自殺志願


 ぽたりと雫が垂れる。
 臭いが立ち込める。
 そこには確かに。確かな。死がある。
 ねえ、誰か。
 誰か―――。





     1.


 コトダマってことばがある。
 だとしたら、僕は後何回「死にたい」と呟けば、死ねるのだろうか?

 いじめられている、わけではない。
 何に不自由しているわけではない。
 ただ、死にたいと、漠然と思うだけで。

 この思いを、誰かに言ったことはない。
 誰に言っても、意味などなさないことは、僕自身が知っているから。
 だから、この思いは僕の中だけで、毎日純粋培養されている。

 「死にたい」

 死んだらどうなるのだろうか、それで終わりだろうか、それとも、その先があるのだろうか。あの世とか、極楽浄土とか。だとしたら、それはそれで、面白い。


 夜、机に向かって、参考書を広げて、意味もなくシャーペンの芯を押し出したりなんかしながら、頭の中で、どうやったら上手く死ねるのか考えている。
 首吊りは汚いという。糞尿垂れ流しの、醜い顔で。もともと顔なんて良くないけど、でもそれでも少しでも綺麗な顔で死にたいものだ。それくらいの要求は呑んで貰いたい。死ぬときの僕へ。
 睡眠薬。でも、それも汚いと訊いたことがある。その上、どうやってそんなに大量の睡眠薬を手にいれられるのか、アテがない。精神科に行って、「眠れないんです」といえばもらえると聞いたが、そんなに簡単に大量にくれるなんて思っちゃいない。そこまで甘くはないだろう。
 だとしたら、リストカット。でも、死ねる可能性はいちばん低いと思う。手首を切断しても死なないのだから、切ったくらいで死ねるわけがない。
 ライトが途中まで数式の書かれたノートと教科書を照らす。
 時計は、午前3時。
 眠気はない。
 瞬きをすると、あくびではなくて、溜息がでた。

 携帯のメール着信音が鳴った。

 音はしばらくすると止んで、メール着信を告げるランプが明滅を始める。
 僕はシャーペンをもった手で頬杖をついて、しばらくその明滅に見入る。赤緑白、赤、緑、白。何度も何度も同じパターンで。何かしらの指示が与えられるまで、きっとずっとそのまま。
 二つ折り携帯を広げて、ボタン。
 一発で受信トレイに移動して、相手の名前も確認せずに開く。

   起きてる〜?
   今何してる?あたしは
   彼とエッチした後vま
   さか、勉強とかおばか
   なこと、してないでし
   ょうね?(>_<)して
   たら、ハルヒ裏切り者
   だからね!
   明日は学校来るでしょ
   ?待ってるわんv

 文面から判断するに、菜波だろう。―――確認。それから、確信。
 セックスのあとにかちかち携帯を弄る彼女を持った菜波の彼氏くんに、少しばかり同情。
 誰だろう、僕の知っているやつかな。どうでもイイケド。他人様の恋愛事情とか性生活に興味なんかない。
 菜波はかわいい。好みとかじゃなくて、客観的に。
 だから誰が彼氏であっても不思議でもないし、別にいるのもなんでもない。
 シャーペンを投げ出して、椅子に寄りかかって、返信してやる。

   裏切り者で結構。ていう
   か、メールなんかしてこ
   なくていいのに。彼氏の
   のことも気遣わないとふ
   られるよ。
   明日は数学の小テスト。
   成績に加算されるらしい
   から、頑張れ。

 適当だ。打ち終わって、眺めて、声には出さずに呟く。
 適当だ。愛のカケラもありゃしない。って、別に菜波に対して愛情なんてちゃちいモノを抱いているわけでもないが。
 トモダチ、でもないと思う。
 どっちかっていうと、同志。でも、菜波は決して死にたいとか思っていない。―――はずだ。僕とは違う。だから、同志だと、言えるのかもしれない。
 もう一度文面を眺めて、送信。

 時計は、午前3時半。
 眼の前がぼうっとかすれたような気がした。
 ペン立ての中で、カッターが少しだけ、際立って見えた。
 まるで、今すぐ手にとれとでも、言いたそうに。
 そこに存在していた。
 僕なんかよりも、はっきりと明確に。確かに。そこに。
 存在していた。

 携帯を充電器にセットして、机のライトを消した。
 そのまま、暗闇の中で。
 カッターを手にとった。

 かち、かちかち…

 その音はココロの中に染み込んで、溶け込んで。
 何故だか、とても、とてつもなく。
 倖せな、そんな気持ちになった。
 今もし、このカッターが自我を持ち、僕に襲い掛かってきたらどうなるだろうか。
 僕はなす術もなく、やられてしまうだろか。
 だとしたら、それはとてもファンタジーでミステリー。
 3つ分くらい押し出した刃を、いまだかつて傷つけたことのない左手首に当てる。
 ひやりと、刃物の感触がした。それと同時に、心臓が跳ね上がるように、痙攣した。
「怖いのか?」
 僕は僕自身に問い掛ける。
「お前は死にたいのに、」
 カッターを持つ手に、少し、力を込める。
「怖いのか?」
 手首からカッターを話すと、押し付けられた部分が凹んでいるだけだった。傷などない。ましてや血など、一滴も。
 でているわけもない。
 押し当てたら、引かなければ、皮膚は切れないだろう。もしくはもっと、強く押さえつけるか。
 でも、引くのは痛いだろうな、きっと。

 カッターの刃を納めて、ペン立てに戻して。
 別段眠くもないけれど、ベッドに横になった。





     2.


 いつも通りの日常が始まる。
 机の上に鞄を置いて、席について。
 お約束のように数学の教科書を開いて。
 数式の確認をしながら、頭の中では昨日のカッターの感触がまざまざと残っている手首のことばかり。

「裏切り者」

 声と同時に、教科書が攫われた。誘拐だ。身代金は今までの知識を捨てることだろうか。
「な〜にお勉強なんてしちゃってるのよ」
「自分もすれば?」
 言うと、菜波はぴくりと綺麗に手入れされた眉を動かした。
「なんか、ムカツク」
「って、言われても知らないから。教科書返してくれない?」
「いーやっ」
 高々と教科書を持った手を上に上げる。席についたままの僕では、某格ゲーのキャラのように、腕が倍に伸びても届くはずもない距離。
「わがままって可愛くないよ」
「別にハルヒに可愛いって思われなくてもいいもん」
「あ、そう。それはそれでいいけど」
 僕は立ち上がり、ひょいっと教科書を奪還した。不意を突かれたのか、菜波は一瞬呆気にとられたような表情で、しかしすぐに状況を把握した。
「っあー!! 酷っ―――あんたあたしと何センチ身長が違うと思ってんのよっ」
「13センチ」
 はっきり申し上げると、菜波お嬢様は御沈黙なされた。
「ハルヒのばか」
「どうも、」
 ふんっ、鼻で息をついて、菜波は僕の机から離れて他の男子のグループの方に混じった。
 僕は再び、平穏を謳歌しながら意味もなく教科書を眺める。
 そんな僕に、話し掛けて来るようなやつは、菜波くらいのものだ。他には、たまにどうしても用があって話し掛けてくるくらいなモノで。基本的に僕は「近寄りがたい無口で無愛想なキャラ」で固定されている。
 手首を見ると、別にどうもなっていなかった。何もしていないのだから、当たり前なのだが。
 なんだか、少しだけおかしかった。

「辻」

 顔を上げると、クラスメートの……確か、安藤が、見下ろすように僕を見ていた。

「何か用?」
 僕は問う。このクラスになってから、菜波以外の誰かに話し掛けられるのはそれなりに久しぶりだったりする。
「ちょっと、良いか?」
 安藤(確信はないがたぶん彼は安藤だろう)は顎で教室の出入り口をしゃくる。外に出ようと言うらしい。
「数学があるから遠慮したいんだけど」
 ココロにもないようなことを言うと、安藤は「じゃあそれ持ったままで良い」なんて、素敵な妥協案を提示してくれた。
「冗談だよ。良いよ」
 僕は笑って、教科書を机の中にしまうと、出入り口のほうに歩く。扉を開けると、冷たい外気が僕の顔をたたきつけた。
「ところで―――、あれ?」
 振り返ると、安藤(仮)はまだ僕の机のところに突っ立っていた。
「安藤?」
 呼ぶと、彼は少し間を置いた後に、振り返った。
「・・・ああ、すまん」
 少しぼんやりしたような表情で、彼は頷いた。

  +++

 屋上へ続く階段の、踊場。階段をひとつ飛ばしで昇って、扉を開けると、そこには自由な世界が続いている。
 ―――なんていうのは、お粗末なコドモの幻想に過ぎないのだということを、僕は最近学習した。 「―――で?」
 僕は振り返って問う。
 安藤(仮)は光に眩しそうに眼を細めていた。
「何か用?」
「お前は、どうしたい?」
「、というと?」
 何だい、頭がおかしいのかお前は、なんて、思っても口には出してはいけないフレーズ。
「生きたいか? 死にたいか?」
 彼の手元を見ると、いつの間にやら果物ナイフ。物騒極まりないそれは、太陽の光に煌いて、僕は背筋に何かが這い上がるのを感じる。
 それは例えるなら。
 例えるならば、そう。
 とても魅惑的な魅力的な美女の手入れの行き届いた指のような。
 快感。
「『逝きたいのか、死にたいのか』の間違いじゃなくて?」
 僕は言う。安藤はくしゃみをしそうな表情で笑った。
「どうして、お前は生きている?」
 彼が言う。
「どうして、きみは生きている?」
 僕は言う。
「どうしてっていうのは、あんまり聞いていて心地良いものではないね」
 言って、僕は微笑うけど。彼は笑わなかった。
 彼は僕から視線を外すと、果物ナイフを凝視した。そこには何があるのか、訊きたいと思ったけれど、やめておいた。
「俺は、お前を殺したい」
 彼はぽつりと、言った。
「俺は、お前を否定する」
 彼はやっと僕を見て、言った。
 あんまり、健全な視線ではなかった。


 何が起こったのか、良く覚えていない。
 しかしひとつ確かなのは、僕は別段運動神経が良いわけでもなく、武道などのたしなみもまったくないということだ。


 彼が倒れていた。
 僕の手には彼の持っていた果物ナイフが握られていた。
 それはとろりとした赤い液体をはらませて、滴るものは生臭い。
「安藤?」
 呼んでも、反応はなかった。
 見開いた眼を覗き込むと、瞳孔が開ききっていた。こんな明るい屋外で。
 首に触れてみた。「まだ」温かい。でも、そこにあるべき震動はない。
 「まだ」?
 違う、僕はわかっている。
 彼が死んでいるのだということ。
 そして。
 僕が彼を殺したのだということ。

 僕が。
 彼を。
 殺したということ。

「酷いなあ、」
 僕は呟く。何処かに居るのであろう、神さまって言う奴に。
「どうして僕が生きてるんだろう。死にたいのは僕なのに」
 どうして彼が死んで僕が生きているのだろう。
「でも…まあ、仕方ないかな、」
 やってしまったものはやってしまったもの。
 警察に自首なんていうのも、人生誰でも経験のできることじゃない。
 社会勉強だ。僕はナイフを振って血を散らすと、彼の服の上に置いた。一応指紋は拭きとって。
 去り際に彼の上靴を見たら、「山田」と書いてあった。
 どうやら僕の記憶違いだったらしい。
 彼は「安藤」ではなく、「山田」だった。
「名前を間違えるのは最高の失礼かな」
 最低の失礼というべきか。
 まあ、仕方がない。彼のインパクトが薄いのがいけないのだろう。そうだ、そういうコトにしておいてもらおう。死人にくちなし。生きている者意見が最優先。なんていうエゴイズム。

  +++

 階段を下りて、男子トイレ。
 どうしてか此処は掃除してもなんともいえないアンモニアの臭いが酷い。芳香剤を巻き散らかしたい衝動に駆られるが、それはそれで臭えたものではないと思うのでやめておく。
 鏡に映る顔。
 いつも通りの、色白不健康な顔だ。
 返り血などは浴びていない。
 運がいいのか悪いのか。
「……どうしようかな、」
 呟いて、トイレを出る。

「ハルヒ」

 菜波だった。
「何か御用?」
「何でもないけど。顔色悪くない?」
「色が白いのはもともとだよ」
「あ、そう。まあいいけど」
 菜波はふん、と息をついて。
「どうでもイイケド、ちょっと良い?」
「ちょっと良くない」
「何わけわかんないコト言ってんのよ、ハルヒらしい」
「……どうも、」
 菜波は唸るように頭を掻くと、見づらそうに僕を見た。
「保孝知らない?」
「ヤスタカ? 誰?」
「ああ、山田。さっきハルヒと教室出てった男よ」
 山田。
「ああ、」
「一緒じゃないけど、どうしたの?」
「……どうもしない、」
 どうしてか、「僕が殺した」とはいえなかった。どうしてだろう。ちゃんと言えるはずなのに。別に隠すことじゃないのに。
「ひょっとして、彼氏ってイコール山田?」
「…だったらなんなのよっ」
 珍しく頬を赤らめて、菜波。
「いや、別に」
 そうか。僕はひとりごちる。

 ソウイウコトカ

「ところで、用は終わった?」
「え、ああ、そうね。終わった」
「じゃあ、僕は失礼するよ。数学しなきゃ」
「くそ真面目〜」
 背後で、菜波が、―――おそらく苦笑いをしながら―――言っているのが聞こえた。
 例えば事実を知っても。
 菜波はこうやって、僕に笑い話し掛けてくれるのだろうか。





     3.


 その日の昼休み、安藤改め山田は昼を食べようと屋上にやってきた生徒によって無事腐敗前に発見された。
 学校は騒然。大騒動。
 生徒はそのまま帰宅自宅待機で、教師は緊急職員会議。
 帰途につきながら、いいのかなあ僕を返して、みたいなことを思ったけれど、別に気にするでもなく家に帰った。


 携帯が鳴った。
 メールではない。電話の着信。
 表示された名前は、「菜波」。
 僕は携帯をベッドの上に投げて、それでも鳴り止まないから、通話ボタンを押した。

「もしもし」
『あたし。今時間良い?』
「いいけど。何?」
『……山田殺したのって、ハルヒ?』
「突飛だね、どうして?」
 僕の口はいとも簡単に嘘を吐く。
『だって、そうとしか考えられないんだもん』
「直感ってやつ? そんな曖昧なもので犯人にされちゃたまんないよ」
『ハルヒ、ほんとうに、違うの?』
「僕を疑う前に、自分を疑ったらどう?」
『…どういうこと?』
「さあ、それは菜波が考えるべきことだよ」
『……そう、ありがとう。ごめんね、こんな時間に』
「いいや、それは構わないよ」
『じゃあ、おやすみ』

 通話時間、3分。
 僕は通話終了のボタンを押して、そのままベッドに倒れこんだ。

―――山田殺したのって、ハルヒ?

 微笑う。ばれてるばれてる。
 だけど、僕の口は嘘を吐く。
 あたかも事実を語るかのように、虚実を吐きつける。
 腕の力で起き上がって、ぴたりと閉じたカーテンを、少しだけ開いた。
 紺色の空には、白銀の月。
 目の前の道路には―――携帯を握り緊めた、菜波。
 僕は気付かないふりをして、カーテンを閉めた。
 そのまま窓に背中を向けて、座り込む。足の力が抜けるような気がした。
 俯いて、ゆるゆるとこみ上げてくるのは、笑い。
「ふふ、…はははっ」
 ばれてるばれてる。
 なのに菜波は僕に触れてくることはしない。
 嘘は、当の昔にばれているのに。

 笑いが止まらなくて、僕はしばらく、ずっと笑ったまんま。

 夜は長い。
 僕は座り込んで、しばらく笑いをかみ殺して。
 僕にしては凄い努力だ。笑いをかみ殺すなんて。なんて猟奇的。なんて残酷。

 ふと机の上が気になって、覗き込む。
 ペン立ての中のカッターが、異彩を放っている。
 そっと握りこんで、さっきの場所に戻って。
 カーテンの隙間から漏れる夜の闇に、刃を照らす。

 かち、かちかち…

 音は。
 ココロに染みに入る、塩水のように。
 躰を軽く、浮かび上がらせる。

 カッターを持った手を、握って開いて。昼間の感触を思い出そうとする。山田を殺したときの、感触。
 だけど、なにぶん記憶が薄いからか、はっきりと思い出せない。
 鮮明なのは、コトがすべて終わった後から。
 もったいない、そんな風に思ってしまう。
 せっかくの。
 せっかくのヒトゴロシだったのに。

 カッターの刃に、視線を落とす。
 煌いた刃は、魅惑的で。
 僕はそれを、何の抵抗もなく、手首に添えた。
 そのまま刃を立てて。
 勢いをつけて、思い切り横に引いた。

 がり、

 そんな音がした。
 刃物が、皮膚を巻き込んで。躰は刃物の進行を止めようとして、それでも切れていく感触。その後に、鈍い痛みが、気持ちほど。
 傷口から、ぷくりと血の雫が。浮かび上がって。否、それは浮かび上がったのではなく、自分のなかから出てきたもので。
 なんだ、この程度か。
 ぼんやりとした失望感がよぎる。
 この程度じゃ、死ねない。
 血の雫はいくつか浮かんで、仲間でくっついて大きな雫になって。
 ぽたりと、床に落ちた。
 擬音はほとんど、しなかった。

 もう一度、行為を繰り返す。
 違う。

 なにかが違う。
 何度も何度も繰り返す。
 手首の皮膚の隙間を縫って、何度も何度も斬りつける。
 カッターの先は血に濡れて、僕の周りには濃い血のにおいが漂い始める。それでも。―――それでも。
 足りない。
 違う。
 こんなのじゃ死ねない。

 耳元で音がする。
 ざわざわ、音がする。
 消えない。
 いらいらする。床に垂れる血の量はどんどん増えて、流れ出してしまいそう。
 なのに。
 なのに、音は、消えない。


 たすけて


 携帯の着信音。

 ふと、我に返る。
 見下ろした左手首は、ぼろぼろで、血が湧き出して。右手に握ったカッターは血でどろどろになっていて。

 なのに、
 なのに僕はまだ、生きている

 左手で携帯を取ろうとしたら、上手く握れなくて、ごとんと音がして、床に転がった。それを眺めて、今度は右手で、拾って、通話ボタン。

「もしもし、」
『ハルヒ、』

 菜波。
 カーテンをめくる。そこにはもう菜波の姿はなかった。
 幻覚だったのだろうか。
 それともただ帰っただけ?

「ねえ、菜波」
 カッターが床に転がる。
 かしゃりと、硬質な音がして。
 いつの間にか出来あがった血溜まりの中に沈みこむ。
 ぱたりと。

 雫が垂れる。
 透明の、血とは違う温度の、雫が。

「僕は、山田を殺したよ」
『……そう、』

 意外と、リアクションは薄い。
 少しばかり、がっかりだ。

「ねえ、菜波
『なに』

 何度目かの呼びかけに、疑問詞のない、単調なせりふ。

「お願いがあるんだ、」
『…なに?』
 今度は疑問詞がついた。

「ねえ、今から会えないかな?」
 沈黙。呼吸しているだろうに、その音すら聞こえない。

「今から、僕を殺してくれないかな?」





     4.


 夜の公園。
 静かで、冷たい。だけど、静寂とは違う静けさで、冷たさは淋しさに繋がる。
 僕は左手に適当にハンカチを巻きつけて、カッターを持ったままブランコに座っていた。
 小さいころ、僕は公園の中で、ブランコがいちばん好きだった。ふと、そんなことを思い出す。誰よりも高く漕げた、誰よりも誰よりも遠い空に近づけた。
 あのころは。
 死にたいとか、―――覚えてないけれど―――きっと思ってなんかいなかった。

 がさり、
「・・・菜波、」

 影に目をやると、さっき窓から見た格好のまんまの菜波が立っていた。どうやらさっき見たのは幻覚ではなかったらしい。僕はまだ人間の枠の中にいる。
 いる。
 闇の中にいるせいか、昼間よりも不健康そうに痩せて見える菜波。
「ハルヒ」菜波がいう。口元はほとんど動いていない。「死にたい?」
 僕はこたえる。
「死にたい」

 瞳を伏せて、それから僕を見て、菜波は。
「死なせたくない」
 言った。
 僕は耳を疑う。「どうして?」
「ハルヒは、山田を殺したんでしょ? だったらそれは、ちゃんと生きて償うべきだ」
「………」
 あっけに取られて、しばらく菜波を見返すしかない僕。
 でも、しばらくもしないうちに笑いがこみ上げてきた。
「は、―――ははっそうか、はは、」
「ハルヒ?」
 菜波の目は、まるで何か違うものを見るような。
「そうか、やっぱり、菜波は僕とは違うんだ」
 同志だと思っていたのは。
 やっぱり違った。
 同志だと思っていたのは。
 どうしてなのだろうか。
「僕みたいに、僕みたいなのとは違うんだ」
 まるで自分で自分を、人間じゃないみたいに。形容する。
「ハルヒ、」
 何か言いたそうに、菜波が間合いを詰める。僕はブランコを後ろに引いて、立って、漕ぎ始める。
 左手は上手く鎖をつかめない。腱でも切ってしまったのかもしれない。それでも良い。それでも、構わない。
 景色が上下に動いて、酔ってしまいそうで。
 なのに、とめようとかは思わない。
 もっと高く、もっとうえへ。
 もっと、誰も近づけない―――。
「ハルヒ!」
 菜波の声がひどく遠くから聞こえる。


『はるひ、あぶないよぅ』
『大丈夫だよ、なっちゃん。へいきへいき』
『でも、でも…駄目だよぅ』


「ハルヒ、やめてよっ」
 半分悲鳴のような、菜波の声。近く、遠く。離れて。

 左手に、ちかりと、明滅のような痛みが走った。

   +++

 僕は死にたい。
 だけど、死ぬのはなかなか難しい。
 殺したり、殺されたりするのよりも、ずっとずっと、難しい。
 でもだからこそ、僕は「死」に崇拝にも似た憧れを持つのかもしれない。

 僕は人を殺した。
 だから、でも、それがなんだって言うのだろうか。
 彼は死にたくなかったかもしれない。だけど、僕によって「殺され」て、死ぬのよりはよっぽど簡単に「死」んで。
 僕は羨ましかった。
 「殺された」彼が。
 「殺してしまった」僕よりも、ずっとずっと幸福だったと。
 思う。

 僕は死にたい。
 だから手首を切った。
 だけど、人間の躰は思ったよりも全然丈夫で、切ったくらいじゃ簡単には死ねやしない。
 だけど僕は切らずにはいられなくて。
 切って。
 だけど死ねなかった。「死」は、僕にはまだまだずっと遠いところにあるようだった。

 殺してほしかった。

 彼女に。
 僕を恨んでくれているであろう、彼女に。
 だけど彼女は、僕を殺してはくれなかった。
 僕に「生きろ」といった。
 生きて、人を殺した罪を償えといった。
 生きて、
 生きて償えと。
 僕は、
 僕は―――。

   +++

 白かった。

 頭が重い。
 躰自体が、まるで自分のものじゃないかのような感覚。
 しろい。

 視界をめぐらせると、窓があった。
 透き抜けるような青い空と、銀色の雲と、木々の葉の緑。
 点滴のチューブが視界を横切っていて、それを伝っていくと包帯を巻いた腕にたどり着いた。
 それが自分の腕なんだと気づくのに、少し時間がかかった。

 静かだった。

 僕は起き上がろうともしないで、左手を持ち上げた。
 自分の腕で、そんなに太くもないのに、ひどく重かった。
 点滴を繋がれた肘の先の。
 手首にも包帯が巻かれていた。その意味を、一瞬思考する。そして、思い出す。

 夜の公園。
 ベンチ。
 ブランコ。
 菜波。

「ハルヒ、」
「…いたんなら、声、かけてくれればいいのに」
 言うと、菜波はそうだった、と少しだけ笑った。
「此処は病院だよ」
「そうみたいだね」
「ハルヒは生きてるよ」
「そうみたいだね、」
 苦痛は、生きている証。
「死なないで」
 静かに、淡々と語るように。
「……どうして?」
 問うても、こたえは返ってこなかった。否、はじめから、明確なこたえなんて望んでなどいない。
「警察の人が来てるよ」
「呼んだ、の間違いじゃない?」
 菜波はこたえなかった。
 椅子に座って、そういえば制服で。
 いつも短く折っているスカートが、今日は少しだけ長め。
「お話、出来る?」
「さあ、どうだろう」
 はぐらかそうとすると、菜波は笑った。歪めるだけの表情で。
「あたしはね、ハルヒ―――」
 言いかけたとき、扉が開いた。
 いかにも、な感じの、二人連れの―――警察官だとすぐにわかるような―――私服警官が部屋の中を覗き込んだ。
 菜波は会釈をすると、椅子から立ち上がって、入れ替わるようにふたりのの警官が部屋に入ってくる。
「ハルヒ、」
 扉のところで、振り返って、菜波。

「死なせないよ」

 声は病室に響いた。否、僕自身の中に。

 警官の一人がなにかを言いながら、さっきまで菜波の座っていた椅子に腰掛けて。
 僕になにかを話しかけてきた。
 だけど、僕は、何を言われたとか何をこたえたとか、良く覚えていない。

―――死なせないよ

 彼女は。
 僕を恨んでくれているであろう彼女は。
 僕を殺してくれるものだとばかり思っていた。
 だけどそれは違ったらしい。
 彼女は、僕がどんなことをしたら苦しいか知っている。
 だから、僕に生きろという。
 だから、僕にあんなことばを投げてよこした。


―――ハルヒ、死なせないよ


(2003/02某日 9427文字)