魂送り


 いつか、また、遭えるかな―――?
 牡丹雪を眺めながら、いつも思っていた。
 もう帰れなくても。
 帰れなくても。
 いつか。





「0」

―――――あれは、何だ?
 眼の前の光景に、北沢文弥は声に出さずに呟いた。
 雪山の、林の中。
 炎が燃え上がり、ひとりの少女が立っていた。
 少女は巫女装束を纏い、炎の前で何かを唱えている。その音は、吹雪にさえぎられて聞き取れない。
 少女が手を上げる。その手に纏わりつくように、白い灯りがいくつも舞い上がる。それらはやがて炎に呑まれて。灯りたちはそのあと火の粉とともに再び現れ、夜空の闇に解けるように消えた。
 少女は腕をたらして、上空を見上げていたが、ふと文弥の方を振り返った。
 眼と眼が、あう。
 少女の瞳は黒真珠のような、深くて哀しい色彩で。
 その瞳に、奇妙な浮遊感を覚える。不意に、背後で痛いほど感じていた吹雪の感触がなくなる。
 それから。
 スキ−を履いた足が、雪に沈むような。浮かんだあとの、反動のような。
 少女が哀しそうに首をかしげたのが見えて。
 躰に雪が纏わりついたことだけ、わかった。

     *

 わかっていた。
 いつか、私のような者が、また―――――。
 繰り返されるのだろうか。
 そう問うと、彼は微笑った。
 触れた頬は冷たく、だけど、肌の奥に血の流動を感じる。
 額に、鈍い痛みを感じる。
 瞳を閉じた、その顔。
「繰り返すのか……」





「1」

 眼が醒めると、粗末な布団に横になっていた。ぷん、と黴の臭いが鼻を突く。
 起き上がって、文弥は自分が浴衣のような着物を着ていることに気がつく。確か、スキーウエアを着ていたはずなのに。
 布団を出ようとすると、膝に激痛が走った。勢いで、畳に手をつく。
 右膝には包帯が巻かれていた。手を当てると、ずきずきと痛む。歩くのは無理そうだ。
 それでも足を引きずるように、なんとか障子までたどり着き、開けた。
 外の風景に、ことばをなくした。
 整えられた庭木の上にうっすらと積もった白。ちらほらと舞う粉雪。だけど、見たことない光景。泊まっていたロッジとは、明らかに違う。
「、な、何だよ…これ」
 廊下に出て、柱に寄りかかり、何とか立ち上がる。
「何で、俺こんなとこに―――」
 長い廊下を、足を引きずる音だけが低く響く。頭が混乱して、状況がうまく整理できない。
 何故? それだけがぐるぐる回って。
「何をしているんですか?」
 背後の声に、バランスを崩して倒れる。その拍子に膝に激痛が走り、思わずうめき声が洩れる。
 背後の人物は文弥に近寄り、前方に回った。
 自分よりひとつかふたつ年下の、少女。つやのある黒髪を背中に流していて、幾筋かが胸に流れてる。
「動いたら駄目です。膝を痛めているのですから」
 うつむいた文弥の顔を覗き込む少女の瞳は、黒真珠のような。
「部屋に戻りましょう」
 肩を支え立ち上がらせようとする少女を払い除けて、文弥は首を振った。
「ここ、何処だよ?」
 絞り出した声は、裏返っていて。少女は表情を歪める。
「何処なんだよッ」
「―――ここは、」
「何をしているんだ」
 青年の声に、少女ははっと顔を上げた。―――――陽さま
 陽と呼ばれた青年は文弥を見て、しかしすぐ視線を逸らした。
「深影、婆さまがお呼びだ」
「、はい、わかりました」
「あと、そっちのもだ」
 少女―――深影は陽に軽く会釈をした。それから文弥の脇に屈んで、立ち上がらせようとする。
 文弥は抗おうとしたが、もうそんな気力も残っていなかった。
 深影は小さくごめんなさい、と呟き、陽の横を通り抜けた。


―――――愚かな。
 陽は嗤った。
 幼子を集め、印を刻み。
 それで何が変わるというのか?
 常態を維持するためだけに。変革を恐れて。
 それより何より、怒っているかもしれないことを感じているのかいないのか。
 愚かな。
 深影と文弥の後姿を眺めながら、陽は目元を歪めた。


「深影です、」
 ひとつだけ装飾の異なった襖の前に座って、深影は声をかけ、中に声をかけた。
「御入り」
 しわがれた声が返ってきて、深影はちらりと文弥を見た。文弥は足を投げ出した格好で隣に座っている。膝が曲がらないのだから、しょうがない。
「失礼します」
 開けた襖の向こうは、やたら広い。軽く30畳はあるだろう和室の一番奥に、白髪の老婆が座っている。身なりは小さいのに、威圧感はとてつもなく大きい。
 老婆は文弥を見て、にたりと微笑った。
 深影は文也に肩を貸し、襖の中に入った。文弥を座らせて、襖を閉め、横に座る。
「お呼びでしょうか」
 空気を振るわせる音。
 文弥はぼんやりと老婆を見る。気持ち悪いほど、年老いた女。すでに女であるかどうかさえわからないような。何かに逆らった年齢。
「ふむ…」
 老婆は頷いて、文弥を舐めまわすように見た。
 不快感が背中を這い上がる。
「、もっと近うに寄りなさい」
「はい」
 深影は先ほどと同じようにして、老婆に近づく。近づきたくない、この空間から早く逃れたいのに、文弥は抗えない。何かに押さえつけられているように、躰が動かない。
 老婆の間合いぎりぎりのところで止まって、次のことばを待つ。
「主は、迷い込んだんだろう?」
「そのようです」
「おまえに訊いちゃいないよ!!」
「、すみません」
 老婆はすごい形相で深影を怒鳴りつけ、しかしすぐに穏やかな表情にもどして、文弥に訊いた。そうだね?
 文弥はぎこちなく、頷いた。
「そこに座りなさい」
 老婆の指差したところに、文也は深影の肩から降りて座った。老婆は腰を上げて、文也の着物のすそをまくった。不意にふれた手には温度がなく、まるで死んでいるような、そんな感触。
「これは、痛そうだねえ」
 老婆は眼を細めていった。それから膝に手をかざし、何かを唱える。何処からか小さな灯りが現れ、膝の周りを舞って、吸い込まれるように消えた。
 しばらくしてから老婆は閉じていた瞳をあけ、いいだろう、呟いた。
「膝を動かしてごらん」
 言われたとおりに動かす。身構えていた痛みはなく、難なく膝が動く。
「―――さて、深影」
「はい」
「彫師のところにつれていきな」
 わかりました、礼をして、深影は立ち上がった。見上げる文也に、足はもう大丈夫ですから、行きましょう、と声をかけた。
「失礼しました」
 閉まった襖に、老婆は小さく微笑った。


「ごめんなさい、」
 廊下を歩きながら、不意に深影がそう洩らした。
「何が」
 そっけなく返す文弥に、深影は申し訳なさそうに言う。
「ごめんなさい」
「ただ謝られてもわからない」
 それきり、深影は黙ってしまった。
 少し悪い気もしたが、文弥はなにもいわなかった。


 母屋を出て、雪の舞う庭を横切り、工房のようなところに入る。
「ごめんください」
「はいはい…と、深影か。珍しいな」
 工房の奥から出てきた30手前くらいの男は、文也に気がつくと、あからさまに嫌な表情をした。
「―――こっちも、久々だな」
「そう、ですね」
 やるのか? という男の問いに、深影は、婆さまのお申し付けですから、と返した。
 男は少し迷うように工房を見回しながら短髪の頭を掻き、文弥を見た。
「おまえ、年は?」
「………」
「口が利けないわけじゃねえだろう?」
「15」
 男は舌打ちをして、いったん工房の奥に引っ込んだ。
「何だよ、あのおっさん」
「彫師の匡さんです」
「さっきあの婆さんも言ってたけど、」
 "彫師"って何?
 深影はなんも言わずに、工房の奥を見た。ちょうど匡が針のようなものを一式もって戻ってきた。
 あごで簡易ベッドをしゃくって、文弥に座れという。
 言われるまま腰をかけると、匡はぐっと文弥のあごを持ち上げ、額の髪を払った。乱暴なしぐさに、文弥は顔をしかめる。
「―――それなり、か」
 匡は深影を見て、出て行ってくれ、と目顔で促した。深影は軽く会釈をして、工房を出た。
 匡とふたり、残された文弥は不安になって、訊いた。
「何、すんの?」
「年上には敬語だ、―――名前は?」
「、文弥」
「文弥か、」
 匡はあごに手をかけたまま、ベッドの脇に置いた匣から針を取り出した。先のほうが鉤のようになっている。
 それを、文弥の額に押し当てた。
 当然の痛みに、文弥は暴れて、手から逃れようとした。しかしがっちりつかまれた顎は動かない。
 あんまり暴れるなと、匡はいらいらしたように言った。
「痛いのは当たり前だ、彫ってるんだからな」
「彫るって…やめ、痛ッ」
 彫っているといっても、血は流れてこない。しかし額には断続的に痛みが襲う。
 何をしているのだろうか? 彫るって何を?
「おまえも、運がなかったな」
 しばらく黙々と彫っていた匡が、ふと呟いた。
「まだ、あー、なんだ、あれだろ、学生だろう?」
「あ、うん」
「敬語」
「はい」
 匡は少しだけ微笑って、針をおき、布を取り、文弥の額に押し当てた。
 拭い取ったものを見て、ふむと頷くと、匡は文弥に鏡を渡した。
 それで額を見るように言う。
 鏡に映った自分の顔は、何も変わらない。額にも、もちろん何もない。何かを彫った、といっていたが、その様子も見られない。不審に思って額に触れたら、火のような痛みが走った。
「痛いだろう? 彫ったんだからな」
 匡は文弥に先ほどの布を渡し、しばらく押えているように言った。ベッドの横にある棚から、薬瓶とガーゼを取り出し、文弥の額を消毒した。
「今夜あたり熱が出るかもしれないが、すぐ引くからな」
「熱?」
「出るんだよ、普通はな」
「あの、ここは、何処なんですか?」
「深影が婆が教えてくれるだろ。俺は知らん」
 用は済んだ、出てけ。
 匡はさっさと背を向け、工房の奥に引っ込んだ。文弥は仕方なく、工房を後にする。
 母屋の入り口のところで、深影が待っていた。指先を赤くして、寒そうに。だけど、文弥にはそんな様子はちらりとも見せない。
「お部屋に、戻りましょう」





「2」

 山ノ神よ。
 どうぞ、我らをお守り下さい、山を、お鎮めください。

     *

「貴女は、わかっているのですか?」
 こんなこと、何の意味もなさないことを。
 陽の声に、婆は微笑った。わかっているともさ。
「ならば何故、無意味なことを繰り返すのですか?」
「主には関係のないこと。無意味な詮索は不要」
 婆の有無を言わせぬ口調に、陽は礼をして、部屋を出た。
 縁側の窓の外では、雪が舞っている。
 かわいらしい、粉雪が。
 何をしようというのだ?
 額に、熱を感じる。もう何の意味もない古傷が。
 陽はゆっくり一回瞬きをして、その場を離れた。

     *

 匡の言った通り、その夜文弥は熱を出した。微熱程度の軽いものだったが、そういうのが一番だるい。
 深影は頻繁に文弥の様子を身に現れ、額のタオルを代えていった。
 文弥の額を見るたびに、深影は哀しそうな表情をした。それが何を意味しているのか、文弥には見当もつかなかった。
「なあ」
 何度目かのとき、文弥は深影に声をかけた。
「さっきから、何でそんな顔するんだ?」
 深影は黙って、部屋を出た。しかしすぐに戻って来た。手には、手鏡を持っている。
 文弥を起こし、手鏡を持たせて、額を見てください、と言った。

―――――額を見てみろ

 昨日、匡も同じようなことを言っていた。しかしあの時は、額には何もなかった。
 だが。
「…なん、だよこれ」
 額には、くっきりと浮かび上がった五芒星。紅い、線の細い。
「彫るって、これの…」
 深影はこくりと頷いた。私にも、同じものがあります。髪を下ろした額を、隠すように、手をかざす。
「それは、特殊な刺青です。普段は見えません。ただ、体温が上がったり、興奮したりすると、浮かび上がるのです」
 傷は、まだ組織液を滲ませている。ふれると、刺すような痛みがした。
「何の、ために?」
 鏡から眼を離し、深影を見て、問う。いったい何の理由があって、こんなものを額に刻まなければならない?
「私たちは、魂を鎮める者です」
 深影は少し俯き加減に、言った。
「すべての山は、山ノ神によって支配され、山ノ神は常に生贄となる魂を求めています。それを、送るのが、私たちの務めです」
 魂を鎮める? 山ノ神?
 ―――ワタシタチ
 首を振る。そんなものが、何故俺に刻まれなければならない?
「俺は…そんなんじゃない、普通の中学生だ、なのに―――――」
「私だって、普通の子供でした」
 文弥のことばをさえぎるように、深影が半分叫ぶように言った。
「私だって…刻みたくて刻んだわけじゃない。なりたくて、なったんじゃない…」
 私は―――――。
 袴に、ひとつふたつと、染みが出来る。肩が震えて、しゃくりあげる。
 泣きたいのは、俺のほうだ…。
 文弥はそう思いながら、深影の顔を自分の肩に押し当てた。深影は文弥の薄い着物の生地を握り締めて、声をあげずに泣いていた。
 髪の感触が、何故か懐かしかった。

     *

 幼いとき、両親と兄とスキーに来た。
 九州の方に住んでいたから、雪は珍しくて。誰よりもはしゃいで。気が付いたら、周りには誰もいなかった。
 そして、燃え上がるやぐらと、その前に立つ人―――――陽を見た。
 何が何なのかわからないまま、気がついたらこの屋敷にいた。印を刻まれ、魂を送る方法を教えられた。逆らえなかった。怖かった。ここがどこかもわからずに。10にも満たない幼い子供が、ひとりで。
 話し相手は、匡だけだった。
 彼はもとからここの生まれで、外の世界を知らないと言っていた。彼の前だけでは、笑っていられた。
 匡は深影を見るたびに哀しそうだった。だけど、そんなこと、口に出しては決して言わなかった。
 年を重ねるにつれて、すべてを諦めている自分に気がついた。
 もう家には帰れない、わかっていた。
 そしていつか、自分のような者が、ここに現れることも。
 陽もそうだということを知って。
 文弥もそうだとわかった。彼をはじめてみたときに、額がうずくのがわかった。繰り返すのだと、わかった。そしてそれ以上に、耐えられないものを。
 何のためになんて、深影にはわからない。
 ただ、山ノ神を鎮めるためだとだけ教えられていた。
 何もできない己を、無力だと嗤った。
 躰に感じる文弥の体温に、何年かぶりに涙腺が緩んだ。

     *

 山が、おかしい。
 空気の流れに、陽は眼を細めた。
 雪の流れが、いつもと違う。
 いやな予感がした。

     *

 泣きやんだ深影は、ごめんなさい、と謝った。
 目元をぬぐって、深影は部屋を出た。
 残された文弥は、布団に横になって、眼を閉じた。
 躰の熱は、まだ深く根を張っている。
 ぼんやりと、黒い天井が見える。
 いつのまにか、眠っていた。


 ちいさな白い灯りが、ゆらゆらと舞う。
 眼の前には、燃え盛る炎。
 あのときみた、不思議な光景。
 忘れられない、世界の最後に見た光景。
 もう、戻れないのだろうか。

     *

 翌朝、熱は下がっていた。
 文弥は深影の持ってきた巫女のような神主のような装束着替えた。
 婆に呼ばれているというので、部屋に向かう。深影はついてこなかった。文弥は言われた通りの道順を、忘れないように足早に歩いた。
 その途中で、陽に鉢合わせした。
「婆さまに、呼ばれたのか」
 頷く。陽は哀れむように微笑って、そうか、と呟いた。
「深影は、どうした?」
「今日はひとりでいってください、て言われた」
「―――――気をつけろ」
 聞こえるか聞こえないかの声で囁いて、陽は文弥の横を通り抜けて、歩いていった。
「、変なの」
 言って、前を向く。何処に行くんだったか、頭の中で地図を思い描いて、文弥は歩を進めた。


「失礼します」
 昨日深影がしていたのと同じようにして、文弥は声をかけた。
「御入り」
 昨日と同じような声が返ってきて、文弥は襖を開けた。
 婆の声は、昨日のような不快感は感じない。
 襖を開け、文弥は中に入った。
「主は、ここで生きるのだ」
 婆は遠くでもはっきり聞こえる声で言った。
「ここで―――」
「ここは、どこですか?」
 婆のことばを遮って、文弥は言った。
 ここは何処なのか、教えてください。
 少し考えて、婆はしわの寄った口を開いた。
「ここは、現と神の狭間」
「狭間?」
「我らはここで、神に仕え、魂を差し出す、それだけのこと」
 魂を差し出す、深影も同じようなことを言っていた。

―――――私たちは、魂を魂を鎮める者です

 しかし、「差し出す」と「鎮める」では、意味合いが違う。
「深影は、鎮めるといっていましたが」
「そう思うて貰っても良い」
 そうか、深影は、少しは話したようだな。
「ならばはやい。主には、深影の後任をして貰う」
「後任?」
「昨日額に刻んだ印、あれは術を施すための、いわば準備」
 婆は己の額を指差した。
「山ノ神は五芒星の、その形を好む。彷徨う魂も然り」
「魂とは、何の魂ですか?」
「主に獣、稀に、遭難した人間の魂もある」
 そういうときは山ノ神は喜ぶがな。ひひひと、面白そうに笑った。聞きながら、文弥は背筋が寒くなるのを感じた。
 魂を送る。
 獣、―――人間。
 山ノ神は、その魂をどうするのだろうか。訊かないでも、わかるような気がした。
「印は、世界にひとつしかその存在を認められない。深影の印は、もはや意味をなさないただの刺青。今日から、主が魂を送るのだ」
 方法は、深影か陽が教えてくれるだろう。
「下がりなさい」
 婆は言うことは言ったという風に、文弥に告げた。
 文弥は礼をして、部屋を出た。





「3」

「深影」
 声に、深影は振り返った。
 陽が、真剣な表情で立っていた。
「陽さま」
 何事ですか? と、問うまでもないような空気に、深影も表情を硬くした。
「山が、おかしい」
 雪が、報せている。
「おまえになら、わかるだろう?」
 同じ額の印を持つものとして。
 深影は、もう意味のない額の印を押えた。
「陽さま」
 私たちは、間違ったのでしょうか?
 ちがう、陽は言う。
「間違ったんじゃない、やりすぎたんだ―――――」


「匡さん」
 工房で作業をする匡に、深影は声をかけた。匡は顔を上げ、咥えていたキセルを揺らした。
「どうした深影」
 作業の手を止め、煙を吐き出して、匡は深影を近くに呼び寄せた。いすを引き寄せて、座らせる。
「匡さんに、お願いがあってきました」
 深影の真摯な瞳に、匡は作りかけのものをおいて、まっすぐ向き直った。
「―――――」
 深影のことばに、匡は驚きを隠せずに、両手で顔をぬぐった。
「まさか、」
 匡の視線に、深影は何も言わずに頷いた。


 何も気づいていないのか。
 陽は婆とことばを交わしながら、思った。
 魂送りの務めが終わってから、陽はしばしば婆の話し相手をしている。別に強要されたわけでもなく、自らが進んでのことだった。
 婆は印を持っていない。世界を維持する能力しか持たない。かつては栄えた彼女の一族も、今は婆をひとり残すのみとなった。子孫を持たない彼女は、自らの躰に術を施し、世界とともに生き長らえている。
 否、世界とともにしか生きられない。
 気づいているのだろうか、異変に。
 日増しに強くなる圧力に。
 やりすぎたことに。

     *

 文弥は、深影とともに外に出た。門をくぐると、穏やかに雪が舞い、大して背の高くない木々が小さな林を形成している。
 その中を縫うように進み、気持ちばかりの広場に出る。
 そこだけ雪が払ってあって、黒い土が露出している。そのうえには、文弥の背丈ほどもあるやぐらが組まれていた。
 深影は持ってきていた小枝を組み、火打石で火をつけた。
 炎はあっという間に燃え上がり、見上げるほどに成長した。
 火の粉が舞い、広場に飛び出した枝を焼く。
 深影は文弥に歩み寄り、額を合わせた。印同士が合わさり、何かが流れ込んでくる。それは聞いたことのないことば。呪文のような。
 しばらくして額を離し、深影は微笑った。
 文弥は深影から流れてきたことばを口にした。額が熱い。
 周りに何かが集まってくる。ざわざわと、寄せては返すような。
「眼を開けてください」
 深影のことばに、文弥はゆっくりと瞳を開く。
 躰の周りに、纏わりつくような白い灯り。―――――これが、魂なのか。
 魂は腕に絡みつき、腕を上げるとそれと同じように上に上がった。そして腕から指のラインに沿って流れ、火の中に消えた。
 あのとき見た光景の中に、自分がいる。
 不安定な、不思議な感覚。
 額が熱い。
 印が浮かび上がっているのがわかる。


 自分にはもはやぼんやりとしか見えない、魂たち。
 文弥にははっきりと見えているのだろう。
 深影がはじめて魂を送ったとき、陽もこんな気持ちだったのだろうか。否、あのときの陽にはない気持ちが、自分にはある。
 空を見上げると、雪の流れが速くなっていた。

―――――やりすぎたんだ

 陽のことば。
 あまりにもリアルな。
 どうして、今になって。―――否、今までの積み重ねの招いた、当然の結果か。

     *

「ここまで、か」
 道具を片付けながら、匡はぽつりと呟いた。
 匡はここで生まれ、ここで育った。すべてはここにあった。
 一体いつから、「ここ」という存在に疑問を抱くようになったのか。
 おそらく、深影が来たときから。
 こんなに幼い少女が、何故必要なのか。
 婆に会うことさえかなわない彫師の自分には、何もできなかった。
 しかし、今なら。
 ふと握った針。今まで、一体何人の額に、あの印を刻んできたのか。
 もう、数えることすら億劫で。

―――――お願いがあります

「おまえは、それでいいのか、深影」
 すべてを失うことになっても、構わないというのか。
 それとも、もう思い残すことはないとでも言うのか。

 ぱきィ―――

 亀裂が。
 針の柄に。
 ぞくりとした。

―――――魂が、

「―――――まさか」
 蒼白な表情で、呟く。

     *

 どん、と背中を押されるような感覚。
 見開かれた眼に映ったのは、魂の群れ。
 さっきまでとは違う、明らかに悪意を持った。
 火が弱まっている。雪の量が増して、世界が白くにごっている。
 何が起こった?
 何もわからない。なにがどうなったのか。


 おかしい。
 魂の様子が、変だ。
 雪の量が増えて、視界が悪くなる。その向こうで炎が弱くなるのが見えた。文弥の後姿がぼんやりしてくる。
―――――まさか
 そんな、いくらなんでも早すぎる。
「大丈夫ですかッ!!」
 呼んでも、返事はない。火が、完全に消えようとしている。

 一瞬だけ吹雪に包まれて、気がついたら世界は世界じゃなくなっていた。

 陽に助けを呼ぼうにも、もはや屋敷の方向すらわからない。

―――――おにいちゃん、

 甦る声。不安な気持ち。あのときと同じ。あの時と似通った状況。また、失うのか?
 風が、深影の躰を横殴りに叩きつける。何とかふんばって、文弥のほうを見る。しかし、そこにはもういるのかどうかさえわからない。

―――――ねえ、みんなどこにいったの?
 眼の前に現れたのは、陽。陽は深影を見て、屈み、すっぽりと腕で包んでくれた。
―――――ここ、どこなの?
 世界の狭間。短いことばでこたえて、ぎゅうっと、抱きしめられた。

 風に躰が倒れる。地面に膝をついて、腕で顔をかばって。
「お兄ちゃん!!」
 叫んでいた。


 屋敷の外が騒がしい。
―――――何か、あったのか
 陽は急いで玄関を出て、外の様子に驚愕した。
 雪が、屋敷を取り囲んでいた。空が一面塗りたくったような白。
 雪? 違う、雪じゃない。これは、いままで送ってきた魂の群れ。
「そんな……」
 呟く。早すぎる。もう少し時間がるはずだったのに。
 門の外は、もう一寸先も見えないような状態になっている。
「深影!」
 叫んだ。屋敷とやぐらはそう離れていない。叫べば届くはず。なのに、返事はない。
 額に鈍痛が走る。
「陽」
 捕まれた肩に振り返ると、匡が立っていた。
「匡」
「深影は、そとか」
 頷く。文弥も、一緒だ。
 ちっと、匡は舌打ちをする。
「あんた、読めてたんじゃないのか?」
「まさか、こんなに早いとは思わなかった」
 視線を逸らして、陽は言った。予想外だった。
「あんたは、ここにいてくれ」
 ふたりを、連れ出してくる。
 門を出ようとした匡を制して、陽が言う。
「いや、私が行く。魂の送り方くらいなら、まだ覚えている」
 匡は婆さまに。
 陽の額にうっすらと浮かんだ印に、匡は頷いた。





「4」

 生まれたときから、すべてを背負って生きてきた。
 一族の最後のひとりとして、世界を背負い。
 我が身に術まで施して。人間には耐えられないような年齢を重ねて。
 わかっていた。
 匡が来て、報告したことも。すべて。遅かれ早かれ、いつかこうなっただろう。
「匡か。彫師、だね」
 はじめてみた、彫師の姿。自分とは縁のない、顔を合わすことすらない。こんな狭い屋敷の中にともに住んでいたのに。
「主は、この世界とともに去ぬるか?」
 すべてを悟ったようなことば。
「それとも、この世界から抜け出すか?」
 婆は微笑った。ようやっと、解放される―――――。

     *

 息ができない。
 体中に魂が纏わりつき、苦しい。

 ううううあうあうおおおおぉぉあうぉおおお

 不快な、粘着質の声。人のものではない、獣の、それとも人間の?
 それは、意識が溶かすような、同化を望むような。

     *

「深影ッ」
 倒れていた深影を見つけて、陽は叫んだ。
 抱き起こされて、深影はぼんやりと瞳を開ける。しかし、すぐはっとなって、身を起こそうとする。
「おにいちゃんッ」
「深影、」
 陽は深影を腕に中に戻して、押さえ込んだ。魂が、群がってくる。
「陽さま、でも―――でも、おにいちゃんが」
 やっとあえた。
 もうあえないと思っていたのに。
「落ち着け、いいか、そのことは文弥には言うな、いいな」
 陽は深影の顔を真正面から見て強い口調で言った。
「今から、魂を送る」
 ただし、今までとは比べ物にならない量だ。
「でも、私たちは、もう魂を見ることすら―――――」
「大丈夫」
 確信のないこと。だけど、それしか方法はない。このままでは、皆世界に押しつぶされて、皆、死んでしまう。
「遭えたんだ、もう、十分だろう?」
 魂の向こうの、もうほとんど見えない文弥を見て、深影は深く頷いた。


 深く息を吸い込む。
 風に倒れないように、足を踏ん張って。眼を閉じる。魂を送る、あの感触を、思い出す。

―――――名は、なんと言う?
―――――みかげ

 ここに来たあの日。
 もう帰れないと知った日。婆に頼んだことがあった。
 たったひとつだけ。―――――兄の、両親の、私を知るすべての人々から、私を消して。
 そうしなければ、私はここで生きていけないから。
 婆は消してくれていた。兄は、文弥は自分のことを全く覚えていなかった。嬉しくて、今更に哀しかった。
 だけど、遭えた。そのことは、哀しいより何より、嬉しかった。たとえ、巻き込んでしまうんだとしても。自分と同じ道を歩むことになるんだとしても。
 いつもやさしかった兄。犬に襲われたときも、両親におこっれたときも、いつもかばって、慰めてくれた兄。
 今度は、私が。

 額に、うっすらと熱を感じる。
 お願い、だから。
 熱はじわじわと広がり、やがて躰を包み込むように。
 あげた腕から光が滲み出し、魂が引き寄せられるように集まる。次第に文弥の姿が鮮明になってくる。
 眼を開くと、すべてが白だった。
「彷徨いし魂よ―――」
 陽の声が遠くに聞こえる。
「怒りを鎮め、無に環れッ」
 普段は天に昇っていく魂が、躰の中に入ってくる。躰はもともとひとつの魂しか入らない。あっという間に許容量を越え、息が出来なくなる。
 躰が、空気の圧力に耐えられなくなる。

 うああおおぉおおううああああおおぉぉあおぉ―――――

 魂の声。怒りに道を失った、逝き場のない。
 雪が、やんだ。

     *

 世界が軋み始める。
 空気がひび割れて、終わりに近づく。
「下がりなさい、匡」
 場に合わない、静かな声。
 匡は深く礼をして、部屋を出た。
 屋敷の中は静まり返っている。深影も陽も、文弥も、いない。
 まだ、外か―――――。

     *

 浮遊感。寒天の上に寝ているような、不安定な。うつぶせになったら、窒息してしまうような。変な、感覚。
 息苦しさは消えて。土の匂いがする。
 眼を開けると、雲のない空があった。しかし、どこかおかしい。薄く割れた水溜りの氷のような。
 起き上がると、額に鋭い痛みがした。
 印を押えると、ほのかに熱を持っている。
 あたりを見回すと、深影と陽が倒れていた。ふたりとも露出した腕は焼け爛れ、髪の奥に覗く顔は血の気がない。
 ぞくりと、背筋が凍るような感覚が走った。
 よろめきながら近づき、声をかける。
 陽はすでに動かなくて、冷たくなりかけていた。深影は、かろうじて息をしていた。起こして、名を呼ぶ。
「深影、深影」
 乾ききった唇から洩れる小さな音。うっすらと開いた瞳が泳いで、文弥を捕らえる。
 小さく微笑って。
「よかった」
 よかった。
 そしてまた、眠るように眼を閉じて。
「深影? 深影!!」
 揺さぶっても叫んでも、反応しない。
 深影の躰がぼんやりと光を放って、離れる。薄紅色の、もやもやした湯気のような。空に昇って、そこにあった同じく薄紅色のものと混ざるように、風に躍らされるように揺らめいて、溶けるように消えた。あれが深影と、陽の魂なのだろうか―――?
 ぼんやりと、見上げていた。
「―――文弥」
 文弥は振り返ることも出来なかった。深影の額には、うっすらピンク色に残った、印の痕。

 ィイィィィイイイィ……ン

 音叉を力いっぱいに打ち付けたような音。
 匡は文弥を引っ張り起こした。深影の頭は腕から滑り落ちて、ごとりと地面に落ちた。痛いはずなのに、動かない。
「―――みかげ」
「ふみやッ」
 叫ばれた音に、はっとする。
 匡の、焦った顔。
 引っ張られるままに、林の中を走る。
 深影の姿があっという間に木に隠れて見えなくなる。陽の姿も。
 林の向こうが見え始めたところで、匡が立ち止まり、文弥を振り返る。
「いいか、この林を抜けたら、すぐ向こうが―――おまえの世界だ」
 おまえの世界。
 文弥の。
「振り返らずに、行け」
 背中を押される。しかし、文弥は動かない。
「俺、何もわからない」
 何が起こったのか、わからない。このままじゃ、帰れない。
「知らなくて良い」
「それは俺が決めることだよな」
 匡は腰に手を当てて、ため息をつく。
 文弥の肩を両手でつかんで。
「ここでは、深影や陽や、そのずっと前の何代も前から、ずっと、魂を送ってきた。はじめは山で彷徨う魂を送り、それを喰べる山ノ神の機嫌も取れていた。でも、いつからか、山の神の機嫌をとることだけに気をとられていた俺たちは、魂をお座なりにしてしまった。そして、その結果が、これだ」
 魂たちは怒り暴れ、自分たちの元へやってきた。やりすぎた。獣の魂だけでなく、遭難した人間の魂も何もかも、すべて送って。
「彫師風情の俺にはよくわからんが、そういうことだ」
 短くまとめて、いいな、と肩をつかむ手に力を込めた。気がついたように着ていた上着を脱ぎ、文弥の肩にかける。
「おまえはまだ戻れる。額の印は気にするな、時の流れがすべてを流してくれる」
 そんなの、ただの気休めにもならない。
 文弥は一歩、歩を進めた。
 しかしすぐ立ち止まる。
「振り返るな」
 振り返りたい衝動に駆られながら、文弥は林の外に飛び出した。


 文弥が林の外の雪に消えたのを見て、匡は振り返った。
 空気が割れているのが、肉眼でも見て取れた。
 終わる。
 己の手を見る。この手は、一体どれだけの印を刻んできたのか。
 でもそれも、今日で終わる。何もかも。
 薄紅色のもやが匡を包む。
「ちゃんと見送った、大丈夫だ」
 押しつぶされるような。
 林の木々が、倒れる。
 そのうちの何本かが躰に圧し掛かって。骨が折れる嫌な音がした。

 ―――――ッ

 空気がガラスのように割れて。





「5」

 濃い霧が、世界を満たしている。
 細かい水の粒子は重力に関せず空を舞い、その間を滴が滑り落ちていく。
 そしてそれは傘に跳ねて、ぱたぱたと音を立てる。滴の大きさはさまざまで、高い音低い音、短い音長い音間延びした音、いろいろな音に変換されて、鼓膜を振動させる。
 霧の向こうで、光が交差している。
 車のヘッドライト、テールライト、自動販売機の灯り、信号、いつもより早くついた街灯。
 呼吸をすると、躰の奥底まで水が行き渡るような、遥か古の祖先を思わせる感覚。
 無風なのに、どこかに風邪を感じ、奇妙な浮遊感を感じる。
 まるであのときのような―――――。
 点滅する信号に、立ち止まる。
 くすぐったいような感触に視線を下げると、子猫が足に擦り寄っていた。猫は躰中ぬれていて、小さく震えている。
 屈んで、背を撫でると、猫は気持ちよさそうに眼を閉じ、腕に擦り寄ってきた。ほのかに、暖かい。
 しかし猫は急に瞳を上げて、車道に飛び出した。止めようと手を伸ばして、だけど間に合わなくて。
 猫の躰は車輪に巻き込まれて、皮膚が裂け、道路に血が飛び散った。
 眼の前で起こった、ほんの一瞬の光景。
 車は止まりもせずに走り去っていった。猫は車道の真ん中で、何度も何度も転がって、ぼろぼろになって。
 信号が変わり、車の流れが止まる。
 屈んだまま手をつき、首を捻って猫の方を凝視する。額に鈍痛がする。
 猫の躰がぼんやりと輝き、その光は猫を離れ、霧と同化するように消えた。
 片手で顔半分と額とを覆い、立ち上がる。視線は光が紛れたあたりから離れない。
 人々は何にも気づかずに、ちらちらと興味深そうな視線をこちらに寄越すのみ。あの光が見えたのは、たぶん自分だけ……―――――。
 掌に隠された表情が歪むのを、どうしようも出来なかった。


 炎が。火の粉が。
 空に昇った薄紅色のもやが。
 網膜に焼き付けられて、消えない。


(2002/01某日 13131文字)