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――― 一緒に生きよう。
それは、決して。
19歳のガキが言うような台詞じゃないかもしれない。
もっと大人が。
もっと一世一代の大事な場面で。
言う、台詞かもしれない。
だけど、俺は。
目の前の女に。
嘘偽りない本心で。
言いたいんだ。
好きだよ、愛してる、そんな感じの。
冗談めいた告白の、ごく有り触れてしまった時代で。
だからこそ。
1.
成り行きというモノは怖いもので、どうしてか俺は今女とラブホにいる。
「鳴宮」
女―――鳴宮が俺のほうを向く。大学生なのに化粧気のない顔は、中学生にも見える。いや、普段化粧の濃い女ばかり見ているから、ノーメイクだと幼く見えるのかもしれない。
「何?」
表情も変えずに、鳴宮は訊き返してくる。
「……。いや、別に」
呼んでみただけだけど。なんて、新婚のバカップルみたいだから言わないけど。でも、本当にただ呼んでみただけだったりして。
「柊はさ、よく利用するの? こういうトコ」
ベッドを横目で見ながら、鳴宮。何だか、視線が痛いんですけど。
「そんないかがわしい場所みたいに言うなよ…。まあな、頻繁に、でもないけど」
取り出したタバコを、鳴宮は一瞥した。一本取り出そうとして伸ばした指を引っ込めて、元の位置に戻す。
鳴宮は煙草が嫌いだ。
というより、躰に害成すものが嫌いだ。だから酒も煙草もしない。環境汚染になるからと車にも乗らない。バイクも原付も然りだ。移動手段はほとんど徒歩。もしくは電車。
そしてその規則は、俺みたいなやつには守らなければならないルールでもある。
「鳴宮って処女?」
「だけど、何?」
「別に」
処女が好きでもないだろう男とラブホなんかに来るんじゃねえよって思う。こっちの気もしらねえで…。まあ、そこは鳴宮らしいってコトでひとつ。
「俺に押し倒されるかもー、とか、そんな心配はなかったわけ?」
「……。押し倒したいの?」
「かもしれないよ? 鳴宮イイ女だし」
「口が裂けるんじゃない? そういうことばはアタマが万年常夏の莫迦な女にでも言ってあげたら?」
「毒舌家め」
「ありがとう最高の誉めコトバ」
肩を竦めてアメリカジンっぽい仕草。生粋の日本人のくせに。なんか様になっている。変な女だ。
「じゃあさ、押し倒して良いよって言ったら、柊はあたしのこと押し倒すの?」
ベッド―――やっぱり二人以上用だからダブルかそれ以上。ていうか俺はそれしか見たことないだけで、そうじゃないのもあるかもしれない―――をみると、綺麗にベッドメイキングされてさあ来いといわんばかりに待っている―――ように見える。俺には。
ベッドから視線を外して、鳴宮に照準を合わせる。まっすぐ俺を見たまま。長い睫毛はぴくりともしない。
「かもしれないよ?」
「不確定要素はないに等しいって知ってる?」
「知らない」
「でしょうね、あたしの持論だから」
「………」
肩より少し長めのストレートの毛先を弄りながら、鳴宮はテーブルの上のビールを一口飲んだ。
因みに俺も鳴宮も19歳の未成年です。そこんとこ、お忘れなく。
「未成年の飲酒は?」
「喫煙してる奴に言われたくない」
「………」
取り付く島もございません―――って、取り付く島って言うのは表現がおかしいかもしれない。文学部在籍にあるまじきマチガイ。別にイイケド。日本文学科だけど別に構わない。国語で大学入ったようなもんだけどああ構わないさ。
「柊」
「何」
ビールの缶をテーブルの上に置いて。やけに軽い音がしたから、中身は空なんだろう、きっと。
「寝てもいい?」
「襲ってもいい?」
カウンター。
鳴宮はきょとん、と言ったような表情で。
「……。レイプは犯罪だからね」
それだけ言った。
「犯罪て…」
俺、苦笑い。「それって脅し?」
「ただの事実」
ずっと着ていたダウンジャケットを脱いで床に放り投げて、ベッドに飛び込む。まるで投身自殺するときみたいな感じに見えたりして。んなもん見たことないのに。イメージって唐突だな、なんて。
「本当に襲うよ?」
「良心に訊いてみな。」
良心かよ…。胸に手を当ててみる。
「………」
無反応だ。どうしよう。
頬杖をついて、横目に鳴宮を見る。足の裏をこっちに向けて、横向いて。キスでもしてやろうかって思う。多分しないけどね。とてつもなく無防備。俺に襲う度胸がないとでいいたそうに傍若無人な。いや、傍若無人の用法も間違っているような気がする。転科を考えたほうが良いのか。
鳴宮は大学に入って、天文サークルなんて活動してるのかしてないのか微妙なサークルで一緒になった。新入生は俺と鳴宮と、あと京極って言う男と月弥って言う女。
んで、少人数だし男2女2だし。ダブルデートなんて死語みたいな行為をときどきしてみたりしてて。で、俺は鳴宮とくっついた、みたいな感じで。…くっついたって何か感じ悪いけど。いやあね、語彙の少ない現代の若者って。ちょっとした自己嫌悪。
ていうか、何か聞こえる。
「鳴宮?」
ベッドの上のお姫さまに訊いてみる。
「………」
反応はなかった。
規則正しい、胸の上下。くー、とか、そんな感じに表現できそうな擬音。
もしかしてもしかしてもしかせずとも寝息ってやつかしら? これは。
テーブルから離れて、ベッドに手をついて。覗き込む。
「………」
寝てやがる。まじで。
「鳴宮?」
返事は寝息で。いや、何言ってるかわかんないから。ちゃんと日本語を喋ってください鳴宮さん。
さらに覗き込む。顔を覆う髪の毛が邪魔なので手で持ち上げて。
意識のあるときとないときって、人間顔が変わるって言うけど、それは確かにその通り。寝顔は天使って表現を良く聞くけど。…鳴宮の寝顔はなんとも言えない。なんつうか、無表情なんだけど、表情があるわけ。わけわかんないけど、そんな感じ。
「鳴宮」
間近で囁いてみる。何だか恋人っぽい感じ。恋人じゃないけど。親しいとは思うけど、付き合ってるわけじゃないし。んでもって苗字呼びだし。
「………」
そう言えば俺、鳴宮の下の名前、知らない。聞く機会がなかったわけでもないけど、何でか、知らない。別に、知ってるからどうこう言うわけでも、知らないからどうこう言うわけでもないけど。
「鳴宮」
しょうがないから、もう一度苗字で呼ぶ。
無反応。男とラブホにきてナニもしないうちにひとりで眠りこけるとは、良い根性してやがる。ちょっとした侮辱だぞこれは。
寝顔。
睫毛がかすかに震えている。長い。前にテレビで眉毛にストローのっけてるじいさん見たことあるけど、これはそれに相当しそうだ。いや、でも睫毛にストロー乗っけた鳴宮ってリアルに想像でないし……リアルすぎて逆に笑えないかも。
「…キスすんぞ」
無反応。まあね、苗字呼ばれて起きないのにキスすんぞのヒトコトで起きるとはハナから思ってないけどね。
「………」
本当にしてやろうか。
ぐい、と顔を近づける。
ふわって、シャンプーの匂いがした。心臓が一瞬激しく伸縮運動。うわ、なんてベタなんだ俺は。
だけど、車も人も突然には止まれません。
そのまま。ごくごく当たり前の行為のような流れで。
キス。
した。
ファーストキスの味はレモンの味。とか、虫唾が走るような少女漫画とかで良く言うらしいけど。キスなんて所詮は柔らかいだけで、味なんかしない。味なんかしちゃった日には、それはそれで相手を疑ってしまう。どんな躰してんだお前はって。
まあ、俺は初めてじゃないし。キスってそれなりに場数は踏んできたけど…。鳴宮は初めてかもしれない。処女イコールキスもまだって言うのは実に短絡的だけど。でも、何となくそう思う。
ていうか、鳴宮とキスしたことある男って誰だろう。不意に気になる。まあ、その場合ってやっぱりお互い同意の上であって、今の俺みたいに不意打ちって言うか寝込みを襲ったわけではないわけで。
なんか、ちょっと癪に障ったりして。
……なんでやねん。
自分に突っ込んで、顔を上げて。鳴宮の横に寝転がる。スプリングが躰に馴染まない。
相変わらず鳴宮は眠ったままで。俺はさっきまで鳴宮の髪の毛を持っていた掌を近づけて遠のけて、見たりして。……匂ってみたりして。
変態かよ俺は。
横で眠りつづける鳴宮を見る。
やっぱり無防備だ。
襲っちゃろうか、まじで。
…でも、何かそういう気にもならないんだな。
何でだろう、元気か俺。……………下半身応答なし。
その気はないらしい。いいや、どうぜご宿泊にしてあるし。寝てしまえ。明日学校あるけど良いや。寝てしまえ。
2.
「おはよう」
「……おはよう」
「何? 顔に何か付いてる?」
「別に…」
翌日。講義は昼からで、朝起きたら鳴宮は既に帰った後らしくて。俺はひとりで午前中の歓楽街を歩いて下宿まで戻った。それから簡単に飯食って、速攻で大学に登校。超重役出勤。別に誰も咎めもしないし厭味も言いはしないけど。
それに、下宿っつっても、単なる木造ボロアパートだし。最近じゃ珍しい超低家賃。一月7000円。不動産でこの物件見つけたときには涙が出るかと思ったっていうか我が目を疑ったというか…。その代わり、風呂はないしトイレは共用だけど。まあ不便はしないから別に構やしない。
で、講義で。
鳴宮は普通に俺の横を通り過ぎて、いちばん後ろの右端の、指定席に座る。
じろじろ振り返るのも何となく気が引けたから、俺は至極気にしてないというような感じで講義を受けた。実際、背後がめちゃくちゃ気になって、講師の声なんか耳に入ってきても素通りだったけど。
ごめんね。でも単位は頂戴ね。
大学の100分授業というのは、好きで取っている講義ならまだしも、一般教養の、しかも嫌いな科目だと、さながら拷問と化す。
因みに現在は英語。
悪いけど、高校時代俺の英語の成績はハンパじゃなかった。補習の常連で、よくまあ一度も単位を落さずにきちんと現役で卒業できたものだ。
熱心に補習プラス追試に付き合ってくれたネイティヴのジョン、自称ハタチに感謝。そういえば、鳴宮って、高校は何処だったんだろう。自宅通学みたいだから、此処が地元なんだろうけど。県立でも私立でも、ピンからキリまで。高校なんて腐るほどあるから見当もつかないけど。
まあ、俺より英語の成績が良かったのは疑いようのないことだろう。ていうか、大学に入ってから俺より英語が悪かった奴なんて見たことないし聞いたこともない。と思う。謙遜かとよく厭味っぽく言われるけど、成績を言うと沈黙する。数字とは事実を如実に表現するものだ。それでもって、残酷だ。
シャーペンの頭を噛んで。フルカラーのテキスト眺めて。ああ、中学からもっと真面目にやってりゃ良かったよ英語…。神さま、いるんだったらどうか俺を中学生に戻して下さい。そうしたらもっといい大学にも入れたのに…て、それじゃ鳴宮に会えなかったから駄目なんだけど。
まあ、神さまなんていないし。此処より良い大学に入れたかもって言うのも想像でしかないし。どうせ中学生に戻ったところで、俺は6年前に宜しく、遊ぶだけだろうしね。
アナログ時計の秒針は、まるで呪われているかのように進まない。呪いの主は誰だ? 呪い返してやる。
ノートを取る気にもなれなくて、ぼんやりと、黒板を見て。……見てはないか。眺めて。ただぼうっと、時間が過ぎるのを待つばかり。
メールでもしようか。でも、そういうのってあんまり好きじゃない。ああ、でもその前に、携帯、家に忘れたかも。
本当にこのまま痴呆老人にでもなってしまうんじゃないかというくらい長い長い講義をやっと消化して、―――消化不良なのは見ないコトにして―――講師が教室を出たと同時に、みんなばらばらと帰り支度やら次の講義の支度をはじめる。
今日は英語だけの日。俺はこの日を「恐怖のイングリッシュフライデー」と名づけている。センスがないと突っ込まれたことがあるが、そのセンスのなさほどに嫌いだというコトだ。……そういうコトだ。
「鳴宮」
何故かぼうっとしていた鳴宮に、声をかける。
「……ああ、柊。何か用?」
「いや…特に用はないけど。今日部室行く?」
「……ああ、うん。月弥が何か用があるみたいなこと言ってたから。行こうかな」
うん、としばらくぼうっとした後に。
「柊は?」
思い出したように訊く。
「俺は…行こう、かな」
今決めました。でも言いません。
「そう、一緒に行く?」
多分何気ない、いや、絶対何気ない、鳴宮のことば。
「行く?」
うん、ぼうっとした感じのまま頷いて、鳴宮は鞄に手をかけた。
「風邪でも引いた?」
「別に」
「寝不足?」
「常に」
「……おなかすいた?」
「我慢できる程度に」
「………なんかあったら―――」
「なにもないから」
ばっさり。ああ、クビガトンジャッタヨ…。
首を拾って接続。
「あ、そう……ほんとに?」
「ほんとに」
「顔色悪いように見えるけど」
「そっちこそ、何かあったわけ?」
「何で?」
「柊があたしの心配するなんて何かおかしい」
「………」
失敬な。
「別に。ただなんかおかしいなって思っただけ」
「昨日は、ごめんね」
「何を突然」
ほたほた歩いていた大学の廊下。クラブハウスは校舎を出てからグラウンドの向こう側。やけに広いグラウンドでは、野球部とアメフト部サッカー部がいつも場所取り争奪戦を繰り広げつつ片手間に練習している。……こいつら、絶対なんか間違ってると思う。
「付き合ってるわけでもないのに、ラブホに行こうかなんていって」
「あ。ああ、そのコト」
何のことかと思ったら。
「ていうか、鳴宮ってそういうコト気にするんだ?」
「気にするっていうか……まあね、一応非常識に突発的なことだったかなって思っただけ」
からっからに乾いた風が、グラウンドの砂を巻き上げる。それはまるで薄いベールのように、一瞬世界を包み込む。
眼を細めたかと思ったら、急に、鳴宮が座り込んだ。
「…鳴宮?」
数歩先を行っていた俺は引き返して、鳴宮のすぐ前に屈み込む。
「どったの?」
「……柊、」
何かを掴もうと伸ばされた手が、しばらくもしないうちに俺のコートを掴んで。ぎゅっと握り締めた。
「ん、」
つっけんどんにならないように、なるべくやさしく、訊く。
「そこにいる? あたしが掴んでるのって柊?」
「……そうだけど、何だよ急に」
どきどきするじゃねえかよ。
「……………」
沈黙の後。
「目に砂が入った、」
小さな声で、鳴宮は言った。そしてその瞬間、俺は脱力した。何かを期待していた自分がとてつもなく阿呆らしく感じる。いや、ていうか何を期待していたんだ俺は。
「大丈夫…じゃねえよな」
頷く鳴宮。
「目は開けられなくても…立てる?」
少し考えた後、頷く。さっきよりもはっきりめに。
「じゃあ、立つからな。カウントダウンは?」
「……いらない」
中途半端に可愛くないやつめ…。
俺が立ち上がると、引っ張られるように鳴宮も立った。ていうか、手はいまだコートを掴んだまんまだったりして。
ふと、リストバンドが目に入った。
そういえば、初めて鳴宮にあったときから、ずっとしているみたいだけど。運動でもするのかもしれない。運動イコールリストバンドって言うのもまた短絡的だけど。
「目、擦るなよ」
「水道のところまで、連れてって」
右手で両目を抑えて、口調はいつも通りで。
俺は素直に従ってみる。
水道まではほんの10数メートル。小学校にあるようなちゃちな水道だ。他の施設は結構良いくせに、こう言うところは何か抜けてる。
枠に手をついて、鳴宮の左手を掴んで枠に置く。掴むっていうほど強く掴んだ気もないけど、瞬間、びくりと、鳴宮が反応したような気がした。まさか腕をつかまれて感じたわけでもないだろう。…てか、何考えてんの俺。
外れかかった蛇口を捻ってやると、俺は枠に寄りかかって鳴宮と反対方向を向く。
「ありがとう」
鳴宮は何の抵抗もなく水に手を突っ込んだ。2月も半ば。一年でいちばん寒い時期に、何の心構えも躊躇いもなく外気よりも冷たい水に手を曝せるとは…なかなかだ。…何がだよ。
そのまま、鳴宮は何度か顔を洗った。
髪を下ろしてるから、髪も濡れてた。そういえば、鳴宮ってハンカチとか持ってるんだろうか。俺は持ってるけど。一応。
しばたくして、蛇口を止めて、鳴宮が顔を上げた。
吐く息は白くて、頬は寒いせいか真っ赤で、りんごみたいで。濡れた睫毛はいつもより長く見えて、濡れた髪は何だか俺の何かを刺激した。
「ごめん…拭くもの持ってる?」
「女の子失格」
言いながら、ハンカチを渡すと、「男の子の鑑」と言われた。誉められたらしい。そういう意味として丁重に受け取っておこう。
顔を拭いて手を拭いて。顔を拭いたままのジェスチャーでしばらく停止して。思い出したみたいにハンカチから目だけ覗かせて俺を見て。
「ごめん、コレ洗って返すわ」
言った。
「良いよ別に」
「駄目」
俺のささやかな遠慮は却下された。いや、ささやかだからこそ却下されたのか。
「サムイ」
「この寒空に冷水で顔洗ったら当たり前だってば」
「うむ、正論」
したり、と頷いて。
「寄り道失礼。部室行こう」
なんでもなかったみたいに、鳴宮は言った。
「おはやう」
入ると同時に、歴史的仮名遣いで京極が言った。
「おはよう」
俺はご丁寧にわざわざ現代仮名遣いに直して返答してやった。
「…つれねえー…なんかイイコトでもあったの?」
「……。矛盾してるからコメントは控える」
へへ、笑って、京極は向き合っていた携帯に視線を戻した。
「月弥は?」
鳴宮が問うと、京極はふと視線を上げて薄汚い天上を一瞥してから、「さあ?」と言った。
「今日はまだ此処には来てないみたいだけど?」
「…そう、」
鳴宮は机の上に鞄を置いて、本棚の物色をはじめた。先輩が、たまに気まぐれで本を買ってくるのをチェックしているのだろう。因みに、部費で買って来るものもあれば、どういう風の吹き回しか実費で買ってくるものもある。
「何してんの?」
何もすることがなくて、とりあえず京極を弄ってみることにした。
「携帯弄ってるの」
「そっちの方がつれないじゃん」
「まあね。柊には負けるけど」
「いや、俺のほうが負けたね」
「……。じゃあいいよ、俺の勝ち。やったね」
さしてやったとも思っていないような口調だ。なんとなくおかしい。
「メール? 彼女?」
「厭味?」
「厭味って感じるってことは違うんだ」
「……柊ってさあ、暇だよね」
「京極が楽しいだけだって」
「……。アリガトウ」
複雑そうな表情でヒトコト。黒縁の眼鏡がやけに滑稽に見えたりして。
「俺思うにね、今日ごくって絶対鼻眼鏡が似合うよ」
複雑そうな表情が怪訝な表情に進化した。変化じゃないところにご注目。
「………。センキュウ」
ありがとうがセンキュウに退化した。俺は英語な返答は低い評価を下す―――っていうか。
「英語は辞めようよ」
「what? Please speak English!」
「………。イジメ?」
「大学生にもなって? 人生そんな暇じゃないのよ」
携帯を折りたたんで、京極。そのまま机の上に身を乗り出して、ちらりと鳴宮を見てから、囁く。
「なあ、お前らって付き合ってんの?」
「お前らって?」
「お前と、鳴宮」
「その発想は何処からだよ」
「昨日さ、お前らがラブホに入るのみたって奴がいるんだよ」
「………あ、そう」
世間は狭い。ムカツクほどに。
「それで?」
「それでって、それで? お前らってそういう関係なの?」
「それってとっても野暮だと思わないかしら?」
「いいじゃん、同じサークルとしてのよしみじゃん?」
京極越しに鳴宮を見る。気付いているのかいないのか、さっきとなんら変わらない様子で、本を手にとってページを繰っている。
「別に、付き合ってるわけじゃないけど。人違いじゃないの?」
「そいつの自慢は視力が2.0っていうコトと、世界史で大学に入ったってコト」
それって要は、記憶力に絶対の自信ありってコトですか?
「でも、人間誰しも記憶に関しては欠陥製品だし。鵜呑みにするのもどうかと思うけど?」
「ていうかそこまで引っかかるような言い方するってことは事実なんだ。ふうーん、すってきー」
「…何だよ、何? 京極って鳴宮狙ってたの?」
「狙うとかそういうんじゃないけど。何となく身近な人の恋愛事情って気になるじゃん?」
そんな……おばちゃんの井戸端会議じゃあるまいし。
「とりあえず、俺と鳴宮はそういう関係じゃないんで悪しからず」
「まじで?」
「まじで。」
「……つまんないの」
つまんないとかぬかすんじゃねえよ…。
「ま、いっかあ。そういうコトって隠してもそのうち素敵に露見するのが世の常人の常だもんね」
うんうん、何かそんな感じで納得して。京極は身を引っ込めた。
鳴宮を見たら、何かこっち見てた。
「…どしたの?」
「……別に。月弥がこないなーって思っただけ」
ふいって視線そらして。なんか…何か含んでるっぽいんですけど。気になるし。
「………」
やることない、な。
俺も本でも見ようかな。
座ったまま本棚の背表紙を眺める。視力はいいほうだ。この春の検診で、1.8はあったと思う。中途半端だが、まあ良い。
頬杖をついて。ぼんやり。
何かだるい。体調は万全だし、どこかが痛かったり悪かったりするわけでもないけど。何か、変な感じ。
「ごめんなさいっ」
ばたんっ―――木製の扉がきしみそうな勢いで開いて。
月弥が満を持して御登場。あ、別に満を持してってわけでもないか。
「遅い。」
持っていた本―――天文辞典、らしい―――を閉じて、眉を寄せて。鳴宮。確かに、着てから2時間くらい経ってるし。普通に時間にルーズだ。ていうか、完璧に遅刻だ。いや、既に遅刻では済ませられないだろう。
「ごめんなさいなりちゃんあたし今日講義があったのすっかりすっかりすーっかり忘れてて!!」
「…それで?」
「ああっ怒ってる? 怒ってるよね? 明らかに血圧上がってるよね? ごめんごめんごめん〜っ」
なりちゃ〜んっ、て、鳴宮にすがりつく月弥。うーん…女の子同士ではじめて絵になる行動だ。これが男同士だったら……。あなおそろしや…。
「何こっち見てんの?」
怪訝そうに京極。
「……。別に。」
ああ恐ろしい。
3.
鳴宮と月弥が出て行ったあと、京極とふたりで。
「この後暇?」
唐突に京極。ずれた眼鏡と覗き込むような瞳。
「忙しくはないけど」
「何それ。曖昧だなー」
「人生は常に曖昧なり。」
「何それ。柊って不思議くんだね」
間。かちかち、携帯のボタンが押されている音。
「……飲みに行かない?」
「だからどうしてお前は」
突然。別に、良いけど。
「何処に行く? 居酒屋? 柊のおごり?」
「何でやねん」
「…関西出身だっけ?」
「関東だよ」
「……。ふうん。まあいいや、で、何処行く?」
「それってさあ、誘った人が提案するべきところじゃないんですか?」
「だって俺そういうのには疎いんだもん。柊のほうが詳しいんじゃん?」
京極は自称「ヒッキー」。引きこもりの略ですよ。宇多田ヒカルではないのでご注意ください。
「携帯とかパソコンとかばっかりしてるから目が悪くなんだよ」
「別にそればっかりってわけでもないけど。一日13時間は寝てるし。」
「寝すぎだって…」
「ところで何処にいくの?」
「……そうだな、行きますか」
ちょっとした諦めの瞬間。
「おねえさん、もういっぽ〜ん」
「……明日も講義あるだろ?」
「えーっ柊ってばカターイっ」
人格変貌。その瞬間を垣間見ています19歳の冬。
京極は飲むと人格が変わる。ビョウキを疑いたくなる。躁鬱病ってやつ。やけにハイテンション止まりませんぶち当たるまで。そんな病気だったと思う。確か。
「で、講義はいいわけ? 俺は責任取らないからな」
ハコ入りの日本酒をちびちびしながら、一応の忠告を入れてやる。
熱かんをきゅーっとしながら、京極はご満悦。俺の声なんて酔っ払いには儚いほどに無力。
「淋しいわけ?」
「ん、どうしてかなー?」
にこにこしながら京極。ひとりで勺をしながらひとりで飲んで。何か虚しい光景だけど、だからと言って勺をしてやろうと言うようなサービス精神は起こらない。
「いや、ピッチ早くないかなーってね」
「そーんなことないってば。俺って結構強いのよ?」
主語がない。
因みに、俺はその主語に「酒」もしくは「アルコール」ということばが入ることは認めない。だってどうして熱かん3本で此処まで陽気になれるのだろうか。
顔は真っ赤で、耳まで真っ赤で。莫迦みたいに陽気で。
なのになんか、なりきれてないような感じもする。
「明日は二日酔い決定だろ」
「看病してくれる?」
「確信犯にはしない主義」
我ながら、どんな主義だって感じだけど。
まあ、酔っ払いに対して正しいことばを使用しつつ正論を論じる必要性もないだろう。
忘れてはいけないのだが、俺と京極はあくまでも19歳。法的には未成年でございます。そこんとこよろしく。とかいいながら、俺だってさっきから結構飲んでるけど。
「なあ、ひいらぎー…」
「うん?」
「男ってさーどうして見た目が最重要視されるんだろうなー」
だんっ
お猪口をテーブルに力強く。いやいや、割れますよお兄さん割れたら弁償ですぜ。
ていうか、見た目最重要視は女の子も対象だと思うけど。俺だって多少外見で選ぶし、彼女。
「何よ、振られたのん?」
「そおよっ」
オネエことばで叫ぶ。いやあ、酔っているからこそできる芸当でございます。
「ネットで知り合った子なんだけどさー、なんかメールとかでいい感じだったし、俺はっきりいって恋心とか芽生えてたのよ? この恋愛経験が極端に不足している砂漠のココロに何年ぶりかのオアシスだったのよっ」
「で? 会ってそれで振られたわけ?」
「そおっ、そおなのよー!」
がばっと突っ伏して、おいおい泣き出す京極。19歳のすることじゃないけど。まあ失恋の傷は誰にとっても恐ろしく深いものなのだ。
「で、因みにその子幾つだった? 可愛かった?」
「……」
じっと俺を見詰める京極。眼鏡が歪んでいたので、直してやる。
「16歳なんだけど…。めっっっっっちゃ可愛かった!!」
「っ」の数が可愛さを物語っているようだ。
「写メールとかないの?」
何気なく問うと、京極は鞄から形態を出して電光石火の勢いでキーを叩いて、印籠の如く突き出した。
液晶に映し出されたのは、茶髪でばっちり化粧して、でも結構可愛い女の子。女子高生って言うには、老けて―――いやいや、大人びて見えるのは、化粧のせいかもしれない。
コスメは中高生女子の必須らしいから…。そんなモノにお金をつぎ込む彼女たちの気持ちもわからないでもないが、男でよかったと思ったこともある。男だからって手入れが不必要なわけじゃないけど、女の子には全然敵わない。いや、敵いたくもないけど。
「それで京極くんは傷心なのね」
激しく頷く京極くん。
「そおっだから飲まずにはいられないんだよ!」
「はいはい、」
あまりに可哀想になったので、勺をしてやりながら、ココロのこもらない相槌を打ってやる。
「すいませーん、ビールもういっぽーん!」
「飲みすぎ…」
「傷心にはアルコールっ」
「アルコールは血行を良くするから傷には良くないですよ」
「汚い血をすべて出して俺はまた清らかなチェリーボーイに戻るのだあああ〜」
「………」
ヨッパライバンザイ。
バイトらしきお姉さんが苦笑いで瓶ビールを持ってくる。コップはふたつ。入れ替わりに、いつの間にやら空になっていた熱かんを引っ込めて行く。
「柊も飲めっ? 潰れようぜ共に!!」
「俺、明日も講義が……」
「友情よりも講義かっ? 単位かっ?」
訊くまでもないじゃん、そんなの。
「単位に決まってるだろ」
「……薄情者ーっ」
見る間に涙眼になって、京極。
「ちくしょーぜってえ帰さないからなっ」
がしっ
テーブル越しに腕をつかまれて。
そんな感じで、捕獲されました。柊19歳。未成年。此処は居酒屋です。
徹夜決定。飲み決定。急性アルコール中毒には細心の御注意を。
ところで此処の勘定はどっちがするのだろうか。
訊こうかと思ったけど、京極の目は据わっていたので訊けなかった。
……まあ、夜は長い。ゆっくり割勘交渉でも進めていくとしよう。
4.
「顔色悪いね」
どの面下げてそんな台詞を言いやがる…。
翌日。根性で講義を受け、ふらふらしながら学生食堂に沈み込んでいた俺に、さらりと京極が言い放った。
「……てめえ、何でそんなに平気なんだよ……」
「体質じゃない? 親父もお袋もバリバリに飲めますぜ」
「………。あっそう」
相手をするのも疲れる。ていうか、頭痛い。完璧に二日酔いだ。
「絶対…俺より量飲んでるくせにー……」
「だから体質だって。溜まり易いんだね、大変だね」
言いながら、携帯を弄り始める。大変だねとかいいながら、コトバに愛が篭っていない。ぐれてやる。えーん。
「あ、鳴宮じゃん」
京極の声。顔を上げると、京極の隣に鳴宮が座るところだった。頬杖をついて、俺を見る。
「どうしたの?」
京極に訊く。
「二日酔い」
「…ふうん、大変だね」
コトバに愛が篭ってないよ…。
「あ、そうそう。俺講義が入ってるんだよね。それでは退散〜」
ぱくん、と二つ折の携帯を閉じて。いかにもわざとらしく、京極は学生食堂を後にした。
ああ、キモチワルイ、アタマイタイ。
鳴宮は俺のはす向かいに座って、じっと俺を見ている。俺は視線を外して、最低の気分を堪能している。最悪だ。人生にないほどの二日酔いっぷりだ。これはギネス。ああもうわけわからん。
「はい、」
コツンと、音がして。何だと顔を上げたら、眼の前に聳え立っていたのはポカリの青い缶。
「二日酔いにはこういうのが効くんじゃないの?」
なったことないから知らないけどね。
「ああ…らしいね」
血中のアルコール濃度を下げましょう…だったっけ。
「あたしのおごりだから。ぐいっと飲みなさいぐいっと」
部下に酒を勧める上司のようだが、鳴宮は無表情で。
「イタダキマス。」
言ってプルタブをこじ開ける俺もまた無表情だと思う。
「何かあった?」
「…何も?」
一気に中身の半分くらい煽って、返す。
「何でそんなこと訊くの?」
「だって、そんなに二日酔いになるほど飲むなんて普通じゃないでしょ?」
「そうか? 俺結構アルコールに弱いらしぞ。京極曰く」
あんまり、認めたくないけどね。
「…そう。じゃあいいけど」
「それよりさ。自分は大丈夫なわけ?」
飲み干した缶をテーブルの上に置いて、頬杖を吐いている鳴宮に問う。
「あたしが? 何が?」
「付き合ってもない、好きでもない男とラブホ行こうとか、それこそ普通じゃないんじゃない?」
「好きじゃないって決め付けるわけ?」
一時停止。
「―――っ」
再生。
「―――まじ?」
ふんって感じで、顔を背けて。おい、こたえろよちゃんと。
「柊は良いやつだと思うから」
お、現在形。
「から?」
「……別に」
横目でちらりと俺を見て、投げやり。
「それだけ」
「それだけ?」
「しつこい男って嫌われるんだよ」
「それはどうも」
アルミ缶をぺこぺこさせながら、視線を上げたり下げたり。昼時を過ぎたからか、学生食堂にはおばちゃんたちが食器を片付ける音くらいしかしない。人はほとんどはけている。
「ところで、二日酔いはどうなったの?」
「ん、さっきよりはちょい楽になった」
言うと、鳴宮は少しだけ微笑った。
そう言えば、鳴宮とはじめてあってから1年近く経つけど。笑った顔を見たのは初めてかもしれなかった。
「笑うと可愛いのに」
ぽつりと呟くと。
「それはどうも」
照れたような声が返って来た。
俺も少しだけ笑った。
自分の笑い声なのに、頭に響いて、顔をしかめることになったけど。
しばらくして食堂を出て。当てもなく、構内をちょっと歩いてみたりして。
「かえる?」
問うと。
「帰るよ」
鳴宮は普通に言った。マフラーで顎まで隠して。まっすぐ前を見たまま、俺の方は見ないままで。
「鳴宮ってどっちに住んでるんだっけ?」
校門のところで。
「あっち。」
右を指して鳴宮が言った。
「俺はあっち」
真ん前の横断歩道を指差して、俺は言った。
「じゃ。」
手を上げて、帰ろうと背を向けた鳴宮に。
「送ろうか?」
申し出てみた。
「方向違うよ」
半身だけ振り返って、言ったけど。それは拒否ではなかったから。
「いいんじゃない? 健康的じゃん、いっぱい歩いたほうが」
そう言って、右に向かって、並んで歩き出した。
「鳴宮って、下の名前なんて言うの?」
「訊いても得なことってないよ」
「別に損得なんて不必要でしょ。知りたいから知りたいだけだし」
「……。教えません。名簿でも見て」
「嫌いなの? 自分の名前」
「……。柊は下の名前なんて言うの?」
俺の問にはこたえずに、逆に訊き返してくる。
「名簿でも見てください。」
「…名簿なんて無くした」
ちらりと俺をみて、それからまた前を見て。言った。
「俺、鳴宮好きだよ」
唐突に言ってみた。京極みたいだと、言ってから思った。
少しだけ驚いたように、鳴宮は立ち止まって俺を見て。でもすぐにいつも通りに歩き出した。
「鳴宮?」
「あたしは、」
さっさと俺を追い越してしまった鳴宮は、振り返りもせずに。
「好きとか愛してるとか。あたし、ことばは信用しないから」
「どうして?」
さっき自分でも「好き」って単語使ってたのに。
すたすたすたすた。ぴたり。
「送らなくて良い」
突然。宣言。
「え?」
「ひとりで帰れるから。良いよ。ばいばい」
ひらりと手を振って、走り出す鳴宮。
走り出すといっても所詮鳴宮は女の子で、俺は男で。追いつくのは至極簡単なことで。追いかけることも出来たわけで。それってかなり劇的でクサイことかもしれないけど。でもそれでも出来たわけで。
だけど。なのに。
瞬きも出来ないまま、ただ立ち尽くすしかなかった俺は。
俯いて、上を見て。
鳴宮はもうとっくに角を曲がってしまっていて。仕方がないから、来た道を戻ることしかなくて。
何してるんだ、俺は。
そうやって自問自答。
するしか能がない。
何か、鳴宮の気に触ることでもいったのか。言ったんだよな、やっぱり。
でもだとしたら、なんて言ったんだろう。
会話を振り返る。
「……好きって言っただけじゃん」
―――好きとか愛してるとか、そういうことばは信用しないから
って、言われても。
俺にどうせえと?
俺は、鳴宮が好きで。それだけで。
それで、何がいけないのだろう。
………わからん。
5.
「おはよう」
「…おはよう」
いつも通りの挨拶。
いつも通りの無表情で。
鳴宮は、まるで何もなかったみたい。ていうか、むしろ、俺との関係白紙状態。初対面じゃないんだからさ。もうちょっとなんかリアクションが欲しいって思うのが人情ってやつじゃないかしら? なんて、思ったりして。
「鳴宮?」
「何」
「昨日は…」
「気にしてないから」
…絶対、気にしてるし。
「でも、アレ、俺の素直な気持ちだからさ」
「………」
鳴宮はこたえなかった。
俺も、それ以上は何も言えなかった。
鳴宮が好きだ―――とか、言ったけど。俺、どんなふうに好きなんだろう。 講義が始まるまで、あと10分弱。
ちょっとばかり、哲学の時間です。講義は児童文学だけどね。
一緒にいると楽しいとかどきどきするとか、そういうのではない。多分ヒトコトで言えば、安心するのかもしれない。安堵―――の方が適切かもしれない。
好きな理由って、それだけじゃ不足なのだろうか。―――――不足かもしれない。女の子と付き合ったことって何回かあるけど、全部向こうからで、俺ってイマイチ消極的だったから。あんまり「好き」とかそういう感情を意識することってなかったし。
それって、倖せだったのか…それとも不倖せだったのか。
まあ、別に、どっちでも良いけど。どちらにしろ、非があるのは俺だし。ああなんか、凹むよこの哲学の時間、もといひとり討論会。
ヴヴヴヴ……
メール。着信バイブ。
今日は忘れずに持ってたらしい。ていうか、教室入ったら電源切れよ俺…。
とりあえず、開いて、受信ボックス、新着メール。
読んで。振り返りたい衝動に駆られたけど、何とか抑えた。
少しだけ、どきどきした。
なんか、秘密って感じで。
液晶に表示された活字は、「鳴宮」。
<講義が終わったら屋上で>
何とか、そういうのじゃないけど。
……なんか、俺女子中学生みたいじゃん。
ガラにもなく、少しばかしどきどきしてたりするのは、企業秘密。
「柊は、あたしのこと好きなの?」
ぽんって、コトバを投げかけられて。
危うく落としそうになりながらも受け取ったは良いけど。どう返答して良いモノか、瞬間悩む。
「好きな、わけ」
詰りながらも、キモチ。言ったら。
「本当に? 何処が?」
畳み掛けるように、鳴宮。
その訊き方は、まるで小学生が大人に常識を訊ねるときのよう。
「よく、わかんないけど。でも、好きっていうのは、確か」
「曖昧なのに、どうして確かって言えるの?」
「だって、キモチって無形物じゃん? 見えないから、わからないだけで。でも、見えないなりに、確かなんだよ」
真っ白な空。光は透明で、風はからからで。雪が降りそうだ、そんな漠然とした予感がした。
「柊は、死にたいって思ったことある?」
「―――え、」
俯き加減の、角度で。瞳だけ俺を見て、鳴宮が。
突然。
言う。
からっ風が、ばさばさと鳴宮の髪を無造作に巻き上げて、光に透けた髪は、普段は茶色っぽい地毛なのに、今は金色みたいに赤く見えて。
どこかに逃げてしまいそうな、そんな。感じ。
「ねえ、おもったこと、ある?」
繰り返したなり宮の言葉に、反射的に首を振る。
どうしてだかわからない。死にたいと思ったことなんて、多分何度もある。高校受験で本命校に落ちたときとか、高2のとき、多分今まででずっと好きだった彼女に振られたときとか、大学受験直前の模試で志望校にE判定が出たときとか。
何度も、惨めで情けなくて、死にたいと思った。何度も。
だけど。
それは、あんな瞳で言えるような、深刻なものでは、全然なくて。
「な、鳴宮は? 鳴宮は、死にたいって思ったこと、あるわけ?」
「ある」
そう言って、鳴宮は俺に向かって左手を差し出した。
「……何?」
なんとなく、わかるのに。
訊いてしまうのは。
俺がきっと―――。
袖から覗く、黒いリストバンド。
「鳴宮?」
「………」
鳴宮はこたえないで。
俺は、引き寄せられるようにリストバンドに指をかけて。
視界の中にはただ。リストバンドの黒だけが広がって。
眩暈がしそうな、感じで。
指が、伸縮性のあるリストバンドを。引っ張って。外して。受け止められなかったリストバンドは、音もなく薄汚れたコンクリートの上に落下。
空が落ちてきそうな、錯覚を覚えた。
眼を閉じて、開いて。
確認して。
そこには確かに。
何度も何度も繰り返したであろう、傷。既に色褪せて痕になってしまったものもあれば、まだじわりと血を滲ませた、生乾きの傷もあって。
黒の次には、赤と、青白い肌色と。
鳴宮、呼んだような気がしたけれど、声にならなかった。
「ねえ、柊」
呼ばれて、ようやく、鳴宮の顔を見上げた。髪の毛が表情を隠して。瞳はこちらを向いているのに、視線は虚空を彷徨って。
「あたしのこと、好き?」
微笑っているはずなのに。笑ってないよ、鳴宮。
「―――あ、」
こたえなければいけない。ちゃんと。だけど。ことばはことばにならなくて。息は声帯を震わせずに、細切れに吐き出されて吸い込まれて。
「ねえ、柊」
「…どう、して―――」
やっと成立したことばは。なんとも当たり前な。なんとも奇妙な。
「………」
「どうして、こんなこと……するんだ?」
そっと、薄氷みたいに。傷に触れる。ずるりと、血がついた。リストバンドを外した衝撃で傷が開いたのか、赤い線が。線上には、ぷくりぷくりと、赤い粒が。浮かんで、引き寄せられるようにくっついて、流れ堕ちて。
コンクリートの上に。
ぽつりと。
さながら雨のように。
「………」
鳴宮はこたえないで。何も言わないで。ただ憐れむような目で俺を見る。どうしてだろう、どうして。
「柊も、やっぱり言うんだ。その台詞」
ぽつりと。落下した音。
「みんな言うんだよね。どうしてそんなことするのって。みんな、同じこと言う」
瞬きして。睫毛の動きが鮮やかに。
「柊は、あたしのこと好き?」
繰り返す、何度目かの、問い。
俺は鳴宮の傷と、自分の手についた血と。鳴宮と。何度も何度も視線をめぐらせて。
「俺は、」
血のついた手で鳴宮の髪に触れて。もう片方の手では、腕に触れたまま。
「わからない」
「そう、」
「でも、好き」
「……そう、」
髪を触れる手に力を込めると、指の間でくしゃりと、微かな音がした。
それは確かに。しかし聞き取ることは困難な、微弱な。音。
そのまま。
触れ合うだけのキスを。
した。
6.(other side)
天に昇れると思っていた。
安堵、出来た。
傷は、傷痕は、血液は、刃物は、痛みは。
「私」の防御壁だった。
傷をつけると安心した。
傷があると安堵した。
血が流れると生きているという実感が出来た。
血が流れていないと、生きているという実感が抱けなかった。
このまま死んでしまったら、どんなに楽だろうかと思った。
このまま死んで、天に昇ることが出来たなら、それは。
どんなに素敵なコトだろうかと、思った。
私は異常な世界の正常な世界に取り残されて。
異常のカテゴリの中で。もがくことも億劫で。ただそこに甘んじて。
そこにいて―――。
私はひとりだった。
平気なふりをして、虚勢を張って誰かと付き合って、適当に受け流して。
それなのに、私の周りには必ず誰かがいて。
それでも私はいつでも。
ひとりだった。
いつも。
いつも。
親も兄弟も、トモダチも。
だれひとり。「私」には気付かないで。
「鳴宮」
気がついたら、いつのまにか隣に誰かがいた。
柊。
大学で出会った。
否、いたんじゃない。私が。
私が、そばにいた。
「柊、」
呼んだら、いつでもこたえが帰って来て。
何だよって、なんでもないような表情で。そばに。いてくれた。
私のような女の何処が良いのか、わからなかったけれど。
だけど、そばにいて。
でも、駄目なんだよ。
どうしてだろう。
キスして、触れ合って。
それでも。
私は私に傷を求める。
キスをして。
スプリングのきいたベッドの上に。
横になって。
何度もキスをして。
柊の手が左手首に触れると。
どきりとする、条件反射。それは快感とか快楽とかではなくて。
恐怖。
「柊、」
呼ぶと、声が。「何?」返ってくる。
呼びながら、触れる指の感触が、痛い。
傷が、ではなくて。ココロが。痛い。
「やだ……」
「ココが?」
言って、柊の指が、リストバンドを外して。
傷を撫でる。
私は、どうしたら良いのかわからなくて。ただ頷くしかなくて。
「それとも、ココロが?」
柊は、わかってるのに。きっと。
「…泣かないで、鳴宮」
親指が、涙を攫って、またキスをして。
「一緒に、」
キスして、離れたばかりの唇の隙間で。柊が言う。
「一緒に、生きよう」
自分を傷つけるんじゃない。何か、もっと違う方法で。
「自分」であって。
おねがい、
一緒に。
生きて。
「鳴宮、」
「―――うん、」
のどの奥で、頷く。
「生きて、一緒に」
ひとりは、嫌だから―――ふたりで。
生きて。
7.
「何してんの?」
「人待ち」
「なりちゃん待ち?」
「そゆコト」
大学近くの公園で、ぼうっとしていた俺に、通りかかったらしい京極と月弥が話し掛けてきた。しっかり腕なんか組んじゃって。……別に羨ましいとかそういうんじゃないけど。
後からきいた話だが、月弥はしばしば鳴宮に京極のコトを相談していたとか。鳴宮がそういうコト相談してタメになるのかっていったら、全然わからないけれど。
まあ、女の子自体未知の生命体だし。
「ふうん、で、待ち合わせより30分は早く来ちゃったって感じ?」
「………」
「うわあ、図星なんだね」
驚いたように月弥。
「何でわかるわけ?」
「だってなりちゃん時間には鬼の如くきっちりしてるもん」
「……。なるほどね」
確かに、何度か待ち合わせをして、鳴宮が遅れて来たことなど一度もない。
「ま、寒いし。風邪とか引かないでよね」
「大丈夫大丈夫。柊は絶対丈夫だから」
「なんだ、そのことばの裏に含まれたイミは」
要はてめえ俺が莫迦だって言いたいのか。
「なーんでも、ないよん」
じゃ。そんな感じで、連れ添って公園を後にするふたり。後ろ姿は恋人同士のよう―――っていうか、そうか、恋人同士なんだよな、あのふたりは。
16歳の彼女と別れてから―――いや、別れる以前の問題か。一方的な失恋だし―――、京極は、月弥と交際をスタートさせたらしい。なんとか、上手くいっているように感じる。まあ、ハタ目には。内情は付き合っているふたりにしかわかりようがない。
再びひとりになって、ふう、と頬杖をつく。
鳴宮とお付き合いを始めてから、3週間が経つ。
相変わらず苗字呼びだけど…名前を教えてくれないのだから仕方がないし、今更鳴宮を別の呼称で呼ぶのも、なんだかむず痒い。そんな気がする。
自傷を知ってから、何故かしばしば、鳴宮のリストバンドが気になる。否、その奥の、隠された傷痕が。
傷に触れることはほとんどない。不可侵の領域に踏み込むような気がするから。だから触れるのは、セックスのとき、だけ。
とはいっても、まだ1回しかしたこと、ないけどね。
「柊、」
呼ばれて、視線を向けると、鳴宮がすぐ後ろに立っていた。
「……びっくり。」
「してるふうには見えないけど」
「ポーカーフェイスなのよ。鳴宮には負けるけど」
「あ、そう」
そんな感じで、ふたりで歩いて。何処に行くでもない。
「行き先は?」
問うと。
「天国に近い場所」
ヒトコトだけ、鳴宮は言った。
「行こう、」
差し出された手は、右手。そこにリストバンドはない。
「うん、」
握り返した手は、右手。
そこにも勿論、傷なんて、ない。
それが当たり前だと、思っていた。
でも、違う。
―――当たり前って、なんなのだろうか。
「柊は、」
並んで歩きながら、鳴宮。
「やさしいね」
「どうして?」
10センチ近く背の低い鳴宮を見下ろして、訊き返す。
「あたしを、軽蔑しない」
軽蔑という単語が、引っかかる。
「親も兄弟も、あたしを見捨てた。自分を傷つけるなんて信じられないって言った」
―――どうしてそんなことするの?
―――どうして、家族を苦しめるの?
歩きながら、俺を見上げて。鳴宮は続ける。
「誰でもそうだった。高校のトモダチも、教師も。みんな。あたしを異常者扱いした」
―――見た? 鳴宮さんの手、
―――見た見た、あれって自分でやってるんでしょ?
「柊は、あたしのこと、あたしで見てくれた」
嬉しかった。
「好きって、ありがとう」
そっと触れるように、絡ませた、指。
握り返して。お互いがそこにいる、確かな距離。
「鳴宮」
「何?」
「俺は、鳴宮のこと、好きだから」
鳴宮が、何も言わずに、俺を見上げる。
「鳴宮は、好きとか愛してるとか、そういうのは信用しないって言ったけど、だけど、信用、してほしい」
―――好きとか愛してるとか、そういうことばは信用しないから
「俺だって、浅はかな人間だし。言ってることとか考えてることとか、限りなく曖昧だし。人生莫迦正直に生きてるわけじゃない。だけど、―――さ。ひとりの女を、まっすぐ、愛することは、出来ると思うんだ」
一生涯、かけて。
「昔のメロドラマみたい」
くすくすと、鳴宮は、笑って。
「ありがとう、」囁くように、言った。
「ところで、今何処に向かってるんですか?」
問うと、鳴宮は、さっきも言ったのに、と小首をかしげた。
「天国に近い場所、」
「空の上、とか?」
冗談めかして訊ねると、鳴宮は小さく微笑った。
「さあ、ノーコメント」
「そ、」
天国に近い場所。
もしかしたら、ここが。
いちばん。
眼下に広がる、住宅街。その向こうには、海があって、海を囲むように、山が連なって。
太陽の光が漣のひとつひとつに反射しているように、輝いて。
山の頂きの、ちょっとした広場になった場所で。
「いつか、」
鳴宮が口を開いた。
「誰かとこようって、決めてた」
誰か。
自分と、一緒にいてくれるだろう。
大事な。
誰か。
「柊は、あたしのこと、病気だと思う?」
「病気?」
「自分で自分のこと傷つけて、それで安堵して。繰り返して。おかしいって、思う?」
柵に腰掛けて、今来た道を見ながら。鳴宮。俺はそんな鳴宮を見ながら、遠い海を眺める。
ずっと遠いはずなのに、潮混じりの風を感じる。
「―――いや、思わないよ」
「ほんとうに?」
「鳴宮は、それしかはけ口を知らないだけなんだ。誰でも、ストレスとか鬱憤とか溜まって、それを何とか処理しながら生きてるけど、鳴宮は、その手段が、それだったっていうことだけで。―――全然、おかしくない」
少し驚いたような表情で、でも、はにかむように、やわらかく、微笑って。
「ありがとう、」
「鳴宮は、ありがとうって、それ良く言うよな」
「…なんだろう、癖かな」
ありがとう、感謝しています、そう言って。自分の形作って。イイコで。以上だといわれる自分を覆い隠して。
俺は鳴宮の頬に触れる。化粧気のない、肌そのものの感触が、掌におさまって。
鳴宮はまっすぐな瞳を、俺に向けて。
「好き」
ヒトコト、言った。
「俺も」
嬉しくて、笑ったら。鳴宮がぎゅっと俺の鼻をつまんだ。
「変な顔。」
「うるさいな、」
つままれた鼻を抑えながら、どうしてか、笑いがこみ上げて。止まらなくて。
目の前の鳴宮を、愛しいと思って。鳴宮は、俺のことを、どう思っているのだろうか。俺と同じように、思って、くれているだろうか。
たくさん笑って、それから、重ねるだけのキスをした。
俺の手は頬に触れたまま。
唇を離すと、なんだか急に恥ずかしくなって。
柵から落ちないように、鳴宮の躰を抱きしめた。
コートを着ているのに、鳴宮の躰は、なんだか幼子のように細くて。
「一緒に、」
鳴宮の顎が、俺の肩に。確かに存在している。
ここにいる。確かに。
「生きよう」
一緒に生きよう、なんて。
19歳のガキが言うような、簡単なことばじゃないかもしれない。だけど、俺は。
鳴宮と一緒に。
ずっと。一緒に。
そばにいて。
生きて。
いきたいと。
思うから。
戯言でも何でもない、真実。
腕を滑らせて、左手首に重ねて。
繰り返した。
「一緒に生きよう」
鳴宮は掴まれた俺の手を払って、自分から、握り返して。鳴宮の手は、風に晒されて、冷たくて。少しだけ、汗ばんでいる。
「うん、」
喉の奥で、小さな、溜息のような。
声で。
言った。
「一緒に生きよう―――」
(2003/01某日 19979文字)