そこにいる、
思いが想いに変わるのに、時間なんて概念は存在しなかった。
@
ひとつの小高い丘の上にある高校の、いちばん高い校舎の屋上。
春の空が冬より近く感じるのはどうしてなんだろうか―――そんなことをぼんやりと考えながら。
僕はいつもそこに居る。
彼女も、いつも此処に来る。
でも彼女が僕に気づくことはない。否、僕だけではない。彼女には何も見えていない。周囲の人間も風景も空の色も桜の舞う風の匂いも。
書き割りですらない。彼女が見ているのは、ひとつだけ。
彼女はいつも孤独のなかに居た。
僕はいつも、彼女のそばで、何も言わずに。ただただそこに居た。
お互いに名前も知らないまま。彼女は僕の存在にすら気づかないまま。
ひとつずつ、季節を通り過ぎて。
再び春が訪れても、彼女は季節すらない、何もない場所に今も”死”を見続けている。
*
―――、
音もなく。あえて言うならば、かすかに、水の撥ねる音がして。
洋式トイレ。便器の中の水に、赤い点がぼやけて広がって、透明がピンクに歪む。
授業中、誰もいない女子トイレの個室。高崎雪乃が、”自分”というものを持っているのならば、数少ない、それをさらけ出せる場所。
弦楽器を弾くように、するりとカッターを肌の上に滑らせると。既に何度も傷つけられ、うろこのように変質した肌に、太く赤い線が浮かび上がって。濁った赤色が流れ落ちる。
床に落ちないように、便器の上で、雪乃はその行為を、何度も何度も繰り返す。義務のように。与えられた仕事を淡々とこなすように。
どうしてこんなことをしている―――?
間断なく湧き上がり、肌を滑り落ちていく血液と、その行方を見ながら、雪乃は思う。
私はどうしてこんなことをしているの?
血を求めているわけではない。特別の痛みを感じないこの行為に、痛みを求めるわけでもない。傷が欲しいわけでもない。
何も求めていないのに。何も欲していないのに。
私はどうして行為を繰り返すのか、
凝固して、細く白い腕にしがみ付く血液の滴は、何か言いたそうに震えている。それとも、震えているのは雪乃自身なのだろうか。
恐怖心など、当の昔に何処かに忘れてきてしまったというのに。
寒くもない4月の中旬。
雪乃はずっと行為を繰り返し続けている。
家族にも友人にも露見することなく。偽りの感情を、表情を纏って。
1年間。
繰り返す行為の意味を、雪乃は自身のことでありながら、理解できないままでいる。
誰かにかまってもらいたいのか――だったらはじめて行為をしたその日に誰かに言えばいい。親でも友人でも。教師でも誰でも。でも雪乃は誰にも言わなかった。親にも友人にも。教師にも誰にも。
言わなかった。
傷をさらすことすら。
血の匂いすら。
感づかせることはなく。
1年間。
精神的な病気か、ストレスか――少なくとも意識下で、雪乃はそう言う類のものを特別強く感じたことはない。両親との3人暮らしにこれといった不満もなく、経済的にも中流家庭。恋人はいないけれど、すきなひともいない。欲しいと思ったこともない。恋愛感情なんて、自分のなかに存在するのかすら曖昧なほど希薄な。
無意識下のなにか――考えられるものはそれだけ。でも、無意識は意識したその瞬間、既に”無”意識ではなく。ただの意識と化してしまう。雪乃の行為の根本にある”何か”は、まだ無意識のなかの奥深く、居るのか、居ないのか、そもそもそんなものすら存在しないのか。
わからないままに、月日だけが、季節だけが規則正しく過ぎていく。
はじめて手首を切ったのは、15歳――地元の公立中学を卒業してすぐのこと。きっかけは覚えていない。それこそ、カケラも覚えていない。それから1年と少し。空が丘高校に入学して、2年に進級して。雪乃は今でも毎日のように、酷いときは日に数回、この行為を繰り返す。延々と。末期の麻薬中毒者が麻薬という狂喜を求めるのと同じように。
皮膚は既に蛇皮のように変質し、ゴムのように固く。皮膚が変質していくにつれ、傷は深く出血量も増えて。一生消えることのない傷は増え続け。意識は次第に朦朧と、混濁して。痛みも恐怖も何も感じない。ただの手首を切る、ひとのかたちをした何か。
混沌とした意識のなかで、ひとつだけ、はっきりと意識し、思うこと。それは”死ぬ”こと。
死にたい。
雪乃の存在している理由は、自身の思うところこれでしかなかった。だけど、死ねない彼女は。
死ねないから、だから生きている。
それだけの存在。自身の認識などその程度。
死ねたら、生きていない。生きているのは、死ねないから。
リストカットで死ねないことは、この1年間で、雪乃は自身の躰でもって知った。彼女には血管を真っ二つにする勇気なんてなかったし、腕を切り落とすほどの勇気もなかった。
臆病者な彼女は、ただ死ねない行為を繰り返しながら、死ぬことを想いつづけていた。それこそ、ある種恋愛感情に近く。
“死”を、欲していた。
他には何も要らないから。だから私に死をください。
右手で器用に巻き取ったトイレットペーパーで手首を拭う。自らの腕から湧き出した血は、既に冷たく膜を張って。血液の流出を止めようとして。
死にたい雪乃の躰は、本人の意思とは無関係に、生きようとして。
わらってしまう。その笑顔さえ、雪乃は何処かに落としてしまった。振り返っても何処で落としたのかわからない、見当たらない、何処か。今彼女が持っているのは、薄っぺらな、だけど酷く頑丈で、通り一遍の喜怒哀楽を持った仮面だけ。
ひとりのときにだけ、外すことの出来る仮面。雪乃は今自分がどんな表情をしているのか知らない。自分の顔は知っていても、自分の表情は知らない。忘れてしまった。15年間、物心ついてからも10年以上、誰しもが持っている表情というものを、雪乃だって持っていたのに。
たった1年で、その記憶はいとも簡単に捨て去られ。ニューロンからも見離され。
脳の記憶中枢の何処かで、ブラックボックスと化して凍結。解凍ソフトはまだ未開発。
綺麗に拭い終わった手首を押さえて、少しの間止血して。用意していた包帯を巻きつける。うすく2、3周。それから、薄手のリストバンドで押さえるように手首を覆い隠した。
伸縮性のあるリストバンドを、少しだけ引っ張って、離して。音もなく肌にぶつかる布に、仮面の装着される音を、雪乃は自分の耳の奥で聞いた。
レバーを引くと、まだらのトイレットペーパーと一緒に、赤く染まった水が。透明な便水に巻き取られるように流れて押し込められて。
彼女は”高崎雪乃”を演じはじめる。
午後いちばんの5時間目。数学の授業のあと、雪乃は決まってクラスメイトの高梨かすみに声をかけられる。「高崎さん、」他所行きのようなその声は、玄関のチャイムに似ている。ただ何者かの来訪を告げるだけの音。声ですらない。
「ね、ノート見せてくれない?」
顔の前で掌を合わせて、お願い、と可愛らしく首をかしげるさまを、雪乃は進級してから数学のある日には毎日見ている。否、数学以外のときにも、何度か。それは生物だったり、古文だったり、家庭科だったり。そしてその”可愛らしく”のさまが、雪乃に対する何かしらの感情――申し訳ないとか――ではなく、周りにいるクラスの男子に向けられているものだということも。
雪乃の見知っている限り、限りなく薄っぺらな。だけどそれは賞賛に値するほど頑丈に出来ている。雪乃の仮面よりも、きっと巧く出来ているのだろう。
「またぁ?」厭味に聞こえないようにおどけて。雪乃は閉じた数学のノートをかすみに差し出す。「寝ちゃったの?」
「そうなんだよねー。もう辰巳先生の授業眠いんだもん。催眠だよー」
いいながら、ノートを受け取る。「毎回ごめんね。明日までには返すからさ」「ん、うん。そんな急がなくても、次の授業までに返してくれればいいから」
この声を発しているのは誰?
「もーホントたすかるー。高崎さんありがとっ」「いえいえ、困ったときはお互い様ですから」
私が困っても、あなたはきっと援けてくれないんでしょう? こんなことを思うのは誰?
知らない何人もの人間が、雪乃のなかで繰り返す。それは何かことばとして発せられたり、思考回路に割って入ってきたり。
それを不快とも思わずに受け入れることがただ”楽”だから、雪乃は抵抗しないでいる。
彼女に渡したノートが次の数学までに帰ってくる保証はない。今回までに10回近く貸して、3回、彼女は授業が終わった後に雪乃にノートを返しにきた。外見だけの「ごめんね」を繰り返して。「うっかりしちゃって」3回が3回とも一字一句、たがわず同じ理由。イントネーションも言い方も仕草も。そして、雪乃は毎回”わらって”それを許容する。誰かが高梨かすみを非難して、雪乃を罵倒する声を、何処かに聞きながら。
数学教師の辰巳は、寝ている生徒を起こさない。試験の結果を第一として、点数の取れない生徒には、補講や補修なんて行わず、情け容赦なく成績に「1」をつける。その代わり、真面目に授業を受け、出された課題をこなしさえしていれば、試験は必ず解くことが出来る問題しか出題しない。板書は必須。課題といっても教科書の練習問題を一問解いてきなさい、その程度のもの。
2年進級にあたって、普通科普通・私立文系コースに進んだ雪乃たちのクラスにとって、数学は高校指導要領を満たすためだけのどうでもいい授業に過ぎない。数学Uの教科書はその存在さえも疑わしく感じられる。同じ私立文系でも、特進コース生だったら、きっと少しは感じ方も違うのかもしれないけれど。雪乃の所属するクラスの3分の2は専門学校か指定校推薦で大学にいくか、就職か。残りの3分の1の生徒は一般受験で大学進学を希望しているが、周りに流されて指定校をとったり専門学校に進学したり。結果進学率は高いけれど、受験らしい受験を経験する生徒は少ない。
高梨かすみはのっけから美容専門学校を目指していると公言している。そんな彼女にとって、数学なんて――授業なんて、ただ高校卒業資格を得たいがためだけに受けているに過ぎないのだろう。
進路。先のことはおろか、今の自分すらわからずに死を想う雪乃。従順に与えられた授業をこなしノートをとり、それを寝て過ごすクラスメイトに貸し与えることに嫌な顔ひとつせず、返し遅れても文句ひとつ言わずにわらっているだけの”雪乃”は、きっと高梨かすみのような人間にとっては、とてもとても、都合のよい人間に違いない。だから着かず離れず。友人でもなく顔見知り程度な知人でもなく、気軽に――必要なときにだけ――声をかけ、雪乃を「高崎さん」と呼び続けるのだろう。
他のクラスメイトだって同じだ。
雪乃は入学したときから特に友人関係を築こうとはしなかった。そんなものはどうでもよかった。ただ死を想うだけで、雪乃の欲求は満たされ。クラスメイトたちが他愛ない話で笑いあうなか、高梨かすみのような人間たちが何人か関わってくるだけで。限りなく狭く、浅く。それこそ、存在までもが疑わしいほどに。
同じ中学から空が丘高校に進学した友人は、何人かいた。でも、その誰とも交友を保とうとはしなかった。繋がりを求めない雪乃に、旧友たちは編み物を解いていくようにするりするりと、彼女の元から去っていった。
中学のころ、雪乃は、それこそ”どこにでもいる”普通の生徒だった。友人関係もそこそこ広く、それなりに深く。わらって怒って、哀しんで。一通りの感情と感覚と思考と。
誰でも持ち合わせたそれらを、当たり前のように持ち合わせて。
仮面ではなく、きっとそれは雪乃自身が生まれ持ってきたモノで。手首は右も左も傷ひとつなく。夏には半袖を着て、ノースリーブを着て。着るものを選んだりしなかった。
それらが中学を卒業して、まるで互いに示し合わせたように、何処かに行ってしまった。見失ってしまった。愕きはしなかった。絶望もしなかった。そんなものでさえ、彼女には残されていなかった。目の前で唐突に開かれたパンドラの箱のなかには、希望すら、カケラも残っていなかった。
触れた箱のそこにあったのは、深い深い闇のなかにたゆたう”死”だけ。それだけが唯一、彼女に残されたモノ。
闇のなか、”死”に手を伸ばしても、箱にはあるはずの底がなく。掴めないまま。何も残されなかった雪乃は、ひとつだけ残った”死”を想うことだけで生きていた。
それを想うしか、生きていくことが出来なかった。
掴めない。
他には何もない。
それがいつからか、
掴めない。
他には何も要らないから、欲しい。
思いが想いに変わるのに、時間なんて概念は存在しなかった。必要なかった。
今や手を伸ばして掴もうとする左腕には、無数の傷と傷痕と、変質した肌が纏わりついて。それでもまだ届かない”死”を、雪乃は毎日願い、想い、考えている。
鞄のなかから、古語辞典を取り出す。
死を願う自分に果たして勉強が必要なのか、雪乃は知らない。わからない。死ぬこと以外に考えることに、興味などなかった。
机の上に転がるシャーペンの頭をそっと握りこんだら、授業の開始を告げるチャイムが、騒がしい教室に鳴り響いた。
*
薄暗い踊り場の扉を開けると、白い雲が浮かぶ、青い空が現れた。
小高い丘をひとつ占拠して建てられた高校の、いちばん高い校舎。屋上。入学してすぐ、雪乃は屋上を訪れた。なんとなく、高いところに行きたかった。本当は、もっともっと高いところに逝きたかったけれど、学校の屋上が、雪乃の行けるいちばん高い場所だった。
晴れの日も雨の日も、雪の日も。雹が降った日もあった。
一日に必ず一度、雪乃は屋上を訪れた。毎日、それこそ息をするのと同じように。1分と居ない日もあったし、用務員に声をかけられるまでずっと居続けたこともあった。行く時間も居る時間もまちまちで。そこに行ったから何があるわけでもなく、そこに行ったから死ねるわけでもなく。ただ、それこそ何となく、雪乃は通い続けた。
落下防止に張り巡らされたフェンスの前に、男子生徒が居るのに気づいた。扉を開いて、右の奥。右に押し開ける扉だから、今まで気づかなかったのだろうか。それとも、今日はじめて此処に居るのだろうか。
少しだけ足を止めて、でもすぐに、いつもどおり、屋上のゴム張りの床に下りた。雨風にさらされた緑色の床は、無数の足跡で黒く、靴底模様に汚れている。桜が葉桜へと変わろうと花びらを無数に散らすこの季節にも、桃色の届かない床には、緑と黒しか色彩はない。
閉じた扉にもたれて、空を見上げる。庇が邪魔して、それを避けるように、一歩、また一歩と前に進む。
もしもフェンスがなかったら。
このまま空を見上げたまま、落ちて。
このまま空を見上げたまま、死ねるだろうか。
でも此処にはフェンスがあって。
もしもは所詮”もしも”でしかない。ただの仮定。”もしも”が存在したら、世の中はどれだけ変わっているだろう?
「危ないよ、」
不意にかけられた声に、雪乃は、顔を上に向けたまま、視線だけを右に向ける。床に片足を投げ出して、もう片方の足をゆるく抱えた男子生徒が、無表情に近い笑顔で雪乃を見ていた。
「……、」
返答はせずに、前を見る。フェンスはまだ1メートル以上先にあった。下を見る。つまずきそうな異物はなかった。
顔を下に向けたまま、視線だけ男子生徒に向ける。「そんな顔しないでよ」男子生徒は少し困ったようにわらった。「別にいかがわしいもんじゃないよ。ホラ、ちゃんとここの制服でしょ?」襟元をつまんで、詰襟の学生服をアピールする。空が丘の制服は、女子は少し変わった形のセーラー服ではあるが、男子は何処と見分けもつかないような黒い詰襟であるため、そのことばに信憑性は薄かった。だが、少なくとも屋上なんて場所に居る以上、彼はきっと空が丘の生徒なのだろう。
何も言わない雪乃に、男子生徒は抱えたほうの足で、とん、床を叩いた。その音に、雪乃はまっすぐに体制に戻って、今度は前を向いたまま、フェンスに近づいて。今度は男子生徒も何も言わないで。雪乃はそのまま額から寄りかかった。かしゃん、掠れた泣き声のような音がした。
「よく此処に居るね」
「…」
「屋上がすきなの? 空がすきなの?」
「…」
こたえない雪乃に、男子生徒はゆったりとした程よい低音の声で、話を続ける。ひとりごとのように、語りかけるように。
「僕は何となく、此処に居たいからいるんだ。ここ、昼休みにもほとんど人来ないしさ。たまに演劇部とかが発声しに来るくらいで」初夏の匂いをはらみはじめた風が、緑に染まる周囲の木々から流れてきて、髪を揺らす。眉より少し長い前髪が、雪乃の閉じたまぶたの上で擦れてわらう。「この町で、いちばん空が近いのは、ここで。なんていうか、手を伸ばせば掴めそうで」衣擦れの音と、声の微妙な変化で、雪乃は男子生徒が腕を伸ばしているさまを想像する。
目を開けて、向けた視界の先には、本当に想像のままに、手を伸ばした男子生徒がすわった体勢のまま。両足を投げ出して。表情は黒を纏った腕に隠れて見えない。
「ねえ、空に浮かぶ雲ってさ、空に穴が開いているみたいだよね」
言われて、雪乃が見上げた空には、ひとつふたつ―――いつつの雲があって。風が弱いのか、凝視しないと動いていることすらわからないような。静止画のような。
雲がいつつ。深い陰影もなく、白いだけの雲。
それは男子生徒が言うように、確かに、空にぽっかり開いた穴のようで。
「死んだら、あそこに逝くのかな?」
腕に隠れて見えない男子生徒の目は、どんな色をしているのだろう。
想像すら出来ない雪乃は、空に開いた白い穴を見つめたまま。きっと死んだらあそこにいくんだな、ぼんやりと思った。そこにあるのではなく、開いている白い場所に。
*
死んだら人間は何処にいく?
そのこたえのひとつ。
空に開いた白い穴のなかに。奥に。
―――死んだら、あそこに逝くのかな?
はじめて会った、名前も知らない。顔すらぼんやりとしか覚えていない男子生徒の言ったことばが、雪乃のなかで何度もリピートされる。考えるでもなく。ただひたすらに。機械が与えられた操作を繰り返すように何度も何度も再生される。
空に開いた穴。
存在は、”ある”のではなく”ない”もので。存在はしていても、そこに雲という物体は存在しない。
―――死んだら、あそこに逝くのかな?
行ってみたい。―――ベッドに寄りかかって、フローリングに触れる素足は冷たくて。ぼんやりとしたすべてのなかで、雪乃は思った。
行ってみたい。
いってみたい。
逝ってみたい。
ベッド下の収納から、カッターを取り出して、刃を押し出す。はじめて切ったときから、何度も買い換えた。今使っているのがいくつめなのか、思い出すことすら面倒くさい。たいていのものは3ヶ月もすれば錆びて使い物にならなくなるか、切れなくなるから。使い勝手の良いものは、半年持った。駄目なものは3回使って棄てた。
かちり、かちり…かちり、
いつもはひとつ分しか押し出さない刃を、みっつ分。普段より長い刃は、まるで細く鍛えられた剣のよう。刃を垂直に肌に当てて、押さえながら引く。ぴくり、反動か、左手が動いた。いつもは湧き出る血が、流れ出た。刃先はあっという間に血に染まって、一呼吸する間もなく足の上に落ちた。いつもは冷たく感じる血液は、温かく。確かに雪乃が生きていることを示し、そして今までとの違いを如実に語る。
じわり、
足に滴る血液の温かさが肌を通して、神経を通り。
胸に染み渡る感覚に、心臓が身震いをした。
血管を切ってしまったようで、血はとめどなくあふれ出し、雪乃は慌ててティッシュで傷口を押さえる。押さえながら、おかしくて、顔の筋肉がひきつる。
死ねるかな。
思った。いつもよりもずっと深く切ってしまった今なら。
きっと今、私はわらっている。
1年前になくしてしまった感情の一部分。表情のひとつ。きっと今、雪乃は雪乃として、わらっている。
死ねるかな、
死ねるかな?
数枚重ねたティッシュはあっという間にぐっしょりと血を吸って重くなって。それを床に捨て、あたらしいティッシュで押さえる。出欠は徐々に収まって行く。このままぬるま湯にでもつければ、もう少し深く切れば、雪乃はきっと死ねる。確実に。
あの白い穴の奥に。なかに。
行ける。
いける。
逝ける。
「…ぁ、」
音とも知れない声が、洩れた。部屋の中には雪乃がひとりきりで。声は、誰でもない。雪乃自身の声で。
じわりと胸に広がった感覚の断片を。
ちらりと目の前に掠められたように。
「死ねるかな、」
声に出して、言った。そうしたら小さな針で、心臓の辺りをちくり、刺された。そんな感覚がした。
*
雪乃は毎日屋上に行った。毎日、どの時間に行っても、男子生徒は必ずそこに居た。雨が降った日は庇の下に、晴れた日はフェンスの前に、立っていたり座っていたり。雪乃を見て、彼はいつも少しの笑みで会釈をし、話かけた。雪乃はいつも会釈は返しても、話はしなかった。
「今日は少し寒いね」
「校内の桜、全部葉っぱになっちゃったね。ああなると誰も桜って気づかないよね」
「あれ、授業は? あ、言っとくけど、僕は堂々とサボリだからね」
「毎日が24時間じゃ足りないって言う人がいるけど、キミは? 僕にとっては少し永く感じるよ」
「本当に、此処が好きなんだね。」
「僕は夏の、べたーって塗りたくった青い空がだいすきだな」
「何なんですか?」
何度も何度も、会うたびに、他愛のない会話を繰り返す彼に、雪乃はヒトコト、言った。今日はフェンスの前で。ふたりの間には1メートルの空間がある。
「…」
「いい加減にしてください」
「……、」
「私が話したら、今度はあなたが黙るんですか、」
「…いやいや、やっと喋ってくれたなって。こう、軽く感動していたのよ」学生服の第2ボタンのあたりをさすりながら、彼はじわりじわり、わらいながら言った。「うわー、何か僕今凄い倖せ」
「…」
予想だにしなかった反応に、雪乃は面食らって。呆けてしまう。何がおかしいのか、彼は突然顔を背けて「くふっ」ふき出した。その様子に、雪乃は釈然としないものを感じた。
「何ですか?」
「さっき、めちゃくちゃあれ? って顔してた。今は少しむっとしてる」
「…ぇ、」
そのことばに、雪乃は反射的に自身の顔に触れる。「な、なんですか?」
「今は少し慌てた顔――表情」
“顔”ではなく、”表情”と。言い直して。
「僕は仁科広久。絵画でさ、仁科展ってあるでしょ? あの仁科に、広く久しいで、広久」左手に漢字を書くさまを見せながら、彼は雪乃に自分の名前を解説した。”久”のはらいを、皮膚を引っかくように書いて。雪乃の顔を見る。気がつけば、数十センチというところに互いの顔があった。雪乃はとっさに身を引く。
「高崎です」自分のなかの”愕き”を隠すために、雪乃は言う。「高崎雪乃。群馬にある高崎市の高崎に、空から降る雪に乃、乃は…こんなんですっ」
大きく、宙に文字を書く。広久はへぇ、笑みを広げたまま。「高崎雪乃さん」フルネームで呼んだ。「なんて呼ぼうか? 2年でしょ?」雪乃の上履きを指して言う。指摘されて見ると、広久も、くすんではいるが同じ色の上履きをはいていた。「僕も2年なんだ。タメだしね。でも名前の呼び捨てって何か馴れ馴れしいとか感じるひと?」
「…よく、わかりませんけど…」
「ん、わかった。じゃあ、僕は”高崎”って、苗字の呼び捨てで呼ぶ。僕のことは…そうだな、なんかリクエストがあれば出来る限り添うけど、」「………」たっぷりと3拍分。思考をめぐらせることも出来ずに、間をとってしまった雪乃に。「……その顔はなさそうだね。じゃあ、苗字で、”仁科”って呼んでよ。それと、敬語はナシにしよ」
にっこりわらった広久の表情は、雪乃もはじめて見るもので。何日も毎日、顔を合わせていたのに。雪乃は広久の何も見ていなかったことに気づいた。
知人ともいえない、ただの場所の共有者というだけの関係だけど。
雪乃は広久のことを何も見ていなかったのに、広久は、雪乃のことを見ていた。それは決して変な意味ではなく。そこに特殊な感情があるわけでもないだろう。
さっき指摘されて、とっさに触れた顔の皮膚。左手首とは違う、傷のないあるべき肌の感触。仮面は、ある? ない?―――指先が、肌を撫でる。歳相応の肌。特別綺麗でもなく、特別汚くもない。
「何処まで、」「…」「何処まで、見てた? 私のこと」
泣きそうだ、思った。涙の出てこない眸はむしろ乾いて痛いくらいなのに。目の奥が、まぶたの上、その奥が。痛い。
痛い。
「少なくとも、高崎が僕を見ていた以上には見ていたよ」言い方に、雪乃は拠りどころを探すように、フェンスを掴む。軽い針金のぶつかり合う音と、振動。「僕だけじゃない。高崎は何も見てなかった。――まあ、僕が言い切るのもおかしいけどさ」
握りこんだ指の力を抜くと、ずるりずるり、手は重力のままにぶら下がった。
何も見ていないことは知っていた。
見ようと思わなかったから。興味すら抱けなかったから。でもそれを、誰かに指摘される日が来るとは思ってもいなかった。
「死にたい?」
唐突に、広久が言った。
「……、」
きっと縋るような眸をしていたに違いない。広久は座って、雪乃は立って。お互いの1メートルの距離が、痛いくらい近すぎて。
「高崎は、死にたいって思うひと?」
喉から発せられようと、用意されることばは、すべて喉で詰まって引っかかってでてこないままで。
「辞めといたほうがいいよ」あそこの店不味いからさ、そんなふうに。あっさりと広久は言う。表情ひとつ変えず、わらうでもなく、咎めるふうでもなく。そこにある感情はなんていうのか。「死ぬのは苦しいよ」
そのことばの重みに、雪乃は喉元までのことばすらすべて失ってしまう。
―――死ぬのは苦しいよ
「…」
何もいえない雪乃に、広久は「ごめん」謝って。「土足でずかずかと、図々しかったね」
「…、」
反射的に首を横に振ったのは、無意識の処世術。
「ごめん、」
両の掌で顔を覆った雪乃に、広久はもう一度、言った。開いた指と指の間から見える、汚れた床と、広久の制服の黒。
眩暈のような輪郭のぼやけ。
「ごめんなさい、」
発せられたのは、ただ、謝罪のことばだけ。なにに対してなのかもわからない、行き先不明の声は音として。「どうして高崎が謝るの?」「…ごめんなさい、」「……、」
見上げる広久の視線が、やわらかくて痛かった。
*
大きな地震は、海を揺るがせて津波となり、遠く離れた場所にまで広がって行く。
小さな滴が零れた跡に広がる波紋は、緩やかに緩やかに、広く浅くいつまでも揺れて、続ける。
広久が雪乃以外の誰かと一緒に居るのを見たのは、今日がはじめてだった。
開いた屋上の扉の、目の前。扉に背を向けた男子生徒がいる。広久は開いていた口を閉じた。何かを話していたのだろうか。彼の顔にかすかに浮かんだ困ったような笑みと戸惑いと。
雪乃が動けないでいると、男子生徒が振り返った。黒い髪はクセっ毛なのか無造作で、黒縁の眼鏡の奥の眸はまだ幼さすら感じる。上履きの色で、彼が1年生だということだけわかった。
広久が雪乃に、向かって会釈する。男子生徒はしなかった。
ただ広久を見て、それから雪乃を見て。
眸は何かを言いたそうに。口を結んで。男子生徒は広久にも何も言わずに、フェンスから離れた。そのまま早足で屋上を出ようと雪乃の横を通り過ぎる。斜め後ろで、男子生徒は少しだけ立ち止まって。雪乃は振り返ったけれど、彼は振り返らないまま。
「此処に居る」
ぽつり、呟いた。
雪乃にはそのことばの意味も意図も理解できないまま。男子生徒の表情も見えずに声音から何を感じ取ることも出来ないで。雪乃の理解を待つ前に、男子生徒は階段を降りて行った。
雪乃は反響する足音に、広久を見る。ひらりひらり、指を降る彼は、両足を投げだして、薄くほほえんでいた。
そのほほえみに、雪乃は少しばかりの安堵を得るけれど。
―――此処に居る
そのことばの意味はわからないまま、わだかまって。
「仁科、?」
きっと縋りつくような声で。
眉を上げて、広久は返答に代える。
今のは誰、トモダチ?
訊きたくて、でも訊けなかった。雪乃は広久の何にでもない。ただの、場所の共有者というだけで。接点はそこだけで。
彼が2年だといったこと以外は何も知らない。どの科に属しているのか、クラスは、コースは。
何も知らなければ接点すら見えない。見つけられない。屋上以外での広久を、雪乃は何も知らない。そしてそれは、踏み込んではいけないような。
そんな、気がした。
触れてはいけない。
触れられない。
「なんでもない、」
ゆっくり首を振って、雪乃はほてほて歩いて、広久と少し離れた場所に座った。
「「……」」
どちらもことばを発しないまま。
いつもは広久から、何気ないことを話し始めるのに。今日はそれもなく。ちらりと横目で見ると、彼はほうっとした表情で、――色に喩えるならば無色で――空を見上げていた。大きな雲がひとつ、ゆったりと空を漂う。その穴に吸い込まれていきそうで。
つられて空を見上げたまま、雪乃は目を閉じて。吸い込まれるさまを想像する。
青のなかの白い穴。
そこは天国と呼ばれる場所だろうか。それともただの死者の溜まり場所だろうか。
死んだら、人間は何処に行くんだろうか。天国だろうか、それとも何処でもない場所だろうか。
それとも、
死んだら、
それで何もかもがおしまい?
機械の電源を切るように。
ぷつり、もしかしたら音すらもしないで。
「死にたい、」
ぽつり、きっと無意識に。雪乃は言っていた。言ったあとに、ふと引き戻される感覚。目を開けると、青に混じる白がまぶしかった。
「私ね、死にたいの」
左手首を押さえて。ちいさくわらう。笑顔。仮面ではない。きっと違う。これは雪乃が生まれ持った表情のなかのひとつ。
「手首を切る。死ねない。でも、この間は、いつもより、深く切れた」押さえた手首に、今もはっきり残っている傷が、熱を持っているのがわかる。生きようと、組織を再生させている。「死ねるかな、て、思った。死ねるかな、―――」「…」何かを言うかと、広久を見ると、彼は先程と同じ恰好で、同じ表情で。微塵の変化もない広久に、雪乃は心地よい距離を感じる。
着かず離れず。広久はそこに居る。
何処でもない。そこに居てくれる。
たとえ聞いていなくてもよかった。言わせてくれるだけで。「死ねなかった。死ねるかな、て思ったら、何か、違うなって思った」一度ゆっくり瞬きをする。ひかり、闇、そしてまた、ひかり。「何が違うのかわからない。でも、私は、死にたい。死にたい。生きていたくない。だけど、死ねなかった」緩やかに吹いて行く風が、服を揺らすでもなく髪を揺らすでもなく、通り過ぎて行く。放課後の屋上には、運動部の掛け声が遠くに聞こえる。「生きていたくないのに、こんなにも死にたいって思っているのに」
言い終わって。雪乃は立てた膝に顔を埋める。からっぽのココロのなかで、”死にたい"ということばがからりと音を立てて転がった。
「死ぬのは苦しいし、怖いよ」空を見上げたまま、広久が言った。雪乃は少しだけ顔を上げて。「自分が死ぬと、周りもみんな死んでしまうんだ」空に向けた視線を、まっすぐ、前に向けて。「僕の、本当に手前勝手な発言だけどさ―――高崎が死ぬのは、嫌だ」はっきりと、でも、さわさわ、木々が揺れるような。声。
傷に染み渡るのは、優しさという痛みにも癒しにもなり得る音。
「――うん、」喉の奥で、否定とも肯定とも、雪乃自身すらわからないで。言って。そっと、目を閉じた。それからもう一度、繰り返した。「うん、」
A
今でも、はっきり覚えている。
あの日は、雲ひとつない、ゆるやかな青空が広がっていた。
見下ろせば、満開の桜が花びらを散らして。道に舞い落ちた花びらは、踏まれて、なんともいえない黒と茶色とのクラデーションに彩られて。
踏まれて。
汚されて。
穢されて。
咲いているときはあんなにももてはやされるのに。
散ってしまえば誰しもが迷うことなく、踏み潰して歩いていく。
風に、遅咲きの桜が揺れ、花びらが舞い。
暖かい春の気候に、精神は穏やかさを取り戻すように、心拍数を下げていく。
“それ”は息をするのと同じこと。”それ”はすべてからの解放で。”それ”はすべてを開放すること。
他のどの感情よりも。
安堵と、じわりとしたやわらかい慈しみの。
表情に、笑みさえ浮かべてしまうほど。
手をかけたフェンスの冷たさだけが、そこにあった唯一の異質物。
―――ひょっとしたら、怖かったのかもしれないけれど。
*
踊り場で扉に背を向けて、男子生徒は立っていた。陽のひかりの当たる黒髪の縁さえも黒く、雪乃から、表情を見取ることは難しい。
「英です」
男性生徒は唐突に、ことばを発した。「ハナブサ?」問い返す雪乃に、”ハナブサ”はもう一度言った。「英和葉といいます。普通科の1年です」そうしてようやく、ハナブサが名前なのだと理解した。
「…」どう返答したら良いのか一瞬わからなくて、どうして彼が名乗ったのかさえも、わからないまま。「私、は――」
そこから先、ことばの詰まってしまった雪乃に、和葉がひとつ、ことばを差し出す。「あなたは?」
「…、高崎」
「高崎さん」
復唱して。
和葉はわらうでもなく困るでもない、微妙な表情で。
「あなたには、見えるんですね」
「――?」
言いたいことの意図がつかめずに、雪乃は眉をしかめる。
「彼、今日もそこに居ますよ」
少しだけ、視線で屋上を振り返って。
「いつも、そこにいる」
「…。仁科の、トモダチ?」
雪乃の問いに、和葉はクセっ毛をくしゃりと握りこんで。本当に困ったように。わらって。
「よく、わかりません。僕と彼は、いる世界が違うから」
“いる世界が違う”
それは一体、どういう意味?
「英くん、」
呼びかけて。
「――何か、」
眼鏡の奥の黒い眸が、少しだけ緩やかになって。
「……」
呼びかけたはいいが、雪乃は何も言えず。ことばを探して視線をちらりちらり、動かすのに、ことばは何処にもない。
ない。
「彼はずっと、そこにいます」
俯き加減に目を閉じて。
和葉は言うと、失礼します、雪乃の横を通り過ぎて階下へ降りていった。足音が遠のく音と始業を告げるチャイムが、重なって。鼓膜に響いて。
―――僕と彼は、いる世界が違うから
目の前に翻されたことばの意味の裾さえも、つかめないまま。
開いた屋上の扉の向こうから風が吹きこんで、青い空と白い雲と。
今日は立ってフェンスに寄りかかる、広久の姿。
*
「気分が悪くて、保健室に行ってました」
決まりきった台詞を教科担任に言って、雪乃は自分の席に着いた。窓から2列目、後ろから3番目。
教科担任は出席簿に印をつけると、あっさり授業を再開した。日本史の授業。まだ卑弥呼も登場する前の時代。このペースで受験までに演習まで間に合うのか、雪乃は教科書の残りページの厚さにため息をつく。
教室のざわめきに、左手首が軽くうずいた。
押さえると、じわりと痛みが広がって。鎮めようと目を閉じると、とん、と指で軽く机を叩かれ。その方を見ると、隣の席のクラスメイトが、大丈夫? と書いたメモを見せていた。
雪乃はなんでもないよ、と言う表情でわらった。
クラスメイトは少し愕いたような表情で。もう一度メモを見せた。”なら良かった”
「ごめんっ」
「…ぇ、」
授業が終わって、教科担任が教室を出て行くと同時に、隣の席のクラスメイト――西条亜花音が両手を合わせて、雪乃に向かっていった。
わけがわからなくて瞬きを繰り返す雪乃に、亜花音はこわごわ、強く閉じた目を開けて。それから大仰に安堵の息をついた。
「はぁー…」
「えと、西条さん?」
どうかしたの?
「あたし、ずっと高崎さんのこと誤解してた」さっきの軽く怯えたような表情とは一転して、リラックスした様子で、亜花音は続ける。「いつもひとりだし、かすみちゃんとか一部の子としか話してるの見たことないし。普段は、何か、こう…ぼーっとしてて怖いし…いや、でも、それは思ってただけで」自分のなかで適当なことばが見つからないとき、亜花音はころころ、表情を変え、身振り手振りでそれを補った。「ホントは凄くちゃんとわらえる子なんだなって。今だって全然怖くないし、最近なんか、ちょっとずつ表情が良くなってきたって言うか、」「……」「ああ、ごめんね私ばっかりごちゃごちゃ喋って。でね、あ、偉そうに言ってごめん。でもホントにそう思うの」
まだ何か言いたそうだったけれど、亜花音はいったんことばを切って。「あたし、西条亜花音。西の条件に、アジアの亜に、花に、音。紛らわしい当て字だけど、つけたのは親だし、あたし気に入ってるんだよね」「…」「どうかした?」言いかけて、でも、雪乃はとっさには言えずに。さっきの踊り場でのことを思い出す。英和葉と名乗った男子生徒に、雪乃は苗字しか名乗らなかった。”名”乗るのに、名を教えていなかった。「―――私は、高崎雪乃。群馬の高崎に、空から降る雪に、乃は…こ、こんなの」掌を出して、そこに文字を書く。「高崎雪乃」確認するように言って。「雪乃ちゃんでいい?」雪乃の掌から顔を上げて、笑顔。「え、うん」「あたしのことは”亜花音”でいいよ」にこにこ、笑顔で言いながら、「改めてよろしくっ」右の掌を差し出す。「よ、よろしく」
高校2年に進級して、はじめて握ったクラスメイトの掌。じわりと、人の温かみ。
高梨かすみや、他に接してきたクラスメイトとは違う。触れる。その行為。
「高崎さんっ」
背後の、いつもの声。振り返らなくても、誰が居るのかわかる。
「高梨さん、」
「お取り込み中悪いんだけどさ、さっきの日本史のノート、貸してくれない?」
いつものポーズで、いつもの声音で。
「え、あ。うん、いいよ」
高梨かすみと西条亜花音の温度の違いに戸惑いながら、雪乃はノートを差し出す。
「あしがとー。ちょーたすかるっ! 早めに返すから!」「あ、ううん。いつでもいいよ」「うん、ありがとー」
にこにこ、亜花音とは違う笑顔で、高梨かすみはひらひら手を振って離れていった。
「ねえ、雪乃ちゃん」前に向き直ると、亜花音が高梨かすみの居た方を見ながら、徐々に視線を雪乃に下げて。「嫌なら、断ったほうがいいよ」言った。
―――嫌なら。
「べ、別に嫌じゃないよ」
「ホントに?」
「うん、」
「嫌じゃないんなら良いんだけど…」雪乃ちゃん、もう一度呼びかけて。「あたしと話してるときと、表情が違うんだもん」
何処かで、何かの壊れるちいさなかすかな音がした。
*
5月に入って、気候はあっという間に夏に近づいて行く。
制服も冬服から夏服への移行期間になり、多くの生徒がブラウスやシャツに半袖のベストという恰好になる。
そんななか、雪乃は長袖のブラウスに冬のジャケットを着たまま。
完全に夏服になるまで、多分雪乃はこのままの恰好で通い続けるのだろう。家族もクラスメイトも、何も言わない。亜花音だけがヒトコト、「暑くない?」とけだるそうに訊いてきた。彼女は極度の暑がりらしい。「あたしは融けそうだよー」
「うん、暑いのは平気なほうかな、」
机に頬杖をついて、こたえる。
今でも毎日屋上に行く。そこにはいつでも広久が居る。
彼の前では、雪乃は”雪乃”で居られた。仮面なんて必要なかった。亜花音の前では、まだ完全にはずせないで居る。外すことに戸惑っている。高梨かすみとのノートの一方的な取引も続いていた。
「もーガマンできないっ」
音をたてて、亜花音が立ち上がる。彼女は効果音がしそうなくらいの豪快さでベストを脱いだ。男子の間から、愕きと歓声があがる。薄手とはいえベスト。ベストのしたのブラウスは夏仕様。下着がばっちり透けてしまうわけで。
「ふあー」
しかしそんなことまったく気にする様子もなく、亜花音はまた倒れるように椅子に座って、机にのびた。
亜花音の行動に、雪乃も愕いて。それから、少しだけふき出した。白い半袖のシャツから、彼女の伸ばした白い腕は、ほくろひとつ傷ひとつなく、すべすべしていた。
雪乃が自ら棄ててなくしてしまったものを、亜花音は普通のように持っていた。当たり前だ。雪乃にだって、1年前まではそれが”普通”だったのだから。
ぐるりと、周囲を見回す。女子も男子も、7割方の生徒が夏服を着ていて、さらされた腕は、肌の色の焼け具合に違いはあれど、どれもこれも傷跡らしいものはなく。例えあったとしても、それは古傷で。事故で。不可抗力で。
雪乃の腕の傷は。
いまだに生々しく臭いを放ち。血を滲ませ。自分でつけた傷で。抵抗しようと思えばできたもので。
ああ、私は何をしているんだろう。
なにをしてきたんだろう。
そう思うと同時に、湧き上がってくるのは、どうしようもない嫉妬心。自己愛護心。疑問。
どうしてだろう。どうして。
私はどうして。
どうして私は。
かたん、立ち上がって。机についた腕は、小刻みに震えている。理由は、怒り? 哀しみ? それともそのどちらでもない何か?
「雪乃ちゃん?」
顔を上げた亜花音が。何気なく、言う。「顔色、悪いよ」
「保健室、行って来る」
ぽつり、言うと。雪乃は逃げるように教室を出た。
校舎の一階にある保健室とは逆方向、屋上に向かって歩く。周囲を取り囲むようにざわめく生徒たちはみな当たり前に半袖で。当たり前に傷のない肌を露出し。
みんながみんなして、雪乃を追い詰めて行く。
お前は異物なんだ――聞こえないはずの声が聞こえる。雪乃にしか聞こえない声。
違う。叫びたい。でも、叫べない。
鼓動が早くなる。意気が上がる。ジャケットの下で、へんな汗が滲む。躰から血の気が引いて行くのがわかる。足まで引いたら、後は廊下に赤い足跡でも残して行くのだろうか。
たすけて、
ぽこりと、浮かんではじけた台詞。
たすけて、誰か。
誰か――仁科。
無意識に求める屋上。”雪乃”で居られる場所。受け入れられている場所。
階段を一階分上がったところで、咳き込んだ。いつの間にか授業時間になっていたらしく、廊下に人の気配はない。なのに、さっきまでそこに居たというだけで。色濃く残る残像は、そこに存在しているも同義。
「どうして、」
ころり、ことばが落ちて。転がる。
手すりに縋るように階段を上がって、たどり着いた屋上へと続く踊り場。
扉に寄りかかって、倒れこむようにあけた。
目の前に広がる景色はいつもどおり。なのに、そこに彼の姿はなく。
「仁科…?」
そこに居るはずの彼の名を、呼ぶ。
「どうかしたの?」
雪乃のすぐ下で、声がした。扉を開けてすぐ左に、広久は座っていた。そこは屋上で唯一、庇が影を作っている場所。
「……、いた」
へたりこむ雪乃に、広久はゆったり、わらった。
「居るよ。僕は此処に居る」
膝に肘を置いて、頬杖をついて。落ち着いた口調で、大人が子供にやさしく諭すように。
「顔色、良くないね」
言われて、雪乃は自分の頬に触れた。氷のように冷たかった。そこに、熱いくらいの涙が、跡を残して滑り落ちて行く。「どうして私なの?」
「……」
「どうして私は、こんなことをしなきゃいけないの?」頬に触れた手は、そのまま凍り付いてしまいそう。涙が触れた部分だけが、やたらと熱く感じる。
「ねえ、仁科、教えて? 私だってみんなと同じにしたい。でもできない。私は自分を傷つけるから。手首が傷だらけだから」広久はじっと、雪乃を見ているだけで。「もう、みんなと同じに出来ない。着る服を選ばないといけない。私は私じゃいられない。私じゃない誰かを捏造しないとみんなと一緒に生きていけない。だから死にたい。死にたい。でも、怖い。死にたいけど、怖い。怖いよ…」
「大丈夫だよ、」
とめどなく溢れる涙に、掌で何度も何度も目を拭って。
「大丈夫」
「仁科に何がわかるの? どうせあなただってみんなと同じ側に居るくせに! 私のこと、ただ哀れだからそういって、気休めなんか――」「高崎、」ことばを止められて、雪乃はひるむ。「落ち着いて」
柔らかい低音で、はじめて会ったときと同じように。困ったようにわらっていて。首元に手を伸ばす。そこではじめて、雪乃は彼もまた冬服を着ていることに気づいた。長袖。詰襟はきちんとホックまで止められていて。
なのに汗ひとつかかずに。いつもどおりに。そこにいる。
広久は学生服のフックを外して、ボタンを、ふたつ、外した。
彼は襟元を広げたけれど、その前にちらりと覗いただけで。雪乃にはすべてが理解出来た。
広久の首には、赤い縄の痕があった。それは酷く肌に食い込んだことを証明するように、赤く黒くまだらに、首に巻きつく蛇のように。二重に。
「高崎が何で手首を切るのか、僕にはわからないよ。でも、僕は高崎のこと、哀れだからとか、気休めとかで、――いい加減な気持ちで話してるんじゃないよ」
―――死ぬのは怖いよ
以前言っていた台詞。
重みがあって当然。何故ならば彼は死にかけた人間だから。
“死”の恐怖を知っている人間だから。
雪乃の踏み込めなかった領域に、片足を踏み込んだ人間だから。
「僕だって、同じ人間だよ」言ってから、広久は訂正する。「高崎も僕も、他のみんなも、同じ、”ただの人間”だよ」
少しだけ哀しそうに。
雪乃はぼやける視界を拭いながら。
頷くことすらできないで。
*
父親は長期の出張に出ていて、夕食は母親と雪乃のふたりで摂る。
「お父さん、忙しいんだね」
静か過ぎる食卓に、テレビの音がうるさい。
食器の触れ合う音さえしない。
「帰ってくるの、明日、だっけ」
「…そうね、」少し思案してから、母親が言う。それから、雪乃の手元を見て言う。「食欲がないのね」
言われて、雪乃は自分と母親の食事の減り方の違いに愕く。いつも同じペースで食べているのに、今日、雪乃は母親の3分の1以下しか食べられていなかった。
「あ、…うん」
気づいて、何となく、食べるのが莫迦らしくなって。箸をおく。「ごちそうさま」
席を立って、自室に戻ろうとする雪乃の後ろから、母親が言う。「体調が悪いんなら早めに言うのよ」
「うん、」
聞こえたのか聞こえなかったのか、母親からの返答はなかった。
食器の触れ合う音が、一度だけ聞こえた。
ベッドに寄りかかって。
カッターの刃を、押し出して。戻して。何度繰り返したかわからないほど。
広久の首の痕。痣のように赤く黒く、――おそらくは首をつろうとした痕。リストカットなんて中途半端な自傷行為ではなく、本当に死にたい人の行う行為。
あんなに酷く痕が残るほど。
彼は死にたいと願っていた。
なのに、広久は雪乃が死ぬと哀しいと言った。嫌だ、と。
雪乃も、思う。
広久が死んでしまうのは嫌だ。
出会って、まだ1ヶ月も経っていないけれど。広久は雪乃のなかで、ある種家族よりも大きな存在になっていて。何でも話せた。母親と話すようなことでも、亜花音と話すようなことでも、誰にも話せなかったことまでも。
何もかも。
そこには確かに”高崎雪乃”が存在していて、仮面なんて必要なかった。大きな存在。暖かい、安心できる距離に。いつも、そこに。
そこに居てくれる広久。
かちかちかち…
最大限まで刃を押し出して、眺める。何度も何度も繰り返してきた行為。
死にたい自分の、出来うる限りの死に近い行為。
死ねない自分の、出来うる限りの悪あがき。
―――死ぬのは怖いし、苦しいよ
―――高崎が死ぬのは、嫌だ
広久のことば。屋上。青い空。白い雲の向こう側の、死んだらいける場所。
「死んだらあそこに行くのかな、」
カーテン越しに、既に夜の闇が深く降りた空を見上げるように。3階のこの家からじゃ、建物に邪魔されて空なんか見えないだろうけれど。
「あそこに、逝くのかな」
いきたい。
音の羅列が。並んで聞こえた。
それは、”行きたい”なのか”逝きたい”なのか”生きたい”なのか。
同じ発音の、違う意味。
雪乃のなかに浮かんできたことばの指す意味は。
かちかちかちかち、
カッターの刃を押し戻して。
ベッド下の収納ではなく、ゴミ箱に棄てた。
かしゃん、安っぽい音がして。
―――高崎も僕も、他のみんなも、同じ、”ただの人間”だよ
再生される声。心地よい低音の奏でる。
「生きたい、」
ちいさく、でもはっきりと。
雪乃は言った。
「私は生きたいよ、仁科」
「…お、はよう、」
朝、居間に予想外の人物を発見して、挨拶に少し間が生まれる。
「おはよう、雪乃」
1週間ぶりに見る父親の顔は、少しやつれたようで。まだ30代後半だというのに、混じる白髪の量は、その年齢をはるかに超えて感じさせる。
「仕事、忙しいの?」「あ、ああ。本当に、会社に殺されそうだよ」苦くにこやかに応えながら、父親は読んでいた新聞をとじた。
「明日からまた出張だよ」肩を鳴らす。関節が外れてしまうのではないかというほどの音。「今度は海外だよ」ため息混じりに。言う。「大変そうだね」何て言ったら良いのかわからなくて、雪乃は無難な返答をする。「雪乃は、学校どうだ?」
父親の問いに、雪乃は仮面の笑顔で言う。
「愉しいよ」
「ほら雪乃、早く御飯食べて学校行きなさい」
「あ、うん」
「お父さんも、会社に遅れますよ」
「ああ、」
しんどそうに新聞をたたんで、父親は、母親には聞こえないようにため息をついた。ちらりと雪乃と目が合うと、仕方ないよな、そういいたそうに。わらって。
お父さん――呼びかけようとして。でも、声が出てこなくて。
雪乃は自分に用意された朝食のトーストをひと口かじった。
B
僕の前で泣く彼女に、差し出す手を、僕は持っていなかった。
一度だけ、英くんに訊いたことがある。
―――僕に出来ることは何だろう?
彼女の手すら握れない僕に、彼女とは違う僕に。
出来ることは何だろう。何が出来るのだろう。
英くんは、ずいぶん永い時間考えてから、言った。
「あなたがそこにいるだけで、彼女は救われてますよ」
そこにいるだけで。
僕が此処に居るだけで。
僕はずっと此処に居た。
彼女は僕には気づかないまま、1年間が過ぎて。
ようやく彼女が僕に気づいたとき、手遅れになる本当に刹那手前。
彼女の手をつかめない僕には。
何が出来るだろうか。
僕の前で、彼女は泣いた。”どうして”――それを繰り返しながら。泣いていた。涙を拭うことすら、僕には出来なかった。英くんの言う通り、僕はここにいるだけだった。
それしか出来なかった。
僕は此処に居る。ここにいる。―――屋上で白い穴に吸い込まれるような感覚を感じながら。それならばいっそ、青い空に溶け出してしまいたいと願う。
*
「仁科は、」珍しく雪乃から、声をかけた。
4時間目の授業時間中。雪乃はいつも通り、保健室に行ってくるのひとことで、屋上へやってきた。
「ホントにいつでもここにいるね」
「そうだよ」
「授業、出てるの?」
「出てない」
「…」「でも僕はトクベツだからいいんだよ」「差別だ。理数科ってみんな頭良いから」「それこそ差別だ。僕は世界史2という素晴らしい成績を保持している」「自慢にならないよ…」
ひとつ、間をおいて。
どちらともなくふき出した。
あまり大きな声を出さないように。くつくつ、ときどきお互いの顔を見ては。何度も。
「高崎って、よくわらうね」
「…そう?」
「そうだよ。はじめは表情筋ないのかと思うくらいだったのに。今ではすごくわらう」
「、ありがと」
「いーえ」
わらう自分。わらえる自分。
指摘されて気づく。新しい――否、もともとあったけれど何処かになくしてしまった感情や表情。
ひとつひとつ、広久が探すのを手伝ってくれる。雪乃自身が見つけるときもあれば、広久が見つけてくれるときもある。
なくしていたものもあれば、新しく見つけたものもある。
「仁科、」
「うん?」
呼べば、すぐそこにいる。いつの間にか、誰にも代えられない存在になっていて。
「…呼んだだけ」
「なんだそりゃ」
横に並んでフェンスに寄りかかって。自分の膝にあごを乗せて。雪乃の視界に、広久の床にだらりと垂れた腕が入った。黒い学生服からのびる、どちらかといえば色の白い手。
触れたい、―――単純にそう思った。こんなに近くに居るのに、こんなに大きな存在なのに、雪乃はまだ広久にちらりとも触れたことがない。あごの下で指を組んでいた手を解いて。手を下ろそうとして。
―――駄目。
その手を、自分で引っ込めた。触れてはいけない。雪乃のなかの誰かが、そう叫んだ。それはまるで警鐘のように。
懇願のように。
「高崎、」呼ばれて、顔を上げる。「4時間目、終わるよ」広久が言い終わるのと同時に。終業を告げるチャイムが鳴った。
広久は雪乃の隣で、両腕を天に向けて伸びをしていて。
「仁科は、お昼御飯は?」立ち上がってスカートの汚れを払う雪乃の問いに。
「ご心配なく」いつもどおり。指をひらひらさせて。広久はなんでもないというように言った。
屋上の扉、取っ手を握って。
振り返って、広久を見た。
何か? そう言いたそうな表情で。雪乃を見る彼に。
なんでもないよ、そういうように小さく首を振って。
「またね、」
聞こえるか聞こえないかの声で。
雪乃はちいさく言った。
「―――」
踊り場に入って、扉が閉まる刹那、広久が視界から消える瞬間。
彼が何か言ったような気がして。否、何かを言って。
なんていったの? ―――雪乃が口を開いたと同時に、扉はかちりと、閉まった。
*
5時間目は保健の時間だった。
女性の躰の仕組みは、男性の躰の仕組みは。性交により、精子と卵子が受精することによって、いのちは誕生します。キャベツ畑やコウノトリが聞いたら真っ青もいいトコロな話が展開されていく。
教師が板書する教科書の要約を、こまめにノートに取りながら。雪乃はふと自分の頬に触れた。限られた場所以外では常につけていた仮面。今は、その感覚は薄い。でも確かに、彼女の顔には、いまだに張り付いたまま。
亜花音のように、話しかけてくる同級生が何人か増えた。彼らは雪乃に何の代償も求めず、ただことばを交わして。ときどきわらったりもして。
広久の見つけてくれる”雪乃”。雪乃のみつける”雪乃”それは確実に彼女自身に還元され。
手首を切る回数も、死にたいと思う回数も。不思議なほど減っていた。どうしてあんなにも死を求めていたのかさえ、わからないくらい。
冷静になって考えれば、雪乃は”普通”なのが嫌だったのかもしれない。
普通に埋没して、自分がなくなるような気がして。家族のなかでも、ひとりっこなのに、自分の居場所を見つけられなくなりそうで。どんな苦い顔をしていても、会社人間な父親と、淡々と家事をこなし、雪乃を育てる母親。雪乃が居なければ、きっともうそこに”家庭”はなかった。雪乃が居るから、脆く崩れそうになりながらも、かろうじて、家庭は存在していた。
自分の居場所を見つけられなくなりそうで。
自分の居場所をなくしてしまいたくて。
自分がいるから。
おかげで、家庭は崩壊しなかった。
そのせいで、両親は家庭に縛られたまま。
自分なんて要らない。必要ないこども。
両親が離婚すれば、雪乃は”普通”のカテゴリから抜け出せたかもしれない。だけど、家がなくなるのは嫌だった。
父親も母親も、なくしたくなかった。
自分のわがままな感覚と、わがままな感情と。
ひとりで抱えてひとりで苦しんで。
ひとり、観客の居ない舞台の上で。
死にたいと、安易にたどり着いた結論の先を模索していた。
かしゃん、
雪乃のふたつ前の席の女子生徒が、はさみを落とした。慌てて彼女はそれを拾って。教師にちいさく「すいません」謝る。
落ちて、拾われて。一瞬だけ、刃に煌いたひかり。
足元から湧き上がる。なんとも形容しがたい感覚。忘れかけようとしていた感覚。感情。制服のうちポケットのなかには、お守りのようにカッターが入っている。お守りだから、一度も使ったことはない。ただ、そこにあると安心するだけの。
刃物。
「先生、」
かたり、立ち上がって。でも下を向いたまま。
「どうかした?」
教師が声をかける。彼女は持っていた白いチョークを置く。かたり、音。
教室中が雪乃を見る。見ないで。ざわめく。うるさい。
「トイレ、行ってきてもいいですか…?」
教師の返答を待つ前に、雪乃は席を離れた。「雪乃ちゃん、」ちいさな声で、亜花音に呼ばれたような気がした。きっと、気のせいではないだろう。
個室の鍵を閉めて、雪乃は内ポケットからカッターを出した。掌に収まるくらいの、ちいさなもの。子供のおもちゃのような。
それの刃をみっつ、押し出して。思い切り皮膚を切り裂いた。
「死にたい、」
転がり落ちる音。願い事のように。
「死にたい」
何度も何度も。手首を切り裂く。血管が切れても、床にどれだけ血が零れても。シャツがどれだけ血に染まっても。
関係なかった。
どうして。
どうして私はこんなことをしているの?
「――!!」
カッターを持った右手を、タイル張りの壁にぶち当てた。骨に伝わる硬さと、切るのとは違う痛み。
痛み。
痛い。
死にたい。
死にたくない。
生きたい。
生きていたくない。
「死にたい…」
床にちいさく広がる血液のなかに、ぽたり、透明な滴が紛れ込んだ。躰から流れ出た血液は今までになく、既に左手にはうまく力が入らない。指先の感覚はない。
―――高崎って、よくわらうね
―――高崎が死ぬのは、嫌だ
ことば。表情。なくしていたもの。みつけたもの。
「死にたく、ない」
右手から、カッターが滑り落ちた。血に染まる床と、カッター。既に便水は完全なる赤い水。
「なに、これ」
怖い。
これだけの血液が、雪乃から出て行った。左手首を見る。どんな恐怖映画も描写出来ないほどの。
ぼろぼろということばさえも陳腐。
怖い。
私は、なにをしているの?
長袖のブラウス。ジャケット。血に染まって。赤く。黒く。
「死にたくない、」
右手でトイレットペーパーを巻き取って、左手首に当てる。そんなのじゃ間に合わないくらいに、血は流れ続ける。お願い、止まって。これ以上出て行かないで。
「死にたくないよぉ…」
情けない声。涙は嗚咽にかわって。
何をしているの?
どうして?
たすけて。
「仁科、」
浮かんできたのは、広久の顔。会いたい。屋上に行けば、いつでも居る彼に。
いつでも、そこに居る彼に。
会いたい。会いたい。会いたい。
会って何を話すとか、会って何ていうかなんて、雪乃自身わからない。でも、ただ、会いたい。
屋上。
血に染まった左のブラウスとジャケットの袖。
血はまだ止まらない。
会いたい。
死にたくない。
会いたい。
広久に会いたい。
いつもそこに居る彼に。
会いたい。
C
死にたかった。
死にたくて仕方なかった。
でも死ねなかった。死ぬ勇気なんて、私にはなかった。
今まで誰にも言わなかった。自分が手首を切っていること。でも、広久には言えた。何でも話せた。彼の前では、私に仮面なんて必要なかった。
わらうことも泣くことも、何処かに置いてきてしまったものを、一緒に探してくれた。一緒に居てくれた。
泣くことができた。
わらうことが出来た。
一緒に居るだけで、ココロがやわらかくなるのを感じられた。
この感情をなんと言ったら良いのか。
ひとつだけ、思い当たることばがあって。でもそれが適当かどうかはわからなくて。
でもそれを、伝えたいと。思う。
私をそのまま。ありのままを受け入れて。
仮面なんて必要なくて。
会いたい。
*
扉の向こうには、青い空。雲ひとつない、塗りたくられた青。ぐるりと屋上を囲む鉛色のフェンス。ときたま、風に軋む。
ただ、それだけ。
そこには、誰も居ない。
広久は居ない。
そこに居た彼は。
そこに居ない。
広久は居ない。
そこには、誰も居ない。
「…ぇ、」
扉を閉めて。一周、屋上を見回して。何処にも、広久は居ない。
影も形も。
ない。
居ない。
「どうして、」
いつも此処に居たのに。此処にくれば広久は必ず居たのに。どうしていないの? どうしていちばん居てほしい今になって。
どうして?
どうしていないの?
何処に行ったの?
いつでも此処に居たじゃない。
「彼は、もう此処には居ませんよ」
いつの間にか、雪乃の背後に和葉が立っていた。彼は存在していた。此処に居る。雪乃が望んでいるのは和葉ではないのに。広久じゃなくて、和葉が居る。
「私、伝えたいことがある。仁科に――広久に、会いたい」
いったん止まっていた涙が、ほろり、転がり落ちて。
緑色の床に、さながら気まぐれな雨のように。
「会いたい、」
会って、すきだと、伝えたい。
彼に対して雪乃が持っている感情は、恋愛感情なんだと。「すき」そう形容するものなのだと。伝えたい。
雪乃に、死なないことや、感情や涙や怒り――なくしていたものを、一緒に探して、見つけて。持っていなかったものまで、与えてくれて。
こんなにもあふれ出しそうな感情があるなんて、雪乃自身知らなかった。死ぬことへの恐怖も。人を想うことの何気ない気持ちも。失ったときのどうしようもない喪失感と、心臓を丸ごと持っていかれたような。痛みすらも追いつかない。
あふれ出す涙を手の甲で拭いながら、雪乃はもう一度言った。「会いたい、」
「もう会えません」
さらりと、おそらく事実を、和葉は言った。それは事実であり、雪乃が正常である限り真実なのだろう。
和葉の顔を見ると、彼もまた目を赤くして。
「どうして、英くんが泣くの?」
「…僕の名前、覚えててくれたんですね、」
指先で滲む涙を拭って。和葉はふるふるっと頭を振った。少し俯いて。「何ででしょうか。僕にも、よくわかりません、」
苦くわらう和葉に、雪乃もつられて。少しだけ、わらって。
それから、もう一度、問う。
「どうして?」
もう会えないって、どういう意味?
和葉はまだ少し充血した目で雪乃を見て、ひとことひとこと、噛み砕くように、言った。
「だって彼は、7年前に亡くなったからです」
「……、へ?」
何処から出たのかもわからない声。声であるのかすら、わからない。予想外にも程がある。広久は”死んでいた”。7年も前に。雪乃が小学生だったころに、広久は既にこの世にいなかった。
出会ったときには、もう、死んでいた。
雪乃があれ程欲していた”死”を、彼は既に手にしていた。そして、雪乃に言った。
―――死ぬのは怖いし、苦しいよ
そのことばに重みがあるのは、彼が死に掛けた――未遂を犯した――からだと思っていた。だけど違った。
彼は実際に死んでいた。
だから、死ぬことの怖さも、苦しみも。
広久は身を持って知っていた。何もかも。実も蓋もない事実として。知っていた。
「彼は、――仁科さんは、7年前に、自宅で首を吊って自殺しました」「自殺…?」頷いて、和葉は続ける。「彼は去年からずっと、此処で、あなたのことを見ていた。もちろん、あなたは仁科さんには気づかなかった。彼は既に、魂だけの存在になっていたから」
入学したころから、毎日来ていた屋上。誰もいない屋上。誰も居ないと思っていただけで、本当はいつも広久が居た。
雪乃を見ていた。
ひとりではなくて。
本当はいつもそこに、広久はいた。
いつもいつも、そこにいた。
「じゃあ、なんで。今更になって、」
「彼が、あなたを止めたいと、本当に心の奥底から願ったからです」
願いはやがて、彼に少しの猶予を与えた。
少しの間だけ。雪乃と接することが出来るように。
少しの、ほんの少しの間だけ。
「僕は一度だけ、仁科さんに訊かれたことがあります。”僕に出来ることはなんだろう?”――彼は、あなたが自分のように死んでしまうのを、見過ごすことが出来なかった。どうしても止めたかった」
―――死ぬのは怖いし、苦しいよ
その恐怖を、苦しみを、誰かに――雪乃に感じて欲しくなかったから。
広久はきっとこう前置くだろう―――手前勝手な意見だけど、と。
―――僕と彼は、いる世界が違うから
「英くんが言ってた意味も、わかったよ」
「…」
「僕と彼は、いる世界が違うから。そんなの、私だって同じじゃない」
止まらない涙。何度もすすっても流れ出す鼻水。人の泣く姿は、作り物のように美しくない。人の泣く姿は醜い。
その姿を晒しながら。雪乃は表現しきれない思いがそれこそ底なしにあふれ出すのを止められない。
目の前で大事なものを取り合えげられたこどもが、刹那、事実の認識に戸惑い。取り上げられたことを認識して哀しみ。返して、と泣き叫び怒り。
こどものように。
「とめるだけなら、」「…」いつしか手は拭うことをやめて。握り締める掌は、爪が食い込んで。痛いはずなのに、躰と頭の熱さに何も感じない。「止めるだけなら、はじめから、いなきゃ良かった!」叫んで。あとはもう、流れ出るままに。「はじめから私の前になんて現れなきゃ良かった。見てればよかったのよ、私が死んで行くさまを。そこで私を止めようとしなくても良いし、私だってそんなこと望んでなかった。望んでない人間に手を差し伸べたって意味ないのに。意味ないことしたって仕方ないじゃない。どうせ最後がこういう結末なら、最初からはじまらなければよかった。初めからいなきゃ、存在しないのと同じなのに。どうして中途半端に私に関わって私を傷つけて行くの? 広久だってみんなと同じよ。みんな、わたしのことなんか、わたしなんか…」
「あなたは今、仁科さんに出会ったことを後悔しているかもしれない。でも、それは甘えです。確かに、結末の一部分だけを見れば、仁科さんがしたことはずいぶん酷いことのように思えるかもしれません」いったんことばを切って。和葉は一度、浅く深呼吸をした。「でも、あなたは彼に出会うことによって、生きたいと思った。今だって、泣いて、怒って。はじめてあった日を覚えてますか? あなたははじめ、彼の前ですら、何処も何も見ていなかったのに。彼に出会って、話をして、」少し、苦しそうに。「―――彼はもういないけど、それでも、あなたは彼と過ごすことによって、自分の感情を、自分を取り戻した」
膝の力が抜ける。ぺたりと座り込んで。両手を、汚れた床につく。制服も掌もきっと真っ黒に汚れているだろう。ぱたぱた、床には止まらない涙がいくつもいくつも。
そのひとつひとつに、雪乃の泣き顔と、背景の青が写りこんで。
「会いたい、」
「……」
―――高崎も僕も、他のみんなも、同じ、”ただの人間”だよ
ただの人間ならば。
お願いだから、もう一度。もう一度だけ。
どうして置いて行くの? やっと見つけた大事な存在。やっと見つけた、失いかけていた”自分”。
広久がいたから、今の雪乃がいる。
広久がいなかったら、雪乃は今もまだひたすらに”死”を見ることしかできないままだった。
―――死ぬのは怖いよ
「会いたい、」
きっと会うのは簡単だ。雪乃が死ねばいい。そうして、空の白い穴に吸い込まれて。きっとそこに、広久が待っている。
扉を開けたときに、いつも手を振っていた。雪乃と話すときに、わらった。笑顔で。多分少し困ったような笑顔で。
会おうと思えば、すぐに、今すぐにでも会える。
死ねば良いだけだから。
それは雪乃が望んでいたことで。
実に合理的で。
「高崎さん、」
和葉の声が遠い。
意識が朦朧とする。それはきっと、死にたいという思いが雪乃を包み込んでいるから。
―――高崎が死ぬのは、嫌だ
不意に、耳の奥で再生されたことば。
広久が、いったことば。
彼の声で。
広久の気持ちで。
死んだ人間が、生きている人間に向けて。
自殺した人間が、自殺したい人間に向けて。
死なないで―――。それは酷くわがままなふうにも聞こえるけれど。
「大丈夫だよ、」「…」「私は、死なない」
広久を困らせちゃいけない。彼がせっかく手伝ってくれて、せっかくそばにいてくれて、わらえるようになって。
また振り出しに戻ったら、広久が、また死んでしまう。一度は肉体の死。二度目は、雪乃の記憶からの死。
死ぬのは怖いという彼に、苦しいという彼に、そんな仕打ちは出来ない。
「会いに行くのは、おばあちゃんになってからにする」
ぐい、涙をぬぐって。袖についた、乾きかけの血に気づく。既に出血は止まっていて、こびり付いた赤黒く粘っこい血の塊と、ぐっしょりと重い袖口。
「初恋だったのにな、」袖を見ながら、わらう。じわじわ、痛みが傷に追いついてくる。「英くん、」呼ぶと。「はい、」和葉はそこに居て。「キミは、生きてるひと?」「はい」「そっか、」
青く塗りたくられた空には雲がない。広久の居る場所を見ることも、今日は出来ない。
「英くん」もう一度、呼びかける。「はい、」さっきと同じ距離で。和葉は同じ返事をした。「手が、痛い」言いながら、ほろりと笑みがこぼれた。
和葉もやわらかく、ちいさくわらって。掌を差し出す。
「傷の手当て、しましょう」
座り込んだままの雪乃は、右手で、その掌を握る。じわりと、生きている人間の体温が。
肌の奥まで染みこんで。心地よい。
(2004/12某日 27409文字)