胸元に触れた。酷く、熱かった。
 口元を押さえた。内臓が全部、こんな躰から出て行きたいと、暴動を起こしていた。

 目を閉じても開けても、世界は何処にも、ありはしなかったのに。


 駆け込んだアルバイト先のトイレで、全部吐いた。内容物なんてすぐに底をついてしまったけれど、何度もえづいた。
(ごめんなさい)
 涙があふれる。これは、吐いているから? それとも、別の理由で?
(ごめんなさい、)
 頭をいくつ下げたって、足りはしない。
 謝罪を何度重ねたって、足りはしない。
 一体いつから、こんなことになってしまったのだろう。
(帰りたい、)
 全身が重く、だるい。立っているのも、億劫で。眩暈で、世界がぐるぐる。
 食道が熱い。酸で、解けてしまいそうで。
(もうやだ、しんどい。帰りたい)
 六畳一間の部屋。冷たい万年床。誰の温度もない、暗い部屋。
(何処に、帰るんだろう…)
 口元をぬぐうトイレットペーパーが、濡れた手にこびりついて破れる。
(誰も居ないのに、)
 胃が痙攣する。もう、なんにもないのに。
(ひとりなのに。帰ったって、仕方がないのに)
 帰ることが出来るなら、生まれる前に。
 帰りたい。


 時間通りに、シフトに入った。店長が何か言いたそうな目で、ちらりと悠を見たけれど、何も言っては来なかった。
(帰ったって、誰も居ないんだから)
 みぞおちを、そっとさする。
(ひとりなんだから、だったら、あったかいし、此処に居たほうが、いい)
 そうやって、自分を納得させる。
(ひとり、なんだから)


 暇だった。
 品だしもレジ金のチェックも終わって、店内に客はちらほら。店長は奥の事務所で年末の事務仕事をしている。
 ぼんやり、レジに立っているしか、やることがない。
 眩暈は酷くなる一方だった。相変わらず食道はちりちり熱いし、胃は重ったるい。
(帰りたい)
(でも何処に?)
(あの部屋に)
(誰も居ないのに、帰ってどうするの?)
(でも、立っているのも、しんどい)
(横になりたい)
(帰りたい)
(何処に、帰る?)
 ぐるぐる、思考がループしていることは自覚しているけれど、止めることは出来なかった。考え続けていないと、座り込んでしまいそうで。
 舐めた唇は、かさかさしていた。
 脳みそが、鉛になってしまったような、感覚。重くて、仕方がない。
(わたしはどうして此処に居るんだろう)
 いくら考えたところで、永遠に、こたえなど、わからない問題。わかったところで、どうにもならない。
 家を出て、何とかひとりで暮らしてきた。そうして、なんとか、何ヶ月かが過ぎて。
 どうにも、ならない毎日。
 食べることが、こんなにも大変なことだと思わなかった。
 息をすることが、こんなにしんどいことだとは、思わなかった。
 出てくるのは、もったりした、ため息ばかり。
 生きていくだけで、重圧がかかる。袖に隠れた傷を押さえる。昨日の傷が、じんわり、痛い。
 誰も助けてなんかくれない。
 自分で何とかしないと、どうにもならない。
 手首に真横に走る、いくつもの筋。これから先、息をし続ける限り、消えることのない傷跡。
 こうして生きてゆくことに、どれだけの価値があるのだろうか。
 袖をまくって、レジの赤いひかりを当てた。
 傷跡と垂直に。ひかりが、読み込んでいく。
――ぴ。
 九十七円。
 きゅうじゅうななえん。
「やすい」
 ぽつり、素直な感想が、出てきた。
 コロッケひとつぶんの、値段と、まったく同じ。
 生きるために、悠がつけ続けた傷は、二十二時に決まって買われていく、コロッケと、同じ価値しかない。
(なんだろう、これは)
 納得なのか、哀しいのか、虚しいのか。
 よく、わからない。わかりたくなんか、ない。
(わたしって、なんなんだろう?)
 目を背けたくなるような毎日、底辺であがく日々。
 九十七円ぶんの、生きていくための痛み。
 正気を保つための、痛み。
 たった、九十七円。コロッケ、ひとつぶんの。
「コロッケ」
 声に、我に返る。「あ、いらっしゃいませ」
 レジの前には、コロッケが立っていた。
 いつもの表情で、レジの時計は、二十二時ちょうどを示している。
「コロッケ。」
 もう一度、コロッケが言った。
「あ、はい」
 ケースから、コロッケをだす。悠の傷と同じだけの価値があるコロッケ。
 その間に、コロッケが、百円玉をカウンターに置いた。
 ポケットからぞんざいにだして。たかが百円というような、扱い方で。
 コロッケより、三円分、価値のある硬貨。
 悠より、価値のある硬貨。
「おい、」
「あ、申し訳ありません」
 コロッケを渡す。
「百円、お預かりします」
 受け取ったコロッケを、彼は一口かじった。
「なんだ、この不味いコロッケは」
 いつもどおりのせりふだった。一文字と違わない。
 だけど、違う。
 その不味いコロッケは、そのまま、悠のこと。
 握り締めた百円玉が、見る間に湿っていく。
 胃が熱い。
 目の前がぐらぐらする。
 なんで、
 どうして、
 なにがいけないっていうんだ、
「だったら、」
 声が出ていた。
「わざわざ、こんなコンビニなんか来なくても自分の家のコロッケを食べてればいいじゃない」
「……へ、」
 不味いコロッケ。
 それと同じだけの価値。
 間違えて生まれたきたんだから、仕方がない。
 仕方がない。
 本当に、仕方がないの?
 どうして、不味いと言われなければいけない?
 本当は、そんなこと、誰だって言われたくないのに。
「わざわざ、毎日毎日そんなこと言いに来るんだったら、こなくていいっ」
 心のなかに、ずっと、溜まり続けていたものが、あふれ出す。
「あんたになんか絶対にわからない、倖せなくせに笑っていられるくせにっ、価値がない人間の気持ちなんか絶対にわかんない!」
 コロッケがきょとんとした顔で。
 悠自身、コロッケに何を言ったって、意味がないとわかっている。言っていることの、半分の意味も伝わっていないと、わかっている。
 だけど、ことばがあふれてくる。
 不味いといわれ続けるコロッケと、自身が、重なって。価値がないなんて、誰が決めるんだ。こんなに苦しくて、誰よりも努力してもがいて、なのに結果がついてこないというだけで、価値がないものになってしまう。
 そんな、残酷な、理不尽さ。
「ちょ、紺野さんっ」
 奥から店長が出てきて、悠の腕を掴んだ。驚いて、迷惑そうな顔で。店内にちらほらいたお客も、驚いた顔で、悠を見ている。
 コロッケが、なんともいえない顔で、じっと悠を見ていた。
 その目が、家族の目と同じに、見えた。

――間違っているのは、誰?
――間違っているのは、何?

 なんにも、


 泣いたら負けだと思っていた。
 弱さに価値などないのだから。
 裏口を出てすぐ、しゃがみこんで泣きじゃくる自身が、酷く情けなく思えた。
 思うばかりで、嗚咽は少しもおさまらない。
 何もかもが、無性に腹立たしかった。家族のこと、傷のこと、しないと生きていけなかった自分自身のこと、不味い不味いと言いながら、毎日やってくるコロッケのこと。
 悠をとりまく、すべての事柄。
 何ひとつ、上手くいくことなんてありはしない。
 吐く息が白く、悠の周りを一瞬漂って、すぐに消えてなくなる。
 同じように、消えてしまえばいいのに。肉体なんか、要らないんだ。
「あ、こんなとこに居た」
 顔を上げると、路地の入り口に、コロッケが居た。
 慌てて目元をぬぐうけれど、涙はあとからあとから零れ落ちて止まらない。
「えと…コンノ、さん」
「…なんで、」
「ああ、名札」
 胸元を指差されて。慌てて隠した。いまさらなのに。
「俺、オダギリ」
 コロッケは、少し目を泳がせると、悠に問う。「横、良い?」
 悠の涙は一向に止まらない。嗚咽を押さえようとすればするほど、しゃくりあげてしまう。
 少しだけ、距離を縮めて、コロッケは悠と同じ壁に寄りかかって座り込んだ。
「あ…俺、さ、なんか、変なこと言った…?」
 大きい躰と、はっきりした顔立ちなのに、ことばはたどたどしい。
「コンノさんさ、商店街のほうに住んでんの? よくうちの前通ってるの見る」
「……」
「あ、いや、別にストーカーとかそんなんじゃなくて」
「…………」
「……」
 沈黙が、続いていく。
「今度、休みがあったらさ、うちにこいよ」
「…………」
 悠はこたえなかった。コロッケは後頭部の生え際をがしがし掻くと、立ち上がった。
「ごめん、」
 何が「ごめん」なんだ。思って、悠がちらりとコロッケを見上げると、彼の後姿が少し離れたところに見えた。
 両手が涙と鼻水でべしゃべしゃ。
(何してるんだろう、)
 息が白い。顔が冷たい。
 情けない。人前どころか、あのコロッケの前で泣いてしまうなんて。
――今度の休みに、うちにこいよ
 今度どころか、もう、コンビニはくびかもしれない。


 次の日、粒の大きな牡丹雪が町を覆った。
 店長は何も言わなかった。ただ、翌週のシフトに、悠の名前はなかった。
 何も言えなかった。小さい町の、個人経営のフランチャイズのコンビニ。何の保証もないアルバイト。
(どうしよう、)
 思い浮かんだのは、ただ、これからの不安だけ。
 求人雑誌とのにらめっこが始まる。どうしたらいいのかわからないままで、面接を受けに行く気も起こらない。此処でだらだらしていたって、おなかは膨らまない。ほんの少しばかりの貯蓄では、一か月と食べていかれない。
(あいつが、来なければよかったのに)
 不味い不味いといいながら、毎日のように来なければ。あんなことにはならなかった。家も後ろ盾もなく、収入さえも途切れた悠の心細さなんて、彼には絶対にわからない。
 コロッケの後姿が浮かぶ。いつもとは反対の、気弱そうな態度。
(なんで…)
 何かを背負っているようで。悠と何処かが同じなのかもしれないと痛んでしまいそうな心に、そんなことはないと、笑う。
 同じなわけがない。自分の家で、笑っていたのだから。
 ぼんやりとした日々は、あっという間に終わった。
 週をまたいで、求人雑誌は新しく刊行された。仕事は、決まっていない。
 手首の傷が増えた。社会的な繋がりがなくなって、何かの箍も外れてしまったかのように。
 自分でやっていることなのに、罪悪感が増していく。
 繰り返す自分の価値が、どんどん暴落していく。
(なにしてるんだろう)
 こんなことには、何の意味もなくて。
 こんな自分には、何の価値もない。
(なんにもないのに、)
 記帳した通帳の残高は、悠とは関係なく、減っていく。電気代、水道代、家賃――。
 生まれてきたのは頼んだからではない。あの家に生まれたくて、生まれてきたわけではない。だけど、息をして、家を出て、生きているのは、悠自身で。
 自分の口は、自分でなんとかしないと、誰も慈善で助けてなんかくれはしない。


 悔しかった。
 けれど、もしかしたら雇ってくれるのかもしれないという浅ましい考えは、なくならなかった。
 悠には仕事がない。お金もない。嘘みたいなアパートでも、なくなってしまうのは困る。
 いつの間にか、商店街はクリスマスから正月に装いを変えていた。電飾は減り、街頭スピーカーからは安い雅楽が流れてくる。
 街路樹の影、日の当たらない場所に、雪が寄せ集められていた。一度降り始めた雪は、思い出したように、数日おきに降り続く。もう少し山間のほうに行けば、春まで一面が雪に覆われている。
 コロッケの店に近づくと、染み付くような油のにおいがした。店頭で、以前と何ら変わらずに、彼は客の相手をしている。
 そこだけ、空気が違うような気がした。
 声をかけるべきなのか、迷う。
(此処まで、来たのに、)
 帰ってしまいたくなる。たったひとりの部屋に帰って、何をする? また、求人雑誌とにらめっこか。
 息苦しい。
 鎖骨の間、少し下。こぶしで、軽く何度か叩いた。とすとす。息苦しさは、なくならない。
 視線を地面に下げて、目を細める。まつげで、目を閉じなくても、世界は黒い暗幕の向こう。あと少ししたら、きっと、窒息死。
 死にたくは、ない。
 顔を上げると、彼がこちらを向いていた。目が合う。
「あ、」
 何の意味もない。ただの音のような、声。
「こんにちは」
 彼が言う。数人の主婦が、悠のほうを見た。
「やだ、シンちゃんの彼女?」「あーらぁ、あんたも隅に置けないんだからぁ」
 彼は「いやいや」と言いながら、笑っているだけ。否定は、しない。彼はすたすた歩み寄ると、悠の両肩を、後ろからぽんと叩いた。
「今日から、うちで働いてくれるコンノさん」
「あ、よろしく…おねがいします」
(聞いてない)聞いてないけれど。ほっとしたのも、確かで。
 客の相手をするコロッケは、コンビニに来るときの憮然とした態度とも、この間の気弱そうな態度とも違う。人当たりの良い表情で、軽快にことばを続ける。
 どれが、本当の彼なのだろうか。どれでもいいし、どれであっても関係はない。関係ないはずなのに。
 お客の横を抜けて、店主に挨拶する。お客にしたのと同じように、バンダナを巻いた店主に頭を下げた。「よろしくおねがいします」
「おう、」神妙な顔で、店主はひとつ、頷いた。「シンヤ、とりあえず奥で待ってもらえ」
 彼は頷くと、悠を奥の座敷に通して、座るように言った。「あと一時間くらいで、暇になると思うから。あ、お茶とかはテキトーに飲んで。急須と茶っぱはポットのとこにあるから」
「あの、」
 部屋を出て行こうとしていた彼が、柱に手を添えて、上半身だけ、ひねって振り返る。「なに?」
「わたし、雇ってくれとか、言ってない」
「言ってないな」
「だったらなんで、」
 息をつくと、彼は躰ごと振り返って、柱によりかかった。腕を組んで、左肩を掻いた。
「コンビニくびになっただろ?」「そんなの、――」あんたのせいじゃないか。思っただけで、言うのは辞めた。「困ってるんじゃないの、生活」
「……なに、」心臓のあたりが、冷たい。流れ込んでくる感覚は、なんなのだろう。「同情、してるの?」
「別に」
 感情をするりと流されて。心臓の冷たさと真逆の熱が、今度は脳にダイレクト。
 立ち上がろうと片膝を立てた悠の肩を、今度は前から、彼が押さえる。
「なんかいろいろ、俺に言いたいことあると思う」
「何もない」
 言ったところで、なにも、わかりはしない。言うことを放棄する。前には進まないけれど、進みたい前なんかない。
「話したいことがある」「聞きたいことなんかない」「俺が、聞いて欲しい。頼むから、待ってて欲しい」
 立てた膝を、畳に戻して、うつむいた。やっと、肩から、彼の手の感触がなくなる。
 何かを言いそうな雰囲気がしたけれど、彼は何も言わなかった。そのまま、店に出て行く。顔を覆って、息を吐いた。


          *


 古傷が疼く。完治したはずの傷が、痕になってもなお、忘れるなと低いうなり声を上げ続けている。
 左肩に触れるとき、父親の目を思い出す。あの目は、ことば以上に、何を言おうとしていたのだろうか。
「慎也」
 厨房を通り過ぎるとき、父親が声をかけてくる。
「なに?」
 声のほうを見ないで、返事をした。
「…いや、」口を開けて、ことばを飲む音が、揚げ物のはぜる音の合間に聞こえた。「なんでもない」
「うん、」
 自身が間違っていたとは思わない。けれど、同じことを繰り返す気も、ない。
――どうして、
 彼女は、一度も、「助けて」と言わなかった。
 同じように、彼女もまた、助けを求めてはいない。
(余計なことかもしれないけど)
 どうにかしたいと思ってしまうのは、性分としか、言いようがない。


          *


 部屋のなかは、決して居心地の悪い場所ではなかった。悠の実家とは違って、雑然としていて、収納し切れなかっただろうものが、壁際に寄せ集められている。
 帰るためには、店のほうから出るしかない。勝手口もあるだろうか、他人の家を勝手にうろつく勇気など、到底なかった。
 電気の色は、薄いオレンジ色。褪せた畳は、温かかった。家中に、店で使っている油のにおいが染み付いているようで、壁の隅や壁紙の継ぎ目に、濃い琥珀色になって、油が染みになっている。
 振り返ると、文机の上に、遺影らしき写真があり、カレーコロッケが供えてあった。コロッケはご丁寧に、半分に切って半分だけ重ねてある。茶色と黄色の入り混じったカレー独特の色が、近寄らなくてもカレーのにおいや味を伝えてくれる。
 写真は、上品な感じの女性が写っていた。ご婦人、ということばがしっくりくるような、落ち着いた雰囲気の女性だった。
(おかあさん、かな…)
 年の頃は、彼の母親より少し若いくらい、だろうか。
(亡くなったの、かな)
 彼のことなど、悠は何も知らない。だが、九割九分、勘は間違っていないだろう。
 そう思ってみれば、部屋の雑然さも、なんとなく納得出来た。
 悠の部屋とは、違う散らかり方。きっと、片付け方が、よくわかっていないのだろう。
 右手の指の背で、畳を撫でていた。少し毛羽立っているけれど、それさえも、やさしいと感じてしまうような。
 悠自身に、畳を懐かしむ記憶はない。実家はすべてフローリングだった。住んでいる部屋のそれは、冷たく湿っていて、此処のものとは似ても似つかない。
 なんだか、鳴きそうになってしまうのは、何故だろう。こんな、はじめて訪れた部屋で。
 店の前を通るたびに、感じた温度差。決して、立ち入ることなどないと思っていた領域のなかで。
 誰であっても受け入れてもらえるような気がしてしまう。そんなのは、きっとただの錯覚に過ぎないのに。
 そんなわけがないのに。
(なんにもないんだ)
 悠の世界には、もはや、なにも。
 仮に、この雰囲気が悠さえも受け入れてくれるとしても、ずっとなわけがない。永遠なんか何処にもない。一時しのぎに、いちいち安堵感なんて感じていられない。
「駄目な子」
 ぽつり、呟いたことばが、魂にしみこむ。
「それで、いい」
 息苦しさも、なくならなくても、慣れてしまえばいい。


 休憩だといって彼が戻ってきたのは、一時間を少し過ぎたころだった。
 ただ座っているだけの悠を見て、彼は黙ってお茶を入れると、ちゃぶ台に湯飲みをふたつ、置いた。
「とりあえずさ、うちで働くって言うのは、オーケー?」
 悠のほうを見ないで、彼が言う。
 選択の余地があるのか――逡巡して、目を閉じた。いくら面接を受け続けたところで、すぐにアルバイト先が見つかる気はしない。
 悠がわずかに頷くと、彼は湯のみのお茶を一口すすった。
「同情してるのかって、さっき言ったよな」「……」「別に、同情なんてしてない。そんなふうに聞こえないと思うけど、本当のこと」
 どれだけが、本当のことなのか。
 状況が正しく把握できないのに、正しい判断なんて出来やしない。
「俺さ、すごい、好きな子が居たんだ」
 居た=B過去形。
「その子に、似てる?」
 だから、助けたい?
「顔とか背丈とか、そういうのは、全然似てない。なんていうかな、目つきっていうか、雰囲気っていうか…」
 ことばを切って、また、お茶をすする。悠も湯飲みを手に取った。ほとんど熱湯のような湯気に、容易に予想できる大惨事を思い浮かべて、飲むことを断念して、ちゃぶ台に戻した。
「まあ、はっきりいうと」ちらりと、彼の視線が、悠の手首に向く。すぐにあさっての方向に戻ったけれど、余韻が、服の上から肌にまとわり付くようで。剥がしてしまいたくて、ぎゅっと、袖を掴んだ。「そういう、こと?」「かな。まあ、こんなこといっても、コンノさんは、まったく関係ないって、思うだろうけど」
 思うも何も、関係がない。
 自分で自分の手首を切る神経は、普通ではないかもしれない。けれど、決して、物珍しいものでもないはずだ。毎年何万人も自ら死ぬのならば、その何倍も、自傷行為を繰り返す人は存在している。
 それがたまたま、悠であって。
 それがたまたま、彼の元の恋人であって。
「辞めてくれって、何度も言ったんだ。だけど、笑ってはぐらかすばっかりで、全然辞めてくれなかった。傷はどんどん酷くなるし、綺麗だった腕が、どんどん傷だらけになっていく」
 自身のことを言われているようで、悠のうつむく角度が、深くなる。どんどん、真下を向いていく。
「俺は、そういうのしたことないから、どんな気持ちなのかわからない。包丁で指切ることはあるけど、腕を切ったことはない」
 切る感覚。
 悠にはそんなもの、目を開けていても、リアルに浮かぶ。まさしく、皮膚を引き千切るような。皮膚の裂け目から、いくらでも沸きあがる血液。
「俺、ばかだからさ。考えても全然わからない。だったら、自分も経験すればいいって、思った」
 コト、湯飲みと木が触れ合う音。
 ゆっくり、首を持ち上げる。彼が、手首を撫でていた。一見、何の傷跡もないような。綺麗な、手首。
「消えないんだよな」
 親指で手首を撫でながら、彼が言う。
「ほとんどわかんなくなったけど、痕は残ってさ。これ見るたびに、思うんだ。俺は、ただ彼女を助けたかっただけだけど、どうしようもないばかだったんだなって」
 助けたかった。でも助けることは出来なかった。
 だったら、せめて、同じものを共有したい。
 抱える痛みを、少しでも、知りたい。
「そんなの、無理に決まってる」
「……」悠のことばに、彼は瞬きもせずに、傷を見つめる。「そうなんだよな。同じこと、言われた」
 今も、記憶のなかにとどまり続ける、彼女の痛みに満ちた声。
 行為に、傷に。苛まれているのは、誰なのか。誰だったのか――。
「俺に、助けることなんて出来ないんだ。助けられるなんて、ただの驕りに過ぎない」
「彼女は…?」
「今も生きてるよ」
「今も、付き合ってる?」
「別れた。ていうか、振られた」
 表情は笑っているけれど、心は、どうなのだろうか。
「彼女はさ、俺のちゃちな驕りに、気づいてたんだよな。そんなものは要らないって。――ま、いいんだ。俺は、彼女が生きてくれるんならそれで」
 目を離すと、死んでしまいそうだった彼女が、何処かで誰かと、笑っていられるのなら。
「わたしは、」
 どうしてだろう、息苦しい。ざわざわしたものが、指先で暴れまわる。詰まった鉛が、心を押しつぶそうとして。
「わたしのことも、たすけたい? 彼女を助けることができなかった代わりに、わたしを、助けて、満足、したい?」
「……」彼は、どんな顔をしているのだろうか。うつむいた悠には、見えない。「助けられないよ。俺にそんな器はない。だけど、なんか、力になれたらいいなっていうか…。もうこれ、ある意味病気なんだよな」
(本当は、)心のなかで、悠は息も絶え絶えに。(わたしは、)
 助けてといったら、負けてしまう。
 差し伸べる側の彼には、差し伸べられる側の気持ちはわからない。
 助けて欲しい。悠も彼女も、きっと同じ気持ち。だけど、助けてといって、弱さを見せてしまったら、ひとりで立てなくなってしまうから。
 今以上に、弱くなってしまうから。
 そんなのは、耐えられない。
 生きてゆけなくなってしまう。
――駄目な子
 聞こえる声。寝ても覚めても。夢でも現でも。
 おねがい、もう、やめて。
 さっきまでとは違う、息苦しさが溢れてくる。
――お前は、うちの汚点だ
 目を閉じても、耳を塞いでも。関係なしに責めたてる声。記憶。生まれてきてから、ほとんどの時間のなかで。
「…どうした?」
 彼の声が降ってくる。彼ならば、悠を受け入れてくれるだろうか。
 ぎゅっと胸を押さえて、彼のほうを見た。もしかしたら、縋るような目をしていたかもしれない。
「――」何かを言おうとして、でも声にならなかった。口をつぐんで、またうつむいてしまう。
 こうやって、いつもいつも、口をつぐんで。
 駄目な自分を、ただ受け入れるしか、術はなく。
 何にも出来ないまま、ここまできて。
「気分が悪いなら…」彼が、すぐ近くにいる。助けてくれる存在が居る。助けてと言ったら、助けてくれる。
 駄目な自分は受け入れられても、弱い自分を受け入れることは出来ない。
 認めたくない。家を出たあの日から、悠はひとりぼっち。
 事実なのに。どうして。
 揺らいでしまっては、いけないのに。
「コンノさん、」
 言われて、自身の手を見る。左手で、ぎゅっと彼の服を掴んでいた。五本の指で、不安に迷う子どものように。
「ごめん、なさい」
 離そうとしたけれど、指が動かない。
「ごめんなさい」
 謝罪は、誰に向かって?
 悠自身に。家族に。彼に。
 ことばで、何を繕うの?
 彼は何も言わなかった。悠に触れることもなく、ただ、じっとしているだけで。
 涙は出なかった。指の力は緩まない。
 目を閉じて開いたら、そこに世界はあるのだろうか。


          *


――抜け出したい。
 術すら知らないまま、ただ願い続けた。
 間違えた場所から飛び出して、そこから先、生きてゆく方法すらわからないまま。
 傷だらけになっていくのは、自身の左腕か、魂か。
 何も持っていない。
 経済力も美貌も才能も。
 身を助けてくれそうなものなど、なにひとつ。
 未来への希望も自身への期待も。
 あたたかいひかりなど、かけらすら。
 なんにもない。
 なんにもなかった、はずだった。けれど、目の前に、少しだけ、ひかりが見えた。手を伸ばしたら、掴めてしまいそうな。
 星月夜に空に手を伸ばして、掴めるのはほんの一握りの空気だけ。
 小さな掌に、どれだけのものが掴めるか、知らないわけではなかった。
 何にも掴めはしないということくらい、知っていた。
 知っていて。それでも、手を伸ばして。
 掴めたような、気がしていただけなんだ。


         *


 うす暗くなった道を歩く。胸に残る息苦しさはなくならない。
(わたしは、)
 掌を見る。冷たい指先が悴んで、震えることすら出来ない。指の先に見えたスニーカーの靴紐が、不自然に揺らめいた。
 ピントが急にずれたからかもしれない。
 目をこすって俯いた顔を上げたら、異様なほど頭が重くて、躰が傾いた。
 何も入っていないはずの胃が、ひっくり返りそうに一度波打って。
 なにも、浮かんでこなかった。
 ぶつかった硬くて冷たいものは、なんだろう。擦れた顔が、痺れるようで。
 いつ閉じたかわからない目の奥の闇が、ゆっくり広がって。


 くらやみのなかですら、あたたかみもひかりも、なんにもない。


(2007/01.09 20682文字)