指輪
「首、吊ろうかな」
「そうね。その前に保険かけないと。1億くらいは欲しいわね」
悪びれもなく言い放つ妻に、冷たい視線を投げかけたが、無視と言うシールドで防御された。
手に持った明細には、細々とした数字が並んでいる。
テーブルの上には、借金の督促状が……ざっと3通ほど。あー中途半端だなあ、こうなるんだったらきっちり5つくらいは………なんて言ったら、痛い視線の餌食になってしまうので、考えるだけ。
しかも此処で問題なのは、これらすべて、俺が借りた金ではないということだ。
保証人、て、やつ。借りた張本人は見事に3人とも夜逃げしやがった。
「おしまい…だなあ、」
「そうねぇ」
「冷静だな、お前」
「所詮は他人だものねぇ」
「そうだなあ、まあ、夫婦なんてそんなもんだな」
「子供も居ないし。淋しい関係よね」
「そんなこと、言うなよぅ」
俺たちに子供は居ない。妻に問題はない。問題があるのは俺なのだ。
本来ならば顕微鏡のレンズの向こうでわんさとうごめいているはずのものが、ちょろちょろとしか、ないらしい。子供が出来ないと言われたときの妻の落ち込みようは見ていて心が痛んだ。
宣告をした医師はてかてかのオールバックで、デスクには小さい女の子と男の子の、わらった写真が置いてあった。絞め殺したくなったが、種無しの上に犯罪者では目も当てられないので我慢した。
「まあ、あたしもまだ34だし。やり直し、効くわよね」
「やりなおし…なあ、」
「というわけで、これ、ヨロシク」
そういって、妻は何の前触れもなく、ひらひらの紙をテーブルの上に置いた。
「………」
すすっと、地味な音を立てて血の気が引いた。
「奥さま…?」
「見てわからない? リ・コ・ン・ト・ド・ケ」
「リコントドケ。……離婚よ、届け! 海の向こうに!」
「あたしのところはもう判までちゃんと押してあるから」とっさのギャグはあっけなく一蹴された。「後あなたのところも埋めてあるから。判だけ押して」
「……今すぐ?」
「上目遣いなんてしないでよ気色悪い。今すぐよ。今すぐ。今すぐ書いて。今すぐあたしが出してくるんだから」
ひらひら手を振られる。
「…考え直しませんか?」
「考え直さないわよ。もうウンザリなの」
ああ、結婚11年目にして、愛ってこんなにも早く尽きるものなのか。
35歳の冬。
妻に離婚を言い渡される。
………。
ああ、わらえないなー…。
目の前には、督促状と、結婚指輪だけ。
安物だが、内側には妻と俺のイニシャルが、それぞれ彫られている。”I”という文字が、ひどく情けなく見えた。妻のイニシャル入りの指輪は、まだ俺の左手薬指にあるのに。
妻は(ああ、今頃は”元”妻になるのか…)俺がしぶしぶ判を押した離婚届といつ纏めていたのか大きなボストンバックを持って、家を出て行った。
2LDKの我が家には、俺、ひとり。漢字で書くと、「俺、独り」。漢字って時に残酷だ。
財布の中には漱石がひとりだけ、ぽつんと入っていた。おまえもひとりだな。使ってやろう、最後の晩餐だ。いや、最期の晩餐、かな。
はは、わらえないなー。
オレンジの看板で有名な牛丼屋の入り口には、堂々とした看板が立てられていた。
≪カレー丼 400円≫
此処は牛丼屋じゃなかっただろうか。首をかしげて店内を覗くと、一応メニューには牛丼の文字があった。しかし、特盛のところは”扱っていません”のシールが張られている。扱ってませんて。オイオイ牛丼屋の代名詞とも言われたこの店で。
海の向こうのアメリカで、狂牛病が出たとか。大変だなあ。しかしだからといって神経質になりすぎじゃないのかなあ。たかが1頭2頭おかしくなったくらいで、輸入停止状態ですか? オイオイ。じゃあなんでエイズが発見されたときに海外旅行禁止にしなかったんだ。
とまあ、そういう、ハナシになるわけですよ。
そんなわけで、狂牛病? ははん、おそるるに足らないねBSE。牛海綿何とかこと、狂牛病。アルファベットの略称とか長ったらしい漢字とか、高尚そうで難しそうな名前を冠しているからって、全然怖かないね。
俺は堂々と店内に入り、アルバイトらしい若い女性店員に「牛丼並盛ふたつ卵と味噌汁つき!」
宣言した。彼女は明らかに引いていたが、そんなことは気にしない。些細なことだ。
狂牛病だってなあ、かかってこいだよ。いっそのこと発症してえよ。廃人になりたいね!
指でテーブルにリズムを刻みながら待つこと数分。いや、そんなに経ってないか。牛丼はあっさり出てきた。並盛ふたつ。持ってきたのはさっきとは違う店員で、俺ひとりに並盛ふたつ? あれ? みたいな顔をしていたが、俺は敢えて誇らしげな表情で両手にどんぶりを受け取った。
ひとつを横によけて、掌を合わせたところで、ハタと。隣の兄ちゃんに気がついた。金髪の彼は、湯飲みをすすりながら、新香なんてつまんでいる。その視線――カラーコンタクトでも入れているのか髪と同じ金色の目をしている――はちらっちらっと俺を、いや、俺の向こうに鎮座まします牛丼並盛を凝視していた。
いや、関係ない。関係ない。
牛丼を一口、――と。
隣の兄ちゃんも口を開けて。
ぱくり、
隣の兄ちゃんも口を閉じた。
もしゃもしゃ、
咀嚼する真似、うまいね…。
ではないと、思う。この場合。
明らかに不審者じゃない? この兄ちゃん。何で店員はまったく注意しないって言うか見向きもしないわけ?
ドッキリカメラか何かの類だろうか。
妻に離婚を言い渡されたのも隣の兄ちゃんがちょっとおかしいのも、全部ドッキリ☆とか。
まあ、あるわけないわな。
こんなしょぼい中年をドッキリ☆して何が愉しいって言うんだ。何も愉しくねえよ。俺はちょっとわらうけど、視聴者はこんなものを求めてるんじゃないね。きっと。
どんぶり半分食べたところで、箸を置いて、兄ちゃんに味噌汁を差し出した。まだ箸はをつけていない。
「おおきに〜」
兄ちゃんはにっこりわらうと、何の遠慮もなく味噌汁を飲み干した。猫舌の俺には信じられない芸当だ。オイオイ口のなか大丈夫かよ兄ちゃん。
「っはー」
仕事後の1杯を飲んだサラリーマンのようなため息をつくと、兄ちゃんはもう1度、「おおきに〜」と言った。
「は、はあ…」
「おニイさんえらい親切でんなあ〜ボク感激やわ〜」
言いながら、視線はまっすぐ俺の向こうのどんぶりに注がれている。力いっぱい注がれている。
「え、えーっと…」
「いや〜でもなんていうんやろーなー。めっちゃ腹減ったときにちょこっと食べたら余計に腹減ってまうっちゅう、やつ?」
「ハハ…そうか、なるほどね。うん、うん…そうか、」
「な〜。ホンマ、おニイさんめっちゃ親切やんなあ。ボクもう3日間ロクなもん食うてないんよ…」
ふぅ、なんて。弱々しげなタメ息つきやがって。
「…うん…よろしければ、どうぞ」
弱っ。俺弱っ。
たかられてるよ! どんなに頑張っても高校1年くらいにしか見えないの兄ちゃんにたかられてる!!
「ホンマ? うわあ〜ありがたいわ〜。なんや悪いなあたかったみたいで」
いや、事実たかってるんですよ兄ちゃん。最期の晩餐、最期まで俺こんなんかあ…。
「ハア〜。満足〜。きゅるる〜ん」
…一瞬じゃないかと、思う。
兄ちゃんは既にどんぶりを空にしていた。早い…早すぎる。コバヤシタケルも腰を抜かす早さですよ。テレビチャンピオン出られますよ。
「ほな、おおきに。ごっそさ〜ん♪」
「………」
兄ちゃんはあっさり席を立って、あっさり店を出た。
「………ハア、」
嵐が過ぎ去った。俺は最後にとっておいた薄っぺらい牛肉を口に運ぶと、卵を食べ忘れていたことに気づいた。
最後までこんなんなのか、俺。
「ありがとうございました〜」
ろくすっぽこっちを見もしないで機械的に、――まあ、マニュアル通りなんだろうなあ――声をかけられながら店を出た。
店を一歩出たとたん、身震いがした。背骨が寒い。うわー風邪でもひくんですか。踏んだりけったりですか神サマ。うち浄土真宗だから親鸞サマ? あれ、日蓮だっけ? まあ、いっか。どうせ法要のときにしか関係のない名前だ。南無南無。
「おニイさんいらっしゃ〜い」
びっくりして今出てきた硝子扉にぶつかってしまった。店員が不審そうな目でこちらを見たが、にこやかにスルーした。
普通に立ち去るように、店内から死角の場所に立つと、ぐるりと振り返った。
「まだ何か?」
「なんや棘棘しぃ言い方やなあ」
ジャンパーの前ポケットに両の手を突っ込んだ兄ちゃんは、唇を尖らせながら言う。いや、仕草そのものはかわいいものかもしれない――女子高生にやられたらおじさんメロメロかもしれない――が、兄ちゃん、それは外見もかわいくないと効力も何もないんだよ。
「なあ、おニイさん、今相当ヤバ〜イ状況ちゃうん?」
段差に座り込んでいる兄ちゃんと同じ視線になるようにしゃがみ込んで、出来るだけ平気そうな顔で言う。
「んなこたーない」
「うわあ、全然似てへんよ! コージー冨田のほうが億倍うまいわ!」
「プロとド素人を比べんな」
「な、で? どうなん。図星やろ? な? な?」
「…。だったら、どうするって?」
「ボクが助けたるよ」
にっこり、満面の笑みで兄ちゃんは言いました。……ハハ、聞いたかいジョニー。こんなせいぜい高校生くらいにしか見えない少年に助けるとか言われちゃいましたよ! ワタクシ今年で36になるんですけど! なるんですけど!!
「な、どう? 悪い話やないと思うんやけど?」
「信憑性ゼロ。それに、俺は自分のことは自分で何とかするからお構いなく」
「でー、牛丼が最後の晩餐? しみったれた人生やったんやねぇ」
「……」
「いややなあ、そんな怖い顔するもんやないって。小声やったけど、声、出てたで?」
「…マジ?」
「もぉちょお注意払わんとあかんよ〜」
カラカラわらう。確かに。元妻にも散々言われた。思ったことがすぐ声に出るたちなのだ。俺は。
「…話くらいなら、聞こう」
「ホンマ? せやったらおニイさんち行こう! 此処寒いやん? ボク寒いのめっちゃ苦手やねん」
兄ちゃんは誠司と名乗った。苗字は言わなかったし、俺も敢えて聞かなかった。
「新撰組の”誠”に〜沖田総司の”司”て書くねん。で、おニイさんは? 名前なんていうの?」
「尾崎」
適当にこたえた。まだ全然信用したわけではないのだ。
「へえ、尾崎さん言うの。15の夜やね」
「…旧いの知ってんだな」
こぶ茶の入った湯のみを出すと、牛丼のときと同じ笑顔で「おおきに〜」と言った。
「で。俺を助けるって?」
「ありゃ、まんま本題に入るん?」
「そりゃあな、茶出すために家に上げたんじゃないぞ」
「はあ…まあ、それもそうやね」昆布茶を一口すすって、息をつくと、誠司はぐいっと身を乗り出した。
「失踪! これや」
「失踪。」
現実味。ゼロ。むしろマイナス。
「失踪ねえ、めんどくさそう」
「尾崎さんあかん! そんな消極的かつめんどくさがりじゃあかんよ! ホンマにさっきの牛丼最後の晩餐にする気?」
「…いや、まあ…で?」
「失踪ちゅうても、ながーい期間潜伏しとかんとあかんやろ。さっきちらー見たけど、ぎょーさん借金しとるみたいやし。少なくとも数年はみとかんと」
「はあ、」
さっき、て。通り過ぎただけなのによく見えたな。
「でもな、何年も失踪しよ思たら、資金だって莫迦にならんねん。むしろいくらあっても足りんやろーな」
「金はないぞ」
「んなの言われるまでもないわ。見たらわかるがな。この家ひっくり返したって小銭の音すらせえへんて」
「そこまで言われるとさすがにちょっと凹むな…」
「まあまあ。それに、何年も失踪したまんまでいよう思うと、他人になりすまさなあかん。それには、他人の住民票取ったりなんだかんだで最低3週間は必要や。でも今、そんな時間あらへんやろ?」
「ないな」
明日にでも、此処には強面のお兄さんたちがツアー組んでやってくるだろう。きっと。ああ、消費者金融は怖いなあ。保証人になんてなるんじゃなかった。
それにしても、元妻は実にいいタイミングで出て行ったんだな。感心してしまう。
「まず資金。コレ。貯めなあかんやろ?」
誠司は話を続ける。
「だなぁ」
「ちゅうわけで、住み込みのバイトや」
「住み込み、」
「そう、パチンコとか、今の時期やったらスキー場のリゾートバイトも求人出してるんよ」
「バイトとかって、身元がちゃんとしてないと駄目なんじゃないのか?」
「んなことあらへん。まじめに働けば全然関係ないのが実状やねん」
ふむ、と考えて。大前提にぶつかる。
「…なあ、俺思ったんだけど」
「ハイどーぞ」
「なんでそんな詳しいんだ?」
「はっはーん。やっぱ訊いてきたな。何を隠そう俺も失踪中やねん」
“も”とか。俺まだ失踪してないし。同意もしてないんだけど。
立てた人差し指を振りながら自慢げだが、失踪中であることを誇らしげ自慢してどうする。
「それで? それだけ知識があるんなら俺なんかにかまわずにひとりで失踪続行したらいいだろ?」
「まあなーボクもそうしたいのは山々やねん。けどな、人間にはどーしよーも出来んことってあんねんなあ」
「…年、か」
「ドンピーン。髪染めたりしても、やっぱあかんもんはあかんねんな〜」
この会話のセンスでいけば充分ごまかせると思うんですが。駄目ですか。まあ、見た目がな。精一杯上に見て高校入りたて、といったところだ。
「年、いくつ?」
「14歳」
ぶはっ
とっさに床に積んであったB4封筒で防御する誠司。
「ハラショー。素晴らしい反応やね」
て、何だ。こいつ俺の息子でも全然おかしくないじゃん! うわ、おじさんショック!
「参考ほどに聞くが、一体いつから失踪ライフを満喫してらっしゃる?」
「小学校出てすぐやったかな〜。まあ、うち兄弟めちゃ多いし、ボクひとりおらんようになったって誰も気づかへんやろなー。捜索願くらいは出とると思うけど、別に警察だってボクみたいな子供捜したりせえへんよ」
表情が少しだけ、淋しそうに見えたが、次の瞬間には商売人さながらの顔になっていた。
「んでな、転々とするうちにいろいろ知識は増えるねんけど、やっぱなー年だけはどうにもできんねん。な、お願い! 助けて欲しいねん! 尾崎さん助けるゆうたけど、助けて欲しいのは実はボクのほうやねん!」
「……」
「18歳以下はほとんど何処も雇ってくれへんし、唯一雇ってくれた土木現場でな、肉体労働、死ぬ気でやってんけど、そこの経営者の中年に男の操を狙われそうになって命からがら逃げてきてん」
「男の操…ね」
「そう、本来なら出る専門のあn」
「いや、良い。それ以上は言うな」
顔を背けた俺に、ふふ、と娼婦みたいな顔で言った。
「男って、穴があればそれでええやんなあ…体育会系って怖いなあ…いや、マジで!」
「いや、うん、わかったから。怖い思いしたのはわかった」
俺、今のでもうおなかいっぱい。
「で、俺と一緒に失踪しようと。その場合、俺の息子、とでも言うつもりか?」
「いやあ、さすがにそれはあかんよ。バレバレやん。ボク関西弁なしでは挨拶もでけへんし」
「じゃあ、甥、か?」
「うーん。そやね。そこらへんが妥当やね」
「……」
「あ、ちょい待ち! てことは、尾崎さん同意やね! ボクと一緒に失踪ライフ開始やね!!」
「……」
「そうと決まれば話は早いでぇ! さささっと荷物纏めな! あ、荷物いうても、3日分のパンツと着替えと手持ちの現金があれば十分や! あと、金目のもんとか…」
きょろきょろ部屋を物色し始める誠司。
いや、俺、ヒトコトも同意したなんていってないんですが。強制なの? 強制イベント発生?
しかし。
こういう人間見ると、放っておけない性分なんだよなー。だから保証人になんかなっちゃうんだよなー。進歩ねーなー。
「どないしたん?」
「いいやー」
のそのそ立ち上がると、一切をしまってある箪笥のなかを改めた。
金目のもの…ねえ、ないと思うけどなあ。
元妻が持ってっただろうし、目星のつくようなものは。
思ったとおり。
残金が1万円を切った通帳から、印鑑から、宝石類まで見事にない。あれれ、箪笥の引き出しってこんなに軽かったっけ? みたいな。いや、もともと中身なんて少ないけどね。
スウィートテンダイヤモンドもない。当たり前か。安物だけど、小さいながら一応本物のダイヤが使ってあった。
手ぶらで振り返った俺に、誠司は冷めた昆布茶をすすりながら、にっこりわらった。何だろう、俺同情されてませんか?
結局。
残っているものといえば、テーブルの上の指輪くらいなもんですか。シルバーのシンプルな、結婚指輪。
元妻の置いていった唯一の指輪。俺の指輪もはずして両掌にひとつずつ乗せる。これが、11年に及ぶ結婚生活の末路。
「これ、売れるかな」
ぽつりと呟くと、ひょいっと後ろから誠司が顔を出した。
「あ、あー。売れんことない思うけど。売ってええのん?」
「……」
「それだけじゃ身元なんてわからへんし。持ってても支障ないと思うで」
「…そう、だな」
右手ひとつに握り締めると、押入れの中からビニル紐を取り出した。丈夫がウリの紐だ。ホント、首吊れるくらい強度がある。それを適当な長さに3本切って、三つ網にした後、指輪を通して首にかけた。
「普通そう言うのって鎖やん」
「いや、失踪する人間らしく慎ましく!」
指輪を服の中にしまうと、ひやりとしたが、すぐになじんだ。
「なあ、いまさら、何やけど」
「何だ?」
「会ってまだ2時間くらいやけど、ボク、尾崎さんのこと信用するで」
14歳らしい、素直な表情で。
あまりにまじめな顔に、思わず噴き出してしまった。
「ま、俺は徐々にな」
名前もまだ明かしていないことだし。
「あ、酷っ。そこはかっこよく”俺もだ”とか言うところやで?!」
「ハイハイ。んで、今俺の手持ちって600円くらいしかないんだけど?」
「ボクは152円やね」
「………」
「私鉄に乗れば隣の市までくらいなら行けるんちゃう?」
「大人ふたり、752円で?」
「失踪の先輩から言わせてもらうわ。何とでもなるもんやって。これが」
びし! と宣言された。まあ、少なくともこの歳で1年以上失踪継続中のやつが言うのなら、間違いではないだろう。正しいとも限らないが。
「あ、そう」
荷物は小さな旅行鞄ひとつほどに納まった。スペース的には余裕があるくらいだ。
「とりあえず、駅に行くか」
「そやね」
ドアノブに手をかけて、ふと思ったことを口にした。
「牛丼。やっぱ最後の晩餐だったな」
「ん?」
「35年間の、俺にお別れだ」
「……うわ、クッサー」
「ええい、コレくらいの臭さには慣れろ! 生きていけないぞ!」
半ば自棄気味に言うと、ドアを開けた。
夜の10時過ぎともなると、人気は少なかった。もともと住宅街なんて、総じて夜は閑散としたものだ。
「ほな。行きましょか」
ととん、とアパートの階段を下りた誠司の後ろについていきながら、鍵はどうしようかと考える。
閉めていくのもおかしいが、開けていくのもどうかと思った。
少しの間考えて、鍵は一応閉めることにした。錠が落ちたことを確認すると、鍵はドアの新聞受けに入れておいた。
かちゃん、
妻は、此処にかえってくることはあるだろうか。
ふと、思う。
たぶん、ないだろう。
グッバイマイライフ。
うわ、カタカナで言うとちょっとカッコ良くない?
「尾崎さんなにしてんの?」
階段を戻ってきた誠司が不思議そうに俺を見た。
「いんや、なんでもない」
強面のお兄さんたち、俺を探したりしないでください。南無南無。
気持ちばかり神仏に祈って、階段を下りた。
参考文献:完全失踪マニュアル(樫村政則/著、太田出版)
(2005/01某日 7762文字)