九月の桜−錬金術の子供たち−
*プロローグ*
ある冬の日に、十八になる息子が突然庭に桜の苗木を植えた。
「どうしたの急に植物なんて」
問うと、息子は静かに微笑んだ。
「母さん、僕は母さんのやってることを信じてる」
白い息が口の周りを漂い、ゆるやかにぼやけて消えてゆく。冬の、透明度の高いひかりが、静かに世界を満たして。
「ねぇ、母さん、」
あふれ出すほどのひかりに照らされて、庭の植物たちは鮮やかな緑色。
「この木は、僕だよ」
穏やかな口調。かがみこんだまま、苗木に水をやる。表情は見えない。
「僕はずっと此処に居る。だから、迷わないで」
「……どうしたの?」
「約束だよ」
立ち上がって振り返って。そこにはいつもの穏やかで聡明な息子の表情があった。
わたしは少し戸惑いながら、息子と同じように笑って頷いた。
それが、最初の別れの予兆だったのかと、今になって思う。
*1*
自分が普通ではないということを感じたのは、物心ついたころから。
母は既に還暦を迎えようとしていたし、父は居なかった。森の奥の広大な屋敷で、僕は母とふたりで過ごした。
決まった時間になると、母は書斎の奥の研究室に仕事に行った。研究室に入ることは固く禁じられていたので、僕は書斎にすら近づいたことはない。
穏やかな母は優しく聡明で、魔法使いのように何でも出来た。そんな母が、僕は本当に大好きだった。
三歳のころ、屋敷に一組の夫婦がやってきた。母よりずっと若く、不安そうな顔をしていた。その夫婦は一日、屋敷に泊まっていった。母のそばを離れない僕を、夫のほうは神妙な顔で、妻のほうは少し怯えた目で見ていた。どうしてそんなふうに見られるのかわからなかった僕は、ただただ母のそばにくっついているしかなかった。
母の温かい手が、ずっと僕の背中に当てられていたのを、確かに覚えている。
それからしばらくもしないうちに、その夫婦は再び屋敷にやってきた。そして、来るときには居なかった赤ん坊を抱いて、帰っていった、
涙を流しながら、夫婦は何度も何度も母にお礼を言った。母はその様子を、ただ静かに、微笑みながら見ていた。
夫婦が帰ったあと、玄関に立ったまま、母は長い間ずっと、すり硝子越しに外を見ていた。
「おかあさん?」
「巧」
振り返らないまま、母が僕の名を呼ぶ。
「私は、間違っているのかしら?」
その言い方がひどく淋しそうで苦しそうで。僕は後先考えずに、とっさに叫んだ。
「間違ってない!」
母は顔だけ振り返ると、少し驚いたような表情で。必死な僕の顔を見て、そっと笑う。
「十五年、」ぽつり、呟いた。「十五年経ったら、真価がわかるのよね…」
「そうだよ、まだなんにもわかんないよ!」
意味もわからず叫んだだけで、本当にわかっていないのは、僕のほうだったのに。
「……お茶にしましょう」
何も知らなかった僕は、母が哀しむさまを、見たくなかった。きっと、それだけのことだったんだ。
ただ、それだけ。
庭には小ぶりの桜の木があった。どれくらい前からあるのかは知らなかったけれど、たぶんそんなに長くはないだろう。幹は森のほかの木に比べると若干頼りなく、枝も細いものが数える程度。
まだまだ成長過程にある桜の木が、だけど母は大好きだった。仕事の時間以外で母が見当たらないときは、桜の木を目の前に見ることができる縁側に、母は佇んでいることが多かった。
いい香りのする温かい紅茶と、母の焼いたココアクッキーが大好きだった。
「おかあさんはどうしてこの桜の木が好きなの?」
縁側に座り、地面に届かない足をぶらぶらさせながら問う。「そうね」母は少し考えてから、いつものように微笑んだ。
「この桜にはね、思い出がたくさんあるの」
「思い出?」
「巧が生まれた日にね、この桜の花が咲いたのよ」
「僕九月生まれだよ。桜なんて咲かない」
「それがね、咲いたのよ」愉しそうに。母が続ける。「狂い咲きって言ってね。ちょうど、その年でいちばん大きな台風が去った次の日に。桜が春が来たと勘違いしたの」
残暑の残る九月の朝。研究室から出た母が縁側の雨戸を開けたら、目の前にはピンク色の花びらが舞っていた。
季節はずれの、淡いピンク色。
おめでとう――まるで、母の研究を称えるように。
「巧が、此処に居るって、笑っていた――」
「ふぅん…」
母が愛しそうに呼んだ僕の名前は、僕のものではないような響きをしていて。どうしてかわからなかったけれど、少し懐かしいような、変な気持ちがした。
「おかあさん、」
「なあに?」
「僕のこと、好き?」
どうしてそんなことを訊いたのか、今でもよくわからない。幼いころのあいまいな記憶のなかに、そのころの僕の気持ちはぼやけて見えなくなってしまっている。
僕の頭をそっと撫でて。母の指が髪を梳く。
「大好きよ」
そのひと言が、本当に嬉しかったんだ。
五歳になる年、梅雨の合間の晴れ間に、また別の夫婦が、屋敷を訪れた。途方に暮れたような夫婦は、僕を見ると母に問うた。
「これ≠ェ、あなたの研究ですか?」
母は僕の頭をそっと自分の腰に引き寄せて、頷く。
「本当に、本当なんですね?」
彼らの、僕を見る目は、ただの子供を見る目ではなかった。これ≠ニ表現したように、僕は彼らにとって、人間ではなかったのだから。
「失ったものを、取り戻せるんですね?」
失ったもの。
母はすぐにはこたえなかった。すがる夫婦の目に、しばらくの沈黙のあと、ひと言だけ。
「それは、あなた方次第です」
それからしばらくの間、母は研究室にこもる時間が多くなり、数ヵ月後、二年前と同じように、夫婦は泣きながら母に礼を言い、来るときには居なかった赤ん坊を抱いて帰っていった。
「おかあさん、」
夫婦が帰ったあと、僕は母に問う。
「おかあさんは、赤ちゃんを作れるの?」
「…………」
「おかあさん?」
「…わからない」両手で、顔を覆う。指の隙間から、か細い声が漏れる。「わからない。まだ、」
「でも…」僕はあわてて、真っ白な頭のなかを、言葉を捜して。出てきたのは、苦しむ母を、何とか助けようという気持ちだけの、逆接。
「でも……」繋げる言葉を捜すのに、なかなか見つからなくて。「でも、でも…」
途方に暮れていた夫婦は、僕を、普通ではないものを見る目で見た。
泣きながら母に礼を言った。何度も何度も。
ありがとうございますと、何度も。言った。
「あの人たち、おかあさんにありがとうって言ってた…だから、わかんなくないよ。おかあさんは、おかあさんは、きっとすごくいいことをしてるんだ」
両手から顔を上げて、母は僕を抱き寄せた。痩せた躰は少し痛かったけれど、僕は黙って、母の背中に腕を回した。
肩が熱くて、濡れたけれど、僕はやっぱり、何も言わなかった。
*
六歳の誕生に、母に自転車を買ってもらった。
屋敷は、最寄の駅からでも車で十五分ほどの場所にあり、自転車だと三十分以上かかった。ロクに整備もされておらず、地面はでこぼこしていたけれど、一本道で迷うことはなかったし、道の悪さを逆に愉しんで、僕はよく自転車をこいで駅前の小さな集落に行った。
森を抜けると、山に囲まれた田園風景がどこまでも続いていくようで、あぜ道にはいつもきらきら水が流れていた。
ときおり田畑の中に農夫を見かけたけれど、声はかけなかった。はじめて森を抜けて集落に来たとき、僕が森のなかの屋敷から来たのだと知った途端、彼らは明らかに顔をしかめた。そして、野良犬のように、僕を追い払った。
狭く閉鎖的な集落に噂が広がるのは早く、僕は近づいただけで、酷いときには石を投げられた。
石を投げられる理由はわからなかったし、奇異の目で見られる理由もわからなかったけれど、僕はそれ以来、集落の人たちに近づくことはやめた。
このことは、母には言っていない。言ったら、きっと心配するだろうから。
それから何年かは、何ヶ月か一度、屋敷にやってくる三宅と名乗るスーツの男性と、ごく事務的な会話をするだけだった。
僕の話し相手は母と、森のなかを迷い込んでくる猫くらいで。
淋しいといえば淋しかったけれど、外の世界をよく知らない僕には、それがごく普通のことだった。
閉鎖的でも、何も知らない僕に、世界は優しかったんだ。
*2*
僕は小学校にも、中学校にも行かなかった。行きたくなかったわけじゃないし、集落に小さな分校があることも知っていた。母は僕に一度だけ、学校に行きたいかと問うたけれど、僕は行かなくてもいいとこたえた。
七歳頃から、母は僕に勉強を教えてくれるようになった。理数系は完璧だったけれど、母はときどき、簡単な漢字で間違った。そのときだけ、僕が先生になるのだ。
学校に行っている十三歳がどんな勉強をしているのか知らなかったけれど、そのころの僕は、簡単な微積分くらいなら出来るようになっていた。
母がしていることは、まだ何もわかっていなかった。この何年か、母は以前よりも縁側でぼんやりしていることが多くなった。
僕は少しずつ家事を覚え、それが仕事になった。
自転車でひとつ向こうの集落まで往復二時間の買い物に出かけて、書斎以外の家の掃除をして、食事を作り、夜は母と一緒に勉強をする。その繰り返しで、僕の毎日は静かに成り立っていた。
学校に行かないということにまったく不満がなかったわけではないけれど、そのことで特別嫌な思いをしたことはない。
きっと、集落の人たちのあの顔を、学校に行ったらクラスメイトたちもするのだろう。そこにあるのはなんだというのか。得るものなんかありはしないに違いない。
いつもの買い物から帰ると、門の前に見知らぬ車が停めてあった。いつものスーツの彼らが乗ってくる黒い車ではなく、白い乗用車で、ナンバーは此処からずっと離れた町のもの。バックミラーの横にはかわいらしいくまのマスコットが吊られていた。
冬の前、永遠に続くような落葉のなか、車にはまだいくつも葉が落ちていない。今さっき、来たばかりなのだろうと推測する。
(また――かな)
僕の脳裏に、幼いころの記憶がめぐる。絶望を貼り付けたような顔でやってくる夫婦。僕を奇妙な目で見て、母に問い。どこから連れてきたのか、来るときには居なかった子供を抱いて帰っていく。
最後の夫婦から、八年が経っていた。
玄関から、客間を避けて台所に回る。買って帰ったものをひとつひとつ、冷蔵庫に収めていく。大きな冷蔵庫に半分も食材を入れれば、母とふたり、三日はもった。
今日の昼食は春雨のオムレツにしよう。必要なものを頭のなかに浮かべて、冷蔵庫を開けた。鶏肉と玉ねぎ、にんじん、ケチャップ。じゃがいもと春雨は棚のなか。
コンロの下の棚からフライパンを取り出したとき、後ろで床が軋んだ。
振り返ると、母が立っていた。
六十も半ばを過ぎた母の髪はほとんどが灰色に染まっていた。センスのいいワンピースに、肩にかけたクリーム色のショール。
「どうしたの、お客さんが居るんじゃないの?」
言うと、「そうね…」少しこわばった顔で、笑う。
「お母さん?」
「巧、」ショールの上から、自分の胸元を探り、母が言う。「あなたは、今、倖せ?」
「どうしたの、急に」
笑って誤魔化そうとしたけれど、母の表情は変わらなくて。
思いつめた眸に、息が詰まりそうになる。
「……お母さん?」
「……ごめんなさい、変なこと、訊いたわね」
そのまま、僕のほうを見ないで、母は客間のほうに戻っていった。
――あなたは、今、倖せ?
ことばが、頭のなかでぐるぐる回る。
倖せとか、倖せじゃないとか。
そんなことを、真剣に考えたことなんてなかった。
僕の世界はこの屋敷のなかにあって、揺るぎないもので。
もし揺らいでしまったら、僕の存在までも、きっと揺らいでしまう。
それは怖いとか、そんな感情ではなく、僕自身を、消し去ってしまうもの。
*
森の続きのような庭は、秋になると、あっという間に落ち葉で地面が見えなくなる。たまに買い物に行かなくてもいい日、僕はゆっくり時間をかけて、庭の掃き掃除をした。だけど、広い庭を一通り掃き終わるころ、また僕の後ろは落ち葉のじゅうたんが広がっているのだ。
一度躍起になって延々掃き掃除をしていたことがあるけれど、そのとき母に言われた。
――無理して逆らわなくていいのよ
自然の流れに、人ひとりが到底敵うわけがないのだ。
――ゆったり構えて居ればいいの
一通り掃き終わったあと、僕は自分の歩く場所だけを掃いて道を作り、母屋まで戻った。紅葉の時期は一ヶ月と少し。そうして短い秋が終わると、今度は長く白い冬が訪れる。
母は半年に一度、三宅と一日何処かに出かけた。母はどんな仕事をしているのかとあるとき彼に訊いたら、彼は少しの間のあと、こたえた。
「たくさんの方を助ける仕事です」
私も助けていただいたひとりです――。
彼が何を言いたいのか、よくわからなかったけれど。心なしが、ほっとしている自分ガ居た。
自分が思っているだけでなく、実際に母はいいことをしているのだ。
誰も居ない屋敷はただ広かった。一通り家事を終えてしまった僕は、部屋で勉強する気も起きなくて、気がついたら書斎の前に立っていた。
扉の木目が、僕を見る。
母が仕事をする書斎。僕に教えてくれない、僕が知らない仕事。屋敷のなかで、ただ一箇所、入ることを禁じられた場所。
このなかに何があるのだろうか。
生垣があって、庭から外を見ることも出来ない。
まだ昼を少し過ぎたあたり。母の帰宅は、決まって深夜に近い。
僕のなかの好奇心が、むくむく膨らんでいく。
「…………」
ずっと見ないで来た。十三歳の今日まで。いつか母が言っていた。十五年経ったら、と。
あと二年経ったら、僕にも何かわかる日が来るのだろうか。僕にも、何かわかるようになるのだろうか。
あと二年。たった、二年。
やめよう。見ないで、おこう。
書斎のなかのこと、母の仕事のこと、そういうこともすべて、十五歳になったら教えてくれるはずだ。
書斎の扉から、一歩下がる。
―――ィ
音が、した。床の軋む音ではなく、扉のなかから。普段なら聞き逃してしまいそうな、かすかな音だけど。何かの鳴くような、うめくような。
音。
声?
なにか、居る?
なにが、居る?
思ったらとまらなくて、次の瞬間、僕の手はドアノブを掴んでいた。
作り付けの棚が、両側の壁を埋めている。そのなかには、分厚い学術書が隙間なく収められていた。部屋の中央にある机の上にはその中の何冊かが積み上げられ、いくつもの付箋が挟まっていた。いつも母は、この机に座って仕事をしているのだろう。
今は主なき机の奥、僕の背後にある扉より、少しだけ色の薄い扉があった。机を回り込んで、その扉に近づく。
ものが多いけれど、きちんと整頓された机の上には、薄く褐色に褪せた写真が飾ってあった。手に取る。両親らしき夫婦と、三人の学生服を着た少年、袴のあどけない少女と、母に抱かれた赤ん坊がひとり。
はじめてみるものだった。
母の家族なのかもしれない。一度も会ったことはないし、話を聞いたこともない。
もしかしたら、もうみんな死んでしまっているのかもしれない。母の年齢を考えれば、決してありえないことではない。
――失ったものを、取り戻せるんですね?
いつか聞いたことば。失ったもの。家族。――赤ん坊。
扉を見る。音はしない。だけどこのなかに、母のしていたことのすべてがある。
確信が、あった。
見てはいけない。見るべきものではない。だからきっと、母は僕に、書斎に入ることを禁じているのだ。
だけど。
一度垣間見たものを、忘れることなんて出来ない。
椅子の後ろ、扉を、開けた。
扉は少しだけ重く、滑らかに開いた。扉の向こうはいったん外になり、一メートルほどさきに、コンクリートの外壁に囲まれた建物があった。平屋の建物は、背の高い生垣の影に沈んでいるように見える。これでは庭から回り込んだところで、見えるわけがない。
入り口にはロックがかかっていた。カードキーで開場するらしく十五センチくらいの、細長い溝があった。
書斎に近づくことすら禁じられていた僕が、もちろんカードキーなんて持っているわけがない。外壁と同じ色の扉を見上げた。僕を笑うように、見下ろしてくる。
見るなということか。
秘密など、知らないほうがいいというのか。
母が僕に隠し続ける、研究。
どうしてもそれが見たくて、一度書斎に戻る。机の引き出しを、上から順に開けて、中を確かめていく。母のことだ、スペアキーかマスターキーの類を、必ず予備としてしまってあるはずだ。
確信を持って引き出しを調べていったけれど、カードキーらしきものは見つからなかった。
探ったことがわからないように、元あったように中身を整理しなおすと、最下段の引き出しを閉めた。
視界に入った写真のなかの十四の眸が、僕を見ている。穏やかな表情で、物取りのように母の机を探る僕を。
見ている。
その視線に耐えられなくて、写真立てを伏せた。そこで、ふと思い立ち、写真立ての裏をはずす。褪せた家族写真の裏に、ひっそりと、銀色のカードが収められていた。
僕はそれを手に取ると、もう一度、外に出た。
カードリーダーに銀色のカードを通すと、小さな電子音のあと、扉がスライドした。なかにはもうひとつ自動ドアがあったけれど、それは近づくとセンサーで勝手に開いた。
薄暗い室内の奥から、ぼんやりした白いひかりが漏れている。
足元はタイル張りになっていた。
なかは書斎と似たつくりになっていて、硝子戸のついた書棚が三方を囲んでいる。真ん中にある名が机の上にはコンピュータと数え切れないほどの実験器具。一面だけ硝子張りの壁の向こうには、手術室のようなつくりになっていて、ひかりはそこから漏れているらしかった。
そっと近づく。足元のタイルが、行くなと、きゅぅきゅぅ警告音に似た足音をたてる。
分厚い硝子の前に立ったとき、僕は母のしている研究を、はじめて目の当たりにした。
(これは、なんだ?)
硝子で出来た円筒のなか、いくつものコードに繋がれた、赤ん坊が居た。
えびのように背中を丸めて、体長は二十センチほど。人間の形をしているが、新生児の半分の大きさしかない。
――失ったものを取り戻せるんですね?
失ったもの。
――これ≠ェ、あなたの研究ですか?
母の研究。
目の前のものも。
そして、僕も。
屋敷を訪れる夫婦がどうして僕を奇異の目で見たのか。
どうして母が、幼い僕を同席させたのか。
僕が、研究の成果だから? 僕も、こうやって、生まれたから?
後ずさる。すぐに、腰が机にぶつかった。机上の実験器具が、触れ合って音をたてる。
気持ち悪かった。
吐きそうだった。
何が気持ち悪いのかも、よくわからないまま。
僕は身を翻すと、机の上に広がっていたファイルをいくつか乱暴に掴むと、振り返らずに建物を出た。
*3*
床に散らばったいくつものファイル。たいていの論文は英語で書かれていて、僕には辞書片手でもニュアンスくらいしか掴むことしか出来なかった。
だけど、母が何をしているのか、ぼんやりだけど、わかった。
夫婦が連れて帰る赤ん坊が何処から来るのか。どうして僕には高齢の母だけで父親が居ないのか。
人を作る。
母の仕事。母の研究。森の中の広大な屋敷と、保障された生活の理由。
錬金術。
神への冒涜。
論文批評には、そんなことばが並んでいた。
性行為の必要なく、人を作る。クローンとも言われるこの技術は、科学者たちの間で議論され続けている。
細かい文字を追い続けて居たからか、目の前がかすむ。
眩暈のようなものもした。
自分が普通ではないということは、幼いころから感じていた。
屋敷を訪れる夫婦も、集落の人たちも、僕を奇異の目で見た。僕を受け入れてくれたのは、母とこの屋敷だけだった。
きっと僕はわかっていたんだ。こんな、とんでもない事実があったこと。
わかっていたからといって、ショックがなかったわけではない。
僕は人間じゃない。僕は人じゃない。
僕は、なんなんだ?
両手で顔を覆う。このまま、何も見えなくなればいいのに。
だけどそんなの、無理に決まってる。見えなくなるわけがない。見えなくなったら、不安でおかしくなってしまう。
数冊のファイルのうち、最後のひとつを手に取る。一冊だけ布張りになっている。
開くと、論文ではなく、写真が収められていた。付箋には母の右肩上がりで特徴のある文字で、日付とコメントがあった。
僕が生まれる二十年前の日付で、僕が居た。
カメラを向ける母に、無邪気に手を伸ばす男の子、「巧」。
ページをくる。そこから何ページにもわたって、「巧」は成長を続けていく。何年も前の日付の中で、僕が成長していく。
十三歳。学生服を着た「巧」が照れくさそうに笑っている。
僕が行くことのなかった学校に、「巧」は行っていた。
僕が得られなかった普通の子供として、「巧」は生きていた。
外見は僕なのに、写っているのは僕じゃない。
写真のなかの「巧」は、いつも穏やかに笑っていた。ときどき一緒に写っている母は若く、年相応の母子で。
ちょうどファイルの半分に差し掛かったとき、「巧」の写真は突然終わった。最後の一枚は、庭にある桜の木を背景に、縁側に座っているもの。
逆光で顔は薄暗いけれど、少しやつれているように見えた。
その写真の下、大き目の付箋には母の字で。〈巧、病死。享年二十歳〉
(死んだ)
それは、ちょうど僕が生まれる三年前の出来事。
そこから、母の記述が始まる。
〈巧が息を引き取った。
私は何も出来ない。匠を助けることが出来なかった。巧も助けることが出来なかった。同じ病気だったのに。私は無力だ。私が培ってきた学問はなんだったのだろうか? 私が学んできたことは無駄だったのだろうか?
母は私の研究を神への冒涜だと非難した。学会の研究者たちも同じように。巧はただひとり、私の研究を理解して支えてくれていた。
私は間違っていないと、巧が言ってくれた。迷うなと言ってくれた。
私はもう迷わない。
失ったものを取り戻すのだ。
きっと巧はそれを望んでいる。匠も、父も兄たちも、わかってくれる。きっといつかは、母も。〉
一ページあき、再び、僕の写真が現れた。十三年前の、本当の僕の写真だ。
〈おかえり、巧〉
僕の写真が並ぶ、その間ごとに、母の書き込みが目立つ。躰の経過、精神発達、知能発達、――そして僕は、「巧」なのか否か。
〈心身ともに発達は良好。知能の遅れもみられない。〉
〈幼いころの巧がそのまま目の前に居る。ただし性格や好みには違いが認められる。〉
〈年を重ねるごとに巧との違いが大きくなる。〉
〈外見は見分けがつかないほどに通っているが、別人〉
成長するにつれて、だんだん僕と「巧」との違いは明らかになっていき、母は戸惑っているようだった。僕の躰は「巧」の細胞を元に作られている。遺伝子はまったく同じ。なのに、性格や仕草に違いが出てくる。
〈まったく同じ環境におくことは出来ない。相違はそのためとみられる〉
〈まったく同じ人間を作ることなど出来ないのか?〉
〈もうすぐ十五年経つ。そうしたら、真価がわかる。〉
研究の真価。人を作ることへの、本当の意味。
本当の価値。
僕の、母の研究が生み出したひとり目としての、役割。
成長する僕。母にとっては、ふたり目の「巧」。
感情や感覚が、ゆっくり遠のいていくようで。
膨大な量の情報が、僕の逃げ道を塞いでゆく。
限られた僕の世界。これからもきっと、開けることはない。僕にはたぶん戸籍だってないのだ。法的には、存在しない。だから学校にも行くことはないし、このまま、屋敷のなかで母や限られた人と過ごすだけ。
その母が死んでしまったら、僕はひとりになってしまうのだろう。森の中の広大な屋敷で、「巧」すらも知らない時間を、朽ちてゆくまで。
最後の一枚。ついこの間、僕の十三歳の誕生日に撮ったもの。
そこで、僕の写真も終わる。このあと、何枚ファイルされていくのかわからないけれど。
ページをくる。そこはただ、白い紙が挟まれているだけで。僕はなんとなく、ページをめくる指を止めない。新しいページの先に、何かしらのこたえを求めて。まだ幼さの抜けない僕は、何ページか前の「巧」と同じ顔になるのだろう。
そっと、心のなかに流れ込む、感情。
人肌にあたたかくて、無機物のように味気ない。
僕は人ではない。だけど決して、物でもない。
白紙の続くページ。最後に、母の文字。
〈I can’t become GOD〉
わたしは、神さまになんてなれない――
*
「お母さん」
三宅と一緒に帰宅した母を出迎える。三宅が車を出したあと、まだ起きていたのかと驚く母に、僕は無言で、写真をおさまったファイルを差し出した。
母の表情が、凍りついた。
ファイルを見たあと、僕を見る。「……巧、あなた」
「ごめん、お母さん」謝る必要なんて、きっとないけれど。「十五年、待てなくて」あと、たった二年なのに。待てなくて、ごめん。
「僕は、本当のことを知りたい。巧のことも、お母さんのことも、知りたい」
「…………」
「僕は自分のことを否定したりしない。お母さんのことを、間違っているとも思わない。だから、教えてほしいんだ」
母は目を伏せると、静かに息を吐いた。
「わかったわ」
五人兄弟の四人目として生まれた母は、戦争という時代に、父と三人の兄を亡くした。戦後、軍医だった祖父の影響から医学を志し、単身渡英した母は、五年で世界最高クラスの医学を修めて帰国した。神童といわれた母は、このときまだ十八になったばかりだった。
戦争などなかったかのように経済発展を続ける国のなかで、母は医学以外にも様々な学問を学んだ。
知識を詰め込み身につけることで、立て続けに身内を亡くした喪失感を、少しでも埋めようとして。
母が二十歳のとき、たったひとり戦争を生き残った弟が、病気で急逝した。まだ十五歳だった。
母は世界最高といわれる医学知識を持っていたけれど、弟を治すことは出来なかった。
耐えられないほどの喪失感と、無力感。神童と呼ばれたって、どんなに勉強したって、結局、母に出来ることなど限られていて、絶対的なものには逆らえなくて。
なんにも、できない。
失うばかりで。取り戻すことなど、到底、出来ない。
失意に暮れる日々のなかで、母は、ひとつのことに気づいた。
取り戻すことは、本当に出来ないのか?
失ったすべては、もともとはすべて存在していたものなのだ。架空のものではなく、確かに存在する、物理的なもの。
本当に、取り戻せない?
否、出来る。学識が、技術が、わたしにはある。
時間はかかるだろう。だが、いつか、必ず――。
そうして、母は研究をはじめた。失ったものを取り戻すために。失ったすべてを、取り戻せると信じて。
人を作り研究を始めた母を、祖母は否定した。そんなことに何の意味があるの? そんなことをして、どうしたいの?
理解してくれない祖母に、母は何度も繰り返した。
「わたしは、失ったものを取り戻したいだけよ」
やがて、母は夫の居ない息子を産んだ。それは確かに性行為により生まれた子供だった。母は息子に、弟と同じ読み、違う漢字で「巧」と名づけた。
それが、僕のオリジナル。
父親が誰であるのかを、「巧」には知らせなかった。祖母にも知らせなかったという。母が愛した男性は、母しか知らない。彼が「巧」の存在を知っていたのか知らなかったのかさえも。
祖母は「巧」が生まれて数年後に、老衰で亡くなった。人形師だった祖母は、しばしば「巧」に人形の操り方を教えていたという。
祖母は死の床についたときでさえ、母に問うた。
「あなたは、神さまにでもなったつもりなの?」
「わたしは、神さまになんてなれない」
そんな問答を、「巧」はいつも、どんな気持ちで聞いていたのだろうか――。
唯一母のことを理解していた「巧」も、彼が二十歳のとき、弟と同じ病気で亡くなった。「巧」が亡くなる数年前、彼は庭に桜の苗木を植えた。それが、縁側から臨む、あの桜の木。
――母さん、迷わないで
――この木は僕だよ。僕は、ずっと此処に居る
「ねえ、巧」
母は桜の木を見たまま、僕に問う。
「あなたは、生まれてきたことをどう思う?」
生まれてきたこと。
ふたり目の巧として。
オリジナルと同じ遺伝子を持ちながら、異なった人であること。
学校にも行けない。人ではないと奇異の目で見られる。普通のことなど、何も望めない。
「僕は、」
母の後ろに、桜の木がたたずんでいる。「巧」が植えた、忘れ形見。
「僕は、たぶん、お母さんとかと同じ、人じゃない」
だって僕は、あの研究室の子供と同じように、硝子の円筒のなかから、出てきたんだから。
母と誰かの間ではなく、「巧」の細胞から、出来てるんだから。
「だけど、それでも、僕は生きてる。考えて、感じて、生きてる。僕は巧とは違う。違うけど、たぶん、ちゃんと人なんだ」
だって、痛む心を持っている。意思を持っている。
「僕は、人なんだよね?」
ゆっくり振り向いた母が、少し潤んだ眸で。
「よかった、」
小さく、呟いた。
葉すらもすべて落としてしまった桜の木が、かすかに揺れた気がした。
「よかった――ねぇ、巧」
たいした風も、吹いていないのに。
それはまるで、「巧」が笑っているようで――。
その日から、僕は母のことを「お母さん」と呼ぶことをやめた。
*4*
それから博士は、またひとり、子供を作った。僕が自身のことを知った、何ヶ月か後のこと。
あの円筒のなかにいた赤ん坊は、老夫婦に引き取られていった。しかしその帰り、老夫婦は交通事故に逢い、彼らは二度目の子供すら失った。博士は、もう一度には、決して応じなかった。
書斎の押し殺した声に、僕は小さく、黙祷することしか出来なかった。
十八歳の春の日、ひとりの少年が屋敷を訪れた。彼が十五年前の赤ん坊だと、すぐにわかった。
はじめて屋敷を夫婦が訪れた、あれから、十五年が経つのだ。
少年は戸惑いながら、博士の前に座っている。五年前、約束の十五歳よりも二年早く、事実を知った僕は、博士のしている研究を学ぶ機会を得た。
僕は「巧」にはなれない。同じ遺伝子を持っていても、外見は同じでも、中身は違うのだから。だけど、博士を理解したいという気持ちは変わらない。
博士を理解することは、すなわち僕自身を理解することに繋がる。
「あの…」
少年が僕に問う。どうして此処に来たのか、まったくわかっていないようだった。彼の両親は、事実を告げずに、彼をよこした。
博士と夫婦の間の、絶対の約束。
――十五歳になったら、屋敷を訪れ、事実を知る
その事実を伝えるのは、夫婦でも博士でもかまわない。知ることに、大きな意味があるのだから。
「俺は、どうして此処に?」
眼鏡の奥の眸が、少し怯えているようで。
「それは、博士がお話になります」
僕はそう言って、傷口を避けるんだ。
博士に感情をぶつける彼を見て、自分の魂の深さを測る。
*
「巧、」
呼ばれて振り返ると、博士の隣に、どこかで見たことのある少女が立っていた。十七歳くらいで、長い黒髪が背中に流れている。
記憶をたどる僕は、すぐにひとつのこたえにたどり着く。
淡く褐色に褪せた写真。袴を着た少女。幼い日の、母の姿。
それと、目の前の少女が、重なる。
――神を冒涜する行為である
「博士、もしかして…」
顔色の変わっていく僕に、博士は喜びとも哀しみともつかない表情で、ただ微笑んでいた。
――錬金術師
「この子も、あそこから、来たんですね?」
「この子は、望というの」
僕の問いにはこたえず、博士が言う。彼女の髪を撫でながら。
「この子の存在が、やがて、希望のひとかけとなるように」
失ったものを取り戻せると思った。
だけど、決して、失ったもの元通りになることはない。
それは、「巧」をもってして、既にわかってしまったこと。
「巧、私はもう、とどまることは出来ないのよ」
とどまること。
何処に? 何に?
博士の研究は、この先も、彼女が死ぬまで、続いていく。
ずっとずっと、とどまることなく。
その間に、あと何人、こうした子供たちが、生まれていくのだろう。
生まれたことを、決して不幸だとは思わない。生まれたから、考える自分が居る。生まれたから、疑問に感じる自分が居る。
息をして、生活する自分が居る。
「巧」を認めて、博士を認めることで、僕は僕で居られる。僕であることを、認めていられる。
ふたりが居ないと、自分は居なかったのだから。
ほかの子供たちはどうだろう。屋敷を訪れたふたり目の子供は、夫婦の元に帰って行った。
最後にひとつ、問いかけを残して。「俺は、人間なんですよね?」
作られた躰でも、二度目だとしても。
彼は此処に居た数日の間で、ちゃんと自分の立つ場所を踏みしめて。
これから、普通ではないことを、二度目であることを、何度もかみしめながら。
少女――望はどうなのろうか。
僕たちは二度目であっても、年齢に即した躰と記憶を持っている。しかし望は、既に十七歳程度の肉体を持っている。なのに、記憶はまだほとんどない。
博士の研究において、望の存在は大きな前進になるのだろう。だが、彼女にとっては、どうなのだろう。
彼女はまだ何も知らないし、しばらくは、この屋敷から出ることもないだろう。
何も知らなければ、屋敷のなかの世界は柔らかく、優しいのだから。
僕が生まれてから、十九年が経つ。
博士は自身の、研究の真価がわかったのだろうか。僕たちを作る意味。本当の、価値。
僕の存在する意味。「巧」が理解した、博士の研究。
同じ巧としての僕にも、理解できるだろうか。
まもなく、博士は望に、教育の一環として庭仕事を任せるようになった。僕が今まで行っていた掃き掃除や水遣りを、彼女がやるようになる。
箒の使い方、掃き方、ホースの使い方、蛇口をひねると水が出ること。望は本当に、何も知らなかった。日常に必要なひとつひとつを教えていきながら、僕は妹を持ったような気がしていた。
「たっくん、これは?」
最低限の言語だけを備えた望。彼女は僕を「たっくん」と呼んだ。そして博士のことを、「おかあさん」と、呼んだ。
僕が何年か前に、やめた呼び方。
「これは、ちりとり。まとめた葉っぱやごみを集めるもの」
望は美しい子供だった。博士の幼少のころによく似て。当たり前のなのかもしれないけれど、同じ年ごろの博士にはなかっただろう、無垢な面を色濃く残して。
「ねぇたっくん、綺麗だね」
望に言われて見上げた空は、夏を間近に控えた、群青色に近い青色。
何度も見上げた空の色を、綺麗だと表現したことは少ない。世界をよく知らない望には、この色はどんなふうに、綺麗に映っているのだろうか。
きっと僕に見えるのとは、違う色。
生まれ落ちたそのときから、記憶とは不釣合いな躰をもって、限られた屋敷のなかの世界で。
僕と同じ、人から生まれたのではなく。僕とは違って、記憶と躰の年数が大きく異なっている。
「望、」
「なあに?」
「世界は、綺麗?」
僕の問いに、望は少し首をかしげると、顔いっぱいに笑った。
「綺麗で、素敵っ」
その表情に、僕は不覚にも、泣きそうになってしまう。
「たっくん?」
「うん…なんでもないよ」
世界が美しいなんて感じていたのは、僕にとって、どれだけ過去のことなんだろう。
*
「巧」が亡くなった歳を、僕は越えようとしている。
四月。毎年少しずつずれるけれど、決まって春に、桜は咲く。
縁側で満開を少し過ぎた桜を眺めながら、僕は「巧」に問う。
あなたは、博士のしていることを、本当にわかっていたのですか? 博士のことをだけでなく、生まれた僕たちのことを、考えていましたか?
博士に迷うなと言った「巧」。博士の研究を支えた、たったひとりの理解者。僕は、そんな存在に、なることが出来るのだろうか。
僕と「巧」は違うけれど、僕の生きていく理由は、意義は、そこにある気がする。
限られた世界のなかで、限られた関係のなかで。僕は博士を信じなければ、何もすがるものなどないのだ。
「巧」はきっと違うだろう。
彼は外の世界を知っている。人として、戸籍を持ち、経験を積み、そうして、博士の研究を受け入れるだけの器を作っていったに違いない。
僕とは違う。
だけど、僕と同じ。
同じなのに、違う。
行き着く先は、何処にあるのだろうか。
何処にも、ないのだろうか。
「僕は、」
枝に咲く、ピンク色の花弁が無数に。青空に溶け込んでいくよう。
地面に舞い落ちた花びらは、土色に汚れてしまうのに。
「あなたなのに、あなたじゃないんだ」
自分というものが、はっきり目に映ればいいのにと、出来もしないことを願う。
「あなたじゃないのに、あなたなんだ」
鏡を覗けば、「巧」はそこに居る。桜の木を見るたびに、僕は彼を思い出す。もう当の昔に、亡くなってしまった彼。博士の研究の、最後のきっかけとなって。僕が作られて。
庭で、望が図鑑と庭の植物とを見比べている。毎日爆発的な勢いで増えていく望の知識。もうたぶん、そこらへんの中学生と変わらないだろう。
知ることは愉しいけれど、残酷。
あと何年か経って、彼女が外の世界を知ったとき。彼女は何を思うのだろうか。
自身の意味を、何処に見出すのだろうか。
僕とも、ほかのふたりとも違う。否定的な意味合いを持って、世界でたったひとりの、存在として。
*5*
「たっくん」
望の呼びかけに、僕は我に返る。
「え、ああ。なに?」
手元のシチューをかき混ぜながら返す。よかった、焦げているわけではない。
「…望?」帰ってこない返答に、僕が彼女のほうを見ると、掌がぱっくり切れて、腕を血だらけにした望が立っていた。傷口からは、筋繊維らしき赤とピンクの色が、赤色の液体に包まれて。
「のぞむ?」
「どうしよう、たっくん」
思いのほか、冷静な声だった。
「なんだか、変な感じなの。ふらふらするの。からっぽになってくみたいで――」
そこまで言うと、眸がぐるんと上を向いて。
「望っ」
糸を切られた操り人形のように、望は床に崩れ落ちた。
研究室から出てきた博士は、椅子に座り込むと、大きく息を吐いた。
両手で重そうに額を覆い、俯く。
「望は…」
扉の前で、座ることも出来ずに待っていた僕は、我慢出来ずに問う。
「傷自体はなんの問題ないわ」
か細い声で、博士が言う。ほっとする僕とは相反して、博士の声は安堵とは程遠い。
「博士、なにか…」
「あの子は、痛みを感じていない」
呟いたことばの意味を理解出来ず、数拍、間が開く。
「痛覚が、ほとんど欠落しているの」
痛覚の欠落。
痛みを感じない。
倖せのような、最大の不倖。
「そんな、」
人としての、重大な欠損。
痛みを感じるから、人は危険を回避することが出来る。痛みがあるから、自分を護ることが出来る。
望の元は博士のはずなのに。博士にはない障害が、どうして望にでるというのだろう?
「どうして…」
顔を上げて、博士が小さく笑った。
「私は、神さまになんてなれないということね」
なりたくもなかった神さまに、なったつもりだったのかもしれない。
「人を作ることへの、罰かしら?」
「……」
「神を冒涜したことへの報いかしら?」
普段よりもずっと饒舌に、博士は言う。目の前の僕に向かってではなく、何処の誰へでもなく。
「神さまになんて、なれるわけないってわかっているのに。なりたくなんかないのに。罰を与えるのなら、私を罰すればいいのに」
吐き出したことばの最後、吐いた息。
「あの子には、何の咎もないのに」
罪。
咎。
罰。
報い。
作られた存在。
人としての欠陥。
背負うもの。
神への冒涜。
何十年も、長い長い間、博士と「巧」と僕が、見てきた研究。
その、ひとつの、結果。
「望は、奥ですか?」
博士に問う。
「会わせてください」
「…巧、」
「お願いします」
小さな博士の頷きに、僕は研究室への扉を開けた。
望は右手首から上に包帯を巻いて、ベッドに横たわっていた。目つきが虚ろなのは、貧血からだろうか。顔色は真綿のように白い。
「望、」
「……」呼びかけたら、ゆっくり視線が周回して、僕を見る。「たっくん、」
「手は、大丈夫?」
恐る恐る、僕は訊ねる。
包帯で固定された自分の手を見て、望が呟く。
「なんだか、変な感じ…熱い、」
「…痛く、ない?」
ああ、こうやって僕は、自分を追い詰めてゆくのだろうか。
望の口から、彼女の真実を聞き出して。
「痛いって、どんな感じ?」
博士の感じた絶望や痛みを、僕自身も、感じて。
そんな自傷行為は、滑稽なほど、自淫行為に似ている。
怪我をしていないほうの望の手に触れる。あたたかかった。望は生きている。たった数年にも満たない記憶と、作られた躰しか持たないけれど。確かに、望は生きているのだ。
「たっくん、」僕の手をかすかな力で握り返しながら、望が不思議そうに言う。「どうして泣いてるの?」
どうして、涙が流れるのだろう。
僕たちは人ではなくて。作られた存在に過ぎないのに。
こんなにも締め付けられる胸の痛みは、何処から来るのだろう。
「心が、痛いからだよ」
言ったら、望の眸からも、涙がこぼれた。
望の怪我は順調に回復し、季節はひかりの緑のまばゆい夏に変わった。
博士はあれ以来、痛みを感じない望の障害を治そうと研究室にこもるようになったけれど、数ヶ月経つ今も、きちんとした治療法はわかっていない。
たまの息抜きのとき、博士は決まって縁側に居た。「巧」の植えた桜と庭仕事をする望を眺めながら、彼女は何を思っていたのだろうか。僕にはわからない。
失ったものを、取り戻すことが出来たのだろうか。僕や望から、屋敷の外に居る子供たちから、博士はどんなこたえを得たのだろう。
もうすぐ、丸二十年が、経つ。
*
その事故が大きく報道されたのは、八月の初旬のことだった。
死者百二十七名、重軽傷者三百名以上を出した鉄道史上最悪の事故。その夜、久しぶりに屋敷を訪れた三宅の要請で、博士は医師として、事故現場に赴いた。
ニュースで繰り返し流される事故現場の映像を見るたびに、僕は博士が現場に行くことの意味を、一晩中考えていた。
一週間後、屋敷に戻った博士は僕を見なかった。何も言わずに研究室にこもると、それから数日の間、一歩も出てくることはなかった。
その様子から、僕はひとつの予測をして、その予測が当たっていることを、数ヵ月後に知った。
伊弦という名の少年を目の前にしても、望のときのように、驚いたりはしなかった。
博士に連れられて立つ伊弦は、まだ幼さが完全に抜けきらない。望よりも、いくつか年下に見える外見。
「博士、彼は――」
対面を終えたあと、僕は博士に問う。彼は何処から来たのですか?
「ねぇ、巧」
書斎の椅子に躰を沈める博士が、僕のほうを見ないで、言う。
「夏にあった列車事故のことを、覚えている?」
「…はい」
「彼はね、その事故で亡くなったひとりなの」
鉄くずになった先頭車輛に乗っていた乗客のほとんど全員が、亡くなった。
亡くなった運転手と、鉄道会社に向けられる非難。
死傷者合わせて、四百人以上。
鉄道史上最悪の事故。
「……どうして、彼ひとりだけを助けたのですか?」
死んだ者はたくさん居た。伊弦ひとりではない。たくさんの人が死に、たくさんの遺族が生まれた。
救うならば、そのすべてを救わなければ、意味がないのではないか?
「あの子はね、死んでもなお、生きたいと願った」
机上のファイルから、一枚の写真を取り出す。見るも無残につぶれた車輛の鉄くずの隙間から、一本、腕が伸びていた。
「これは…」
「それは、伊弦の腕よ」
天に伸ばされた腕。何かを掴もうと、わずかに曲げられた指。
掴もうとしたのは、一体なんだったのだろう。
掴もうとしたのは、こんな未来だったのだろうか。
二度目の、人生だったのだろうか。
「今の伊弦が、これから先、私をどう判断するかはわからないけれど。死を目の前にしたとき、伊弦は確かに生きたいと思った。私は、彼を助けたのではない。生きたいと願った彼に、少し手を貸しただけ」
「彼はきっと、事実を知ったときに、あなたを非難しますよ?」
「そうかもしれないわね。それでも、仕方がないわ」
微笑んで、額に掌を添える。
「あなたは、私をどう思う?」
最初の子供。ふたり目の「巧」として。
「……」僕は決して、博士を否定したりしない。それをすることは、僕も望も、否定してしまうことになる。
「よく、わかりません」
「…………」
「だけど僕は、あなたのそばに居ます。彼の代わりとしてではなく、僕自身として」
「巧」にとらわれているのは、僕ではなく、博士のほう。
失ったものを取り戻すためにはじめた研究に、飲みこまれ、ひかりすらも見えないままに、ひたすらに研究の結果を求めた。
僕は博士のそばにいたい。そうして、飲み込まれた彼女が、これからどういうふうに生きていくのかを、見届けたい。
僕がそばに居続けることで、もしかしたら博士にはある種の苦痛を与え続けるかもしれない。だけど、それはきっと、必要な痛みなのだ。
博士は「巧」と同じように、きっと僕のことも、同じように愛してくれた。望のことも、ほかの子供たちのことも。そして新しく生まれた、伊弦のことも。
同じように。
愛しみ、慈しんでくれる。
望の、まだ少しだけ不自由な手。伊弦を弟のようにかわいがり、庭で一緒に掃き掃除をする。赤く染まる山はところどころ茶色く染まり、間もなくやってくる冬を思わせた。
「ねぇ、望」
一休みの縁側でお茶を飲みながら、僕は隣に腰掛ける望に言う。
「望は、自分のことをどう思う?」
湯飲みを両手の親指で撫でながら、望は上目遣いで、考える。そのもうひとつ隣では伊弦が、僕が博士から習って焼いたクッキーをおいしそうに頬張っていた。
「うれしい」
こたえは、予想出来なかった類のもの。
「おかあさんもたっくんもいっちゃんも、みんなやさしいし。空も森もきれい。いろんなことがあって、いろんなことを知って。わたしが、何処から来たのかとか、そんな難しいことは、まだよくわかんないけど。わたしは、生まれてきてよかった。こうして、此処に居られることが、すごく、うれしい」
裏も表もない。そのままの、望の気持ちだとわかった。
言ったあと、伊弦を見る望の目は、やさしい母親のようで。
人を作るという行為。
非難されてしかるべき、批判されることを前提とされた、決して認められない研究。
研究の結果として、生まれた子供たち。
自身に解消されることのない疑問を抱き、人としての不完全さを抱えて。
それでも、人として、生きてゆく。
――生まれてきてよかった。
そのことばが、僕の躰中を、潤していく。
たったひとつ、二十年もの間、求め続けていたものは、もしかしたら、こんな形をしていたのかもしれない。
「あ、たっくんまた泣いてる」
よしよし、撫でられた頭はとてもくすぐったくて。不思議そうに僕を見る伊弦に、なんでもないんだよ、と涙をこぼしながら、言った。
*
「それじゃあ、行ってくる」
「うん、いってらっしゃい」
玄関先まで見送りに着てくれた望の声。障害はなくならないけれど、彼女はそれさえも受け入れて、三年を過ごした。
昨年、三宅に教わって、車の運転を覚えた。公的な免許は持っていないから、無免許運転になる。もちろん違法だけど、こんな田舎は、私道とほぼ変わらない。走っているのはせいぜい乗り合いバスが一時間に一本あるかないか。
だからというのも変だけれど、僕は屋敷と集落の往復ぐらいでしか、車は使わない。あとは、昔と同じように自転車をこいでいる。
今日、当時十二歳だった伊弦が、再び屋敷を訪れる。
十五歳の誕生日を迎えて、事実を知るために。
生まれてすぐ、屋敷で過ごした数ヶ月の出来事は、すべて忘れているはずだ。僕のことも望のことも博士のことも、屋敷のことも、彼が何も覚えていないだろう。
三年前に生まれた彼は、自身のことを、一体どんなふうに思うのだろうか。
同じようにして生まれた望と、どんなふうに違うのだろう。
彼女は自分を肯定した。世界は綺麗で、生まれてよかったと、今も変わらず言う。
たとえ、どんなことを思い、自身をどう評価したって、僕たちの存在は変わらない。人ではないけれど、人であるということ。
紅葉の深まる森を抜ける。小さな集落は、今も昔もほとんど変わらない。
集落の人々と関わることはほとんどないし、関わろうとすることもない。
彼らは僕たちのことを怖れ、認めようとしない。
いつか、理解される日は来るだろうか。僕が生きている間には、ないような気がする。
認められない。理解されない。
彼らは僕たちを知らないのだから、仕方がない。
僕たちが、彼らと同じ、人であること。
同じように考え、同じように傷つき、同じように生きて同じように死ぬ。ただそれだけの存在だ。
ただ、生まれてきたところが、違うだけで。
古い駅前に着く。ロータリーにはちょうどバスが停車したところだった。
駅舎の前で、見覚えのある少年が、心細そうに立っていた。
車を降りて、僕は彼に歩み寄り、声をかける。
「こんにちは」
*エピローグ*
人生のほとんどを、研究に費やしてきた。弟を亡くしてから、気がつけば五十年以上の月日が経っていて。
研究は成果を出したけれど、私自身が望んだ結果だったのかといえば、これだけの時間が経った今でも、よくわからない。
失ったものを取り戻したかった。
弟も息子も助けることの出来なかった無力な自分を呪いながら、ただひたすらに、その日だけを待ち望んで。
そうして、ふたり目の息子を得て。六人の子供たちを生み出して。
わたしは間違っているのだろうか?
正しくはなくとも、間違っては居ないのだろうか?
巧も望も、自身を受け入れてくれる。決して、わたしを責めたりしない。
ただそこに、存在してくれる。
取り戻したかったものは、そのままの姿で蘇ることはなかった。姿かたちは同じでも、巧は息子とは違った。わたし自身から作り出したはずの望は、わたしにはない障害を持ち、感性を持っている。
「どうなのかしら、ねぇ?」
縁側から臨む中庭の桜は、もうずいぶんと立派になった。植えたときには、ほんの数十センチの苗木に過ぎなかったのに。
だけどそれすらも、当たり前なのかもしれない。
何故ならそれから、二十年以上が過ぎたのだから。
巧が生まれた日の朝、台風が去ったあとの、荒れ果てた庭で。鮮やかに狂い咲きした桜の花。
あれ以来、何度も季節はめぐり、台風だっていくつもやってきた。だけど、あんなことは未だない。
――母さん、僕は此処に居るよ
今日、最後の子供がやってくる。十五歳の誕生日を迎えて、自身を知るために。
長い冬が、もうすぐそこまでやってきている。山の冬は早足でやってきて、のんびり遊んでいく。
吐く息が、かすかに白い。
さらさらした風に残りわずかな葉を揺らしながら、桜の木はただそこに、静かに佇んでいる。
(2006/09.29 20229文字)