ラプンツェル。
気がついたらあたしは。
高い高い塔の上にいた。
入り口兼窓から、朝日の白い陽(ひかり)が差し込んでいる。
ベッドの上で、全裸で。シーツを絡ませただけ。
じっと、隣の男の寝顔を眺めている。
たまに瞬きして、世界が暗転しても。そこにある風景は何ら変わらない。
男は寝ていて、あたしはその寝顔を眺めてる。
別に愛情とか、そう言う感情があるわけじゃない。
ただ今この間だけ、この憐れな男の存在を、ここに証明しておいたいだけ。
「ラプンツェル」
皺の寄った、ゴテルおばさんの声。
シーツを躰に巻きつけたまま、窓から下を覗く。
おばさんは黒いローブを着て、こちらを見上げていた。遠めにも明らかに老いた、憐れな老婆の姿。
若いころはねえ―――それが口癖だけど。今の姿からじゃ、とても美しかったという昔の姿は想像できない。
あたしは後ろの男を振り返って、おばさんに言った。
「大丈夫よ、しっかり眠ってるわ」
ベッドの脇のテーブルの上には、大皿と空のボトルが数本。
クスリ入りの酒の効果は、いつもながら絶大だ。
「ラプンツェルや、髪を垂らしておくれ」
お決まりの文句。別に誰に聞かれてるわけでもないのに、いつも寸分違わず同じ口調同じ台詞。
幼いときから、否、生まれたときから一回も切ってない髪の毛を、ゆっくりと地面に向かって垂らす。
さすがに何メートルともなると、髪といえども重さも相当なものだ。それを伝って登って来るゴテルおばさんも、どうかしてるんだと思う。
思いっきりむんずと掴んで塔を登ってくるけれど、あたしの髪の毛の心配はしてくれないのだろうか。ここのところ、特に毛先が傷んでしょうがない。しかも、この高さに近づくに連れて、だんだん引っ張られて痛くなるんだけど、頭皮。
おばさんは、あんまり気にしてくれない。
おばさんが気にしてるのは、毎晩のように違う男のこと。
「ふむ、良く眠りこけてるねえ」
男を覗き込みながら、おばさんは満足そうに言った。
「だけど、」
はあ、と大仰にため息をついて、腰に手を当てた。
「もっと若くてルックスのいい男が良かったねえ、何だい、既に子孫を残しちまったような年じゃないか」
「知らないわよ、あたしは歌ってただけだもの」
腕を組んで抗議すると、おばさんは「まあそうだね、」と納得したように頷いて、男を背負い上げた。線の細いおばさんの、何処にそんな力があるのか全く理解できない。
「すぐレッスンだからね」
おばさんはそのまま、また髪を伝って下に降りていった。
降りるときは降りるときで。2倍の体重を支える髪の毛は限界いっぱいいっぱいだろう。
「おばさん、」
呼び止めると、おばさんは腰に布を巻いただけの男を抱えなおして見上げた。
「何だい」
その表情が何故かとても滑稽に見えたから。
「何でもないわ」
言いたいコト飲み込んで、誤魔化した。
□■□
昔、子供に恵まれない夫婦がいた。
彼らは結婚して数年経っても子を授からず、妻はそれを酷く気に病んでいた。
教会に行ったり、怪しいクスリに手を出そうとしてみたり、黒魔術白魔術降霊術。隣近所の住人達が勧める方法から、効果があるのかどうか首をひねるようなものまで、何でも試した。
そしてなんとかそのうちのどれかが当たったらしく、妻はついに子供を身篭った。
子供の成長は順調で、妻の腹は日に日に目に見えて大きくなっていった。しかし、喜びも束の間。妻は酷い悪阻に悩まされ、何も口に出来ず、ベッドから起き上がれない日々が続いた。夫は妊娠中にも関わらず痩せていく妻の様子を心配し、果物から何から、とにかく彼女が食べたいと口にした食べ物を片っ端から眼の前に広げた。それはさながら市場のようだったと、近所の主婦は語る。
悪阻もピークに達し、血の気の失せた顔で、妻ははただおろおろする夫に告げた。
『隣の家の、あのちしゃの葉が食べたい……』
夫は、愛する妻のことばに対し、ことを深くは考えずに頷き、そっと隣の庭へ忍び込んだ。
幸か不幸か、そのとき住人である老婆はなく、彼はひと掴みのちしゃを掴んで家に戻った。
それで早速サラダをこしらえ――とはいえ、皿に盛っただけだが――ベッドでふうふう言っている妻に出すと、彼女はすごい勢いで平らげてしまった。
『ああ、おいしい』
妻はそういうと、少しだけ生気の戻った顔で微笑った。夫はほっとして、思わず涙ぐんでしまったとかしないとか。彼は妻が笑ったことと、改めて隣の老婆に見つからなかったことの幸運さを思ったのであろう。
しかし夫の安堵などさておき、翌日、昨日の映像を再生したように、再び妻は同じことを言った。
『隣の家の、あのちしゃの葉が食べたい……』
夫は一瞬詰ったが、すべては何よりも愛する妻のため。不安を押し込めて、再び隣の庭に侵入した。
今度も、ちしゃをほんのひと掴みのはずだった。だが、妻の喜ぶ顔を痛いがために、夫は昨日よりも少し多めにちしゃを摘み取った。
見つからないことが、まるで奇跡のようで。夫は次第に調子に乗り、摘み取られていくちしゃの量は日に日に増していった。
夫が老婆の庭に無断で出入りをはじめてから、10日目のこと。
『何してるんだい』
ちしゃの葉を両手いっぱいに掴み、なおかつ籠まで持参していた男はついに老婆に見つかってしまった。
『何といわれましても…』
夫は混乱し、とりあえずちしゃを元通りにしてみようと思ったが、しょせん千切ってしまったもの、すでに組織は破壊され、元には戻らない。
『最近、所々はげてる奴があると思えば…』
老婆はため息をつき、男はびくびくしながら背筋は伸ばしていた。
『なんで、ちしゃを盗んだね』
老婆の眼光におののきながら、夫は妻が妊娠していること、ちしゃを食べたいといったこと、全てを包み隠さず明かした。
『そういう、ことかね』
ふと考えるように俯いた老婆は、しばらくもしないうちに夫に向き直った。
『その子が女の子だったら、私にくれないかね』
『男の子、だったら?』
何も考えずに、夫は訊き返していた。多分今彼にとっては、性別如何の問題ではないだろうに。
『その場合は、どうでも良い』
老婆はやけにあっさりとそう言った。
夫も、自分は娘より息子が欲しかったので、とりあえずそうだな、と頷いておいた。
『交渉成立だね。そうしたら、好きなだけ持って行くがいいさ』
家に帰った男は、いつもより多めに皿にもって、妻に出した。美味しそうにちしゃを食べる妻を見ている夫は、先ほどの会話など、既に記憶から抹消していた。
嗚呼人間、哀しきほどの自己防衛本能。
やっと生まれる子供をとられるなど、例え男の子でも女の子でも考えたくないものだ。
妻はちしゃのおかげで悪阻を乗り越し、元気な赤ん坊を生んだ。―――――女の子だった。
夫は娘の顔を見た途端に、老婆との約束を思い出した。そして自分の律儀さを呪った。
老婆は近所でも有名な、変人。魔女とも呼ばれていることを、今更のように思い出した。
夫は青くなったが、老婆のあの顔を思い出すと、逃げようなど、そういう気持ちは一気に萎えてしまった。
出産直後。
一瞬だけ葛藤した後、夫は妻に知られぬように、女の子を隣の老婆のものとへ連れて行った。
老婆は赤ん坊を見ると嬉しそうに破願して、夫に言った。
『やくそく、だからね』
『そう、ですね』
夫は自分の手から老婆へ、子供が移動するとき、いっそこのまま老婆を突き飛ばしてでも逃げてやろうかと思ったが、妻は家でまだ動けない状態だし。子供なら、また作れば良い、そう思い直して。
『どうか、可愛がって下さい』
まるで犬を棄てるのと同じ台詞を言い残して、家に戻った。
妻には、生まれたときには既に死んでいたと。嘘を付いた。
妻は哀しんだが、疑うことはなく。夫婦はそれからすぐに、遠くの村へと引っ越していった。
老婆は赤ん坊をちしゃ―――「ラプンツェル」と名づけ、手塩にかけて育てた。
そして10数年後。
ラプンツェルは世にまたとない美少女となった。
彼女は老婆の家からしばらく離れた見上げるような高い塔の上に幽閉され、そこでいつも歌を歌った。
この歌も、老婆が幼いときから教育したものだった。
炭酸乳製品アルコール禁止。喫煙なんてもってのほか。老婆はラプンツェルに歌の英才教育を施した。
幸いラプンツェルにはそれにこたえられるだけの才能があり、彼女の歌は小鳥のさえずりよりも美しかった。
そして早熟ながら大人の肉体を持ったラプンツェルは、老婆の言い付け通り、歌を歌い夜な夜な男を誘い、髪を伝って塔の上に招きいれた。
男はラプンツェルの美しさと清純そうな外見に酔わされ、勧められるままに酒を飲み、そして躰を繋いだ。
翌日には、死ぬなんて思いもせずに。
老婆に背負われ、塔を降りていく男を見るたびに、ラプンツェルは思った。
なんてばからしいのだろう、と。
■□■
おばさんは、すぐに戻ってきた。
何処に行って何をしてきたのか、男は何処に行ったのか。そんな野暮な質問はしないと、初めてのときから決めている。
「さて、歌のレッスンをするよ」
ゴテルおばさんはそう言って、よいしょ、と縄はしごを下ろした。普段から使えば良いのに、あたしが塔から降りるときしか使わせてくれない。今も、登ってくるときは髪を伝ってきた。
「あんまり、歌いたくないわ」
そう言うだけ言うけど、おばさんは気にもしない。あたしも言ってるだけだから、すぐに後に続く。
週に一度、足をつける地面はふわふわしている。
塔の上より下は、やっぱり風もやさしい。障害物が多いからかな、と思った。実際、この塔の周りには木々が密集とまでは言わないでも、そこそこ生えている。
ゴテルおばさんの後に続いて、おばさんの家まで少し歩く。週に1度しかはかないサンダルは、いつまで経っても履きなれないで、まだ靴ずれを起こす。おばさんはそれを嫌うけど、新しいサンダルはくれない。
「今週は、3人か」
ぽつりと、おばさんが呟く。
3人、復唱して。そんなもんかあって、思った。
二日に一人。そんなものだったのか。
もっともっと、長い時間、多くの人と過ごしたと思ったのに。
普通の感覚だったら多いのかな。だけど、普通の定義がわからないから、何とも言えなかったりする。
「ねえ、ゴテルおばさん」
「何だい」
「あたし、良い子かしら?」
おばさんは青い瞳を少しだけ目を見開いて、ヒヒ、と微笑った。
「良い子だよ、あたしの自慢の娘だ」
自慢する相手もいないのに? 言おうとして、止めた。
おばさんと波風立てると、後々めんどくさい。
「ありがとう」
言うと、おばさんはまたすたすたと歩き出した。背筋は、気持ち悪いくらい伸びている。ここらへんは、確かに美しかったのかもしれないと思う。
あたしは自分の両親の顔を知らない。おばさんも、よくは教えてくれない。会いたいとか、言ったら困ると思っているのだろう。だけど、あたしは今更両親に会いたいなんて思わない。覚えていないのだから、そんなこと思いようがない。それに血の繋がりなんて、あたしは何の意味もない。
ここにいるのはあたし。
ここにいるのは、両親のおかげかもしれないけれど。
あたしは、ここにいないほうが良かったと、たまに思う。
生んでくれてありがとうとは、とてもじゃないけど、言えない。
だけど、生きているのはあたしのせいだから。
いつまで。
頭に浮かんだことばを揉み消して、薄緑色の光に眼を細めた。
「歌は、好きかい?」
おばさんが問う。
「好きよ」
こたえる。
「そうかい」
心なしか嬉しそうなことばに、あたしも少し微笑って。
おばさんは、どんな表情をしているのだろうか。
歌は好きだ。歌っているときは、何もかも忘れて。音だけが、あたしを包んでいる。ここにいて良かったと、純粋にそう思える。
おばさんはピアノを弾きながら、あたしに歌わせる。こういうソルフェージュ的(基礎的)なものは、あんまり好きじゃないけど。だけど、それくらいは我慢しないといけない。
この部屋は、おばさんの家のすぐ隣にある。外見は質素な煉瓦造りで、なのに中はばっちり防音されていて、音はカケラも漏れない。
おばさん曰く、手品の種は絶ッ対に明かしちゃいないとか何とか、意味はよくつかめない。
歌い終わると、お風呂に入る。
おばさんが躰の隅から隅まで、丁寧に洗う。恥ずかしいとか、そういうことは思わない。だってこれが当たり前だから。あたしはお人形なんだと思う。さながら、おばさんは小さな女の子で、あたしというお人形で飽きずにずっと遊んでいる。
腕を上げれば、おばさんは指の先まで綺麗に洗って、足を上げれば、脚の指の間まで綺麗にしてくれる。髪の毛は特に丁寧に、時間をかけて生え際から毛先まで洗う。おばさんは泡だらけになりながら、だけどとても嬉しそうだ。
お風呂が終わると、今度は爪から無駄毛から、一点の曇りもないように磨き上げられる。傷のひとつでもあろうものなら、おばさんは慌てながら丁寧に手当てしてくれる。
あたしにとってここは、おばさんは、絶対的に安全だ。
あたしを傷つけることはない。あたしを裏切ることはない。
すっかり綺麗になったら、また塔に戻る。そしてあたしは、また歌うのだ。男を誘い入れるために。
どうしてこんなことをする必要があるのか、おばさんは教えてくれない。こういうことをして果たして意味があるのか、あたしは知らない。もしかしたら、おばさんもよくは知らないのかもしれない。
□■□
窓の外から眺める世界は、全てを見下ろしている。
木々もヒトも、建物も。全ては眼下にあるものでしかない。ここにいると錯覚してしまう。あたしはもう死んでいて、ここは天国で。醒めた眼で下を見下ろしているんだな、と。希望も期待も願いも求めるものも。何もない外の世界。
男はみんな憐れなくらい女に弱くて。誘えばすぐに飛びついてくる発情期の雄犬みたいだし。それに、おばさんも言っていた。男なんてどうしようもない屑だって。あたしの知っている男は、みんなそれに当てはまるような気がする。みんな屑で、あたしの躰にしか興味がないばかばっかり。
愛してるよ、よくそんなことばを吐く男がいるけれど。愛してるなんて、意味を知らない。愛してるって、どういうことなのか、わからない。おばさんがあたしを愛してるって言う、多分その「愛」とはモノが違うんだということは、わかる。だっておばさんは、あたしと繋がろうとはしないから。そんなの、考えただけで気持ち悪いけど。
眠いな、そう思ったから、少しだけベッドに横になった。いつの間にか、ぱりぱりの綺麗なシーツに取り替えられている。毎回ながら、おばさんの早業には驚かされる。
ゴテルおばさんは、あたしに何を望んでいるのだろう。
思って目を閉じたら、すぐそこに果てのない闇があった。
怖くなって、すぐに眼を開けた。眼の前には、冷たい石の壁。ぞっとするような、灰色。慌てて起き上がって、テーブルの上にあった水をグラスに注いで飲み干した。
気を紛らわせようと、窓辺に腰掛けて、口を開いた。
■□■
道に迷った。
どうしよう、前を見ても後ろを見ても、誰もない。ひとりで来たんだから、当たり前だが。
―――絶対迷うよ、お前。
―――絶対遭難するね。
出かける前にそう言っていたトモダチの顔がちらつく。ぐうの音も出ないとは、こういう状況を言うのかもしれない。
「ぐう、」
いや、出るには出る―――ではない。そういう問題ではないのだ。
ひとりで裏手突込みなどをしながら、ぐるりと躰を回した。
―――ここは、何処だろう。
さっきから幾度となく思うことを、もう一度思った。本当に、ここは何処なんだろう。遭難、したのだろうか、本当に。迷ったのだろうか、やっぱり。
―――俺は止めたぞ、迷っても迎えに行かないからな。
びしっと突きつけられた指が、痛い。
「ああーほんとになんでもう…」
両手で額を覆って、しゃがみこんだ。まさかそこまで薄情な友人を持った覚えもないが、こんなのでは捜しようもないのではないだろうか。自分なら、捜せない。大体、捜して簡単に見つかるような場所なら、ハナから遭難などしないのだ。
「コンパス、とか」
あるにはあるが、使いからがイマイチ理解できない。宝の持ち腐れだ。別に雑貨屋で買った安コンパスなど宝ではないと思うが。
指の隙間から、前を見た。
誰もいない、ただの獣道が続いている。たまに思いついたみたいに、小さな広場があるけれど。だからなんだというのだ。今の状況がわかるわけではない。
あああッ。
頭を掻き回しながら、唸っても、本当に哀しいくらい状況は変わらないのだが、そうしないではいられないほど、追い詰められている。昔から、メンタル面は強くないが、よくバリケードだといわれる……って、何を思っているのだろうか。
本格的に混乱してきたようだ。涙が出そうだ。18にもなろう男が、泣いたりはしないが。男の涙は見苦しいと、よく姉が言っていた。女の涙が許されるのに、男は許されないなんて不平等だと思ったが、姉は怖いので黙っていた。
ここ、本当に何処?!
―――――……
反射的に、顔を上げた。
かすかに聞こえた、歌声。鳥のさえずりとは明らかに異質の、鳥よりも美しい音。
誰か歌ってる。
誰かが、いる―――。
何も考えずに、地面を強く蹴っていた。何かあるかも、そんなことは感じなかった。誰かいる誰かいる誰かいるッ。
遭難せずにすんだ!
それで頭がいっぱいだった。
とにかく声が聞こえる方に走った。
女の、子がいた。
見上げるような高い塔の上で、歌を歌っている。
とても表現できないような、美しい声で。
「あ…」
窓の外に幾筋か。太陽に煌く金糸の、髪。
この世のものじゃないような、美しさ。
遠めにも、はっきりわかる美貌。少しの歪みも乱れもない。
ココロがざわついて。
眼が離せなかった。
どれだけ、そうしていただろう。
女の子は一曲歌い終わったらしく、ゆっくりと口を閉じた。
そして、ゆっくりとこちらを見た。
蒼い、秋の空のような。大きな瞳。
白い肌。
「だれ、」
紡ぎ出された声は改めて。
頭の奥がじんじんしびれるような声。
「あなたは、だれ」
「あ、あと…えっと」
こちらを見上げたまま、声を失っている男の子。
珍しい、あたしと同い年くらいの。
赤毛の、線の細い。
「俺は、セイン」
「セイン」
復唱して、綺麗な名前だと思った。
「き、君は?」
「ラプンツェル」
□■□
「どうして、そんなこところにいるの?」
至極ごもっともな質問。だけど、いままでの男は、誰もそんなこと訊かなかった。
誰も、あたしはここにいる、それが当たり前だと。意味もなく理由もないくせに、決め付けていた。
「ここに、いるから」
「え?」
「あたしはここにいるから、ここにいるの」
あたし自身、何を言っているのか良く理解できなかったけど、だけど、それが真実だから。
あたしはここにいるから、ここにいる。
理由なんて、そういえば、あたし自身も知らない。あたしのことなのに。変だな、今更そんなことに気付くなんて。
「ここに、来て?」
いつもと同じ台詞。いつもと同じシチュエーション。だけど、どこか違う。何処かなんて、わからないけれど。
「来て、」
「でも、どうやって?」
あたしは髪を垂らす。セインはびっくりして、あたしを見上げた。何に驚いたのだろうか。髪の長さ? 髪を伝って登るって言う、非常識な方法?
「俺、」
髪に触れて、セインは戸惑ったように。
「髪を伝って来て」
それしか手段はないの、そう言うように。縄はしごは、ベッドの下に隠してある。それにしても、どうして髪を垂らすなんて方法なのだろう。はしごの方が安全だし、痛くないし。合理的なのに。
そう言ったらおばさんはきっと、不安定な方が男心をくすぐるんだよ、とか。そんなことを言うのだろう。男心はくすぐられても、あたしの髪はぼろぼろだ。
「良い、の?」
頷くと、セインは恐る恐る髪を掴んで、体重を乗せた。思いのほか、軽かった。
セインはするすると登ってくる。窓枠に手をかけると、髪を離して、後は自力で登ってきた。
「大丈夫?」
髪のことを、言っているのだろう。大丈夫と、あたしは微笑って返す。
「、そう」
何故か哀しそうな顔をして、セインはひょいっと窓から入ってきた。
セインの後ろに、小さくゴテルおばさんが見えた。
すうっと、体温が下がって。そうなんだって、思った。
「ずっと、ここにいるの?」
当然後ろには気付かないセインが、問い掛ける。あたしは、頷く、少し哀しそうに。本当は哀しくなんかないくせに、そう言うフリをする。
「淋しく、ない?」
頷く。
今度は素直に。だって、ここと比較する場所を知らないから。哀しむ方がおかしいじゃない。それって、正論でしょ?
「ずっとここだから、平気」
なんで、そんなことを言うんだろう。
ひとりは、淋しいに決まってる。決め付けちゃいけないけど、ひとりが淋しくないわけがない。
「ラプンツェル」
今自分が伝ってきた髪の、生え際の当たり。触れようと手を伸ばすと、彼女はぴくりと反応した。一瞬手を引っ込めるけど、構わずに、触れた。
柔らかくて、滑らかな。
ラプンツェルは顔を紅くして、俺を上目遣いで見た。
いとおしい、反射的に、そう思った。護りたいと。それはとても身勝手な、自分勝手な思いで。ラプンツェルにとっては、迷惑でしかないこと。
だけど。
「しばらく、ここにいても良い?」
髪から肩へ。
躰を引き寄せた。
見た目以上に細くて、折れてしまうそうだった。
「うん、」
腕の中で、ラプンツェルが頷いた。
初対面で。そういえば、俺ってば初恋もまだで。
全然知らないのに。なのに、何故か苦しいほどに、いとおしい。ずっと傍にいたいとか、離したくないとか。
思う。
こんなの彼女が知ったら。迷惑だ、なんて勘違いしてるのかしらって、嗤うだろう。
男ってタンジュン。自分も男なのに、そう思った。
男ってタンジュン。
セインの躰は、当たり前に男のヒトの匂いがした。暖かい、体温。これも、今日までの灯火。
窓の外。もうゴテルおばさんの姿は見えない。
躰と躰の間を腕一本分くらい離すと、顔を見上げた。近くで見ると、セインはもしかしたら年下かもしれないって言うくらい、幼い顔立ちをしていた。
顔が近づいて。セインしか見えなくなって。
キス。
わかりきった、慣れきったシチュエーション。頭の中で、これからの動作をシュミレーションする。
だけど、それに反して、セインはそれっきりだった。ベッドにもつれこむなんてことしないで。また抱きしめた。
ありえなかった反応にびっくりしたけれど、それでも気持ち良かったから、そのままにしておいた。
違うの。
どこかが言った。
あたしの躰の中の、何処かが。
違うの、そう言った。
何が違うのか、わからなかったから、黙殺した。
違うの。
声はしつこく、そう繰り返した。
どさくさというか、なんというか。
再びラプンツェルを抱きしめながら、心臓の音が聞こえないかと少し心配した。ばくばくいって、壊れないのが不思議なくらいだ。
初恋、で。ファーストキスで。何でこんなに積極的なんだ、自分。心の中で突っ込む。当たり前だが、ボケも自分なので、何とも言えない虚しさが広がる。否、そんなこと、今に意識したわけでもないが。
さて。
いつまでもこうしていたいのは山々なのだが。
そうもいかないなんだろうなと、諦めが働く。
「ラプンツェル」
「なに?」
とろん、とした声。眠いのだろうか、もしかしたら。
「今日は、もう帰るよ」
「え?」
思わず訊き帰してしまった。
帰る、の?
わからない、理解できない。なんなのだろう、この状況。
今までになかった。
それだけは確か。
ちらりと覗く窓の外。ゴテルおばさんの姿はない。
「また、来てくれる?」
問うと。
「絶対」
そう言ってくれたから。
「わかった…」
さっと身を引くのも、またひとつの方法なのもしれない。
「あ、」
セインは慌てたようにあたしを振り返って。
「町ってどっちかわかる?」
髪を伝って塔から降りたセインは、手を振りながら、あたしが教えた方向に消えていった。
なんだった、のだろう。
気が抜けるような、ヒトだった。
それは確か。
今までにないヒトだった。
それも確か。
なんなのよ、一体。
生まれてこの方、喰らったことのない、肩透かし。
■□■
「どうしたんだい」
ゴテルおばさんが、心底がっかりしたように言う。怒っているのかもしれない。
「何で、帰しちまったんだい」
「気まぐれよ」
あたしは悪びれないで、そう言う。気まぐれ、確かにそうかもしれない。こんなの、気の迷いでしかない。
「一晩だけじゃなくて、少し時間をかけてみたかっただけよ。おばさんに逆らおうとか、そういうのじゃないわ」
「なら、良いんだけど」
まったく、そう言わんばかりにおばさんは息をついた。
「あんたを育てたのは、あたしなんだからね」
そんな恩を売るようなこといわなくても、わかってる。
きっとおばさんは、飼い犬に手を噛まれるなんてことば、身をもって知ってるのだろう。だから、不安なんだ。おばさんに絶対服従のあたしが、いつ裏切るかもしれないって思うと。
大丈夫よ。
あたしは。
おばさんが心配するほどしたたかじゃない。
ここをそう易々と離れられるほど、強くない。
□■□
「道に迷うって、たまには良いこともあるもんだね」
数日後、約束どおり来たセインは、笑いながら言った。今日は自分で縄はしごを持参していた。髪を伝って登るのは気が引けるらしい。はじめて、まともな髪を伝って塔に登ることに関する正当な意見を聞いたような気がする。
「ねえ、そう思わない?」
思うから、頷いた。セインは笑って、そうだよね、って言った。だけど、すぐにまっすぐな顔になって。
「外には、出ないんだ?」
塔の外。
何気ない質問。特に悪意もないだろう、ことば。
「出たいとか、思わないの」
「思わないわ」
「どうして?」
「だって、外のことなんか知らないもの。知らないから、憧れないわ」
毅然とした風に、見えたりするのだろうか。あたしの姿。
本当は、全然そんなことないのに。おかしな現象。
「あたしには、ここしかないの。生まれたときからずっと、ここしかない」
知っている外の世界といったら、塔からゴテルおばさんの家までの距離。わずかな空間、木々と、限られた動植物。後は、歌。
見上げる空はいつも違うけれど。
見回す風景はいつも同じ。
限られた世界で。
あたしはここしか知らない。何が偽りで、なにが真実でも。
「きみは、」
可哀想だね、言わなかったけど、セインはきっとそう言ったんだと思う。あたしのこと、可哀想な女だって。
思ったんだと思う。
窓際に腰掛けていたセインが、ベッドに座っていたあたしの頬に触れた。手の上に手を重ねると、セインは小さく首をかしげた。まるで死刑宣告された囚人みたいな、やるせないような、逃れられない運命を悟ったような顔。
触れた唇に、眼を閉じた。いつもの、機械的な動作とは違う。あたしの意思で。
あたしの。
ベッドに背がついて、セインの手がきていたワンピースのホックを探る。その間、何度も何度もキスを繰り返して。
頭の芯から融けていくような、奇妙な感覚。
こんなの、今まで知らなかった。
今までの男たちは与えてくれなかった。
触れる手は誰よりも暖かくて、愛撫は誰よりも丁寧で。そこには、もしかしたら「愛」なんていうものが、あったのかもしれない。
まさか。
会うのは、たかが2回目で。何があったわけでもなく、恋愛小説のように、運命感じました、何てこともなく。
ずるずると、少なくともあたしには、なにもなく。
なのに。
何だろう、この感覚。感情。こんなの、知らない。
「一緒に、出よう、」
コトの後、セインが言った。
うつぶせに寝て、あたしは仰向けで。だけど手だけは、しっかり繋がって。
「ここから、出よう」
手を握る力が、少しだけ強くなって。
「俺と一緒に、いこう」
ことばは、真実?
「あたしは、」
柄にもなく嬉しくて、良いよって、言いそうになって。ふと、何かが引っかかった。
駄目。
こんなのは、違う。
「うん、そうだね」
瞬きしながら、呟いた。
こんなのは、おかしいんだ。
こんな。
「絶対、倖せに、するから」
あたしの手を引き寄せて、セインは手の甲に口付けた。
「愛してるよ、ラプンツェル」
愛してるよ―――。
じわっと広がって、あたしのなかに融けた。
ありがとう。
そのひと言の意味。
なんだか、わかった気がする。
だけど。わかるだけじゃ駄目なの。
「乾杯、しましょう」
起き上がって、だけどセインは手を離さなくて。だけど距離は、二人を離した。それが、合図のような。そんな風に感じた。
テーブルの上の、酒瓶。
何人もの男を、
終わらせた。
あたしはそれを、無表情でグラスに注ぐ。紅い血のような液体が。
気付いて。
おかしいってこと。
はやく逃げて。
あたしを罵って。
ここから突き落として。
ふたつのグラスを持って、ひとつをセインに手渡す。
セインは何を疑うでもなく、グラスを傾けた。
「かんぱい」
液体が、セインの唇から、喉から、躰のなかに入っていく。
「―――さよなら」
飲み干したセインが、あたしを見た。
薬が効くまで、しばしの猶予。
「どうしたの?」
心底不思議そうな顔で。
「なんで、泣いてるの?」
セインの指が、あたしの涙を拭おうとして。
床に崩れ落ちた。
「泣いてなんか……、」
だけど、頬が熱い。
「泣いてなんか、いないわ」
哀しくなんか、ない。そんな感情、しらない。
「ラプンツェル」
ゴテルおばさんの声。
皺が寄った、声。
昔は、それが口癖だけど。昔が一体どれだけのものだったのか、今からじゃ想像なんか出来ない。
「大丈夫よ、ちゃんとやったわ」
あたしは出来るだけいつも通りに、意識して。
おばさんはあたしの髪を伝って、塔の中に入る。
深く眠っているセインを見て。満足そうに頷いた。
「今度は、若いねえ。顔だって、悪くない」
その表情が、今までになくぞっとしたから。
「おばさん、」
あたしは、訊いた。
「いつも、どうしてるの?」
深く眠った男たち。抱えて。
「お前は、そんなこと気にしなくて良いんだよ」
きつくないのに、頑と拒絶した、口調。
セインを抱えて塔を降りようとしたおばさんの、一瞬の後ろ姿。無防備な、まるで突き落として下さいと、そう嘆願しているような背中。背骨の浮きだった、ごつごつした背中。
あたしは手を伸ばしかけて。
だけど間に合わなかった。
おばさんはするすると、塔を降りていく。
それを見ながら、あたしは思った。
ばかみたい。
セインが? おばさんが?
違う。
あたしが。
ゴテルおばさんは塔を降りきって、木々の間に消えていった。その先には、おばさんの家。
何をするんだろう。
殺す、のだろうか。
今までの男たちと同じ末路をたどるのは明らかだけど。
―――ああ、あたしはなんて、愚かな女なんだろう。
■□■
「きみは、だれ」
歌に惹かれてきた、憐れな男。
「、ラプンツェル」
あたしはそうこたえる。
髪を垂らすと、男は無条件に上ってきた。はじめは―――ほんのはじめは警戒するけど。すぐに無防備になる。
みんな性急に、あたしの躰を求める。
繋がって、それでみんな満足して。
それ以上のものも、それ以下のものも、求めない欲しない。
あたしは何も思わずに、されるがままに、たまにリードしてみたり。
どうせ翌朝にはあたしの前から消えるんだ。
最後くらい、イイオモイ、しても良いんじゃない?
そう思う。
朝日が差し込む。
男は眠りこけて、あたしはそれを眺める。
あんたはここにいたよ、それを、証明してあげる。
「ラプンツェル」
おばさんの声。
あたしはベッドから降りて、塔の下を見下ろす。
(2002/06某日 12587文字)