self-difence
0.
きらきらちかちか、星が瞬いている。
躰の下の草がさわさわ揺れて、眠りの淵を行ったり来たりする。
頭の芯がとろりと重くて、この感覚がいちばん好きだ。
時谷夕樹はこうして夜空を見上げるのが好きだ。暑くもなく寒くもないこの時期は特に。
夢と現実の境で行ったり来たりしていると、時間の感覚なんてすぐになくなってしまう。
西の空に名残惜しそうに残っていた真っ赤な太陽はいつの間にか引っ込んで、夜の帳が下りている。だから星が綺麗に見えるんだと、今更気付いた。
ぼんやりと、薄いヴェールの一枚向こう側で。
夕樹が止まっていようとどうであろうと、世界はいつもと変わらず時を刻んでいる。
―――――ッ
何かのうめく声。
草を掻き分けて進む足音。
何事かと思って上体を起こし、足音のした方を見る。
林の木々の隙間を、ふたつの黒い影が追いかけっこをするように走っていく。
前を行く影は何度も何度も後ろを振り返っている。
夕樹は少しだけ横に躰をずらして、眼で影を追う。
何故か声をかけようとか、起き上がろうとかは思わなかった。
後ろの影が前の影に追いつき―――恐らく腕を掴む。
「きゃあっ」
小さな悲鳴。前の影は女だったようだ。すると、後ろは男だろうか―――。
女はつかまれた腕を解こうと暴れるが、影はさして動じる様子もなく、何かを振りあげた。
星月と、遠い街の灯りに一瞬だけ煌いたそれは、―――鋭利な刃物。
テレビや何かでしか見たことのない、大振りのサバイバルナイフ
反射的に耳を塞ぎ、地に伏せた。
固く耳を塞いで。
なのに、耳元で誰かが叫んだような気がした。
無意識に躰が震えて、止まらなかった。
今、あそこで何が起こった?
理解とか、そういうことではなく。感覚でわかった。
指の隙間から、足音が遠ざかる音が聞こえた。
ごろん、と仰向けになると、星がぼやけて見えた。
反動をつけて起き上がり、さっきの場所へ行く。
好奇心と興味と、怖いもの見たさと―――義務感。
行かなければならないと。
足は震えていたけれど。行かなければならないと、強く思った。
葉が滴の重みに耐えらずにしなる。
仰向けに倒れた女。
まばらな光に、誰なのか判別はつかない。
ただ、大きく見開いた瞳は暗い。
幹に葉に、土に散ったどす黒いもの―――血。
触れるまでもなく、確かめるまでもなく、女はもう生きてはいなかった。
アル中患者のように震える手で、口元を押さえる。
「――――あ、」
情けない声が、洩れた。
――――ひたっ
首筋に何かが伝った。
その瞬間、すべてが静止したような感覚に襲われた。
瞳孔が収縮する。
手の震えが嘘のように消えて。
無になったような。
しかしその中で、突き刺さるように感じる、ぎらぎらに尖った殺気。
眼球が激しく左右に揺れる。振り返ろうか、どうしようか。
しかし思考が結論を出す前に、躰は振り返り―――。
首の後ろに、息の出来なくなるような痛みが、襲った。
1.
ここ何日か、悪夢としか言いようのない夢を見る。
いつも星を見に行く河原の、すぐ裏にある林の中、女の死体。
叫びたいのに叫べない。
躰中の細胞が震えている、怯えている。
どろんとした女の眼が急にくるくる動いて、自分を捕らえ、嗤う。
最悪の夢。
夜でも昼でも、家でも学校でも何処でも。寝れば必ずこの夢を見る。嫌にリアルな、くろい夢。
「夕樹、」
ふと瞳を上げると、幼馴染みの木下真菜が覗き込んでいた。
「どーしたの? 顔色悪いけど」
「何でもない」
夕樹はそっけなくこたえると、教室を出た。
休憩時間は、学校中何処も騒がしい。
前は嫌いだったが、今は好きだ。騒がしいと眠くならないから。あの夢を見なくていいから。
便所で用を足し、手を洗う。
ふと見た鏡の中の夕樹は、確かに少し青い顔をしていた。そういえば、少しやせたような気もしないでもない。
夢のせいで?
まさか、と微笑い飛ばした。
喉の奥で、引きつるように嗤った。
数学とか物理とか、考える教科が好きだ。
つらつらと展開される数式と、教師の走り書き。
黒板と教科書を見ながら、夕樹はシャーペンの芯を押し出す。芯はすぐに出きって、ぽろりとノートの上に落ちた。
芯の出ていないシャーペンで、ノートに板書した数式を何度か叩いた。
頬杖をついた顔を窓の外に向ける。三階の窓と同じ目線にあるクスノキが、さわさわと揺れている。
平和だな、と声に出さずに呟く。
「いいかー、ここ大事だからなー!」
教師の声に前を向いて、そのまま余計なことは考えなかった。
■■■
本当に、なってない。
火ばさみで塗料のはげかけた空き缶を掴みながら、老人は怒りに満ちた熱いため息を吐いた。
この河原一帯は、掃除しても掃除しても、いつの間にかごみがあふれ返っている。
昔はこんなことはなかったのに。
黒いビニール袋を揺すって中身を落としながら、老人は首に手を当てた。コキコキと良い音がする。
ふう、と息を吐いて、老人はひと通りごみを取り終えた河原を点検がてら振り返り、林に入った。
じわりと、生ごみのような臭いが鼻をつく。
老人は持っていた火ばさみを思わず取り落とした。
昔の―――戦争の記憶が、鮮烈に蘇える。
掘り出された記憶に、膝が笑うのを押さえられなかった。
軍手をつけた手で、ぺろりと顔を拭う。
緑と赤と、黒い記憶。
老人はごみの入ったビニール袋を地に落とすと、強く地を蹴った。
しかしいくらも走らないうちに、足が止まった。
予想したとおりのものを前にして、肺が痙攣を起こしているような、息の出来ない不快感がこみ上げる。
ぐるぐると旋回する蝿。
黒ずみ始めた肌にうごめくウジ。
老人はその場に膝を折り、声にならない声で叫んだ。
■■■
放送がかかり、授業途中だった教師たちがばたばたと廊下を走っていく。
その尋常じゃない様子に、生徒は耳打ち声高に仮説を立てる。
(変質者が出たんだよ)
(不発弾が見つかったのよ)
(どっかが火事になったんじゃねえの?)
(富士山の噴火とか?)
(殺人事件だってば)
今日は早く帰れるかもしれない。
シャーペンを回しながら夕樹は思った。
だとしたら、理由はどうあれ、ラッキーなことだ。
とりあえず、教師が戻ってくるまで。
我関せずと言わんばかりに、机に突っ伏した。
ざわめき、足音。
心地よい音の群れ。
ばれちゃったな。
小さな驚きと哀しみと。
彼は、どうだろう?
視線の先の時谷夕樹に、声に出さずに問い掛ける。
―――――ねえ、どう思う?
彼は、どうこたえるだろう。
教師に戻ってきた教師は、しきりに額の汗を拭いながら、事を語った。
学校からそう離れていない河原の近くにある雑木林で、死体が発見されたらしい。
「死体」という単語に、ざわめきがいっそう大きくなり、誰かが叫んだ。(ほら、言った通りだ!)
教師は注意すること、二人以上で帰ることを伝えると、またさっさと教室を出て行った。廊下で合流した教師と顔を見合わせ、首を振りながら肩を竦めていた。
「とーきや」
一緒に帰ろうぜ。
「やけに嬉しそうだな、川下」
既にリュックを背負って、満面の笑みの川下幹也に、夕樹は呆れたように言った。
「だって、こんなチャンスめったにねえって」
からから笑いながら、川下は心底嬉しそうにばしばしと夕樹の背中を叩いた。
「なんかさ、俺ら高校生になってからあんま遊んでねーじゃん? いい機会だからさ、遊びに行こうぜ」
「先生の見回りでてるんじゃないか?」
「そんなもん怖くて高校生なんてやってらんないって」
大げさに顔の前で手を振りながら川下が言った。
夕樹は少し考えて、頷いた。
「まあ、良いかな」
「やっりー」
語尾にハートの伺える調子で、川下は夕樹を急かした。
「ほらほら、善は急げってね」
街に出ても、噂されているのは雑木林の死体のことだった。
クレーンゲームに没頭する川下の足元に座り込んでジュースを飲みながら、夕樹はちらちらと周りを見ていた。
なるほど、この事態を「いい機会」と見るのは自分たちだけではないようだ。周辺の中学高校の生徒が、ありとあらゆるところでぞろぞろとたむろしている。
殺人事件―――。
活字か、もしくはブラウン管の中でしか知らない出来事が自分たちの街で起こった。それはとてもショッキングな出来事であると同時に、遊びの口実にもなり得る。そのうち何処かで「あの場所は今」みたいな企画が立ち上がるかもしれない。
「ッあ―――!!」
絶叫とともに背中のクレーンマシーンがずん、と揺れて、川下が隣に座った。夕樹のジュースを奪うと、残りを一口で飲み干してしまう。
「……おい」
「あーもー、駄目だなチクショウ」
抗議の目を向ける夕樹などお構いなしに、川下は頭を抱えてもんどりうっていた。
ときどき洩れることばの断片からして、どうやらスったらしい。
「何も考えないから…」
「久しぶりすぎて、なんだ…こう、感覚がおかしいんだよ」
パントマイムでマシーンを操る動きをしながら、川下は続ける。
「俺はさあ、これでも中坊時代は「クレーンの川下」って呼ばれるほど凄かったんだぜーいやまじで」
「聞いたことないけど」
「それがさあ、やっぱり、中学でてから半年のブランクはでかいよなあ…感覚が全然わかんないのよこれが」
「先月も行ったじゃんゲーセン」
「あー、それともやっぱりあれか、スランプって奴か? はあーついてねー」
「スランプも何も…―――て、いったいなあ、何すんだよ川下」
「おまえはさっきから横でぐだぐだと本当のことを言いやがって……」
「あれ、素直に認めるんだ?」
「ぐ…まあな。とにかくさあ、こういうときこそ嘘を真にしてくれよ…こう、ブルーな気分を吹き飛ばすために」
「何言ってんだか」
夕樹は立ち上がって、財布の中身を見た。
そんなに多くはないが、千円くらいなら突っ込めそうだ。
「ナニナニ? 時谷もやるっけ、こういうゲーム?」
百円硬貨を入れると、「1回」のところに赤いランプがついた。
少し考えて、「1」のボタンを押す。
「やったことないけど、―――っと」
膝立ちでマシーンにひじをついて、川下がウインドウの中を覗き込む。
もう一度「1」のボタンを押すと、クレーンが縦移動を止める。次に「2」のボタンを押す。川下がやっていたのを散々見てきたので、ここら辺の感覚は初めてでも良くわかる。
「なんというか、興味…かな」
絶妙のタイミングで「2」のボタンを押す。下にはおどけた表情のクマのぬいぐるみ。
がっぱり口をあけたクレーンは、クマの首の括れをがっちり掴んで、上に引き上げた。
「お、お、お、おー」
川下が変な声を出している。夕樹はクレーンをじっと見つめた。クマは何の表情の変化も見せずにクレーンに運ばれていく。
「行けッ」
ぽとん、
突っ張っていた糸が切れたように、夕樹は息を吐いた。
下の取り出し口からクマを出すと、川下に渡した。
「どう?」
「悔しいけど、おまえ上手いな」
クマとにらめっこしらながら、川下がうなった。夕樹はさっきみたいにずるずると座りこんだ。
「いっつも川下がやってるの見てるから」
「お、いいこと言うねえ」
「それほどでも」
「―――と、そろそろ帰るか?」
川下が時計を見て言った。
5時30分。
妥当な時間だ。
「そうだな」
クマを受け取って、夕樹は川下に手を引っ張られて立ち上がった。
いつの間にか、ゲームセンターの中には学生の姿がちらほらになっている。
自動ドアの向こう側では、雨が降り始めていた。
「うは、ついてねー」
空を見上げながら川下が呟き、夕樹も頷いた。
雨は土砂降り。季節は秋のはじめ。濡れて平気かどうか、判断しかねるところだ。
「通り雨とか、じゃないよなー」
「たぶんね」
夕樹と川下は顔を見合わせ、ため息を吐いた。
「ついてねー」
「それはさっきも言ったよ」
「………走って帰るか、」
「じゃ、俺あっちだから」
「また明日な」
「うん、」
夕樹はクマをリュックに入れた。ふたりは軽く足首を回すと、強く地面を蹴った。
■■■
降りしきる雨が冷たくて。
涙が浮きだって感じられた。
苦しいよ。
哀しいよ。
だけど。
笑ってる。
壊れてる。
おかしいな。
ね?
■■■
雨が冷たい。
ついこの間まではぬるま湯のような雨だったのに。
地面で跳ねる水は容赦なく靴の中、ズボンの裾を濡らす。
ゲームセンターから夕樹の家まで、ダッシュで走っても軽く10分はかかる。常にダッシュなど出来ないのだから、15分以上と見て良いだろう。
途中何度か軒下に入って雨宿りしながら、何とか後半分のところまで来た。
躰の芯まで濡れて、寒い。
だけど、ここで立っている方がずっと寒い。
走り出そうと構えた、そのとき。
ひとつ先の十字路を左に曲がったところから何かが流れてくるのが見えた。雨に紛れて薄まって、だけどその色彩は眼に焼きつくような。
―――血?
夢を思い出す。
毎日、何度も見る悪夢。
まさか、鼻で笑って。だけど、雨の中をゆっくり歩いて、そこに近づく。雨が躰を強く打つ。睫毛に引っかかった雨の粒が視界をぼやけさせる。
近づくにつれ色彩は大きくはっきりしてきた。
雨の匂いに混じって、錆びた金属の臭いが鼻をつく。
塀の角に手をかけ、覗く。
赤い物体が、そこにあった。
しかし、夢とは決定的に違う。
「―――ネコ?」
横向きに倒れて、内臓が全部抉り出されて。眼球が内臓の中に乗っかっていた。眼球は白く濁って、何処を見ているのか、何処を―――まるで夕樹を見ているような。
口元を押さえて、眼を引き剥がした。
だけどもう遅い。映像はばっちり記憶に焼き付けられた。
そのまま臭いのしないところまで、何も考えないように走った。
家にたどり着いても、誰もいなかった。
父は会社、母はパートで、姉は大学に行ったまま。
濡れた躰を引きずるようにトイレに入り、吐いた。何も吐くものがなくなるまで。最後には黄色い胃液を吐いた。
眼は充血して涙ぐんで、頭はガンガンしていた。
「―――くそっ」
トイレの壁を殴りつけ、また吐いた。
2.
繰り返される夢。
ネコの屍骸。
何かが狂い始めている。
否、既に、当の昔に狂っているのか。
頭が割れるような頭痛。
吐き気。
こんなに気分が悪いのに、熱がないなんて詐欺だ。
屋上。
風通しが良くて、夕樹はここが学校でいちばん好きだ。
この街には特に高い建物もないので、高台にある学校の屋上から見えるのは、遠のき始めた空だけ。
背後のスピーカーから、大音量のチャイムが鳴り響く。機械の、単調な音。
「行かなくて良いの?」
声に振り返ると、入り口の日よけの上に、たぶん同級生の女の子が座っていた。逆光で、顔はよく見えないけど、たぶん綺麗な顔をしている。
膝上まで余裕で折ったスカートに、組んだ細い足には大きすぎるようなルーズソックス。手入れされた爪に、タバコ。
「あんたは良いわけ?」
訊きかえすと、女の子はあいた手でタバコを指差した。
「これが見えないの? いいんだよあたしは、」
「差別だな」
女の子は声を出さずに笑うと、ひょいっと飛び降りた。ただでさえ短いスカートがひらめいて、中が覗いた。
意外にも白だ。
「何処見てんだよ」
「見せるためにそんな短いのはいてるんじゃないの?」
夕樹の指摘に、女の子はまあそうだけどね、と苦笑いしながら頭を掻いた。
「あんた変な奴だな。あたしは日向涼子、あんたは?」
「時谷夕樹。―――ヒナタって、6組の?」
「知ってる? あたしも有名になったもんだね。そう、そのヒナタ」
1年6組のヒナタ、と言えば、校内でも1、2を争うとまで言われたはぐれ者。校則なんて存在そのものを否定するような服装、授業も日数ぎりぎりしか出ない。しかし、外見はどこぞのアイドルなんかよりもずっと良くて、成績も上から数えた方がはるかに早いと言う―――矛盾した生徒。でもそれより、「はぐれ者」なんて今ごろ死語じゃないのだろうかと夕樹は思う。
「ところで、本当に授業出なくていいの?」
「別に、1回くらいサボったって平気でしょ、現国だし」
ほんとに変な奴、と涼子は微笑った。
「マジメちゃんかと思ってたよ」
「思って「た」?」
「ん、あんた実は校内でも目立ってるからね、3組の不思議くん」
「そんな風に言われてるんだ」
「まあ、ごくごく一部でね」
屋上のフェンスに指を引っ掛けて、涼子は振り返らずに訪ねた。
「こないだ、殺人事件って、あったじゃん?」
涼子が何を言い出すのかわからなくて、とりあえず夕樹は肯定しておいた。
「あったけど、それが?」
涼子は隣に座った夕樹をちらりと見て、息を吐いた。
「―――やっぱやめた! 何か嫌だし」
「何がだよ」
「何でもない、気にしないで」
「あ、そう」
別に気にもならないので、それ以上追求はしなかった。
肩越しに見下ろした校庭では、男子がサッカーをしている。女子はその横でバスケ。赤と青のゼッケンが眼に鮮やかだ。
「ヒナタさんはさあ」
「呼び捨てで良いよ」
「じゃあ、ヒナタはさ、なんで授業に出ないの? せっかく頭良いのに、もったいないでしょ」
「別に、あたしは頭良くなんてないよ」
「謙遜?」
「事実。それに、授業なんて別に面白くないし。勉強好きじゃないし。それにあたし大学行く気もないから」
「卒業したら就職? カッコイー」
「ばかにしてない?」
「全然、素直な感想だって」
のほほんと否定する夕樹に、涼子はくすくすと微笑った。大人びた顔つきなのに、笑顔はとても幼く見えた。
「まあ別に、良いけど」
くわえていたタバコを落として、もみ消して、足を伸ばして座った。つま先を開いたり閉じたり。膝についた腕は白くて細い。夏の余韻なんて感じさせない肌。
「なんていうかな、嫌なんだな。型にはまっちゃうのが」
「楽なのに、」
「嫌だ」
「そう」
「あたしがもし型にはまったような人間だったらさ、一瞬でもあんたと一緒になんかいないって」
「どういう意味?」
「、あ、あーあー、なんでもない、ごめん」
パッケージから新しいタバコを取り出して咥えると、胸ポケットから出したライターで火をつけた。ふうっと吐き出した紫煙は、何処に行くのだろうかと、ふと思った。涼子は夕樹に箱を向けて、言った。
「いかが?」
「いらない」
「未成年だから?」
「うん? そんなんじゃないけど、―――いや未成年だけど。何かあんまり、タバコとか吸いたいとか思わない」
「ヘンなの」
「どっちが?」
「あんたが」
「ありがとう」
「誉めてないから」
耐えられないといったふうに、涼子はふきだした。
「やっぱ、あんた不思議くんだな」
夕樹は小さく肩を竦めた。
涼子の吐き出した紫煙が、不自然に青い空に溶けた。
「さて、と」
「何処行くの?」
「昼飯食いに。一緒に行く?」
「いいよ、弁当あるし、遠慮しとく」
「そう、じゃあねー」
ひらひら手を振りながら、涼子は屋上から去っていった。
「不思議くんか…」
頬杖をついて、呟いた。
「ヘンな感じ」
そう呼ばれてるなんて、知らなかった。
チャイムが鳴るまであと20分くらい。静かな屋上、いい天気。このまま寝るのも良いけれど。
保健室に行ってました、とでも言って、授業に混ざる方が妥当な気がした。
立ち上がると、突風が吹いた。
よろめいて、フェンスにぶつかった。
ばらばらと眼にかかった髪が太陽に透けて、赤く見えた。
現国の榊は、授業は面白くないが、あんまりごちゃごちゃと聞いてこないところが好きだ。
「気分が悪かったんで、保健室に行ってました」
明らかに嘘だとわかるような夕樹のことばにも、面倒なことは何も聞かずに、「わかった」とだけ言った。
もうノートを写す気にもならなくて、申し訳程度に教科書とノートを広げただけで、あとは昨日授業でやった数式をノートにつらつらと書いていた。
残り15分と言うだけあって、あっという間にチャイムが鳴った。
ぼーっとしている夕樹に、真菜が声をかけた。
「ちょっと、もー昨日からなんなの?」
「真菜か、別に。何か用?」
「いやーね、ぞんざいな態度。―――お弁当、忘れたでしょ? 朝おばさんが慌ててたわよ」
ことばに、ごそごそと鞄を漁った。―――確かに、ない。
「ありがとう」
「はい、今の台詞、おばさんにもちゃんと言っとかなきゃ駄目よ」
受け取りながら、空返事を返した。
「んー、」
「ねえ、ついでだし、一緒に食べてもいい?」
「……イイケド」
真菜はいそいそと椅子を取りに席に戻った。
「らぶらぶ?」
「気持ち悪いから、そういうの」
背中に張り付くように呟いた川下に、夕樹はぼそりと呟き返した。
「そんなふうに言わなくても良いじゃん……ねえ、僕も一緒に食べても良い?」
「その一人称やめるなら良いよ」
「つれないな、相変わらず」
「どうも」
「だから誉めてねえよ」
「おまたせ…て、あれ? 川下くんも一緒?」
「俺が一緒じゃ嫌?」
「ううん、別に」
椅子に座ると、膝に鞄を乗せて、真菜は笑顔で首を振った。
「嫌なら嫌って言って良いんだぞ、川下には」
「うわ、ひどっ」
オーバーリアクションのせいか、川下の口からヤキソバパンの残骸がぱっと散った。
「あ、ごめんなさい失礼しました」
慣れているのか、川下はさっと取り出したハンカチで机を拭いた。
「突っ込み体質なのはわかるけどさ、食べてるときくらい静かにしたら?」
「なんだか今日の時谷くんはいつもにもましてクール」
「あ、川下くんもそう思うよねー」
黙って食べていた真菜が、ここぞとばかりに話に加わった。夕樹をほっぽり出したまま、ふたりは夕樹ネタで「ねー」などとハモっている。
「ねえ、木下さん」
すぐ横で食べていたクラスメイトが、真菜に声をかけた。
川下と話していた真菜は、ん、と顔を向ける。
「そこ、7組の湊さんが呼んでるよ」
座ったまま背筋を伸ばして、真菜は後ろの扉を見た。そこに湊を発見すると、「ちょっとごめんね」と弁当を置いてそそくさと机を離れた。
「なんだろ、な」
興味津々な川下の肩越しに遠慮がちに見ながら、夕樹は「さあ、」と気のない返事を返した。
7組の湊と言えば、生徒会役員をしているとかいう、リーダー格の人物だ。その湊と、真菜に繋がりがあるとは、夕樹は今の今まで知らなかった。―――別に、だから何だのレベルで、特に興味はないが。
ただ気になったのは。
湊がちらちらと夕樹を見ていたこと。決して、好意的な視線じゃなかった。
「ナニナニ? なんだったの?」
戻ってきた真菜に、川下は身を乗り出して訪ねた。
「ん、んー」
真菜はちらりと夕樹を見た。さっきの湊の視線と同じ。人を不快にさせるような、嫌な視線。
「なんでもないよ、生徒会でなんかやるみたいだけど」
「ふーん、」
川下は興味を無くしたのか、背もたれの寄りかかって、天井を向いた。
「生徒会で何をするの?」
「、さ…さあ?」
夕樹の問いに、真菜はちらちらと視線を左右下に泳がせた。
嘘つく練習した方がいいよ、そう言おうとして、やめた。
空気が固かった。
特に女子からの。
廊下を歩いていても、教室にいても。
帰るときも。
何かが動いているんだと思った。
夕樹の知らないところで、夕樹に関わることで。
3.
かごめかごめ
かごのなかのとりは
いついつねやる
よあけのばんに
つるとかめがすべった―――――
女の子はウワサが大好き。
それが日常的じゃなければ、なおさら。
澄んだ水に小石を投げ込むように。
小石が水底の泥を巻き上げるように。
ウワサは広がって、漂って。
自由自在にかたちを変えながら、いつまでもそこにある。
あの夜、雑木林で。
死んだのは学校の生徒で。
一体誰が殺したんだろう?
誰に殺されたんだろう?
皆で輪になって、笑いながら怖がりながら。
ウワサは大きく成長しながら。
―――――うしろのしょうめんだれ
■■■
「女の子に嫌な眼で見られることほど、男としていたたまれないものはないよなッ」
「川下に言われると凄い実感がわくよ」
放課後。
教室でひとりで自習をしていた夕樹の背後から肩を抱き、うんうんと川下が頷いた。こちらは既にリュックも背負い、帰る気満々のようだ。
「―――って、それどういう意味?」
「実感こもってるな、て意味」
視線を英語の教科書に落としたまま、夕樹はさらりと流した。
「時谷は、気にならないの?」
「何が?」
「昼からずっと、お前に対する女子の視線きつくないか?」
「そう? 全然」
そんなことを言うなら、入学当初からあんまり良い眼で見られていないような気がするが。
小さく肩を竦めながら、教科書の和訳を進める。この範囲は、明日夕樹が当たるところだ。何と言われても良いように、徹底的に予習しておかなければならない。下手な間違いを犯した日には、授業の半分を割くほどに延々と個人攻撃を食らわされることになる。そんなのははっきりごめんだ。
「なあ、この「that」てさ、関係代名詞だっけ?」
「俺に英語訊かないで。訊くんなら日本史とか古典とかさ、そういう文系のを訊いてよ」
夕樹はばりばりの理系で、川下はばりばりの文系だ。来年の文理選択では、間違いなくクラスが分かれるだろう。
「むー」とシャーペンの頭を軽く噛んで、考える。先行詞は、文型は。
「―――そういえば、何か用があるんじゃないの?」
自分的に結論を出して、教科書の部分に蛍光マーカーで印を入れる。後から教務室に訊きに行かなければならない。
「用がないなら、俺教務室行くけど」
「用っていうかね」
川下は夕樹の机の上に置いてあった英和辞典を手に取ると、ぱらぱらとページをめくった。しばらくもしないうちに、「はい」と夕樹に手渡す。
「俺からのアドバイス」
「「paradox−自己矛盾の言動」―――ねえ…これどういうこと?」
「素直に生きようねってこと」
「わけわかんないけど」
「我慢は美容にも悪いし、健康にもよくないしね」
「だから、なに?」
「無理しないで、辛いなら辛いって言えよ」
辞書の文字をもう一度目で追って。
「じゃあ、そのときはよろしく」
「おうよ!」
ガッツポーズでこたえて、川下は教室を出て行った。なんだか微笑ってしまうのは、川下のキャラクターのせいだろうか。
「自己矛盾、ね」
辞書を閉じて、机の上に置くと、教科書を持って立ち上がった。
5時30分。教師はまだ残っているだろうか。
「時谷くん」
出ようと思った扉から、7組の湊が顔を出した。驚いて一歩身を引くと、湊はするりと教室の中に入ってきた。
「ちょっといいかな」
夕樹は教科書で駄目なことを無言でアピールしようとしたが、無駄だと思って「いいけど」と返した。
湊は後ろにふたり女の子を連れていた。ひとりはおどおどしたような眼鏡の子で、もうひとりは体育会系な。いかにも、というようなかんじの二人組みだった。
湊はノーフレームの眼鏡をかけていて、ストレートパーマをかけているのだろう髪の毛は黒くて長くて。涼子ほどではないが、綺麗な顔立ちをしている。すっきりしていて、日本風というか、そんな感じだ。
「時谷くん、このあいだ殺人事件があったの、知ってるよね?」
「それは、―――うん」
「その日に、時谷くん何処にいたの?」
「何処って―――」
記憶の糸を手繰り寄せる。いくらもしないうちに、壁にぶつかった。
「その―――殺人事件自体、いつ起こったのか知らないし」
死体が見つかったのは、死んでから何日も経ったものだと聞いた。具体的な日時など、聞いていないし知らない。新聞なども、この事件は記事になっていないようで、夕樹はいまだお目にかかっていない。
「10日前。殺された子は見つかる5日前に死んでいたらしいって」
「―――なんで、そんなこと知ってるの?」
当然の夕樹の問いに、湊は近くにあった机に座って、足を組んだ。膝に近いハイソックスを穿いている。
「警察関係には私の父の知り合いがいるの」
「そう、」
10日前。川下とゲームセンターに行ったのが5日前。それ以前。
「ごめん、よく覚えてないや」
湊は小さく眉を上げて、そう、と呟いた。
半袖の開襟シャツから出た細い腕の肘を抱いて、ゆっくり躰を前後に揺らした。
「見たって言うの」
「なにを?」
「あの日あなたが―――雑木林から出てくるとこ」
「―――え?」
湊が何を言っているのか、夕樹は数瞬理解出来なかった。
―――見たって言うの
―――あの日あなたが雑木林から出てくるとこ
「、何が言いたいの?」
「事実よ」
「で、でも俺、誰か死んだかも知らないし」
「どうして慌てるの?」
くすりと嗤う。嫌な笑い。息苦しい空気。
「死んだ子はね、この学校の子なの」
まだ公表されてないけど。
瞳を伏せて、言う。まるで哀しむように。しかしすぐに上げた瞳は、そんな感情微塵も見せない。
「―――この子がね、見たって言うのよ」
くいっと、顎で後ろの眼鏡の子を示して。
「ねえ、」
「う、うん…」
「もし―――もしそうだとして、だからなんなの?」
教科書を閉じて、両手でいじりながら問う。出来るだけ笑顔で。
「こんなこと言いたくないんだけど―――」
そう良いながら、湊は膝を持ち上げた。太腿ぎりぎりまでスカートがまくりあがる。
夕樹を捕らえた瞳は、レンズの奥でまっすぐで。
「ねえ―――あなたが、殺したんじゃないの?」
■■■
―――あなたが、殺したんじゃないの?
突きつけられたことば。
いつもの自分なら、何を言ってるんだろうとさして気にもせずに、適当に受け流していただろうに。
何故か気になった。
何故か。
たぶん、あの夢があったから。
「時谷、おい時谷ッ」
不意に現実に引き戻されて、夕樹は瞬きした。
「だいじょぶ?」
「あ、あーえーと…」
何か応じる言葉を捜すが、見つからない。頭を掻き始めたところで、川下が止めに入った。
「あーもー良いよ、俺が悪かった」
「あ、うん」
「そこは否定してくれよ……」
「ごめん」
はあ、とため息をついて。
「何があったんだよ、変だぞ昨日以上に!」
「俺は変人だから良いよ」
「開きなおるなよ…」
「んー」
机に突っ伏すと、隣に頬杖をついた川下が棒読みするように言った。
「オカシイヨーアタマネジキレテルヨー」
「何のモノマネ?」
「オリジナル」
「川下のほうが変人だよ」
「失礼な、俺は奇人だ」
むっとした返答に、沈黙。
はあ、と今度は夕樹がため息をついた。
「俺って……殺人者に見える?」
「はあ?!」
突っ伏した格好のまま、目線だけひょっこり上げて、夕樹が問う。素っ頓狂な声をあげた川下の反応は、ある意味当たり前だろう。
「何言ってんのおまえ」
「何って、素直な疑問」
「疑問ねえ……それってさあ、女子の言ってることと関係してるわけ?」
頭の上で、腕でバツを作る。
「そこは黙秘権を行使します」
「あーそうかい。別に―――そんなふうには見えないけど。ていうかおまえ、蚊だって潰せねーじゃん?」
ごもっともだと、自分自身で頷く。どうしても、殺せないのだ。蚊でも名前を知らないような虫でも。なんでも。
「殺人者ってさ、あれ? あの殺人事件の?」
「………」
「あの殺された子って、うちの学校の子らしいじゃん」
「知ってるんだ?」
「知ってるっていうか…まあ、おんなじ部活の子」
「むちゃくちゃ知り合いじゃんそれ」
「ていうかなー、もともとあんまり学校に来ない子だったし」
まあ、いわゆる「不良」ていうか「問題児」ってヤツ?
「だから、死んだら死んだで、学校側も喜んでるかもしれないなー、とか、思う。だからほら、記事とかになんねーじゃん、この事件。うち私立だし、そういうのすっげえ嫌ってる節とかあるし」
「それはないと思うけど。確かに記事やニュースにはなってないみたいだけど、さすがに酷すぎるよ」
「ま、当たり前けどな」
憤然と鼻で息を吐いた川下に、夕樹は思ったことを何も考えずに言う。
「好きだったの? その子のこと」
川下はふんぞり返るように腕を組んで、視線を夕樹とは反対に泳がせた。
「だったカモ、しれない」
「そう…、許せない? 殺したやつ」
「俺が殺すかもしれないって言うくらいかな。すでにメーターは振り切れちゃってるし」
「その子―――」
「ん、」
俺が殺したかもしれないんだって。
言おうと思って。
「なんでもない、デス」
だけど、川下の顔を見てたら言えなかった。
怖いとか、そういうことじゃなくて。
言えなかった。
「夕樹、ここにいたんだー」
がらっと扉を開けて、夕樹を指差して、真菜が肩で息をしながら言った。
「指差すなよ」
「あ、ごめんごめん」
慌ててその手を後ろに引っ込めて、笑った。
「で、なに?」
「ちょっと良いかな、時間」
夕樹と川下は顔を見合わせて。
「俺お邪魔虫かしら?」
そう言った川下は、もういつもの川下で。夕樹もいつものように返す。
「―――さあ?」
「あ、川下くんもいて良いよ」
「んー、でもねーそう言われるとねー」
川下は立ち上がって、自分の席からリュックを取ると、ちゃっと敬礼した。
「うん、俺帰るわ、気が向いたら戻ってくるかもだけど」
「ん、さいなら」
手首から先だけふらふらさせて、挨拶代わり。
「悪いことしたかな」
さっきまで川下が座っていた席に座って、真菜が訊いた。
「さあ? 良いんじゃないの?」
「夕樹ってさあ、いっつもなんていうか…どうでも良いっていうか適当っていうか」
「それが俺の個性だから」
「あー言ったらこう言うし」
困ったように息を吐いて、真菜はまっすぐ夕樹を見た。
「湊さん、来た?」
「その話題は避けたいんだけどナ」
「来た、んだ」
真菜は、顔の前で手を組んで離して、考えるように視線を泳がせて。
「実際、どうなの? 違うよね?」
「、さあ?」
絶対違う、そうはっきり言い切れないのが厄介なところだ。言い切っても良い状況にあるのに、言えない。
あの夢のせい。
あまりにリアルで、臭いとか感触とか、全然鮮明で、腹が立つくらい覚えてるから。
ときどき、現実との境がわからなくなるから。
「夕樹さ、よく河原に星、見に行ってるよね」
「…うん」
だけど、事件が起こって以来、行ってない。殺されたという子が死んだ日からずっと、行ってない。前は3日と開けずに通っていたのに。
どうしてだろう?
「最近行ってないでしょ? なんで?」
どうやら、真菜も同じことを思っていたらしい。
「なんでって…気が進まなかったからじゃないの?」
「避けてたんじゃなくて?」
そのことばが思いもよらぬところに突き刺さって。
「―――わかったよ、真菜も俺のことヒトゴロシにしたいんだろ?」
何かが切れた。
「な、そんなこと言ってないじゃない。私はただ……」
「昨日湊にもそんなこと言われたよ」
突っ伏して、耳を塞いで。何も訊かないように見ないように。
なのに本当は、全部聞こえている見えている。
これが今の夕樹自身と現実の距離なんだと、思った。
夢とか現実とか。
殺されたとか殺したとか。
そんなの自分には全然関係ないと思っていたのに。
何処で。
何処で歪んだのだろう。
―――この子がね、見たって言うのよ
何を?
―――あなたが雑木林から出てくるの
どうして?
夕樹はそんなこと覚えてない。
河原に行ったのかどうかも、わからない。
なのにどうして見たという人がいる?
―――う、うん
あの子は確かにおどおどしていたけれど、嘘をついているようには見えなかった。
それが真実だから?
事実だから?
ならどうして、夕樹自身は覚えていない?
たかだか10日前のこと。
しかも何気ないものではなくて、殺人事件という特殊なケースで。
覚えていないはずなんてないのに。
夢。
女の子が死んでいる夢。
河原の裏の雑木林で。
今まで考えもしなかった可能性。
もしかしたら、作り変えていただけかもしれない。
自分で、現実を夢に。
ばかな。
だけど、何処かで完全に否定できなくて。
笑い飛ばせなくて。
「真菜」
顔を上げて。
「ちょっと付き合って」
だったら、自分の眼で確かめに行くしかない。
夢か現か。
面白いことになった。
彼になら、見つかってもいいかもしれない。
彼は、思い出すかもしれない。
小さく嗤って。
そんなことを、思う。
4.
校門を出てきたふたりに、ふと足を止めた。
声をかけようと思ったが、やめた。
雑木林の方に向かっていたから。
―――3組の時谷くんがね―――
耳元で蘇えるのは、女子のウワサ。
―――俺って、殺人者に見える?
夕樹の問い。
ぎゅっと、胸の前で服を掴んだ。
息を吸って吐いて。
まっすぐ前を見据えた。
■■■
雑木林。
薄暗くて、湿っぽい。肌寒いのは日が落ちているからかも知れない。
「keep out」のテープが張り巡らされた場所。見張りの警官はいない。
ちょうど良いと、紐をくぐった。真菜は戸惑っているようだったけれど、黙って夕樹についてきた。
下草が生い茂った雑木林の中。
何度も躓き転びそうになりながら、進む。何度か振り返ると、真菜は意外とするするとついてきていた。
「大丈夫?」
「夕樹こそ」
気持ち真菜の声が硬いような気がした。現場に近いからだろうか。
「緊張してる、」
「かもしれない」
ざわざわと風が渡る音。息遣い。
「夕樹、前」
「、うん」
空気に濃く残った血の臭い。
雨の日に感じた猫の血と同じ。だけど、これは猫じゃなくて。
ヒト。
ぞくりと、背中があわ立った。
「あ…、」
濃い血の臭い。
ざわめく木々の音。
葉の隙間から差し込む光。
夢と同じ。
眩暈がするほどに。
既視感というには、あまりにも鮮明すぎて。
アル中患者のように震える手で、口元を押さえる。
「――――あ、」
情けない声が、洩れた。
「夕樹、」
真菜の手が、夕樹の肩に触れる。冷たい手。嗤ったような声音。
「大丈夫?」
カメラのフラッシュをたいたような。
眼の前で起こる細かい暗転。
夢が現実に変換されて。
フラッシュバックのような。
葉が滴の重みに耐えらずにしなる。
仰向けに倒れた女。
まばらな光に、誰なのか判別はつかない。
ただ、大きく見開いた瞳は暗い。
幹に葉に、土に散ったどす黒いもの―――血。
眼を閉じたら見える。
あの光景。
抹消されていた事実。
首の後ろに、鈍痛が走った。
振り返って。
どこかが言う。
このまま振り返らずに逃げろ、また忘れてしまえ。
また―――忘れろ。夢にしてしまえ。
どこかが叫ぶ。
どちらも、無視できない。
木々がざわめいている。
口元を押さえた手がどうしようもなく震える。
歯の根が合わないで、喉が鳴る。
強く眼を閉じて。
「―――まな」
押し出した声は、震えて裏返って。
躰を支えるためについていた木の幹が冷たい。爪が食い込んで、肉が裂ける。
「なに?」
振り返っても良い?
訊きたいのに、声にならなかった。
「ねえ、夕樹―――もしかして」
いったん言葉を切った。その続きは。続きは、聞きたくない。
「思い出しちゃったんだあ」
喉の奥でひきつるような、独特な嗤い声。
不快な。
耳にざわざわする声。
頭を振って、追い出すようにするのに。後ろではまだ嗤っている。真菜が。夕樹の知らない嗤い声で。
「どうして―――?」
「どうして」
復唱して。
「どうしてだろう」
真菜は背伸びをして、夕樹の首に腕を絡ませる。ゆったりと組んで。耳元で囁く。
「私にもわかんないや」
「猫も…殺ったの、真菜?」
「うん、そうだよ。さすがにさ、続けて人殺しちゃ足ついちゃうでしょ?」
まあ、人でも良かったんだけど。
「気分が悪かったから万引きしたの」そう言う小学生のような軽い口調。悪いなんて微塵にも思っていない声。
「―――俺も、殺すんだ、」
「そうだなーどうしよっかなー」
背伸びしていた足の、かかとを地面に近づけて。夕樹は倒れそうになるのをすんでで抑える。
「私夕樹のこと嫌いじゃないし、殺すのはもったいないよね」
夕樹の髪に顔を埋めて。
「どうして、」
「何が?」
「どうして、殺したの」
「大嫌いだったから、かな。私に変に眼えつけてたし。実はね、私たかられてたんだよね、あの子に」
くすくす笑うと、頭に息がかかる。
「まあはじめは可愛いもんだったんだけど。限度を超えちゃったから、殺しちゃった」
―――なに、これだけなの?
もっと持ってるんじゃないの?
―――もうないよ、これが全部だよ
―――嘘つかないでよ、
―――嘘…じゃないよ、
あの子は聞く耳持たなかった。
限度を知らなかった。振るえば落ちると。ばかみたいに。
はじめからさいごまで、きっちり付き合う義理もなかったし。
たかられるって言うシチュエーションも飽きたから。
簡単でしょ?
「おかしいよ、」
「なにが?」
「真菜は、そんな奴じゃなかった」
「そうだね、夕樹の知ってる「真菜」はもっと素直で人に気を遣って」
だけど、夕樹が知ってる「真菜」なんて、一部分以下。
「私はずっとこうだったよ、ずっと壊れたまんまだった」
腕を離して、夕樹を解放した。
「誰も治してくれなかったし、気付いてもくれなかった」
親もトモダチも―――夕樹でさえ。
ざくりと、草を踏む音。離れる音。
「振り返っても良いよ、この間みたいに殴っちゃったりしないから」
それにしても、痛かったでしょ? ごめんね。
哀しそうな声。さっきとは一転して。
震える手を離して、振り返る。
こちらを向いたまま、真菜が夕樹から一メートルくらい離れたところに立っていた。
しかしそれ以上に、真菜の後ろにくぎ付けになった。
―――殺すのはもったいないよね
誰を?
―――大嫌いだったから、かな
だから殺した?
そんな簡単な理由で?
ふざけるなッ―――
ぐん、と。真菜の足が地面から離れた。
「―――っは、」
腕で、思いっきり締め上げて。
川下が。
「おまえが……おまえがッ」
「っふ、はっ―――」
真菜の顔が見る間に真っ赤になって、細切れの息が吐き出される。
夕樹は何も言えなくて。さっきまで爪を立てていた樹に寄りかかる。
「ど、どうして……」
首を振って、瞬きしても、状況は何ひとつ変わらなくて。
川下が、真菜の首をしめていて。
「どうして」
真菜の指が、川下の腕をかきむしって、皮膚を抉り取っていく。血が滲んで、だけど川下は力を緩めようとはしない。
「や、……っふ―――」
震える手が伸びて、その先にいるのは夕樹で。
涙目で。訴えるように。爪先で地面に立つ足は震えていて。失禁したのか、濡れている。
「ゆ、…き」
「まな、」
呼んだら、真菜は微笑って。さっきとは全然違う。夕樹の良く知った真菜の表情で。ぱたりと、腕が落ちた。
川下が腕を下ろすと、真菜はそれと同じようにずるりと沈んだ。
「言ったじゃん、俺」
崩れた真菜を見下ろしながら、川下が呟く。前髪に隠れて、表情は読み取れない。
「俺が殺すかもしれないって」
ぐしゃりと指で梳いた髪を、千切れそうなくらい強く握り締めて。
「言ったじゃん?」
たとえばそれがトモダチでも、関係ないし。
「俺さ、ほんとに…ほんとにさ―――」
首を振る。頭が痛いくらいに。だって聞きたくないから。何も。
耳を塞いで、ずるずると座り込んだ。
「嘘だ……、かわした……」
「良いよな、こういうことしても」
くっと小さく微笑って。
「俺、間違ってないよな」
聞きたくない、こたえられない。
なのに耳を塞いでも。聞こえてくる。
川下の嗤い声。
じわじわと血を滲ませている痛い声。
本当は10日前のあの日から。血を滲ませて、膿んだ傷跡から発せられる声。
「なあ、時谷」
縛り付けられる。
頭の中で事実が処理されていく。
夢。
これは夢で。現実はもっと遠いところにあって。
忘れろ。
夢にしてしまえ。
何も知らなかったことに。
あの日と同じ処理。
忘れてしまえ。
耳を塞いだ手が頬を覆って、頭に移動して。
ぐしゃぐしゃにかき回した。そのまま、夕樹はたぶんずっと、震えていた。
5.
あの夢を、見なくなった。
くろい夢。
どこかに消えてなくなったみたいに。
もうあれがどんな夢だったのかさえ、夕樹には良く思い出せない。
真菜が死んだ。
事件がおきたのと同じ雑木林で。他殺だって、誰かが言ってるのを聞いた。
真菜が死んだのは哀しいけど、たぶん自分には無縁のこと。
毎日は何事もなく、何の意味も持たないような薄っぺらさで。
朝起きて学校に行って授業を受けて。
繰り返している。
「時谷」
「川下、」
一緒に帰ろう、というトモダチの。瞳の奥の闇はなんだろうかと思う。
不自然なまでの。
笑っているのに、笑っていない瞳の意味は。
だけど怖くて、訊けない。
「その腕の傷、どうしたの?」
「妹とケンカしてさ」
傷を見る夕樹に、川下は苦笑しながらこたえる。
「そう…修羅場だね」
「ほんとに、爪切れって言うんだよなー」
何の気ない会話。
夕樹に関する女子のウワサも、いつの間にかなりを潜めてしまった。
なのに、いまだ感じる。硬い空気。
「―――見張ってるの?」
不意に口を出たことば。無意識の。
そのことばに川下の表情が一瞬だけ歪んで。だけどすぐに元通りになった。
「何言ってんだよ、ほら、さっさと帰るぞ」
肩にとん、と打ち付けられた手の甲は冷たい。
「うん、」
「今日どっか寄ってく?」
「いいよ、眠いし。今日はまっすぐ帰って寝たいし」
「授業中も寝てなかったっけ、」
「覚えてないや、寝てた?」
「爆睡だったけど」
いたずらっぽい笑い声。それに応じる自分自身の声。
薄っぺらいつくりものの。そんな印象。
「じゃあ、今日はまっすぐ帰りますか」
残念そうに微笑った川下の顔。
笑いの余韻を残さない瞳。
その瞳は、まっすぐで。
何処を見ているのだろうか。
途中、十字路で別れて。
足は家じゃなくて、河原に向かっていた。
星を見たいなと、思ったから。
もうずっと行ってなくて。
不意に。
行きたくなったから。
事件が相次いだ雑木林を背に、ごろんと横になった。
薄い紺の空。
遠く近く、星が瞬いている。
光の明滅をくり返しながら異国を目指すだろう飛行機を、視界の隅に追いながら。
きらきらちかちか、星の瞬きがはっきりしてくる。それにしたがって、数も増えて。
肌寒い風が、河原の冬支度をはじめた草を渡っていく。
さわさわという、哀しい音。
眼を閉じたら、それはより鮮明になって。
背中に草の新鮮な冷たさを感じて。息を吸って、吐いて。
「嘘つき」
声に、思ったより冷静に眼を開けて。
ローアングルから見た川下は頬杖をついて、微笑ってて。
「まっすぐ帰るんじゃなかったのかよ」
やさしいやさしい微笑みで。なのにどうしてこんなに冷たいのだろう。
まるで、瞳の奥の闇が前面に押し出されたみたいに。
腕の傷が、生々しくて。
「なあ、時谷」
それとも―――。
次のことばを待つ。
頭の芯が痺れて、立ちくらみのような眩暈がする。
「―――思い出しちゃった、かな?」
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