空を飛ぶ病
教室のなかで、彼は異質な存在だった。
児童養護施設から通う彼は、いつも空を眺めていた。その視線は、時に突き刺すように鋭い。
斉藤春緋。
市立小島中央中学校、3年6組の教室で。
誰もが彼に話しかけることを躊躇った。彼の周りには、見えない壁があって、それを越えることは容易かもしれなかったけれど、誰も近づこうとしなかった。
そんななかで、例外が、ただひとり。
*
「斉藤」
かけられた声に、春緋は視線を向ける。クラスのなかで、彼に声をかける人物はごく限られていた。
「…」
「お前今日日直だろ」
ぐい、差し出された日誌を、無言で受け取る。目は見ない。それは、春緋が生きてきた15年間で学んだことのひとつ。
他人と関わることは、自分自身を脅かすこと。
小柄な春緋は、顔を上げなければたいていの人間とは顔を合わせることはなかった。俯いていれば、些細な衝突は避けることが出来た。関わらなければ、疎外されることもない。
「斉藤、」
受け取った日誌から手を離さずに、西條一は再び春緋を呼ぶ。
「…。なに、」
目を逸らしたまま、返事をする。一は、何も言わずに、日誌から手を離した。自分の席に戻っていく一の後姿をようやく目視して、春緋は小さくため息をついた。
日直日誌を開いて、授業時間割と天気、自分の苗字を書く。
“斉藤”
書いて、春緋は違和感を抱く。もわもわ、自分のなかに居座り続ける。
春緋には、父親の記憶がない。否、完全にないとは言えないけれど。幼いときに見た人物が、父親なのかどうか、確証はもてなかった。だから、父親はいないと、自分のなかで決めている。だけど、斉藤という苗字は、父方のものだ。母方の苗字はまったく違う。
父親はいない。母親も、春緋が6歳のときに亡くなった。8歳まで親戚の間を転々として、8歳になって少し経ったころ、今暮らしている児童養護施設『啓慈館』にようやく落ち着くことが出来た。
母親が死んでから啓慈館に行き着くまでの2年間は、理不尽な暴力に満ちていた。2年という月日は、春緋の人間性を歪ませて形成させるのに、充分すぎた。親戚といえど、春緋にとって、他人は自分を排斥しようとする存在だった。祖父母さえも同じで。唯一、無条件に愛してくれた母親はもういないのだと、思い知った。
斉藤という名を名乗り続けるのは、少しばかり抵抗があった。だけど、母方の苗字を名乗るのは、存在を歪められるようで痛かった。
母親には軽い知的障害があった。自分は本来生まれてくるはずがないと思われたいた存在だと、知っていた。
でも、春緋は生まれてきて。母親が死んでも、誰も愛してくれなくても、春緋は生きていた。
“晴れ”
書いた文字に、空を見上げる。何処までも澄み渡る、空があった。母親の葬儀の日も、こんな秋晴れの空だった。
「そら、とびたいな」
呟いた声は、誰にも聞き取れないように、小さく。細く。
*
「和馬」
呼んだら、廊下に座り込んでいた橋本和馬はばつが悪そうに一を見上げた。
「やあ、いっくん」
「やあ、じゃないだろ」
「…ありがとう、いっくん」
「…そうでもなくて、」
ため息混じりに返すと、和馬は額の上で手を合わせる。「ごめん、いっくん」
「そうでもない」
「じゃあ、なんだよぅ」
和馬の威勢がよくないのは、珍しい。いつもは食って掛かるキャラなのに。ことに、斉藤春緋について、和馬は弱かった。
「いい加減、斉藤との間に俺を挟むのは辞めようぜ。クラス委員はお前だろ?」
「…だって、」
もごもご。こんな態度も、春緋を相手にしたときだけだ。「こんな態度を、とっかえひっかえの女子を相手に見せてみたら」一度からかって言ったら「それとこれとは全然別問題だよ」言われた。
「斉藤の何がそんなに駄目なんだよ」
「いっくん、わかんない?」
「わかんない。」
和馬が斉藤春緋を避けるのは、2年の春からだ。同じクラスになった和馬は、はじめて声を交わした日、頭を抱えて一に言った。
―――駄目だ。僕、斉藤くんには関われない。
13年間生きてきてはじめてだよ。末尾に付け足されたことばに、一はそれ以上問うことは出来ず。今も折を見て問いかけるけれど、和馬ははっきり言わないまま、3年に進級して、今に至る。
「いっくんにもそのうちわかるよ」
そう言われて一年以上が経つけれど、一には一向にわからないまま。
「ていうか、いい加減、中学卒業するんですけど」
和馬と向かい合ってしゃがみ込んで、一。
「はやく卒業したいよ」
「その前に受験があるけど」
「受験はなくていい」
「何言ってんだか…」
「うぅ」
「いい加減、理由を教えてくれてもいいと思うんだけどな」
「…。僕、見たんだよ―――」
言いかけたところで、見計らったように、チャイムが鳴った。
他人と表面的に付き合うことは得意だった。ある意味、絶対的な自信を有していたといっても過言ではない。それが、自分のアビリティだと、和馬は思っていた。
2年に進級して、斉藤春緋と同じクラスになるまでは。
新しいクラスになったら、とりあえず全員に挨拶することから、和馬ははじめる。そうすることで、表面的にでも人物を見ようというものだ。内面内面というけれど、結局人間は表面で付き合っている。よほど親しくないか、恋人でもない限り、表面から奥に入り込むことはないし、必要もない。7割の人間とは、初印象で付き合っていける。はじめはこういう人だとは思わなかった―――そんなのは、ごく一部の人間にしか適応されないのだ。
和馬が始めて春緋と挨拶を交わしたのは、始業式から1週間が立ってからのことだった。始業式の日から、春緋がずっと学校を休んでいたからだ。
「おはよう」
何の含みもなく、和馬は誰と同じように声をかけた。ただの朝の挨拶。
「…、おはよう」
いつも俯いている春緋が、怯えたように和馬を見上げた。その視線に、和馬は許容しがたいものを感じた。
入学式の日、西條一に感じたものとは、対極に位置する感情。感覚といってもいい。
春緋の眸の奥。
怯えた光の、奥、表面にちらりと覗いた影。
背骨に液体窒素を注がれたように。
一瞬、和馬の時間が停止する。
「ぁ…」
繋ぐことばさえもみつからないまま、それ以来、和馬は春緋とことばを交わしていない。
クラス委員になって、どうしてもことばを交わさないといけないときには、もうひとりの女子に頼んだ。今日のようなときには、一に。
同じ教室にいるのも耐え難くて、和馬は2年に進級してから、教室にいつかなくなった。とはいっても、もともと春緋のほうが教室にいないので、和馬が逃げ出すことは少なかったけれど。
教室にいないとき、春緋が何処に居るのか和馬は知らない。知りたいとも思わない。ただ、同じ空間に居たくなかった。決して、春緋のことが嫌いだったわけではない。ただ、存在として、受け付けられなかっただけで。
2年とき、春緋はクラスの男子から軽いいじめに遭っていた。それ自体はすぐに収まったけれど。事の終息は、誰もが予想だにしないものだった。
いじめの首謀者だった男子が、自宅のマンションの屋上から、飛び降りた。
自殺だったのか、事故だったのか、他殺だったのか、今でもわかっていない。
もちろん春緋に疑いの目は行った。けれど、マンションはオートロックで、その日を含め、春緋がそのマンションに近づいたことすらなかったことから、疑いはあっさり晴れた。生徒の間に密やかな噂を残して。
それ以来、事実を知るクラスメイトは誰ひとりとして、自ら春緋に関わることをしなくなった。
和馬は一度だけ、一に洩らしたことがある。
―――やっぱりだ
何が、と訊き返されても、和馬は聴こえないふりをしたけれど。
あの日に感じた影は、確かに存在している。それが、春緋の意識しているものか否かは別にして。
*
午後の授業を終え、日誌を担任の机に置くと、春緋はまっすぐに学校を出た。人がいる場所は苦手だ。学校も。啓慈館も。何処も、春緋にとって居心地の良い場所ではない。
それはきっと、他人にしても同じことだろう。
春緋が居ることは、誰にとっても、居心地のいいものではない。
学校を出て、川土手を歩く。まっすぐ啓慈館に帰る気にもならなかった。
長袖のシャツは、朝晩には肌寒い。秋茜が、まだ青いすすきの上を飛んでいた。くるくる、忙しなく飛んでいる。何をそんなに急いでいるの? そんなに急がなくていいから、僕は空が飛びたい。
―――そら、とびたいね
母親が、繰り返し春緋に言ったように。言ったことばのままに、空を飛んだように。
いつまでも幼かった母親。無条件に、何処までも春緋のことを愛してくれた母親。今はもう、何処にもいない。最後に墓参りに行ったのは、いつだっただろう。
春緋は、母親の墓が何処にあるのかさえ、知らなかった。
「春緋」
呼ばれる。
世界中で、春緋のことを名前で呼ぶのは、ひとりしかいない。
振り返ると、赤い世界のなかに、スーツ姿の男性が立っていた。振り返った春緋に、昔となんら変わらない表情で微笑む。伸びた前髪が眸にかかっている。切らないのだろうか。それとも、伸びていることに気づいていないのか。縁のない眼鏡は、本来彼の持つ生真面目な雰囲気を際立たせる。
彼と初めて出会ってから、もう9年が経つ。祖父の死を伝え、それから、春緋の保護者のような存在で居てくれている。職業はなんだったろう。弁護士か。違うような気もする。児童福祉を主に扱っているのだと、きいたことはあるけれど。職業名はきいたことがない。
「天草さん、」
「久しぶりだね」
天草と春緋が最後にあったのは、いじめていた男子が飛び降りて亡くなったとき。
いじめという事実に、天草は対して愕くこともなく、淡々と学校側と話をすすめた。世界からはみ出して疎外されてしまうのは、春緋の生まれもっての体質といってもいいほどで。初めて出会った6歳のころから、このテのトラブルは尽きなかった。
「シスターが心配するよ」
「まだ、大丈夫です」
啓慈館の門限は中学生は19時になっている。春緋は時計を持っていないからわからないが、たぶんその刻限に近いのだろう。
「”きみは人の気を乱すのかな”」
「……」
黙る天草に、春緋はことばを繋ぐ。
「天草さんが、僕を啓慈館に連れて行く前に言ったことば。」
覚えてますか? 言うと、覚えてるよ、天草は静かにこたえる。
「僕、あのときはこのことばの意味がわかりませんでした」自分が駄目なんだと、そういうニュアンスは伝わっても。「わかったのは、10歳になった日でした」啓慈館で暮らしていた子供のひとり――貴也が、空を飛んだ日。
春緋が、はじめて誰かを飛ばせた日。
「僕はどうして、人から厭まれるんでしょう? 僕は、ただ此処に居るだけなのに」
数メートルの距離を置いて。天草の表情はいつものように真面目で。春緋は少し視線を下げたまま。天草の、首から下だけを、見る。
彼だけは、春緋を排斥しなかった。天草だけは、春緋に触れてくれた。まだ親戚の間を転々としてころ、何度目かの病院で、天草が見舞いにくれたキリンのぬいぐるみを、春緋は今も持っている。
天草が口を開く。なんていうのか、春緋にはわかっていた。「――どうしてだろうね、」
そして天草は、春緋が想像したとおりのことばを、口にした。
僕は、その答えが知りたいんです――春緋は口に出さずに。俯いた。
夕方の緋色が、夜の青に飲まれていく。
啓慈館に戻ると、門のところに誰かが立っていた。西條一だと、春緋はすぐにわかった。来た道を引き返そうとしたら、苗字を呼ばれた。「斉藤」それが、春緋にとって違和感を持つことばだとしても、春緋をさす言葉だというのは、明確で。
「…」
足は、動かなくなる。
一もまた、春緋を追い込むのだろうか。頭のなかに、ことばが浮かぶ。どうして。僕は何もしていないのに。僕は此処に居るだけなのに。
厭うならば、触れないでくれ。
排斥するのなら、関わらないでくれ。
痛いのは嫌だ。怖いのは嫌だ。
思い出すには充分すぎる記憶の群れ。親戚の顔が次々に浮かんでは消えずに積み重なっていく。春緋を否定する、壊そうとする、理不尽な大人たち。
――ぱち、
目の奥で、火が爆ぜる。音が、する。
この音を最後に聞いたのは、いじめていた男子が死ぬ少し前だった。
排斥されるのなら。先手を取って、こちらが先に―――。
天草が教えてくれた魔法のことば。背後で、西條一の足音が近づいてくる。
「――ぁ、」
「ちょっと、いいかな」
教室のなか。西條一は、一見春緋と似たような位置にいた。だけど、彼は春緋とは明らかに違っていた。彼は、自らクラスメイトと関わろうとはしなかったけれど、確かにクラスに受け入れられていた。橋本和馬に。
橋本和馬。
1週間遅れて登校した春。いちばんはじめに、春緋に声をかけてきて。
そしてきっと、春緋の奥底まで一瞬にして覗き込んで。
橋本和馬が春緋を避けていることはわかっていた。避けられることには慣れていたし、どうとも思っていなかったけれど、男子が死んでから、気づいた。
ああ、彼は、きっと知ってるんだ。
春緋のなかに根付く闇も影も。男子がいかにして、死に至ったのかも。西條一は、橋本和馬と親しい。きっと、通じている。
吹いていた風が、不意に、なくなったようで。
振り返る。背後の西條一は、いつも教室でみるのと同じ表情で。
そこに、悪意はないのだけは、わかった。
「―――」
春緋は、魔法のことばを、飲み込む。
「な、なに?」
「いや、学校じゃ、あんまり話すこととかないし」
「…」
そんなの、今に始まったことじゃない。春緋が学校で極力口を開かないのは、衝突を避けるためだ。居るか居ないかわからない、それくらいが、誰も刺激しないですむ。
「なぁ、俺、斉藤は変なやつでも悪いやつでもないと思う」
「…?」
思いもよらない発言に、春緋は思わず眉を寄せる。一体、目の前のクラスメイトは何が言いたいのだろうか。
「それでも、みんなが斉藤を避けてるのは、何か理由があるんだろうな。それが、俺にはわかんない。わかんないから、俺は別に斉藤と関わることも平気だし、こうやって待ち伏せみたいなこともしてる」
「なにが、いいたいの?」
「何、てわけじゃないけど」一は、一度口をつぐんでから。「なんとなくかな」
「…」
「俺、理由もなく誰かを避けるとか、嫌うとか、そういうのが嫌いなんだ」自分自身がいじめられたとき、そこに理由なんて見当たらなくて。誰よりも困惑して、どうしたらいいかわからなかった。「でも、今、そんな雰囲気がクラス中に蔓延しててさ」
正直、少し息苦しい。
不思議な感覚が、春緋のなかに溢れてくる。何処からわいてくるのかわからない。ただそれは、確かな、感覚で。
―――何処に行きたい?
幼いとき、天草に一度だけ連れて行ってもらった動物園で、キリンの眸が潤んでいたのを見たときと。なんだか似ている。
ないている。
「おせっかいだとは思ったんだけど。一応、伝えときたくて」
すべてが敵じゃない。すべてが自分を否定しているわけではない。和馬が、一を無条件に受け入れてくれたように。春緋にも、きっと。
「迷惑だったらごめんな。あと、こんな時間に、ごめん」
じゃあ、また学校で。
一は、そのまま春緋の横を通り抜けて、帰っていく。きっとそこには、春緋には絶対に手の届かない、家庭がある。
「…」一の後姿が、曲がり角に消えるまで、見続けた。「迷惑じゃ、ないよ」
ぽつり、呟いた。
*
空が近い。
啓慈館の屋上で、春緋は真上を見上げる。午前中の空に、太陽はまだ低い。
秋が過ぎて、冬が来る。目を閉じると、乾いた冬のにおいがした。
春緋が10歳になった日。いつものように屋上にうやってきた春緋を、当時中学2年だった貴也が、待ち伏せをしていた。この間の西條一とは、明らかに真逆にある、悪意に満ちた表情で。
―――お前の母さん、自殺したんだってな。
誰にも話していない過去。シスターが話すはずはないし、天草が話したとも考えられない。何処から漏れたのかわからない事実を、貴也は口にした。
そしてことばに続いたのは、理不尽な力。此処には――啓慈館には、大人たちの振るうような理不尽な暴力はないと思っていた。啓慈館には少なくとも春緋の居る――居てもいい場所を提供してくれているはずだった。
痛いことはない。怖いこともない。
此処には、経緯は違えど、春緋と同じように親ともに暮らせない子供たちが寄り集まった場所だから。
受け入れいれはせずとも。
排斥もされない。
そう思っていたのに。
貴也は、春緋に飛べといった。お前も飛べ。母親のように。押し付けられた柵の金属感、圧迫感、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだ。どうしようもない疑問の渦。
そらをとべ。
貴也は言った。
母親のように、そらをとべ。
だけど、春緋は飛ばなかった。
代わりに、貴也が、飛んだ。飛んで、飛びきれずに、地面に落ちて、叩きつけらて、死んだ。
誰も春緋を疑わなかった。理由はわからない。貴也が何故春緋に暴力を振るったのか、それと同じように。
わからない。
色を抜いたわけでもないのに茶色い髪が、陽のひかりにすけて赤に近い金色。
髪の間に覗く空は、何処までも何処までも、飛んでいけそうな。
飛んでいけたら。
すべてから解放される。すべてから、自由になれる。きっと。
きっと―――。
ふと、視線をおろすと、屋上に出入りする扉のところに、天草が立っていた。休日なのに、いつもと変わらないスーツ姿で。思えば、初めて会った日から、彼がスーツ以外の服を着ているのを、春緋は見たことがなかった。
「学校に行ってきたよ」
春緋のすぐ前にぺたりと座って、天草が言った。スーツが汚れるなんて、そんなことは気にしないのだろう。ときどき、この人は大人なのに子供のようなことを平気な顔をしてする。
「高校はどうするんだい?」
問いに、春緋はかすかに首をかしげる。悩むべきことではなかった。こたえは、決まりきっている。
「行きません」
「どうして?」
「僕には両親がいません。お金がありません。中学を出たら、啓慈館からも出て行くつもりです」
「お金の問題なら、いくらでも解決のしようはある。奨学金を貰えばいいし、国の援助も受けられる。たとえそれが出来なくても、私がいくらか工面しよう」
「いえ」両足を投げ出して座る、薄汚れたコンクリート。「僕が、僕自身で決めたこと、ですから」
春緋のいつになく強い口調に、天草は困ったようにわらう。
「天草さんは、僕に魔法を教えてくれました。それだけで、充分です」
ことばのまほう。
「私はね、君に、世間で当たり前と思われている教育を受けてもらいたいんだ。君は両親もなく、金銭面でも苦しい生活を強いられてきた。だが、教育を受ける権利というのは、誰にだって等しくあるべきものだよ」
「……」
「…」天草は小さく、息をつく。「何と言っても、かわらないか」
それ以上強く言うことはなく。天草はことばを切る。春緋が年を重ねるごとに、より意見を尊重してくれる。
今や、たったひとり、春緋を見ていてくれる、存在。
「魔法は使いすぎると身を滅ぼすと言ったのを、覚えているかな」
ぽつり、天草が言う。
「覚えてますよ」
教えてくれたとき。はじめに言われたこと。魔法を使ってもいいのは、どうしてもというときだけだよ。
「なら、いいんだ」
俯いた天草に反して、春緋は顔を上げる。まるで、鏡を見ているように。春緋は、天草の年齢を知らないから、余計に。
「ねぇ、春緋―――」
俯いた顔を上げて、天草が口を開いたとき、扉に、シスターが姿をあらわした。
背後の気配に、天草は開いていて口を閉じる。
「あら、いらしてたんですね」柔らかい口調で。シスターは誰に対しても柔和な態度を崩さない。「ひと言声をかけてくださればよかったのに」
「いえ、春緋に、少し話があっただけですから」
「そう」グレーの衣服が、風に揺れる。「お話は済みましたか?」
天草を越して、問うシスターに、春緋は頷いた。
「ランチの時間ですよ。良かったら、天草さんも一緒にいかがですか?」
春緋が天草を見ると、彼は立ち上がって、申し訳なさそうに、シスターの申し出を辞退した。
「すみません、これから、まだ行くところがありますので」
「そうですか。それでは、またの機会に」
「はい、ありがとうございます」
座ったままの春緋が、天草を見上げていると、彼は春緋をみて、少しだけ、わらった。
「じゃあ、また」
シスターに会釈して、屋上を去った後姿が、春緋のなかで、天草の、最後の記憶になった。
それ以来、春緋が天草とことばを交わすことはなかった。
翌日、春緋の部屋を訪れたシスターが、天草が交通事故に遭い、意識不明の重体であると、伝えた。
分厚い硝子の向こうで、天草は包帯とコードにまみれていた。かろうじて生きているのだということは、無機質な電子音が規則正しくなることで教えてくれる。
機械が、人の生死を教えるなんて、なんだかおかしい。
医学の知識などカケラもない春緋から見ても、天草が助からないだろうことは明らかで。
「どうして、」
言っても仕方のないことでも、ことばにしないと落ち着かなくて。
「どうして」
神さま、もしも何処かに居るのなら。教えてください。
どうして、僕の大事な人ばかりを奪っていくのですか?
機械音は、春緋に何も教えてくれない。ただ、天草がまだこの世にいるのだということを、定期的に教えてくれるだけで。
春緋が知りたいことは、何ひとつとして。
「あまくささん」
天草と初めて出会ったのは、春緋が6歳のころだった。母親、祖父母が亡くなり、父親は誰だかわからない。親戚にたらいまわしにされる春緋を、ずっと見ていてくれたのは、天草ただひとりだった。
何ヶ月も経たないうちに、親戚の家から病院に戻ってくる春緋を見舞ってくれるのは、天草ただひとりだった。
いつだったか、持ってきてくれたキリンのぬいぐるみを、春緋はまだ持っている。きっと、持ってきてくれた天草自身に、たいした意味はなかったのだろう。春緋は天草とキリンの話をしたこともないし、別段キリンがすきだというわけでもなかった。
ただ、たったひとりで過ごす病室に、不意に訪れたぬいぐるみは、何も言わなくても、春緋のそばにいた。
キリンは、幼いころから同い年の子供より、ひとまわりもふたまわりも小柄な春緋の両手には収まらなかったけれど、抱きしめるにはちょうど良い大きさで。15歳になった今、抱きしめるには小さいけれど、両手には、ちょうど良く収まる。
啓慈館の自室で、ベッドに座って抱きしめたキリンは、やっぱり少し小さくて。春緋の汗や涙を吸った生地は少しだけ毛羽立ってごわついていたけれど、それでも、まるで躰の一部のように、掌に馴染んだ。
病院で見てきた、天草の姿を思い出す。白い部屋で、包帯に巻かれて、絡まりそうなほどのコードに繋がれた躰は、まるでつくりもののよう。
数年前、何も言わずに、春緋に差し出したキリンのぬいぐるみ。まだ持っているのだといったら、天草はきっと、いつもと同じようにわらうのだろう。
母親が死んで、世界中が春緋を否定した。
だけど、天草だけは、そばに居てくれた。
それはもしかしたら、同情にまみれた感情だったのかもしれない。でも、それでも良かった。
かまわなかったんだ。
「――、」
キリンの縫い付けられた黒い瞳が涙をためているのに気づいて。春緋ははじめて、自分が泣いているのだということに気づいた。
―――ないてる
連れて行ってもらった動物園で。実際に見たキリンの眸は、どうしてか今にも泣きそうに潤んでいて。
春緋は、目を離すことが出来なかった。
「あまくさ…さん、」
ひとりきりの部屋には、押さえ込んだ泣き声。
きっとキリンが泣いているんだ。春緋はキリンを抱きしめながら、思った。
それから数ヵ月後、天草は一般病棟に移されたけれど、意識が戻ることはなかった。
*
そらをとぶ。
翌日、春緋は登校したけれど、教室には行かずに、朝からずっと屋上で空を見上げていた。平地にある中学校の屋上なんて高が知れていて、啓慈館の屋上から見上げるよりも、空はずっと遠い。
「此処に居たんだ」
屋上の入り口には、西條一が立っていて。天草であるはずがないのに、天草でないことに、春緋は何処か傷ついていた。
「…」
振り向いたけれど、返事をしないまま、春緋はまた空を見上げる。
母親が死んだとき、おかあさんはそらのうえにいったのかと問う春緋に、祖父は言った。そうだよ――。
母親も祖父も祖母も、空の上の”天国”に居るのだろうか。
天草は、今、何処にいるのだろうか。もうすぐ、空の上に行ってしまうのだろうか。春緋はたったひとり、地面に取り残されて。背伸びをしても、手を伸ばしても、決してその手が空を掴むことはなく。
「教室、戻らないと。担任が心配してたぞ」
背後の声に、春緋はわらう。声に出さず。表情を歪めるだけで。
春緋が必要だった人間は、今はもう、何処にもいない。春緋を必要としてくれた人間なんか、はじめから何処にも存在しなかった。
春緋は求めるばかりで、求められる人間ではなかった。
神さまは不公平だ。
西條一は春緋と似ていると思った。でも、違った。同じになんてありえない。
誰かと繋がっていたかったけれど、繋がることは、春緋にとって理不尽な結果ばかりを与えた。利益など望まなかったのに。ただ存在を受け入れてもらえるだけでよかったのに。
此処に生きていることを、認めて欲しかっただけなのに。
「斉藤?」
空から、視線を下ろす。はじめてまっすぐに見た西條一の表情は、痛みなど知らないようで。表情一枚めくれば、そこには痛みがあるとしても。
世界に受け入れられた彼は、とてつもなく倖せな人間で。
春緋とは違う。
「西條くん」
呼んだ声に、西條一が意外そうな顔をするのがわかった。春緋がこの学校で固有名詞を口にするのは、ずいぶんと久しぶりなことだったからで。
春緋はその意外そうな表情に、自然とわらう。
ことばのまほう。
天草が教えてくれたこと。春緋を否定する世界に対する、たったひとつの対抗法。処世術。
そらをとぶ。
そういって、空を飛んだ母親と同じように。
空を飛びたいと、願い、思い続ける自分のように。
「ねぇ、――」わらってるんだ。春緋は、自分自身で感じる。西條一の、眸の、奥の置くまで。覗き込む。入り込む。「ソラ、トビタクナイ?」
まほうのことばは、たったそれだけ。
一の目の焦点が緩まって。やがて。おぼつかない足を、前に踏みだす。
さあ、とぼう。
空を飛ぼうよ。
啓慈館に来たばかりのころ、将来を訊かれ、空を飛びたいといったら、みんなが否定した。
けれど。
母親が空を飛ぶことを望んだのは確かで。空を飛んだのは確かで。
貴也もいじめていた男子も、飛べなかった。
飛べなかったから、落ちるしかなかった。
世界は、春緋を否定した。
世界は、人間が空を飛ぶことを否定した。
ならば。
同列に並ぶのならば―――。
ピーッ
切り裂く音に、はっとする。何処かのクラスが校庭で体育をしていたのだろう。切り裂かれた音に、西條一の目が、焦点を取り戻す。あーあ。
「残念、」
春緋はまた視線を落として、一の横をすり抜けて、屋上を後にした。
どれくらい、時間が経ったのか。
一は、屋上のコンクリートに落ちた雨粒で、意識を引き戻す。
腕時計を見たら、3時間目が終わる時間だった。なにをしていたんだ、考えて、すぐに思い当たる。
斉藤春緋を迎えに来たんだ。
彼がよく屋上にいることは知っていた。今朝、朝礼前に見かけた春緋がいつまで経っても教室にこないので、気になったのだ。
和馬には何も言わなかった。和馬が春緋を何よりも苦手としているのはよく知っているから。
斉藤春緋。名前を出すだけで、和馬は軽く顔をしかめる。
その理由は、まだよくわからない。だけど。
ぼんやりする前。屋上への扉を開いた先にいた春緋は、教室のなかにいるときとは、明らかに違っていて。頭の奥の奥まで覗き込まれたようで。
同時に、覗き込まれた視線の先に、春緋の影を見たような。
怖いとか、そういうことは思わなかった。
だけど。
見上げたら、大きな雲が、早足で流れていた。
*
3月。
卒業式を終え、春緋が天草の病室を訪れたら、もうそこには誰も居なかった。
ベッドは片付けられ、まるで、はじめから誰もいなかったかのように。
「天草さん…?」
先週、訪れたときは、確かにいた。目覚めることはなかったけれど、窓際のベッドで、眠っていて。
確かに、居たのに。
「あんた、そこの人の知り合いか?」
向かいのベッドの老人が、春緋に声をかける。見ると、怪訝そうな顔をしていた。先週はいなかった。部屋換えでもあったのかもしれない。
老人が何を言うのか、春緋には簡単に想像が出来た。
「……」
老人のたるんだまぶたが、眠そうに眸を覆う。
「身内が居たんだな」
あざ笑うように。羨むように。
「そこのやつは、昨日の夜に死んだよ」
嘘だ。
思っただけで、声には出なかったけれど。
天草が死んだなんて。もう目覚めることはなくても、死んでしまうなんて。
春緋を、置いて逝ってしまうなんて。
母親と同じように。突然に。
―――きみは、人の気を乱すのかな
そのこたえは、永遠にわからないまま。
薄く開けられた窓から入り込んだ風が、白いカーテンを揺らす。ばさばさ、音は、何かを教えてくれるようで、何も教えてくれはしない。
―――ねぇ、春緋
事故の前日、最後に天草と話をしたとき、彼は何を言いたかったのだろうか。
語りかけた口調は。表情は。声は。
いくつもの疑問を残したまま。昇華することなく、留まり続けて。
老人から視線をはがして、ベッドに向ける。
そこには、誰も居なかった。
世界は世界すべてで、春緋を追い込む。母親を奪い、ささやかな日常さえも奪い、そして最後には、天草まで。
何処まで、嫌われればいいのだろうか。
何処まで疎まれればいいのだろうか。
欲しいのは、いつだって、些細な日常だったはずなのに。
将来は何をしたい?
天草に訊かれたとき、春緋はこたえた。そらをとびたい。天草は穏やかな表情で、飛べると良いね、言った。
中学を卒業して、春緋は啓慈館を出た。
進学はしなかった。
ひとりで生きていくんだとわかっていた。何処にいても、春緋はいつだって疎まれる存在だった。受け入れたくれた母親も天草も、もう何処にもいない。
春緋は、本当に、ひとりきりで。
そら、とびたいね
そういって、とんだ母親の夢を、よく見る。
空を飛びたいといった春緋をわらわなかった天草の夢を、たまに見る。
誰か、空を飛べるかな。
考えた。おかあさんは空を飛びたいといった。とんだ。だけど飛べなかった。誰かは、飛べるだろうか。
世界中、探したら。誰か――空を飛べる誰かがいるだろうか。
天草が教えてくれた”ことばの魔法”。春緋の、たったひとつの、生きていくよりしろ。
そらを飛べる誰かに会うためならば、春緋はなんだってする。生き続けることに手段は選ばない。探し出すことにも、同じように。
みんなそらをとびたがっているんだから。
汚れていても小さくても狭くても。
その誰かを、探して。いく。
*
卒業式が済んだ後、斉藤春緋はいつの間にかいなくなっていた。
空いた席には、最初から誰も座っていなかったようだと、一は思う。
それは、春緋が此処に何も残していかなかったからだろうか。気持ちも思い出も、存在も。
何の影響も残さずに。
消えてしまったからだろうか。
「いっくん、」
呼びかける声に、顔を向ける。和馬が、すぐ隣にいた。
「なあ、」こたえは帰ってこないかもしれないと思いながら、一は問う。「斉藤の、何がそんなにいけなかったんだろう」
いじめられるのも。疎外されるのも。疎まれるのも。
存在をひた隠すようにひっそりと息をしていただけなのに。
屋上で空を見上げていたのは、きっと自分たちとなんら変わらない、15歳の子供でしかなかったはずなのに。
眸に写っていた世界は、どんなふうだったのだろう。
「ひとってさ、フィルターを持ってるんだよ」和馬が言う。「それを躰の周りに張り巡らせて、誰かと付き合って生きていくんだ」
「…」
「斉藤くんはね、ものすごく分厚いフィルターを持ってた。でも、僕、見ちゃったんだよ。斉藤くんの中身」
ひかりの少ない眸のなかにありながらも、際立つ影。ドロリとしたそれは、言いようのない恐怖を呼んだ。
怖かった。
関わることが。同じ場所にいることが。いつか自分のひかりまで、侵されてしまうのではないかと思うと。影にのまれて、失ってしまうのではないかと。
3年前、中学に入って、みつけた、西條一というひかりまでも。
「謝恩会行くぞー!」
わきたつクラスメイトの声に、ふたりはどちらからともなく、顔を合わせる。
「行こうか」「行くか」
教室を出る前、一は最後に、斉藤春緋の座っていた机を見る。
世界は、斉藤が思ってるほど酷いところじゃないよ。
声に出さずに。言う。一は春緋の何を知っているわけではなく、たった2年間しか、知らない。一緒にいたなんて、とても言えるはずのない2年間だったけれど。
いつかまた会うことがあれば、そのときに言いたい。
手を伸ばしたら、その手を掴んでくれる誰かが、絶対にいるから。
きっと斉藤は、何も言わないで俯いたままだろうけど。それでも。
中学を卒業した後の、斉藤春緋の消息を知る人間は、何処にもいなかった。
(2005/09.04 13300文字)