四葉のクローバー


 私は人を殺しました。



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 毎月生理が来るたびにほっとして、哀しくなる。
 本当なら。
 今、私の躰には、もうひとつのいのちが存在しているはずだった。
 でももう、そんなものは何処にもない。
 殺してしまったから。
 お父さんに何と言われても、本当に大事なら、そうするべきではなかったのに。
 私は人を殺してしまった。
 何よりも愛しかったのに。


     *


「おはようございます」
 5月。入学から1ヶ月が経っても、英和葉はですます丁寧語を崩さない。崩さないというより、誰に対してもそういう口調で喋るのが完全に染み付いてしまっているからだ。
「よーっすハリー」
 教室に入ってすぐ近くの席の永村が声をかけた。それに連鎖するように、教室のあちこちから挨拶が飛ぶ。「おはよう」「ハリーおはよう」「よー」「グッモーニンハリー!」
 ひとりひとりに笑顔を向けて「おはようございます」を繰り返して、和葉は自分の席に移動する。
 ハリーというのは和葉のあだ名で、入学したその日に、クラス満場一致で命名された。黒髪はクセっ毛で黒縁眼鏡をかけた風貌が、某有名ファンタジー小説の主人公そのものだ、という実に安易な発想のもとで。
 だが、和葉自体はまんざらでもなく、気に入った様子で嫌がることはなかった。
「おはようございます」
 和葉は窓際からふたつめ、一番後ろの自分の席に鞄を置くと、窓際の席のクラスメイト、要若葉に、他のクラスメイトと同じように声をかけた。若葉は読んでいた本から顔を上げると、にこりとわらった。愛嬌のあるかわいい顔だと、入学して日が浅いのに、既にクラスの枠を超えて学年に広まっている。だが、その彼女の声を聞いた者は、まだ空が丘にはいない。
 若葉は話すことが出来なかった。
 だが耳は聞こえている。だから普通高校に入学が許可されたのだし、ただ一時的に喋れないだけだと、担任は簡単に説明した。理由は言わなかった。もしかしたら知らないのかもしれない。かといって若葉から直接聞きだすことは出来ない。
 わらって挨拶に代えた若葉は、再び本に視線を戻した。
 その彼女の首筋の辺りに、和葉は視線を向ける。向けたくて向けているわけではない。ただ、気になるから。
 言わなければいけない。
 入学したその日、はじめて若葉をみたときから、和葉はそう思っていた。でもいえないまま、1ヶ月が過ぎていた。
「要さん、」
 ようやく呼びかけて。若葉が和葉を見て、何? というように首をかしげた。その表情があまりにあどけなくて、和葉は喉を通りかけた台詞をまた飲み干した。何度目かの躊躇いの味。
「…そ、その本」自分でも莫迦みたいに取ってつけたような言い方で。「面白いですか?」
 愕いたのか、少しだけ眼を見開いて。
 若葉は挨拶のときよりも、さらにやさしくわらった。
 彼女は読んでいたページにしおりを挿んで本を閉じると、和葉に差しだした。受け取って表紙のタイトルを読むと、日本人だが、知らない作家だった。
 ぱらぱらページをめくると、しおりを挿んであるページで指が止まった。白い和紙に鮮やかな緑色の四葉のクローバーの押し花。ラミネートされたそれを指でそっと触れると、プラスチック越しにクローバーの厚みを感じた。
「これ、」若葉に本を差し出して。「珍しいですね、四葉のクローバーなんて」
 ふと表情が曇ったかと思うと、若葉はすぐにいつもどおりの笑顔になって、頷いた。さっきの表情なんか幻だと、そう言うかのように。
 その表情に、和葉は何も言えなくなってしまって。



 少なくとも、和葉は若葉に好意を持っていた。だがそれは、恋愛感情ではなく、何処か放っておけない――道に棄てられた子猫を拾えずにただずっと眺めているだけ――そんな、感情。
 誰かのために何かをしたい。和葉はずっとそう思ってきた。それが具体的に何なのかは、和葉自身わかっていないけれど。
 言わないといけない。
 何度も何度も思って。
 しかし言えないまま。時間だけが過ぎていく。
 それはきっと、”それ”が何なのか、確証が得られないからで。触れてはいけないような気がするからで。
 放課後の掃除当番で、若葉とふたり、ごみを棄てに来た和葉は、自分のあとにごみを棄てる若葉の後姿を見ながら、思った。背中にいる”何か”を見ながら。
「要さん、」
 呼びかけて、若葉が振り返ってから。どうしようかと考える。「あ、あの、」
 不思議そうな表情で、若葉は和葉のことばを待っている。話かけたはいいけれど、どう切り出したらいいのか、和葉は頭のなかをぐるぐるかき回して。
 若葉の表情に、どんどん顔に血液が集中していくのがわかる。まるで告白でもしているかのように、心拍数が上がっていく。
「あの、あの…」
 言わなければ。
 何処にもそんな義務なんかないのに。そうしなければいけないような気がしてたまらなくて。俯いて、顔だけがどんどん赤くなっていく。
「僕、要さんの後ろに」ちらりと、盗み見るように見た若葉の顔は。きょとんとした。あどけない。
「幽霊が、みえます」
 強く目を閉じて、言った和葉には、若葉の表情は見えない。もしかしたらわらっているかもしれない、なんて莫迦げたことを、そんな風に。
「あの、何かは、よくあの、わからないんですけど、でも…あの、」
 レスが帰ってこないのはわかっていた。なのに、返事が返ってこない静寂が耐えられなくて。和葉は顔を上げて。
「…かなめ、さん…、」
 若葉は哀しそうな表情で。軽く俯いていた。
 細められた眸は、地面の何処か一点をじっと見つめ。ごみ箱をつかんだ手は、少しだけ震えていて。
「あの―――」ことばを継ごうとしたら、若葉は行こうと言うようにごみ箱で和葉の後方をさした。そのまますたすた和葉を追い越してしまう。
「…ごめんなさい、」
 和葉を通り越した若葉の背中に言うと、彼女は少しだけ立ち止まると、振り返らず、首を横に振った。


     *


「どうしたのアンタ、変な顔して」
 玄関の引き戸を開けたら、ちょうど学校から帰ってきた姉が靴を脱いでいるところだった。
「僕の顔が変なのは今に知ったことやないです」「また訛ってるわよ」「ほっといてください」
 父親が関西出身のせいか、和葉はときどき関西訛りになることがあった。それに対して、姉の彩花はまったくそんなそぶりは見せない。
「ま、顔のことはどうでもいいけど」さっさと靴を脱いで家に上がる弟に、彩花はふぅん、にやついた。「例の彼女絡み?」
「……」黙った和葉に、彩花は満足そうにわらった。「まあまあ、和葉も15歳。花も恥らう15歳だものね。そりゃあ恋もするわ」
「…姉さん、」
 愉しそうな姉に、和葉は頭を抱える。
「なに?」隣にたった彩花は、和葉とほとんど身長がかわらない。164センチの和葉に対し、彼女は162センチある。
「だんだん、こう、父さんや母さんに似てきましたね」
「…。やめてよ、あたしあそこまでポジにはなれないわっ」「ポジとかそういうんじゃなくって、ノリとか言い方とか、そういうのがですよ」「そういうアンタだってお父さんの訛りがうつってるじゃない!」「僕は否定しませんから」
「なにやっとんねん」
 玄関先で繰り広げられる会話の応酬に、いつの間にいたのか父親が声をかけた。
「キミらほんと仲ええなあ、」にこにこしながら。「父さん嬉しいわー姉弟仲ようて」
「「……」」
 ほわほわした雰囲気に毒気を完全に抜かれたふたりは、顔を見合わせると、それぞれ2階に上がっていった。
 玄関先に残された父親は、満足そうに何度も何度も肯きながら。「ホンマ、僕ええ育て方したなぁ」



 和葉の実家は、空が丘高校の近くで、神社の宮司をやっている。父親は婿養子で、両親はお見合い結婚だった。しかしながら今現在和葉の見る限り、両親はそこらの恋愛結婚の夫婦よりも仲がいい。人の出会いというのは本当に運命そのもの。
 運命。
 和葉がこの家の中で唯一幽霊がみえるのも。
 若葉の後ろに何かしらの霊体がいるのも。
 彼女が話せないのも。
 運命。
 畳の上にうつ伏せに横になる。日に焼けた畳はささくれ立っていて、頬にちくちく痛い。戦前から建っているこの家も、至るところにガタがきているようで、いつ建て直すかというのが家族会議の議題に上ることは多い。
「うー…」
 足をばたばたさせて考える。何を考えているのかも明確ではないのに。「僕は、ナニを、したいん、だーっ」
「うっさいわよ。」
 いつの間にいたのか、彩花が和葉の背中を足蹴にしていた。「何してんですか」「頭じゃないだけ感謝しなさい」「…わけわかんないです」
「この家壁薄いんだから暴れないでくれる? 叫ばないでくれる? あたしこれでも受験生なの」にっこり。その笑顔だけ切り取れば、ブロマイドとして結構な値段で売れそうな気がした。
「姉さんって黙ってれば絶対モテるのに…」
 軽口をたたく弟に、彩花はいつものように言い返さず、ただ黙って和葉の背中を痛くない程度にかかとでぐりぐりした。
「…姉さん?」
「あんた、ホントわかりやすいわよね。素直すぎるって言うか、莫迦正直って言うか」
「どっちもどっちな言い方ですね…」
「そんなんだから幽霊なんてみえんのよ」
「そんなこといわれても困ります」
「まあね、それだけココロが綺麗なのよね、和葉って」
 そういった彩花の口調は、何処か眩しそうで。「ちょっとだけ和葉が羨ましいわ」
「ねえさ―――」「ま。みえたところで何にもないんでしょうけどね、幽霊なんて」
 ととん、指先で叩いて、背中に乗って。「…」何も言えない和葉の背中を押しはじめる。「姉さん?」「何よ」「何かあったんですか?」「何もないわよ」「…」「和葉っ」「ハイ」「アンタには、こんな素敵なお姉さまがいるんだからね!」
「…はぃたたたたたたっ」
「あ、ごめん」
 ぱっと手を離したはいいが、変なところを押された和葉は、彩花が乗っているせいでのたうち回ることも出来ないまま、畳を拳で叩いて我慢する。というか、それしか出来ない。
「もー、なにしてるのー?」襖を開けた母親は、姉弟を見ると、一瞬だけ間を空けて。「仲が良いのは善いことだけどねー」
「「……」」
「そうそう、ごはんよごはん」
 沈黙する子供に、母親はそれだけいうと、襖を開けっ放しにしたまま階下に降りていった。


     *


 気が付いたら幽霊がみえていた。
 幽霊といっても、そこらへんを歩いている、生きている人間とそう変わらない。だから幼いころは、和葉には生きている人間と死んでいる人間――幽霊の差がイマイチわからなかった。
 ただ、和葉のみえる世界は、他の人よりも少しだけ、人口密度が高いだけ。
 物心ついて、小学校を卒業するころには、何となくではあったが、判別がつくようになった。
 だけど、若葉の背後にいる”もの”は、姿がなかった。いや、厳密に言えば姿はある。だからみえる。しかしそれは不安定に揺らめいて、定形をなさない。
 “それ”が何なのか、和葉には判別がつかなかった。
 せめて”それ”が何かがはっきりしてから言うべきだと思った。でも、若葉のことなど何も知らない和葉には、どんな空想も憶測も出来なくて。定形のない”それ”を、判断する材料は何もなく。
 ただ日々だけが過ぎていって。
 ただひたすら、若葉のことだけを考えたのなら、”それ”が何かわかったとしても、言うべきではなかったのかもしれない。でも、何か力になれたら、思ってしまう自分がいて。それは親切を着たただのエゴだと、わかっていたけれど見ないふりをして。
「おはようございます」
 いつもどおりに。朝の挨拶にはじまって、一日、言う前と何も変わらない毎日が続いていく。何もなかったかのように、若葉はわらっていて。だけど相変わらず、声は聞けないまま。
 もどかしい気持ちを抱えたまま、和葉はそれ以上彼女の領域に踏み込めないで。気が付いたら、5月も終わろうかという時期になっていた。
 朝から降り始めた雨は、時間が経つにつれて雨脚を早め、昼休みに入るころには、ときおり酷く窓を叩くほどになっていた。
「酷いなー」庇の上を覗き込んで空を見上げる永村のことばに、和葉は頷く。「警報でませんかねー」
「いやいや、出たところで今帰ったらイチバン酷いぜ」
「…それもそうですか、」
「なあなあハリー魔法で何とかしてくれよー」「そうだよそうしてーお願いー」
 肩を小突かれて、みんなしてわらう。席替えをして窓際になった永村の席に男子ばかり4人集まって弁当を広げている。席替えをして、和葉は若葉と席が少しだけ離れた。朝の挨拶以外は、あまりことばをかけることがなくなった。
 構えてしまっているのは和葉のほうで、きっと若葉は同じ姿勢で接してくれているはずなのに。
「なあ、そういえばさ、最近ハリー要とあんま話さないよな、」
「話すも何も話せないだろ要は」
 牛乳パックに挿したストローを噛みながら、器用に島村が言う。「ていうか、何であいつ話せないんだろ?」
「何だよ、しらねえの?」和葉の向かいに座っている白河が、はす向かいの島村に向かって言う。
「何がだよ」
 島村はストローから口を話して、軽く身を乗り出した。「何かオイシイ話でもあるわけ?」
「オイシイとかいうなよ」ぺし、永村が島村の額を向かいから軽く叩く。「どうせ良い話でもないだろ」
「うお、ビンゴー。もしかして永村知ってんの?」「いや、知らないけど。話せなくなるなんて、良い話とは思えないだけ」
「そう、いい話じゃないんだよ」
 白河は何故か和葉のほうを見ながら、にやり、わらった。
「要、中学のとき、堕ろしたんだって」
「…マジ?」
 呼吸ひとつ分の間のあとに、島村が低い声で言った。
「マジ。超マジ」
 自慢話でもするように、白河は頬杖をついた。
「はぁー…ショック。要は処女だと思ってたのに…!」「反応はそこかよ」「だってさー」
 会話を広げる島村と白河を横目に、永村は、飲むでもなくストローを噛むでもなく、ぼうっと窓の外を見ていた。和葉は弁当のごはんを口に運ぶと、もそり、噛んだ。ほどよい固さにたかれているはずの米が、酷く固く不味く思えた。
 頭のなかも、胸のなかにも、ことばはひとつとして浮かんでこなかった。
 事実だけが、ただ重くそこに存在しているだけで。
 島村と白河を軽蔑したりするわけでもなく、ただ、すべてのスイッチをオフにして。世界から切断。ただ今スタンドアローン。
 雨がガラス窓を打ちつける。
 ちらり、前方の席に座る若葉の背中を見た。小さな背中。丸い肩。首筋にただよう”それ”。肩までの髪を、今日は三つ編みに結って。
 堕胎。
 もしも白河の言ったことが事実ならば。
 もしかしたら首筋の”それ”は、堕ろした赤ん坊なのかもしれない。根拠もないのにそう思った。事実かどうかさえ、定かではないのに。仮定。
 入学したときから話すことが出来なかった若葉。語られることのない、彼女の中学時代。学区の公立中学から来ているはずなのに、同級生ですら、彼女が何故話せなくなったのか知らないという。
 白河が何処からそんな――堕胎なんて情報を得てきたのか、和葉にはわからないけれど。でも”もし”、事実ならば。
 自分には何が出来るだろうか。
 嚥下した米が、食道を掻き分けながら胃に降りていくのを感じながら、和葉は雨のひと滴ひと滴を見るように、目を細めて。
 雨は一向にやむ気配など見せなかった。





   A


 最初で最後。
 思っていた。
 自分がこんなにも人を愛せることを知った。でも、15歳の私は、それを貫くには幼すぎた。
 親という絶対的な存在。
 愛するという行為の重さ。
 ひとつのものを貫く勇気。
 私は、そのなかの何ひとつとして持っていなかった。
 その結果として、揺らぎようのない現在があって。
 私はただただそれを、受け入れるしかない。
 それが私の贖罪。人を殺した私の。
 ただひとつの。
 出来ること。


     *


 ひとつのパーツを手に入れれば、あとは自ら現れる。
 和葉がそれから、白河の言っていたことを事実だと知るのに、そう時間はかからなかった。人の口に戸は立てられない。話すことが出来る人間は誰もがスピーカーだから。
 何かひとつ、それがたとえどんなに小さいパーツであっても、知ってしまえばあとは転がり落ちるように情報は入ってくる。
 若葉の中学時代。
 彼女は教師の子供を妊娠し、そして中絶した。
 話せなくなったのは、それから。
 想像しか出来ない和葉にも、若葉の創が深いことはわかった。話せなくなったのが、その証拠。
 放課後、模試を前にした教室で、ひとり居残って自習をする若葉を見つけて、和葉は心臓を締め上げられるような痛みを感じた。
 鼓動さえも妨害してしまうくらい、強い痛み。表情をゆがめてしまうほどに。
 6月を目前にした空は、徐々に世界に近く降りてきて。朱色のひかりが、斜めに教室に入り込んで影を延ばす。半身を朱色に染めた若葉は、片手で数学の教科書を押さえながら、シャーペンの頭を噛んでいる。
 この光景だけならば、彼女はそれこそ何処にでもいる普通の女子高生でしかないのに。
 扉に手をかけて。辞めようかと一瞬だけ躊躇したけれど、思い切ってあけた。
 ゆったり、若葉がこちらをみて。和葉を見つけると、にこり、わらった。
 泣きたくなるような、笑顔。
「こ、こんにちは」
 言えたことばは、他愛もない挨拶。
「試験勉強、ですか?」
 こたえが返ってこないことなどわかりきっているのに。
「そろそろですもんね、模試。なんか、高校の模試って緊張しますよね、」
 何を言っているのか、何を言えばいいのか。和葉自身、わからなくて。
 若葉はにこにこしながら、和葉を見ている。どうしてそんなふうにわらえるんですか?
「僕も、勉強しないといけないかなーって、思うんですけど。なかなか出来なくって。要さんを見習わないといけませんよね。それで…あの、」
 次々、ことばを継がないといけないと思いながら、でも肝心のことばは出てこなくて。若葉は立ち上がると、前の黒板の前に立った。小柄な体躯は、教壇の上に立っても変わらない。白い指先の白いチョークが、ゆっくり文字を書く。
『知ってるんでしょ?』
「―――え、」
 くるとは思っていなかった返答。右肩下がりで特徴のある、若葉の文字。
 戸惑った和葉の表情に、若葉は哀しそうに目を細めた。『けいべつする?』
「違う、違いますそんな…!」
 まっすぐ、和葉を見る若葉の表情は。
 穏やかで、苦しそう。
「僕は、僕は―――」何を言えばいい。何と言えばいい。ぐるぐる回る思考回路。たどりつかないこたえ。「要、さん」
 訴えかけるように。
 何を訴えるというのか。
 僕は彼女に。
 何をしてあげられるだろう。
「僕は、幽霊がみえるって、いいましたよね」
「……」
「でも、要さんの後ろにいるのが何なのか僕にはわかりませんでした。ふわふわしていて、カタチがないから」ことばは和葉の頭のなかで待っている。発せられるときを。あとはただ、声に乗せるだけなのに。
 それが、苦しい。
「でも、僕、聞きました。要さんの、中学時代のこと」朱色のひかりを背負った若葉。蛍光灯すらつけない室内で、ひかりは朱色だけ。俯いて、見えた上靴の赤色のゴムが、朱色に融けていくように。
「それで、僕、思ったんです」ことばをきって。息を吸って吐く。強く目を閉じて。開いて。世界は朱色を抱いて。「要さんの後ろにいるのは、赤ちゃん、なんじゃないかって」
 顔を上げると、若葉は今まで見たことのない、泣きそうな表情で。
「僕、おこがましい、かもしれませんけど、要さんのために、何かしたいんです。みえるだけじゃなくて、みえたことによって、僕にしか出来ないことっていうか…僕は、要さんがすきだから、だからあなたの力になりたい」
 言ったあと。若葉の表情。潤んだ眸。記憶をたどり、ことばを反芻して。「あ、」飛び出したことばを今更捕まえるように、口を押さえた。「ち、違うんです。あの、すきっていうのは、人間としてってことであって。決してその、あの、そう言う意味じゃなくって…」
 若葉が、ふるふる、首をふる。それから、いつものように。わらって。
『わかってるよ』



 自己嫌悪。
 そんなことばが和葉の上をぐるぐるしている。
「……」
 父親に頼まれて、犬の散歩をしながら、空を見上げる。
 長袖には暑く、半袖には肌寒い。微妙な気候。風はこれから来る梅雨を思わせて、湿っぽい。
 両手に綱を巻きつけて、2匹の散歩をしているというよりかは、和葉が散歩させられているというような力で引っ張られる。しっぽ大回転でハイテンションなイナとリノは、柴犬の雑種で、和葉が10歳のときに親戚からもらわれてきた。
「…はぁ、」
 和葉が立ち止まると、イナとリノは地面を掻いて前に進もうと頑張ったが、すぐに諦めて。イナは”お座り”で和葉を振り向き、リノは寝そべって、アスファルトに背中をこすり付けている。
「どうしたらいいんですかね…」
 2匹を見ながら、ぽつり、洩らす。
 若葉のために何かをしたい。それは確かな思い。それと同時に、どうして自分がそんなにまで彼女の力になりたいと思うのかがイマイチわからなかった。もしかしたら、彼女は表情に出さないだけで、和葉のことをウザイと思っているかもしれない。踏み込んではいけない領域に、いつの間にか踏み込んでいるかもしれない。
 気づいてませんでした、そんなのは言い訳にもならない。
 若葉は話せない。
 若葉のキモチは若葉にしかわからない。彼女が語らなければ、誰もそのココロを知ることなど出来ない。
 想像はあくまで想像でしかない。憶測はいつまで経ってもただの憶測。
「……。ねえ、ホントに」
 話しかけても、イナもリノも返事などしない。イナだけは、くりっと首をかしげてヒトコト吠えた。「わんっ」
「バウリンガルが欲しいですね、」
 呟いて、散歩を再開した。



「和葉、」
「…」
「和葉っ」
「…」
「…シカト…?」
「…いえ、」
 格段に低くなった姉の声に、和葉はようやっと返事をした。
「聞こえてないの?」
「いえ…」
「そういうのをシカトって言うのよ知ってた?」
「一応、」
「ぼぅっとしてると目の前を倖せが通り過ぎてまうよー」
「そんなの追いかけて捕まえればいいじゃない」
「それもそうやねー」
「「あははははは」」
「「……」」
 夕飯の食卓を囲んで、家族の会話。
 向かいに座った両親に向かって、子供たちは静かな視線を投げかける。「どしたん? 父さんの顔になんかついてるん?」
「なんでもない」
 言って、味噌汁をすする彩花に、和葉はひとつ、器から煮物のサトイモをつまんだ。
「ふうん、そかそか。あ、かずくんサトイモつかむの巧いなー」
「私のつくりかたが巧いからよ」「あーそやったんかー。僕気づかへんかったわ。母さん凄いな」「まあね」
 得意げな母親と顔を見合わせて、父親はさらにわらった。一方子供たちは黙々と食事にいそしんでいる。この程度の会話の温度差なんて、英家にとっては日常茶飯事。
「そや、あやちゃん今度の夏越祭、また巫女やってくれへんかな」
「またぁ…?」
 嫌そうな表情をしたが、まんざらではないことを、家族はみんな知っている。
 夏越祭というのは、。邪心を和めるために、茅の輪をくぐって祓い、清めることから、”なごしさい”と名づけられたという。
 「輪」は茅で編み、輪をくぐる時にチクチクとあたる茅の葉が、病気や悪霊を祓いのけるとされている。要は、毎年恒例の夏祭りのようなものだ。
 集客数もそこそこで、ちょっとした屋台なども軒を連ねる。
「袴は青がいいわ」
 巫女は毎年ツテやコネで数人バイトを募集するが、たいていのことは身内で回す。和葉は裏方を手伝い、彩花は巫女として接客をする。
「うんうん、大丈夫!」
 父親は嬉しそうに親指を立てた。彩花の巫女姿は定評があり、彩花目当てで祭りに来る輩すらいる。
「今年は和葉も巫女やったら?」「…はぁ?」「いいじゃない、男の子がやったっていいんじゃないの? ねえお父さん」「いや、えっと」「そやねー全然かまわへんよ」「じゃあ決まり」
 語尾に特殊文字の伺える言い方で、彩花は締めくくった。
「…」
「ううん、いいねえかずくんの袴とか! 似合いそうだし」
 にこにこ、想像を膨らませる父親にため息をつくと、和葉は席を立った。「どうしたの?」追う母親の声に。「ごちそうさまでした」立ったまま手を合わせた。



 和葉は普段夢をみない。眠ったらそこにはただの闇があるだけ。
 昔、夢をみないことを怖いと思ったことがあった。みんなが夢の話をするのを見て、ただわらって聞いているしかない自分を少し情けなく思ったこともあった。
 だけどときどき、思う。
 自分が夢をみないのは、幽霊がみえるからではないだろうか―――。
 人にはみえないものがみえる。だから和葉には、人がみるものがみえない。
 そんなことを結末にして、自分を納得させた。
 自分には幽霊がみえる。それを受け入れて、みえるからこそ、出来ることがあるのではないかと、思って。
 朝、早く来すぎてしまった学校で、ほてほて教室に向かいながら考える。どうして自分だけ―――それは決して悲観したものではなく、与えられた力として、どう生かすことが出来るだろうかという、試行錯誤。
 みえる、だから、どうすればいい?
 若葉の背後にいる”それ”を、どうしたら。
 背後に”それ”を背負った若葉を、どうしたら。
 和葉には何が出来る?
 自分には、何が出来る?
 引き戸を開けて、しろいひかりに影を伸ばす教室に入る。毎日が夏に近づいていく時期、陽射しは日々近づいてくる。  前から3番目の席に歩いていく途中、本が置いてあるのに気が付いた。イチバン前の、若葉の席。それは、以前「その本、面白いですか?」和葉が訊ねた本で。
 無造作におかれたそれは、彼女が昨日忘れていったのだろうか。それとも―――。
 鞄を持っていないほうの手で、本を取る。掌に触れる本は、生温い湿気を纏っていて。鞄を床に置いて、表紙を撫でる。ハードカバーが、手に馴染まない。
 指で、そっとページをくる。乱暴に扱うと、すぐに壊れてしまいそうな気がして。本はそんなに簡単に壊れないことくらい、和葉だって知っているのに。
 本は、目次から判断して短編集のようで。並んだタイトルの明朝体が、恋愛小説であることを語っていた。
 一枚一枚、ページをめくっていくと、しおりが現れた。四葉のクローバーがラミネートされた。以前、これを見て珍しいですね、そう言った和葉に、彼女は刹那、表情を曇らせた。あの表情の意味は、何だったのだろうか。今でも彼女はこのしおりを見るたびに、あんなふうに表情を曇らせるのだろうか。
 幸福の象徴とされる、四葉のクローバー。
 あんな表情をするのに、どうして彼女はこのしおりを使っているのだろうか――使い続けているのだろうか。
 知りたい。
 それは本当に、ただの、個人的な思いで。エゴで。
 しおりを裏返すと、流暢な筆記体で”H”と書かれていた。おそらく上から油性ペンで書いたのだろう、文字はところどころ擦れている。
 “H”
 彼女の名前は、要若葉。どこにもHなど入らない。ということは、このHは彼女を示すものではない。

―――要、中学のとき、堕ろしたんだって

 堕胎の事実。もしかしたら、このHはその、相手の男を示すものではないだろうか。Hが苗字なのか名前なのかも、和葉にはわからなかったけれど。
「だとしたら、」
 呟いて。物音に、ふと、振り返る。
 若葉が立っていた。髪を下ろした彼女の毛先は少しだけ遊んでいる。
 物言わぬ彼女は、息苦しそうな表情で。和葉をみていた。
「あ――おはよう、ございます」
 ぎこちないと、自分でもわらえてくるほど、情けない声音。
「早いんですね、」
 そんな挨拶よりもまず、勝手に私物をみたことを、詫びるべきではないのか。思っても、なんと言ったらいいのかわからなくて。
 和葉がことばを探している間に、若葉は教壇に上がって、黄色いチョークでヒトコト、書いた。
『英くんも、はやいね』
 斜め後ろから、若葉の表情は見えない。いつもどおりの文字は、字面どおりの意味しか教えてくれない。
「ぇ、と。僕…」
 かつ、音がして。若葉が一文字ずつ、ゆっくりと書いていく。
『私、すきな人がいた。』
 そこまで書いて、いったん消す。黄色い文字は黄色い靄だけを残して、消えた。
『だけど、すきになったら、いけなかった』
 消して。『それは、その人がくれた。』
 文字に、和葉は自分の手の中のしおりをみた。Hの文字が、消えかかっていても消えずに、そこにある。
 幸福を象徴する四葉のクローバー。あなたに倖せが訪れますように―――。
『私は、その人からしあわせをもらって、でも』
 指を止める。何度か書こうとして、でも何度も躊躇って。
『ころしちゃった』
 茶化すように。書き殴って。俯いた若葉の表情は、髪で完全に見えなくなった。そのまま倒れこむように、ごつ、黒板に額をぶつける。
「……、」
 何度も。
「やめて、」
 何度も。何度も。
「やめてくださいっ」
 声を張り上げて、でも、彼女のもとに駆け寄ることは出来なくて。しおりだけを握り締めて。ずるずる、若葉はへたりこむ。
「会いに、行けないんですか?」
 肩を震わせる彼女は、泣いているのだろうか。
 いつもいつも、わらっていた彼女が。
 泣いているのだろうか。
 その創は、もしかしたら出来たそのときから、ずっと開きっぱなしで。今でもずっと絶えず血を流して。痛みにうずかせて。
 あの笑顔で隠されたココロを、誰にも気づかせずに。
「会いに、行けばいいじゃないですか。その人に、その人なら―――」
 和葉のことばを遮って、若葉は頭が千切れて飛んでいきそうなほど、首を振った。不可能だと、叫んでいるようで。
「もう、会えないん、ですか?」
 顔を上げて、一度だけ洟をすすると、若葉は頷いた。
 確かに。
 はっきり。
 首肯した。
 もう会えない。会ってはいけない。会いたくない。会いたい。
 ひとりの力ではどうしようもない不可能が、世の中にはそれこそ腐るほど転がっていて。ひとりでは相対せない力を前にして、泣き寝入りをするしか、選択肢は用意されていない。
 気持ちだけで不可能が可能になるなんて。
 想いが力になるなんて。
 そんなのはファンタジーで。
 そんなのは奇跡にすがる幻想のようで。
 会えない、そういう彼女にとって。その想いは、あれば空が飛べるほどに強く。同時にただの幻でしかなく。
 握り締めた四葉のクローバーのしおり。消えかかったHの文字。中学時代のこと。すきなひと。すきになってはいけないひと。教師と生徒という、恋愛という関係になるには、倫理に触れる立場。
 堕胎という名の人殺し。
 若葉の背後では、慰めるように、”それ”がふわふわ、漂っていて。包み込むように、彼女に覆いかぶさる。
 やさしく。
 慰める。
 若葉は、その存在には気づかずに。
 癒えない創を抱えて。癒えるチャンスすら、きっと見逃してしまっている。
 一生創を抱えていくなんて。そんなのは残酷すぎる。敗者復活ということばがあるように、たとえどんなに創ついても、創を癒すことくらい、当然の権利で。
 若葉のために、和葉が出来ること。
 彼女のために、僕が出来ること。
 あなたのために、僕がしたいこと。





   B


 忘れたい。忘れられない。忘れるべき。
―――忘れたくない。
 繰り返すコトノハ。どれだけ繰り返せば、ことばは現実へと昇華するのだろうか。
 ことばに力があるのならば。
 コトノハということばが存在するというのなら。
 どうか、教えてください。
 しおりの裏、Hの文字。あのひとの名前。今となっては、唯一手元に残るあのひとの残り香。
 それは嫌でも記憶を刺激して。呼び覚まして。
 倖せを思い出させる。そんなものはもう何処にもないという結末と一緒に。
 忘れられたら、楽になれるような気がして。
 でも忘れてしまった私はどうなるんだろうと、考えると薄ら寒くなる。
 ひとの前で、感情をあらわにして。それは久しく忘れていた行為。
 彼は、何を思っただろうか。
 私を軽蔑しただろうか。本当に、ココロから善人であろう彼すら。
 人を殺した私を。
 たとえ、その”人”に意識がなくても意思がなくても。
 行為は同じ。意味は同じ。
 本当に護るべきだったのなら。
 すべてを放棄してでも。たとえあのひとと自ら決別したとして。貫き通すべきだったのに。
 すべてはもう、過去の産物。
 過去に繋がる今を、変える勇気すら、私は持ち合わせていない。


     *


 夏を秒読みで待つ河原は、むっとする草いきれ。
 梅雨を目前にした6月の初旬。模試を前にした金曜日、1年生は午前中で下校となった。家庭学習、そんな名目で。一体何人が建前どおりに”家庭学習”をするのかは甚だ疑わしいが。
 和葉は学校から、まっすぐ川原にやってきた。川筋に入ると同時に人通りは極端に減って、呼気にすら汚れていない空気が川から這い上がってくる。
 鞄を土手から川原に投げる。鞄はくるくる回りながら大きく弧を描いて。投げすぎたかとひやりとしたとき、鞄は音をたてて岸から10数センチ手前に落下した。
 そのまま、川原に駆け下りる。膝丈に伸びた草は、濃厚な青いにおいを和葉の学生服にこすり付けていく。最後の数メートルをジャンプしたら、着地に失敗して、地面に肩からめり込んだ。
「いたた…」
 ずれた眼鏡を直して、起き上がろうとした和葉は、目の前の川を見た。きらきら、数えきれないひかりのカケラを抱えた川。無数のいのちを抱く流れ。やがて海にたどり着く。
 和葉も若葉も。
 若葉の後ろにいる”それ”も。
 すべて水からやってきて。出発点は同じ。なのに、抱く気持ちも感情も思想も、過ごす時間も、何もかもがそれぞれ別に独立していて。
 だけど、振り返ればすべてはゼロになっている。不倖せと倖せは、清算すればちょうどよくゼロに。若葉が堕胎をして創ついたのなら、これからもっと倖せになれる。堕ろされた子供は不幸でしかなかったかもしれないが、見方を変えれば、死んでもなお悼まれて。忘れられないでそこにいる。
 負けっぱなしの人生なんか存在しない。
 勝ち続ける人生が存在し得ないように。
 勢いをつけて起き上がって、両手で頬を挟むように叩いた。
 倖せを探すのだ。
 若葉の創が、少しでも癒えることを願って。
 彼女に、少しでも、倖せが訪れることを祈って。
 和葉にはまだ、結論は出ていなかった。でも、考えている時間すら惜しかった。
 やるべきことは。
 出来ることは。
 したいことは。



「何をしているんだねキミは」
 顔を上げると、学校帰りなのか、制服姿で自転車を押した彩花が、土手から和葉を見下ろしていた。
「手、泥だらけじゃない」
 言われて、和葉は手を見た。そこではじめてどろどろになっていることに気づく。
「気づきませんでした」
 手を見ながらため息をつくようにいうと、彩花は言った。「そうじゃないかと思ったわ」
 背中を伸ばすと、鈍く重い痛みが腰から首にかけてゆっくり流れた。何時間腰をかがめたままこうしていただろうか。時計を見ないと、想像すら出来ない。
「何してんの?」「探し物です」「探し物? あんたそんなところで何失くしたのよ、」「なくしたわけじゃありません」
 なくしたのなら、どれだけ希望が持てるだろうか。
 此処には、もしかしたら四葉のクローバーなんてないかもしれない。否、その可能性のほうが明らかに高い。
 だけど、何もしないなんて出来ない。
 たとえば探し出せたとして、見つけたとして、それが彼女の創を癒すに値するものなのか否かさえ、和葉にはわからない。確証も確信もない。
 ただ、そこに少しでも可能性があるのなら。
 和葉は見逃すことなんか出来ない。見過ごすことなんか出来ない。
「そんなに大事なものなの?」
 いつの間にか自転車をとめて、座り込んで頬杖をつく彩花の問いに、和葉は再び地面を這いずるように腰をかがめて。
「大事です。すごくすごく、大事なものです」
 彩花は何か返答したのかもしれない。でも、和葉には聞こえなかった。探る地面は、黒く湿り気が濃く。気づけば膝をついていた学生服のズボンにも、生地の黒とは違う水と土の染み。
 何がイチバンいいのか。
 何がイチバン善しとされるのか。
 若葉が何も語れない今、そんなのはわからない。和葉には憶測しか出来なくて、憶測が真実と同等に並ぶことなんてことは稀のなかの稀、それこそ奇跡でしかない。
 今の和葉の行動は、あくまでも和葉の個人的な判断と見解によるものでしかない。それでも、マイナスには働かないだろうと。
 打算がないわけではない。
 良かれと思ったことが、なんてよく聞くことで。
 四葉のクローバーのしおり。
 若葉があれを見るたびに、どんな表情をしているのか。ひょっとしたら、昨日のような苦しそうな表情をしているのかもしれない。
 四葉のクローバー。
 倖せの象徴。
 なのに、それは彼女にとっては既に倖せの残り香でしかなく。今はただの創を開くだけの凶器。
 四葉のクローバー。
 倖せの象徴。
 彼女に倖せを。癒しを。
 あんな表情をするために、人間は生きているわけじゃない。
 あんな表情をするために、若葉のこれからの人生があるわけじゃない。
「何で、そんなに必死なの?」
 正面から陽射しを受けた彩花が、さっきと同じように。問うた。
「姉さんにはわかりません」「何よ、失礼ね」少し傷ついたわ、そう言いたそうに。「僕には、みえるから」「……」
 何が、とは訊かれなかった。訊くまでもないのか。「みえるから、だから見過ごせないんです」手の甲で額をぬぐう。汗で眼鏡の鼻当てがずれるのを、これも手の甲でずり上げる。
「みえるから、」
 すきでみえるわけじゃない。
 みて、それによって和葉に何の害があったわけではない。和葉と同じような少年を主人公にした映画のように、怖い思いをしたこともないし、その存在たちに怯えたこともない。そこにいるだけ。人間の数が少し多いだけ。その程度の存在でしかなく。
 だけど、みえているから。
 それによって出来ることがあるのなら。
 誰かに、何かを出来るのなら。
 したい。
 そう思うだけ。
 遠くで、18時を告げる音楽が流れた。へたりこむように座ると、空がずいぶんと赤くなっていることに気づいた。東の空には、既に夜の気配。振り返ると、姉はもういなくなっていた。来るときも帰るときもいつの間にか。
 既に6時間近く、こうして探して。緑に覆われた川原の、おそらく半分ほどは、くまなく見ただろう。
 だけど、いまだに和葉の手に探し物はない。
 諦める―――一瞬だけ思って、すぐに頭のなかから追い出した。
 何を諦めるというのか。和葉がひとりではじめたことを和葉がひとりで辞めたら、それは初めから何の意味もないことになってしまう。
 何もなかったことになってしまう。
 ひとつ、深く息をして。
 閉じて、開いた視線の先には。ぽつり、星が放ったひかりが、遠く離れた町のそらに輝いていた。



 対岸に見える家に、競うように灯りがついていく。外灯すら極端にすくない川原に、光源といえるものは、対岸の家の灯りとやわらかい月灯りだけ。
 なんとか灯りを透かして腕時計を見ると、21時を回っていた。
 まだ、見つからない。
 空腹はとっくに通り過ぎて。汗は夜風にひいて。掌と膝だけに、冷たさが残る。
 感覚を確かめるように、手を握って開いて。指先は薄闇でもわかるほど土に汚れていて。地面に掌をつけると、残りの体温さえも吸い込まれるように消えていく。
 この行為に、意味はあるのだろうか?
 ふいに疑問がわきあがる。
 この行為がイコール若葉のためになるのかといえば、そんなことはわからない。もしかしたら彼女は、和葉のこの行為をうざったいと思うかもしれない。なんて余計なことを、そう思うかもしれない。
 思うかも、しれない。
 可能性。
 でも、そんなのははじめから同じ。
 癒しになるかもしれない。なればいい。同じ、可能性の話。
 同じ可能性でしかないのなら。はじめたのが可能性の上でしかないのなら、やめるのも可能性の上でしかない。
「やめる」
 呟く。冷たい地面が、そうしろよ、陳腐な台詞を投げかけてくるようで。
「やめる、」
 握り締める地面。土が砂が、爪の中に入り込んで。歪めた眸を、閉じようと。
「大事なものなんでしょ?」
 背後の声に、閉じかけた目を、開いた。
「休憩してる暇、あるの?」
 肩越しに振り返ると、彩花が、弁当包みと懐中電灯をもって立っていた。何処を照らしているのかわからないあかりが、揺らめいてやがて和葉の顔を照らした。まぶしくて、ひかりを遮ろうと手をかざす。
 汚れた手。
 土のにおいはまるで染み付いてしまったよう。
 ひかりの隙間に、彩花のにやり、わらった顔が。

―――大事なものなんでしょ?

 大事なもの。
 和葉が思いつくなかで、善しと思ったもの。
 善いと思ったもの。
 迷うことなんてない。
 何が正しいかなんてわからない。
 何が最善かなんてわからない。
 ならばせめて。
 自分が善しと思ったものを。
 たとえ、それが”最”善でなくとも。
 最善でなくとも。
 思いつくなかの最大の善ならば。
 迷うことなんて、ない。
「はい。」
 彩花は懐中電灯の明かりをまき散らかしながら、土手を降りて。立ち上がった弟に、弁当包みとは別に持っていたビニル袋から濡れタオルを出して。投げた。
「頑張りすぎよ、ばか」
 ばか、そう言われたのに、ココロに染み渡るのは、どうしようもない温かさとやさしさ。





     C


 ひととは違う自分を、嫌だと思ったことはない。
 ただ、足りない自分を、情けないと、思ったことはあった。
 ひととは違う自分を、受け入れるには、少しだけ時間が必要だった。
 僕の周りには、確かな愛情と温かさがあった。僕を、そのまま丸ごと許容してくれる環境が。
 彼女にはそれがあっただろうか。
 創さえも全部抱えてくれる環境が。人間が。いただろうか。
 これは僕の空想でしかない。
 でも、彼女には、そういうものがまるごとなかったんじゃないかって思うんだ。
 出来れば僕が、そんな人間になれたら、いいと思うから。
 彼女が僕にココロを開いてくれるかどうかはわからないし、彼女が語らないことを僕が代弁することなんて出来ない。
 でも。
 それでも。
 少しでも、近くに存在していたい。
 寄り添えなくても、手を伸ばせば届く位置に。
 場所に。


     *


 模試開始のチャイムが鳴って、しかし空席が、ひとつ。
 若葉が気持ち振り返ると、後ろの席の永村と目があった。気まずくて、逃げるように視線を逸らす。
 若葉の机の中には、今もあの本と、しおりが入っている。和葉の握力で、白い折り目の入ったしおり。消えかかったHの文字。
 呼び起こされる記憶。破瓜の痛みと、堕胎の痛み。
 胎内から掻きだされたそれは、人と呼ぶには未熟すぎて。
 流れ出た血液ですら、目に痛く。
 ごめんねと、言っても足りなくて。
 悼んでも、足りなくて。
 うなされても、足りなくて。
 抱えていくしかない。悼み。痛み。
 教師が英語の問題を配っていく。最前列の若葉の席にも、問題冊子が束になって置かれた。
 問題。模試。学生らしい毎日。
 当たり前に、15歳が過ごすべき毎日。
 でも本当は、こんな毎日なんて、要らなかった。
 あのひとさえいてくれれば。あのひととの子供さえいてくれれば。
 当たり前の生活なんて。当たり前の人生なんて。
 要らなかった。
 なのに、そのどちらも、今の若葉は持っていなくて。
 残り香が、しおりというカタチで残るのみ。
 そのしおりを、他人に触られたのは、和葉がはじめてで。今まで、両親や兄弟にさえ、見せることも触らせたこともなかったのに。
 ひとに触られることによって、自分で眺めるのとは違う感覚があった。誰かの手のなかにあるしおりは、残酷なまでにはっきり、あっさり、出来事を過去だと、若葉に言い放つ。
 あんな、情けない若葉をみて、和葉はどう思っただろうか。
 自分の、蔑まれるべき過去を知って。どう思っただろうか。軽蔑しないといったけれど。でも、本心はどうなのだろうか。
 堕ろすのは若葉のためだと言った父親と同じではないだろうか。若葉が何よりも大事だからと、もっともらしいことを言って、子供を殺した父親と和葉は、どう違うだろう。
「―――では、はじめ」
 教師が宣言して、教室内に、ばらばら、紙をめくる音がざわめいて。でも、ひとつの空席が埋まることはなかった。



 夕方までの模試を終えると、掃除当番でもなかった若葉は、すぐに教室を出た。入学して2ヶ月と少し。うわさは広がり事実は知れ渡り。
 学校は徐々に若葉にとって居心地の悪い場所になっていった。
 かといって、家に帰れば家族が待っている。
 登校と下校の道だけが、若葉が安心できる時間で。だから、朝は早く学校に来てしまうし、帰りはいろいろ寄り道をしながら、倍近い時間をかけて帰る。
 夏に近づく帰り道は、空が近い。もう少ししたらくるだろう梅雨のころには、きっとベタ塗りの青空と、重く颯爽とした灰銀の雲が忙しく出入りを繰り返すのだろう。
 ふたつに結った髪の毛先が、緩やかかな風に踊る。あのひとが、綺麗だといつも褒めてくれた、地毛だけど少しだけ明るい色をした髪。
 はじめて、あいしたひと。
 なによりも、ほしいとおもったひと。
 だけど、かなえられなかった、ひと。
 住宅街をでたらめに突っ切って、川辺に出る。
 市内をいくつもの川が縦横無尽に走るこの町は、水の都、なんて彫られた石の碑がぽつりぽつり、橋のたもとに佇んで観光客にアピールしている。
 石の階段をひとつ飛ばしに、川の土手を登る。
 一気に広がる視界が、自分を小さな存在だと教える。それを知ったところで、落ち込むわけでもなく。ただ、小さな存在である自分の悩みなど、小さなものだと、少しばかりの救いを感じる。
 眼下には、整備された河川敷が10数メートル続いて、それから、まだ手付かずの土地が、ひとつ向こうの橋までずっと続いている。
 鞄を持った手をそのまま頭上に上げて、伸びをする。張った筋や筋肉が、あるべき場所にバランスよく戻っていく感覚。
 学校からも家からも遠い場所。
 若葉が、ただのひとりの、なんでもない人間に戻る時間。なんの悩みも、痛みも苦しみも、感じなくて済む時間。
 一度だけ、あのひとと来たことがある。河川敷。此処ではないけれど、整備されていなかったあの場所と、此処は良く似ている。
 人通りが極端に少ない道。時々、思い出したように自転車や犬の散歩をするひとがいるだけで。
「ったあああああっ」
 突然聞こえた、咆哮とも言える声に。びくり、背筋が伸びる。前方から聞こえてきたはずなのに、思わず360度、見回してしまう。
 反射的に胸に当てた手で、心臓を宥めるように撫でる。
 改めて、声がした前方を見る。整備されていないほうの、伸びっぱなしの草の緑のなかに、学生服の男の子がいた。万歳のポーズで、幼い子供のように飛び跳ねている。
 男の子は一通り跳ね回ると、土手のほうを見て、さらに何か叫んでいた。見ると、そこには自転車が草の上に横倒しに止めてあって、男の子を眺める長い髪の女の人が居た。髪で、彼女がどんな表情をしているかはわからない。
 男の子のほうは、興奮冷めやらぬといった感じで。
 立ち止まって、半ばあっけに取られてその光景を見ていると、女の人のほうと目が合った。彼女は髪を耳にかけると、にっこりわらった。仕草は自然で、とても大人びていて、なのに少女と女性の中間にあるような、笑顔。
 女の人は男の子にのほうをみると、若葉のほうを指差した。男の子がぐるりと、指の延長線上にいる若葉を見る。
 そこではじめて、男の子がクラスメイトである英和葉だと気づいた。すると、あの女の人は彼の恋人だろうか。
「こんにちは!」
 両手を胸の前で組み合わせて和葉が叫んだ。何かを持っているのか、両手は緩やかな楕円を描いている。
 若葉はただ、会釈を返すしかなくて。どうして今日来なかったのか、そこで何をしているのか、訊きたいけれど、若葉は訊く声を持っていなくて。
 今ほど話せなくなったことを疎ましく思ったことはなくて。
 口を開いても、言いたいことがあっても。
 何処かに忘れてきてしまった声は、出てこない。
 和葉は女の人のほうをみて、髪からかすかに覗く表情で、彼女はわらっていることがわかった。
 やがて、和葉も笑顔になって。両手を組んだまま、若葉のほうに走ってきて。足場の不安定な斜面を、何度も転げそうになりながら。
 若葉の目の前まで、走ってきて。
 息を弾ませた和葉は、その顔全体に零れ落ちそうなほど、笑みを広げて。
「要さんっ」
 はじめて、入学式で出会ったときのような。何の含みも裏もない、笑顔で。掛け値なしの、善意だけが含まれた笑顔で。
 父親と同じじゃないのか。
 そう思った自分を、愚かだと蹴り飛ばしてしまえそうなほど。
 ごめんなさい、言いたくて。変に疑ってごめんなさい、言えなくて。
 こみ上げてくる感情に、表情が歪んでいって。
「要さん、」
 10センチほど高い和葉を見上げて、少しだけローアングル表情。幼いようで。何処か、ちゃんとした強さを持っている。
 若葉と同じ。普通とは少し違った場所に立っている彼。
 創ではなくても、和葉のほうが、ずっと、若葉よりつらい思いをしてきたかもしれないのに。
「これ」
 組んだ両手を差し出して。和葉が何をしたいのか、わからない若葉は、ただ和葉の手と顔と、視線を行き来させること
しか出来なくて。
 合った視線で、和葉はわらう。陽射しに雪が融けていくように。ゆっくりやわらかく。
 やがてゆっくり、指を開いて。
「―――、」
 ほろり、紅茶のなかで崩れる角砂糖のように。
 若葉のなかの何かが。
 音もなく、痛みもなく。
 融けていく。感覚でも感情でもなく。
 わからないけれど今まで塞き止めていた何かが。
 融けていく。
「これ、あの、本当は明日とか…あ、明日は休みだから、月曜日にでも、ちゃんと綺麗にして渡そうと思ったんですけど、」
 首を振る。ゆるゆる。いいの――いいよ。
「あの、昔何があったとか、そういうのじゃなくて――これから、今生きている時間とこれからの時間とが、要さんにとって、倖せであればいいって思って、」
 若葉の白い指が、和葉の汚れた掌から、それをつまみとっていく。
 ふわふわ、広がる温かさ。
 決別出来ない過去。しなくてもいい。これから。これから―――。
 ごめんね、言いたいことば。でもそれよりも、今は。
 今、いいたいことは、
 ことばは―――、
 喉に広がるやわらかい空気。震えようと揺れる膜。
 指に確かに感じる植物のひやりとした冷たさ。土のにおいと草の青いにおい。
「かなめさん…?」
 心配そうに声をかけてくれるクラスメイト。大事な、大切なクラスメイト。
 今とこれからの時間を。
 倖せに。
 夕闇が落ちた土手。
 通り過ぎるものはなく。
 斜面に座った女の人は、こちらを穏やかな表情で見ている。
 夜が来て。それからまた、朝が来て。
 倖せが通り過ぎたとしても、また、朝のように倖せもやってくる。
 それを、教えてくれて。
 ありがとう。
 壊さないように、潰さないように。掌に収まる大きさの、緑色。
 四葉のクローバー。
 倖せの象徴。
 顔を上げて。
 声を出して。
「ありがとう」


(2004/09某日 20205文字)