水没ピアノ


 沈んで、融けてしまえばいい
 沈んで、見えなくなってしまえばいい
 沈んで、そうして―――





   prologue


 夢をみる。
 否、夢よりも鮮明。鮮明すぎるが故に、夢にしかなり得ずに。
 寝返りを打ちながら思う。
 ああどうして―――
 どうして、まだこんなにも。
 両手で顔を覆う。
 遠くで近くで、漣が聞こえた。
 それに混じって。
 聞こえるはずのないものが聞こえたような、そんな気がした。





   1.


 雨が冷たかった。
 躰を打ち付ける雨は、突き刺さるように冷たく、痛い。
 痛覚を刺激して、意識を手放せない自分が鬱陶しい。
 冷め切った躰のなかで、頭だけが熱かった。血管の一本一本が、大きく波打っているような気がする。
 吐き出した息は、ドライアイスのように舞い上がって、しばらくしたら融けるように消えた。
 寒い。
 痛い。
 緩慢な瞬きを繰り返しながら、思う。
 眠い。
 痛い。

   +++

 夢と言うにはリアル。
 現実というには曖昧。

 長久詠は起き上がりながら思った。
 重苦しい空からは無音の雨が零れ落ちている。
 差し込むはずの朝日は、今朝はなりを潜めているようだった。
 何度か細かい瞬きを繰り返し、ベッドから下りる。裸足に、フローリングが冷たかった。
 のびをすると、躰中に酸素が行き渡るような、そんな感じがした。溜息交じりのあくびを吐いて、寝巻きのまま階下に下りようと部屋を出た。


 9月末。
 残暑も過ぎて、紅葉も見ごろな、季節の狭間。
 もう1年にもなるんだな、詠は思う。
 彼女と出会って、この家に来て。
 階段は15段ある。こう言うものの数を数えると不吉だというが、詠は迷信なんて信じない。
 リビングの扉を開けると、朝食の匂いがした。
 おはよう、の意を込めて、開けたドアを内側からノックする。骨と木がぶつかる音。きっと硬い音に違いない。
 背を向けていた琴音が振り返って微笑った。
『おはよう』
 これが挨拶。
 音のない詠の世界では、表情と感覚だけが外界との接続の手段。
 キッチンで忙しく動く琴音の傍によって、壁を叩く。琴音は作業の手を止めて、詠に躰を寄せた。そっと、頬が触れ合うように。
 朝の冷たい気配の中で、触れた琴音の頬だけが暖かかった。
『もうすぐ出来るからね』
 くるくる動く琴音の指は、細くて長くて綺麗。詠はこの指が大好きだ。
 頷いて、寝巻きの合わせをつまんだ。
『着替えてくるね』
 琴音が頷いたのを見てから、詠はまた2階へ戻って行った。



 詠がリビングを出て行って、また包丁を握りなおして、玖珂琴音は溜息を吐いた。
 自ら選んだ生活、詠を巻き込んで。
 それももう、1年になる。
 海が近いこの家の周りには、音が絶えない。窓をあければ、漣の打ち寄せる音がすぐそこに聞こえる。
 そして、人はいない。
 これが琴音の望んだ生活だった。
 誰もいないところで静かに、誰も琴音を知らないところで。
 何も知らないところで。
 詠とふたりで、生活していこうと、生きていこうと。
 握り締めた包丁の柄。蛍光灯に鈍く光る刃。
 何度イメージしただろう。この刃が皮膚を貫くさまを。
 何度イメージしただろう。血みどろの屍体を。
「莫迦だな」
 呟いて、微笑う。
 声に出した音は、聞きづらくかすれていた。





   2.


 いくつものスポットライトの熱。眼の前の人。
 自分の声を望んだ。
 拍手をくれた。
 歓声をくれた。
 あなたの声にならいくらでも払える、そういう人がいた。

 いまとなってはもはや。
 すべては、過去の栄光でしかない。

   +++

 食事が済むと、詠は決まって海に散歩に出かけた。琴音は家に残って洗い物をして、それからピアノを弾いている。
 ピアノの音は建物に染み渡って、壁や床が震えている。詠は家に帰ると、それを子守唄に昼まで少しの間眠る。
 雨が降った海岸には、人気はなかった。否、もともと、この海岸に人がいることは珍しい。観光地でもなく、夏に海水浴に来る人も少ない。波の立たない穏かな海だから、サーフィンに来る人もいない。
 傘を揺らして、砂浜に足跡を残しながら、雨の中を歩く。
 もう秋なのに、雨はぬるま湯のようだった。浴びても、風邪なんかひきっこない雨。こんな雨なら濡れてもいいな、思うけど、濡れて帰ると琴音が心配するからしない。
 琴音と出会ったのは、1年前。
 あの日も、雨が降っていた。ただ、今日とは違う、突き刺さるような冷たい雨だった。
 撫でるような風が吹いた。視線を上げると、雲は切れ目がちになって、雨がやんでいた。詠は傘を閉じると、あたりをぐるりと見回した。
 家から、どれくらい歩いてきたのだろうか。いつもよりずっと長いような気がする。
 遠くにも、家は見えなかった。砂浜をぐるりと歩いていたようだから、大体1キロ、くらいだろうか。あと数10メートルも進まないうちに、砂浜は唐突に終わっている。
 ぼうっとしてたんだな、思って、詠は来たのとは正反対に歩き始めた。足跡を逆にたどるように。
 たたんだ傘の先っぽが、足跡の横にずっと続く線を残していた。
 海はいつもよりも少しだけ乱暴に、波を寄せていた。



 逃げ場が欲しかった。
 愛情が欲しかった。
 声などなくても、自分を必要としてくれる誰かが。欲しかった。
 詠は、声など求めなかった。安心した。詠は琴音の存在自身を受け入れてくれた。
 だけどそれは。
 彼が音を知らないからに他ならなかった。
 不信感。不安感。拭いきれない、猜疑心。
 もし彼が音を知っていたら。きっと他の、大衆と同じ。自分なんて放り出して棄ててしまうに違いない。
 聾唖だと言った。だけど、そんなのは詠本人にしかわからない。
 音を知ればきっと、彼もまた。
 琴音のもとから去っていくのだ。
 琴音を棄てるのだ。
 ピアノを弾きながら、思い出す。
 もう1年以上も前の出来事。
 誰も彼も、自分を誉めそやして。おだてて。
 浮かれていた。すべてのことばを真に受けて。
 それが。
 指を止めて、鍵盤から顔を上げる。
「声がなくなったらこの有様」
 声の後に、すぐに咳が続く。篭ったような、気管に響く咳。
 声帯の異常、医師はそうとしか言わなかった。
 微熱もあったし、はじめはただの風邪だと思っていた。しばらくして熱は引いたが、喉の調子は悪いままで、裏返ったりするようになった。
 長い不調は、不安を不信に変えて。仕事は入らなくなった。
 咳が止まるのを待って、また指を動かす。音に耳を傾ける。ピアノは音を失いことなどない。狂えば調律すれば良い。線が緩んだら絞めればいいし、フェルトが磨り減れば足せば良い。
 だけど、この声は。
 何を試しても、元には戻らなかった。
 玄関の扉が、開く音がした。否、正確には、玄関に吊るしてある呼び鈴が鳴ったのだが。
 時計を見る。今日はいつもよりも随分と長めの散歩だったようだ。家を出てから1時間以上経っている。
 お帰りの意を込めて、ピアノの上の楽譜を開いた。
 詠が帰ってきたら、必ず。決まった曲を弾く。
 呼び鈴が余韻を残して聞こえなくなって、ピアノの音だけが柱や壁を震動させる。
 感情を込めて、意識を押し出して。
 音だけが空間を支配するように。
 震動だけが支配するように。

―――歌えない鳥はただの塵だよ

 声。
 否定。
 琴音のすべてを。

 ―――煩いっ

 ペダルを踏む足が、ぎこちない。
 指が上手く動かない。
 何故だろう、毎日のように引いている曲なのに。
 背後の扉が開く。詠が顔を覗かせて、不安そうな目で琴音を見た。
 なに? 操問い掛けるように首をかしげると、詠は後ろ手で扉を閉めて、ずるずるとその場に座り込んだ。
 それから、俯いて、首を振った。否定。
 わけがわからなくて、また弾き始めたら、今度は床を叩く音がした。
 見ると、詠が首を振りながら床を叩いていた。
 まるで、聴きたくないと言うように。
 椅子から立ち上がって、詠のすぐ前に屈む。雰囲気でわかるのか、詠は顔を上げた。
「どうしたの?」
 問うと、詠は首を振った。それから、琴音の首に腕を回して抱き寄せる。
 琴音よりひとまわり近く年下の詠の腕は細くて、男とは思えないほど非力。
「詠、」
 軽く背中を叩くと、詠は鼻をすすった。泣いている、のだろうか。
 まるで赤ん坊のようだ、こういうとき、琴音は思う。
 ことばを知らないから、音を知らないから、表情と、泣くと言う行為でしか感情を伝えられない。
 背中をさすると、方に顔を埋める感触がした。
「あ、う…」
 喉の奥でうめくような音。これが唯一、詠の発する音。よっぽどでもない限り、この声すら聞くことはできないけれど。
 詠が泣き止むまで、琴音はずっと背中をさすっていた。
 何で泣いているのか、わからなかったけれど。



 琴音の「音」はときどき乱暴になる。
 震えが、それを如実に語る。
 泣きながら、どうやったら琴音にわかってもらえるだろうかと、詠は思った。
 琴音はやさしい。詠を拾ってくれた。詠と一緒に生活してくれる。詠と生きてくれる。
 だけどときどき。ほんのいっとき。
 ココロが崩壊しそうに乱暴。
 その理由はわからないけれど、だけど、泣きたくなる。弾くのを、止めて欲しいと思う。泣いたら、琴音は引くのを止めてくれるから。だから、泣くのかもしれない。
 声を持たない詠が、唯一出来ることは、泣くことだけだから。
 やさしい琴音。なのに、どうしてそんな音を出すの? どうしてそんな乱暴になるの?
 教えてよ、琴音。





   3.


 要らないんだ。
 何度も思った。
 暴力をふるわれるたびに。泣き伏せる母親を見るたびに。
 僕は、要らないんだ。
 何度も。何度も思った。
 要らないのに。
 どうして僕は生きているんだろう?
 要らないのに。

 どうしてお母さんは僕を殺さないんだろう?

   +++

 雨がやんだ。
 詠は泣きつかれたのか、琴音の腕の中で眠ってしまった。
 背中をさすりながらピアノを振り返り、天井を見上げた。
 1年も経ったのに。
 小さく溜息。自分で自分に呆れてしまう。いい加減吹っ切ったらどうなのだろうか。
 声を嗄らして、歌えないソプラノ歌手。誰も振り向かないのは当たり前で、棄てられるのも、当たり前で。なのに。
 思い出しては苦しくなる。自分だけが不幸で、自分だけが惨めで。他の人なんか関係ない。
 そんな自分が嫌で、この家に移り住んだのに。
 前の家からたったひとつだけ持ってきた、グランドピアノ。このピアノで歌の練習をして覚えて、舞台に立った。
 それが今となっては、記憶を呼び覚ますだけの足かせのような存在になりつつある。
 そんなことないのに。
 大事なピアノなのに。
 詠の背中をさすりながら、琴音もゆっくりと目を閉じた。



 母親が泣いていた。
 今のテーブルに突っ伏して、肩を震わせて。
 泣いていた。
 詠はそれを見ながら、どうしてだろうと思った。
 母親が泣いている理由は知っていた。自分のせいだとわかっていた。
 理由ははっきりしているのに。なのにどうして。
 母親は詠を破棄しないのだろう。
 世間体か、ココロの奥底にこびりついた愛情の残り香か。
 どちらでも、あまり大差はない。
 音のない詠。生まれてからずっと、音を知らない。そのくせ、普通の子供のように育った。癇癪を起こしたり自称行為をしたり、暴れたり、そういうことはしない子供だった。
 自分が他の子供と違うことを、詠は物心ついた頃には気がついていた。
 声が出なかったから。
 しかしそれはすぐに、音がないという意識に変更された。
 おかあさん、呼びかけるには、動作、もしくは手話が必要だった。
 他の、「普通」の子供のように、呼ぶことが出来なかった。
 近所で、詠は自分がどのように言われているか知っていた。音ではなく、気配で。雰囲気で。
 視線はいつも冷たく同情に満ちていて、係わり合いを避けている。
 耐えられなくなった母親は、きっと。
 自分を殺すだろう。そう思っていたのに。
 なのに、母親はいつになっても詠を殺そうとはしなかった。いつも殴って、そのあと、一人で泣いて。
 やりきれないのは、詠が自身に非があるのを知っているから。
 おかあさん、服を引っ張ると、母親は泣き腫らした瞳で詠を見た。
 おかあさん、泣かないで。
 服を掴んでいない方の手で眼をこすって、首を振る。
 涙は、だめ。
 泣かないでのジェスチャー。
 母親は泣き笑いの表情で。首を振った。それから躰の向きを変えて、詠を思い切り蹴り上げた。
 発育の悪い躰は簡単に空を飛んで、床に転がった。目の前がちかちかして、息が出来なかった。
 母親はそのまま詠に馬乗りになって、首を掴んだ。掴まれただけで、もう折れてしまいそうに細い首。
「―――」
 母親が何かを言っている。
 どんなことばだろう? どうして詠には聴こえないのだろう?
「―――」
 罵声だろうか、怒声だろうか。
 どちらでも、詠には聴こえない。詠の鼓膜は震えない。
 おかあさん、
 眼を閉じると、幾分か楽になるような気がした。
 おかあさん、―――

 眼が醒めるといつも、母親は家にいない。


 雨がやんだ。
 寒いままなのに。不意に。躰を打ち付けるものがなくなった。
 見上げると、くすんだ水色。
 傘、だと気付くのに、少し時間がかかった。
「―――」
 何か言った。
「―――」
 首をかしげると、相手も首をかしげた。
 詠は固く膝を抱いていた腕をほどいて、耳に当てた。それから首を振る。
「―――」
 耳に当てた手を、今度は口に当てて。首を振る。
―――聴こえない、話せない。
 相手は理解したのか、屈みこんで、確認するように詠の動作を繰り返した。
 耳に触れて、首を振る。口に触れて首を振る。
 頷く。
 目の前で動く指は細くて綺麗だった。眩暈がしそうなくらい。
 笑った表情はとてもやわらかくて、安心した。
 やさしいときの母親に、少しだけ似ていると、思った。
 ふわふわの、茶色の髪の毛。なのに、目は真っ黒。吸い込まれそう。
 動きを止めた指先に触れた。相手は驚いたけど、すぐにまた微笑った。指先はこの世のものじゃなくらい、暖かかった。


 柔らかい匂いがした。
 琴音の匂い。
 詠はこの匂いが大好きだ。安心するから。まるで、生まれてきたばかりの、愛されていた頃の自分を思い出すから。
 視線だけ上に向けると、琴音は眼を閉じていた。眠っているのかも、しれない。安らかな、いつか見た宗教絵画のような表情。
 窓の向こう、曇った空は群青色。雨がやんだかどうかは、空の色を見た限りでは定かではない。
 もう一度琴音の顔を見て。
 起こさないようにゆっくりと、躰を離した。琴音の寝室から毛布を取ってきて、琴音にかけた。
 開けっ放しのピアノの蓋を閉じて、詠はそっと部屋を出た。





   4.


 あたしに、何の価値があるの?
 歌えないあたしに、一体誰が振り向くというの?

 歌がすべてだった。
 歌うことで、琴音は琴音でいられた。
 人に必要とされて、人に求められているのだと実感できた。

 なのに。
 終わりは突然にやってきた。
 ボイストレーニングの最中だった。
 突然声が裏返った。風邪を引いていた、トレーニング中だ、特に珍しいミスでもない―――そう、高をくくっていた。
 なのに。

―――歌えない鳥はただの塵だ

 突き刺さったことば。
 否、それでも。塵でもよかった。なんと形容されても。琴音には既に質素に生活していくだけの蓄えはあったから。
 だけど。
 ―――塵ではいけなかった。
 塵では耐えられなかった。
 歌うことの出来ないソプラノ歌手なんて。
 誰からも見向きもされなかった。当たり前。琴音の前にも、歌えなくなった歌手は何人もいた。皆、後ろ髪を引かれるようにこの世界を離れていった。自分だけは例外だと、根拠もないのにずっと思っていた。
 自分だけは。
 本当はそんなわけ。
 なかったのに。

   +++

 玄関の呼び鈴が鳴った。
 琴音は毛布の中で身じろぎして、目を醒ました。
 いつの間にか、詠はいなくなっている。この毛布は、詠が掛けてくれたのだろうか。
 呼び鈴はしつこく鳴っている。
 躰を起こして、玄関に向かう。
 声は出さない、あまり人に聴かれたくないから。
 階段を下りていると、玄関の開く音がした。詠が出たのだろう。居間には、聾唖である詠でもわかるよう似来客が来たら赤いランプが点滅するような仕掛けになっている。
「―――」
 何か言っている。詠は上手く対応できているだろうか。
 階段の影からのぞく。手は貸さない。これははじめにふたりで決めたことだった。琴音も詠も、お互いがいなくても日常を送れなければならないから。
 玄関にはメモを置いている。詠は筆談はできるようだから、用はそれで足りるし、相手は手話ができれば会話は可能だ。
 しばらくのやりとりののち、呼び鈴がなった。来客は帰ったようだ。
 階段から身を出して、床を踏み鳴らす。
 詠が振り返って、琴音にメモを渡した。
 何枚か繰ったメモの、いちばん新しいページに、名前。
 「御谷健一」
 詠の持っていたいたペンを引っ手繰って、メモの新しいページに書く。
<今の、どんな人だった?>
 詠は少し戸惑ったけれど、すぐにメモにペンを走らせた。
<背の高い、痩せた無精ひげの男の人>
 メモを繰って、前のページを見る。
<玖珂琴音さんはご在宅ですか?>
 丁寧な、特に特徴もない文字。
<彼女は今眠っています>
 それに対応する、詠の左肩の下がった文字。
<私は御谷健一といいます。琴音さんはお元気ですか?>
<琴音のともだちですか?>
<古い友人です>
 淡々と綴られる文字から、そのときの感情を問うことは難しい。
 ただ。
 御谷健一、知っている。
 かつて、友人だった。それ以上だった。存在。
 詠が服の袖を引っ張る。不安そうに琴音の顔を覗き込んだ。
 なんでもない。
 首を振る。詠が不安になることはない。大丈夫。
 それはきっと、あのころと。自分だけは大丈夫だと思っていたあのころと同じ、根拠のない確信に過ぎないけれど。
 だけど。



 「御谷健一」
 その名前を見て、琴音の表情が変わった。詠にはわかる。たとえ、琴音が通りすがりの他人だとしても。
 音の聴こえない詠は、他の感覚が人より良かったから。
 だいじょうぶ? その意を込めて、袖を引っ張る。琴音ははっとしたように詠を見て、いつも通りにやさしく頷いた。だいじょうぶだよ。
 嘘。
 琴音、嘘言っている。
 わかったけれど、何も出来なかった。
 詠は頷いて、居間に戻った。
 後ろで琴音が、泣いているような気がした。
 何で泣くんだろう、なんで詠に何も言ってくれないのだろう。
 思っても、それは思うだけ。ことばは音とはなりえないで詠の中。ぐるぐる回って、果てるところを知らない。
 「御谷健一」
 やさしそうな男の人だった。たぶん琴音と、そんなに年は変わらないんじゃないかと思う。モノトーンでまとめた上下に、肩から掛けた鞄は、よくカメラマンとかが持っているような四角いモノ。
 コンタクトレンズの入った瞳は、泣いた後みたいに潤んでいた。
 雨はやんだのだろうか、彼は肩の先ほども濡れていなかった。それとも、玄関先のすぐに車をとめたのか。でも、それならきっと地面や壁が震えるから。詠にはわかるはず。
 雨、止んだんだな。
 結論に達したところで、詠はフローリングに座り込んだ。
 背後で等間隔の震動。琴音は2階に行ったらしい。また、ピアノを弾くのだろうか。
 また、あの痛い音を、弾くのだろうか。
 ことね。
 その名前は、どんな音なのだろうか。
 ことね。
 その名前は、どんなふうに空気を震わせるのだろうか。
 音を知りたい。
 音を聞きたい。
 どれももう、何年も前に。生まれたときから不可能なこと。だけど、聞きたいと思う。聞いて、―――聞きたい。



 ピアノの蓋を持ち上げる。
 手には、まだあのメモ帳を持ったまま。
 御谷健一。
 彼は一体どうやって、この家を見つけたというのだろうか。
 親兄弟、親しかった友人や恩師にさえ、教えていないのに。
 足跡など完全に、消したはずなのに。
「どうして、」
 声は声帯を震わせなかった。
 かすれた、声とも知らない音。
 指を鍵盤に乗せる。
 跳ね上げて発した音は、何度も何度も跳ね返った。
 御谷健一。
 かつてソプラノ歌手として舞台に立っていたころ。はじめて伴奏をしてくれた男の人。ピアノの奏者で、まだ駆け出しだった。歌しか知らなかった琴音に、ピアノの良さを教えてくれた人。
 歌と同時に弾き始めたピアノ。大学入試の副科で、2年ほど人に習っていた。しかし、しょせん副科と適当にやっていたから、きちんととりくんだのははじめてだった。
 琴音には才能があった。
 ピアノも、すぐにそこそこ弾けるようになった。
 たのしかった。
 ピアノを弾くこと。健一といること。すべて。

 でもそれも、声があるときだけだった。

 詠が帰ってきたときに弾くあの曲は。
 健一が最後に教えてくれた曲だった。
 最後になるだなんて思っていなかった。もっとたくさんの曲を、音を、教えて貰うはずだった。
 もっとずっと長く、そばにいられるはずだった。歌えなくなった琴音は、健一にとっても塵でしかなかった。
 もう価値のない琴音を、健一は棄てた。
 棄てて、眼の前から消えた。
 それで終わりだった。はずなのに。
 どうして今更?
 どうして1年以上も経ってから。
 どうして、ようやっと傷が癒え始めた今になって―――。
 あの曲は弾けなかった。指が拒否した。代わりに、他愛もない曲を弾いた。初歩的な、バイエル程度。
 音は弾き手のココロを如実にあらわす。ココロの鏡だと、健一は言った。理論の教授もそう言っていた。今の音は、どんな音だろう。できるものなら、詠に訊いてみたかった。そんなこと、できるわけもないのに。

 莫迦だ。
 きっとあたしは。

 音が不意に途切れて、鍵盤に滴が零れた。
 嗚咽がこみあがってきて、これ以上は弾けなかった。
 大丈夫じゃない。
 だめだよ、あたしは。
 メモ帳を握り締めて、ピアノ椅子の上でうずくまる。涙は止まらなくて、気管が不自然に震えた。
 過去の断片。
 少しは薄れたはずだったのに。
 全然。
 だめ。
 栄光と傷痕は、今でも琴音の中に深く根付いたまま。





   5.


 音が聞こえる。
 聞こえるわけがないのに。
 それは確かに、漣だと、わかる。
 虚ろな意識、遠くに近くにぼやけて見える海の。
 浮び上がるような、黒い姿。
 ピアノ。

 漣。
 潮騒。

 聞いたことなどないのに。
 それは確かに空気を震わせ、鼓膜を刺激する。

 ピアノが奏ではじめる、旋律。
 琴音が、よく弾いている曲だとわかる。
 琴音。
 琴音は何処にいるんだろう。

 琴音。

 僕をひとりにしないで―――

   +++

 御谷健一は運転席から、100メートルほど先の民家を眺めていた。
 玖珂琴音、かつての恋人。そう、―――かつて。
 否、健一と琴音の間に恋愛感情などあったのかどうか。少なくとも、健一の側には、なかった。
 咥えた煙草を揺らしながら、器用に煙を吐き出す。
 指先が震えた。
 それは季節はずれの寒さからか、それとも違う要因のせいか。健一には良くわからなかったし、実際どちらでも構わなかった。

―――歌えない鳥はただの塵だよ

 かつて吐きかけた罵声。
 琴音は泣いていた。当たり前だろう、自身のすべてを否定されたのだから。そして、健一もまた同じことばを吐きかけられた。

―――ピアノのないあなたなんてただの男以下だよ

 こういうのを、自業自得というのだろうか。それとも、因果応報? どちらもあっているようで違うような気がする。
 どちらでも、良い。
 どちらでも。弾けないピアニストに、存在価値などないのは確かなのだから。
「どっちが、ましだったかな」
 琴音と健一と。どちらがプロとして、人として、辛かっただろう。
 きっとどっちもどっちだ。
 煙草を雨に濡れたアスファルトに棄てて、カーステレオを入れた。
 ポイ棄てはやめよう。看板が目に入ったが、見えないふりをした。



 あなたがあたしを愛してくれたのは。
 あたしが歌える鳥だったから。

 ノックの音で我に返った。
 振り返ると、詠がいた。否、詠以外に誰がいるというのだろう。
「えい」
 既に琴音自身にも聞き取れない声。雑音。人の発して良い声じゃない。なのに、声に出さずにはいられない。えい、そう呼びかける。
「えい、あなたはあたしを―――」
 棄てないよね? ひとりにしないよね?
 詠は突っ立ったまま。琴音の躰を受け止める。涙を流す琴音の喉に壊れ物のようにそっと触れて、頷いた。
 詠は、自分を指さして、琴音を指さして。それから。『一緒』と手話。
『僕と琴音は、ずっと、一緒だよ』
 だから、泣かないで。最後は、ジェスチャー。いつも通りに、目に触れて首を振る。泣かないで。
 うん、琴音は頷いた。
 頷いて、詠を抱きしめて。落ち着いたココロに、不意に差し込む、闇。

―――愛してるよ琴音
―――歌えない鳥はただの塵だよ

 正反対のことば。
 だけど発したのは。
 たったひとりの人間。
 同じ声。おなじ。おなじ―――。

「ちがう、」
 ちがうよ、詠を突き放して、首を振る。さっきとは違う、横に、否定。
「詠だって、音が聞こえたら、あたしの価値を知ったらあたしを棄てるんだ。あたしをひとりにするっ。あたしをっ―――」
 叫ぶ。聞きたくない、こんな声。こんなの、あたしの声じゃない。そう思っても、止まらない。どうしてだろう、詠に言っても仕方がないのに。詠には言っても聞こえないのに。
 詠は首を振る。
 手話で言う。
『琴音、聞こえないよ。何を言ってるの? 何で泣くの? 何で怒るの?』
「手話でなんか話さないでっ」
 詠の手を払うように叫んだら、咽た。咳が止まらなくて、息が出来ない。苦しくて躰を折って。
 詠が心配そうに肩を撫でる。その手に縋りたいのを、琴音は必死で我慢した。甘えたらいけない、縋ってはいけない。あとあと傷つくのは琴音だから。
 でも。なのにどうして。
 触れる詠の手がやさしい。
「う、うぅ」
 掛けられる声とも取れないような声が、やさしい。
『詠は、あたしを棄てない?』
 手話で、訊く。
 詠は驚いたように、でもすぐに微笑った。
『僕は、琴音が好きだから。ずっと一緒だよ』
『本当に?』
『本当に』
『…ありがとう』





   6.


 忘れたかった。
 忘れられなかった。

 ピアノの音が耳を慰める。
 指が音の震えを創りだす。
 音は余韻を残しながら、じわじわ消えていった。
 こんなふうに。
 気持ちも思い出も。記憶も。
 あの頃の自分さえも。
 すべて。
 消えてしまえば良いのに。
 このピアノも。
 何故持ってきてしまったのだろう。
 何故これだけ、風景から記憶から切り取って。
 このピアノの音があるから。このピアノの。
―――このピアノがなければ。

   +++

 男の人がいた。
 いつものように、朝食の後の散歩で。砂浜。家から10分くらい離れたところ。
 男は詠に気がついたのか降り返って、微笑った。
 御谷健一だった。
「―――」
 彼は会釈して、何か言ったようだった。たぶん、おはよう、とか、こんにちは、とか。挨拶のたぐいだろうと、詠は推測する。
 会釈を返すと、健一は腕を胸の前でもぞもぞさせている。表情は何か言いたそうに、もごもごして。
 不思議そうに見上げると、彼は一瞬動きを止めて、鞄からノートを取り出してペンを走らせた。
『こんにちは。』
 頷く。
『やっぱり、手話って難しいですね』
 苦笑いで、書いている健一を見ると、どうやらさっきのは手話で話そうと試みていたらしい。
 健一は少し迷ってから、ゆっくり文字を書いた。ペンの持ちかたが変わっているな、と詠は思った。
『琴音は元気ですか?』
 文字を見て、健一を見上げて。詠は何も、反応出来なかった。
『どうかされたんですか?』
 文字が心配する。詠はペンを受け取って、書いた。
『あなたは、琴音の何だったんですか?』
 陳腐な台詞だと思った。詠は別に、琴音の恋人とか、そういうわけじゃないのに。ただ一緒に生きているだけで。
 健一は何か呟いて、『恋人でした』と書いた。
 恋人。
 好きな人。
 好きだった人。
『今はもう、すきじゃない?』
 健一は苦笑いで。
『好きですよ。ただ、あの頃とは違う』
『どういうふうに?』
『きっと、あなたにはわかりませんよ』
 あの頃。詠の知らない琴音の時間。
『ぼくにはわからない?』
 健一は何も書かなかった。
 風が吹いている。湿気を含んだ、冷たい風。海は漣を立て砂浜に白く打ち寄せる。



『ぼくにはわからない?』
 その文字。
「わかるわけ、ないだろう」
 呟いた声は、きっと聞こえてはいない。否、だから言えるのか。
 琴音と健一の関係。かつては恋人と呼べるものだった。琴音は健一を必要としてくれたし、健一も琴音を必要としていた。
 ただし、健一の場合は、琴音の才能を。
 彼女の歌が好きだった。彼女自身よりも、彼女の紡ぎ出す歌が。
 好きだった。
 「歌える」琴音が好きだった。
 眼の前にいる少年は。今の琴音の恋人だろうか。きっとひとまわり以上年が離れているだろうに。
 どうして彼女はまた、こんな少年をそばに置いていくのだろうか。
 自分よりも何か、得るものがあると?
 ―――笑ってしまう。
 健一は琴音を棄てたのに。
 おかしな感情だ。



 健一は迷うようにペンを躍らせて、書いた。
『琴音に会えますか?』
 詠はその文字を見て、意味を考える。否、本当は。考える余地などないのに。
 どうして? そう訊きたい。あの家に住み始めて1年。琴音を個人的に訪ねてきた人物などいなかった。
 会いたいと、目の前の男は言う。かつて琴音の恋人だったという男は。
 会わせて良いのか、詠は考える。不安定な琴音に、こんな刺激を与えても良いものだろうか。
『どうして、会いたいんですか?』
 問うと。
『会いたいから』
 嫌だ、―――何故かそうは言えなかった。





   7.


―――もう終わりにしよう。

 その声は、酷く落ち着いていた。

―――もう終わりだ。
   さよなら―――。

 歌を、声を失った。愛する人を失った。
 あたしにはもう何も。
 何も。残っていない。
 残ってない。

―――わかった。

 文字通り絞り出した声は、果たして彼に声として、ことばとして届いただろうか。
 今となってはもう。
 あたしも彼にも。わからない。

   +++

 玄関の扉を押し開ける。
 詠は後ろを気にしながら、靴を脱いだ。マットの毛足が裸足に冷たく感じる。フローリングはもっと、冷たい。ぞわりとする。
 琴音は何処にいるのだろうか。ピアノの震えはない。寝ているのだろうか、それとも居間にいるのだろうか。
 健一はきょろきょろとあたりを見回して、詠を見た。詠は曖昧に笑って、頷いた。何に頷いたのか、詠自身にさえ良くわからなかった。
『こっち』
 指を差して、居間に行くように促す。
 健一は会釈して、詠の後に続いた。
 静まり返った家。否、詠にとっては常に。世界は無音でしかない。
 後ろにいる男は。
 琴音に何を言うつもりなのだろう。
 詠には聞き取れない世界で。声で。何を言って何を話すのだろう。
 居間の扉を開けて、健一を招き入れる。健一は扉の中に入って、それから詠を振り返った。
『ピアノは?』
 メモ帳に書いてみせる。
『ピアノ?』
 メモ帳を指で叩いて、10センチは高い身長の先を見上げ、問う。
 健一は頷く。そう、ピアノ。
『ピアノはどこ?』
 わけがわからなくて、詠は瞬いた。
 御谷健一は、琴音に会いに来たのではないのだろうか。どうしてピアノのことを訊くのだろう。何故? 何が目的で?
『どうして』
『あれは私のピアノだから』
 詠は鉛を呑み込んだような、息苦しさを覚えた。
『あなたのピアノ?』
 頷く。
 琴音が毎日引いていたピアノ。家を震わせて、詠に音の断片を教えてくれたピアノ。感じられた、唯一の、音としての外界。
 それは、琴音の過去の断片。
 詳しくは知らない。だけど。琴音がときどき残酷になるのは。
 きっとあのピアノなのかもしれないと。何処かで。ココロの奥の気づかないところで、わかっていたのかも、しれない。詠は思う。今になって。琴音の過去を目の前にして。
 遅すぎるのかも、しれないけれど。
『ピアノは?』
 文字を叩いて、健一が先を促す。何処にあるのと、目で問い掛けてくる。
 指を上に向けて。
『2階』
 声のない口話で。言った。
『琴音に会いに来たんじゃないんですか?』
 行こうとする健一のメモに書く。
 貴方は琴音に会いたくて、ここにきたんじゃないんですか?
 健一は詠の思いとは裏腹に。
 どこか人形のような堅さでもって、廊下を取って返した。



 海が凪いでいる。
 風が潮を運んで。琴音は岩場に座り込む。
 散歩する詠についていって、一度だけ訪れたことがある岩場。
 入り江のようになっていて、潮の出入りが激しいせいか満ち干の水位の差が激しい。それを、琴音は知っていた。詠はきっと、知らないと思う。
 詠とは別で、琴音は此処に来る。いつもは夜か、夜明け。海の向こうから現れる太陽を見て。意味もなく泣いたりする。感傷にふけって、傷を舐めて。膿みを啜る。
 さっきまでいた人たちは、もう何処かへ、もといたほうへ戻っていった。
 居間此処にいるのは琴音だけ。
 琴音と。健一のピアノだけ。
 波間に足をぬらして。
 たたずむピアノは、どこかかすんでぼやけて見える。
 ピアノより高いところに座った琴音のワンピースの裾が波に呑まれて、海水を吸い上げる。裸足になった足の先に感じる波は冷たく、いち早い冬の訪れを感じさせる。
 否、それとも。
 冷たいのは波ではなく。琴音だろうか。琴音のなかに横たわる、思い出の断片だろうか。
 どちらでも、構わない。
 どちらでも。
 今の琴音には。関係ない。
 腕を伸ばすと、ピアノの黒い躰に触れることができる。塗料の奥の、木の感触。閉じ込めた記憶。満たされていた生活。歌うことの出来た自分。
 今はそのどれも、ない。かつてはすべてが掌にあったのに。今はない。だけど、ないといって哀しみに暮れるのは、もういい。もうたくさん。もう―――。
 もう、楽になってもいい。
 もう手離して。
 今を、詠と一緒に。生きてもいい。
 蓋を持ち上げて、一音弾いた。
 音は跳ね返るものもない空間で、何重にも波紋のように広がって。
 琴音の元には戻ってこない。
 手を伸ばしても、もう何処にも。



 ピアノは?
 健一がそう言ったのがわかった。雰囲気と、状況と。いろいろ。総合判断。
 詠は首を振る。
 だって知らないから。
 部屋のなかには、ピアノは何処にもなかった。
 ピアノは何処?
 そう訊かれても、詠にはこたえようがなかった。健一の後ろから室内を見て、立ちすくむだけ。
 だって知らないから。
 今までピアノがあった場所には、ただ空間があるだけ。閉められた窓の向こうでは、いつも通りの海の風景。カーテンも閉じて、薄暗い室内。
 琴音もいない。
 琴音も。
 健一が詠の肩を掴んで。揺さぶる。でも詠には。健一が何を言っているのかわからない。何を怒っているのか、わからない。わかるけど、―――わからない。
 だけど、わかる。
 こんなのは嫌だ。
 嫌だ。
 嫌だ―――。

―――ねえ、琴音
 琴音は何処に行ったの?
 ピアノと一緒に。

―――ねえ、琴音
   僕をひとりにしないで





   8.


 沈んで染み込んで。
 音は水に融けて永遠に。
 記憶は波に攫われて永遠に。
 思い出は融けて流れ出て世界を廻る。


 うずくまっている男の子。
 雨が降っている、冷たい都会の一角で。
 傘も差さず。震えて。
 わかっているはずなのに、誰も彼に声をかけようとはしない。
 迷った。
 声をかけようか、否か。
 だけど、迷いは途中で切れた。
―――だってあたしには、かける「声」なんてハナからないんだから。
 眼の前に立っても、男の子はこちらを見なかった。
 もう死んでいるのかもしれない、そう思ったけれど、躰は確かに震えていた。寒さに。琴音の知らない何かに。
 傘を差し出すと、やっと、彼は顔を上げた。何処にでもいるような、普通の男の子なのに。とても綺麗に見えた。精密な硝子細工のよう。不用意に触れば、きっとばらばらになってしまう。
「こんにちは」
 問う。
「どうして、ここにいるの?」
 男の子が首をかしげる。琴音もつられて首をかしげた。
 男の子は固く膝を抱いていた腕をほどいて、耳に当てた。それから首を振る。
「なに?」
 耳に当てた手を、今度は口に当てて。首を振る。
 聞こえない、のだろうか。
 琴音は、屈みこんで、事実を確認するように男の子の動作を繰り返した。
 耳に触れて、首を振る。口に触れて首を振る。
 男の子は、頷く。
 綺麗。ココロに素直に、思った。
 微笑うと、安心したのか、男の子も微笑った。透けるような笑顔で。
 不意に、動きを止めた指先に、男の子の指が触れた。琴音は驚いたが、すぐにまた微笑った。指先に触れた手は、まるでこの世のものではないように、冷たく凍えていた。

   +++

 ピアノが沈んでいく。
 海に。
 足先をぬらしていた海水は、今はもう膝まで。ピアノは、もう鍵盤のすぐ下まで。
 このまま。
 沈んで見えなくなってしまえ。
 沈んで。もう、楽になりたい。過去など切り捨てて、「過去」だと笑えるように。

 否、いっそのこと、琴音自身さえも。
 このまま沈んでしまえばいいのかも、しれない。



 ピアノがない。
 何処にいった? 俺のピアノ。
 眼の前の少年はわからないと首を振るばかり。
「何処にあるっどこにやったんだ!」
 聞こえていないとわかっているのに、訊かずにはいられない。
 少年は首を振る。知らないというような目で。
 事実知らないのかもしれない。だけど―――そんなの。
 あのピアノは。
 あのピアノは―――。




 嫌だ。嫌だ。
 腕を振り払おうとして、だけど出来ない。同じ男なのに、どうしてだろう。
 詠は否定する。嫌だ。何度も。
 ピアノは知らない。何処に行ったのかなんて知らない。
 琴音も、琴音。何処に行ったの? 琴音はぼくを置いて―――。
 あまりに激しく抵抗していたら、バランスを崩して倒れた。驚いた健一の腕が離れる。また掴もうと伸ばされた手をかいくぐって、詠は転がるように階段を下りた。
 何も聞こえない。聞こえないのに。何かが聞こえるような気がする。
 階段を下りてすぐ玄関。とにかく、此処から逃げたい。誰もいないところへ―――否、琴音のいるところへ。

 何処にいるの、琴音。

 引っ掴んで、扉を開ける。
 何かにぶつかった。
 玄関の人工大理石の上に転がった。どうして転んだのか、わけがわからなくてうずくまる。
 外に出られない? ここにいるしかない?
 琴音は?
 何処?
 ひとりはいやだ。
 とんとん、
 肩を叩かれた。
 健一ではない。触れ方でわかった。でも、琴音でもない。
 よそよそしい、遠慮がち。
 詠が顔を上げると、見知らぬ男がいた。つなぎの作業服を着て、心配そうに詠を覗き込んでいる。
 手を差し出したので、掴んだ。そのまま起き上がる。
「―――」
 相手は謝っているようだ。申し訳なさそうな顔をして、しきりに詠の躰を気にしている。
 詠は首を振った。大丈夫、頷いて、家を出ようとしたら、すれ違いざまに腕をつかまれた。だけどそれは、恐れるようなものではなかった。
 見ると、男は何かの鍵を持っていた。
 詠はそれがなんなのか知っていた。
 あの、ピアノの鍵。





   9.


 愛情なんて、そんなもの。
 ありはしなかった。
 かつてピアノがあったという場所。座り込んで、思った。
「琴音、」
 才能が好きだった。あの歌声が好きだった。決して、「琴音」が好きだったわけではない。
 今回だって。
 ピアノが欲しかっただけ。
 人生からピアノを奪われて、何も持っていなかった自分に気がついて。あのピアノを見たくなった。1年前、琴音が持っていった。あのピアノ。
 下積みの長かった、ピアニストとしての御谷健一を、支えつづけてくれていたもの。
 もういらないから、琴音にはそう言った。
 ようやっと、ピアニストとして名が売れ始めた頃だった。
 もういらない、辛かった頃の代名詞のようなピアノは。
 そう言った。
 だけど、―――だけど。
 床を撫でて、拳を叩きつけた。以前はこんなことしなかった。指を痛めるといけないから。だけど、今は関係ない。自分にはもう、ピアノは弾けないから。
 関節の病気だと言われた。
 全身の関節が堅くなって、やがて動けなくなる。指はその始まりに過ぎない。
 何故、指が最後ではなかったのだろう。医師から病気を宣告されたとき、思った。躰の何処の関節が動かなくなっても。指だけは。死ぬ間際まで。ピアノを弾いていたかった。本当に、好きだったのに。
 そうして奪われたコンテンツ。
 他に趣味もなかった自分。
 考えることはいつも決まっていた。
 ピアノ。琴音。
 弾けない自分への憐れみと、情けなさ。
 会いたかった。ひと目。
 琴音。
 かつて、今の自分と同じ、失った者に。愛したものに。
 ―――違う。違う。
 愛などなかった。―――なかった、のに。
 莫迦げている。そう、すべて。
 もう一度強く、床を殴りつけた。

   +++

 沈む。
 後少し。
 沈む。
 流れる。
 全部。
 何故涙が出るのだろう。
 全部、楽になるためのことなのに。
 涙さえ、流してしまわないといけないのだろうか。
 涙さえ海に。
 岩場から離れて、砂浜にたった。見下ろす岩場には、白い波と、黒いピアノ。コントラスト。
「さよなら」
 もうすぐ沈んでしまうピアノ。
「さよなら、」
 過去に縛られた私。歌えない私。
「さようなら…」
 もう、楽に。
「あーっ」
 砂浜。振り返ると、詠がいた。肩で息をして。睨むような、泣きそうな目で琴音を見ている。
「詠?」
 よく見ると裸足で、手には何かを握り締めて。あれは―――鍵、だろうか。
「あう、あ…」
 首を振る。琴音を見て。泣きそうな目で。違うと、いいたいのだろうか。
 違うのだとしたら、何が?
「詠、『どうしたの?』」
 手話で訊く。
『琴音、探した』
 どこにもいなくて。こわかった。
 いつもよりも不器用そうに見える手話で。
『琴音が、いなくなったかと思った』
『いなくならないよ』
 琴音は詠に歩み寄って、細い肩を抱いた。
「ごめんね、」
 首筋に、囁く。聞こえないのに。手話ではなく、ちゃんと、声にして言いたい。
「ごめんね」



 琴音はやさしい。
 詠よりも何センチか大きい琴音は、軽く屈むようにして詠を抱きしめた。やわらかい。安心する。ここにはいてもいいんだと思える。
 琴音。
 名前を呼びたい。
 泣きたい。
 そう言ったら、きっと琴音は、泣いても良いよって言うのだろう。
 琴音の肩越しの海。
 見て、驚く。
『琴音』
 肩を叩いて、躰を離す。やさしい表情の琴音に、問う。
『うしろの、ピアノ?』
 頷く。
『そうだよ、あのピアノ』
 岩場のピアノは、もう頭少し見えるほど。鍵盤は波の下。白い波に黒く。
『どうして?』
 琴音は首を振る。何も言わないで。微笑んでいるような、哀しそうな表情で。
『琴音?』
『帰ろう、』
 ピアノを降り返って、沈んでしまったことを確かめて、琴音。
『ピアノは?』
『あのままでいいの。あのまま、沈んで融けてしまえば』
 ね、笑った琴音の表情。息苦しいほど、傷ついた表情に見えた。
『帰ろう、』
 琴音は詠の手を取った。





   10.


 詠って、綺麗な名前だね。
 琴音が言った。
 どんな字を書くの?
<詠>
 メモ帳に書いた字を見て、琴音は微笑った。
 綺麗な字だね。
<おかあさんが、「すてきなよい詩を詠えるように」て言ってた>
 父はない。母子家庭で。生まれたばかりの頃の詠は、きっと母親の支えだったに違いない。
 でも、詠は支えにはなり得なかった。
 聾唖だと分かったとき、母は泣いていた。詠の寝ている横で。詠が母の頬に触れたら、母は苦しいくらいに抱きしめてくれた。
 それが、母に抱きしめられた、最後の記憶。
 すてきな詩を、すてきじゃなくても。詠うことの出来ない詠は。
 母にとって、一体なんだったのだろう。

  +++

 家に、御谷健一はいなかった。
 琴音には言わなかった。彼が来たこと。聞いたらきっと、また泣いてしまうから。
『ごはんにしようか』
 琴音はそう言うと、居間の方に行った。詠は廊下で、2階に続く階段を見あげた。
 そこに、誰かの気配はなかった。
 彼は、御谷健一は。
 ピアノ、何度も言った。でも本当は。
 琴音、と言いたかったのではないだろうか。
 詠は思う。
 本当は。
 だけど、それはしょせん推測でしかなく。詠に御谷健一のココロがわかるわけもなく。詠は首を振った。
 壁に触れる。
 壁は静かにそこにあって。震えはなかった。
 どこか遠くで、何かが聞こえたような気がした。
 そんなこと、あるわけがないのに。



 ピアノは沈んだ。
 沈んで、終わった。
 たとえ潮が引いても。あのピアノはもう弾けはしない。ピアノとしての、存在は終わった。
 だから過去の琴音も。終わらなければならない。終わって、望んだとおり楽になって。そして、現在の琴音を始めなければならない。過去は、もう棄てて。
 台所に立って、冷蔵庫の取っ手に手をかけた。
 そのまま、止まる。
 眼を閉じれば、聞こえるような気がした。
 拍手と歓声。
 眼を閉じれば、見えるような気がした。
 客席を埋める人々とピアノ。
 違う。
 見えない聞こえない。見えるのは聞こえるのは、すべて幻。体の良い幻想でしかない。
「現実は、」
 声。嗄れた声。歌えない。
 頭を振る。追い出す。後ろ向きな自分。否定する自分。
 ゆっくりと一度、瞬きをして。
 冷蔵庫を開けた。
 たまごと野菜と、目に付いたもので、即行の献立を考えながら取り出す。
 ぱたり、冷蔵庫を閉めた。その音の向こう側。外で。
 漣に似た幽かな。車が走り去っていくような音が聞こえた。



 バックミラ−の中の景色はスピードに比例して離れていく。
 離れて、カーブを曲がって、見えなくなって。
 ハンドルを握って、緩めて。
 ぎしりと、嫌な音がした。
 自分のものではないような。そんな違和感と共に。
「琴音」
 囁く。名前。
 短い瞬き。眼の前に続くのは延々とアスファルトの舗装された道路。
 のどの奥で、引きつるような音がしたような、そんな気がした。





   epilogue


 雨が降っていた。
 記憶の中の雨。現実とは違う雨。
 ただひたすら痛かった。

 壁を伝わる振動。
 琴音が微笑っている。

 ここで生きていても良い。
 此処にならいても良い。
 そう思える場所。

『ごはんできたよ』
 くるくる動く指。
『わかった』
 大好きな指。
 大好きな琴音。
『いまいくよ』
 かつてピアノのあった部屋。今は何もない。
 開け放たれた窓の向こうでは、風が凪いでいる。
 海。波の下には。ピアノ。
 ひらめくカーテンを止めて。海を見た。あの、ここからは見えない岩場の中の。沈んだピアノ。今は姿を現しているのか、それとも、海に融けてしまったのか。
 どちらにしても。
 ピアノはもう、ピアノではなくなって。
 だけど。

―――いなくならないよ

 琴音はそう言ったから。
 ずっと一緒、だから。
 詠は窓を閉めて、階下に降りた。


(2002/11某日 18158文字)