お正月休みも終わって、またレッスンが始まりました。初っ端からスタッカート付きの3連符でつまずい
ています。例えば右手は3連符、左手は8分音符を二つ。4分音符を3分割と2分割ですから、弾き始めは同時、
3連符の2番目を叩いたらすぐに、左の8分音符が入って、その直後に3連符の3番目が入ります。次の
ブロックの頭は同時(文字にすると、まだるっこいですね)。何も難しいことはないはずなのに、これが
スーッとできません。まぁ、でも練習してクリアしないと、どうしようもありません。他のところにも、
3連符がソロ(?)で、でてきます。カデンツァで、腕の見せ所よ、と言われましたが、途中からは、
やはりスタッカートです。トットットと弾けばいいの、と先生は言われますが、トットットねーと、
声にだしてみたら、九州の言葉を思い浮かべてしまいました。"ここ、とっとっと"で、"この場所とってます
"という意味だそうですね。上がり調子で言えば、"とってますか?"の疑問の意味に。思わずにやりと
してしまいましたが、ついついこんなふうに余計なことを・・・・・・。さて、トットットの練習をします。
一週間前に「合唱ができるまで」という映画を見に行ってきました。フランスのアマチュア合唱団の練習 風景が映像になって、一本の映画になっています。練習は大人のグループ、若い人たち、子どもたち と別々に行われています。発声の仕方、呼吸の仕方、音のとり方、合わせ方など、中身は同じですが、 対象が違うとレッスン方法もちょっと違っています。それぞれの練習風景をカメラが淡々と追って います。参加している人たちの普段の生活が映し出されるわけでもなく、何かドラマがあるわけでも 有りません。全くの練習風景です。カメラが入っているからといって、気負った様子もみえません。 涙や笑いがあるのかなーと予想していたのですが、作為的なものは何一つありません。(どうも、 映画を見て、泣こうとかしたがるものですから)――しかし、それぞれ のグループでの練習では、それほどでもなかった出来栄えが、全員の合唱となると、とてもよく纏まって いてきれいな歌声になっていました。音楽を作り上げる日々は地味なものですが、素晴らしいものが できあがるのですね。きっと今日もあそこでは、映画の中にあったような練習が 繰り返されているのでしょう。余韻のある映画です。ピアノは、 孤独な練習ですが、私なりに頑張ってみよう、なんて思います。
2.2.2007...<綿密な計画?>
"あなたが弾くと、そうね、まぁ10分近くかかるかもね"
"10分なんてもちませんよ"
"そんなに難しくないのよ"
"いえ、私の問題ではなくて、聴いてくれる方々のほうが・・・もちません"
と、まぁ、今練習している曲は、昨年一度断ったことがあります。それで自分の好きな曲を選んで発表会
に臨んだのですが、ああ、あれは今思い出しても、曲の感じを上手く出せずに苦労しました。好きな曲を
練習することは、それはそれで悪くはないのでしょうけれど、やはり、長年の経験者である先生の言われる
ことは素直に聞くべきだ、と思ったりしたのでした。
ロンドは、回旋曲なんていうのですね。主題が繰り返しでてきます。ベートーヴェンの作品51の1は、
とても可愛らしい雰囲気の曲です。しかし、ちょっと長いのですが、ようやく譜を見終わり、これから
本格的に練習をしていきます。ノートに集中的に練習しなければならないところを書き出していたら、
なーに、これ。ほとんど全部です。ま、そんなもんでしょ、と一つ一つ具体的に練習の要領をメモ
しています。これをもし完璧に練習すれば、ちょっとはましなものに成る筈だと、ここでニンマリ。
自分で自分の首を絞めるような計画です。ああ、やることが多すぎます。
今となっては無謀な計画の下、たった3日ほどその通りに練習をしてみたら、とたんに肩から指先まで張ってきて、
はやくもこりゃ無理というものと悟りました(実に悔しいものですね)。この先沢山沢山練習しなければならない
のに、すっかり疲れてぐったりしてしまうのですから、さっさと練習方法を切り替えなければなりません。
どうも悪い癖で、加減というものが分からずにいます。息長く続けなければ意味がないのです。どう頑張っても
華麗に弾けるわけはないのですけど、そこはやっぱりやるだけのことはやっておきたいと思うじゃありま
せんか。あれ、堂々巡りをしています。ちょっと気分を変えて・・・
最近よく聴くピアニストは、小菅優さんという方です。1983年生まれだそうですから、若い方です。
これから先にどんな演奏をされていくのか楽しみです。どのピアニストの人もそうなのでしょうけれど、
演奏に全身全霊を傾けていますね。内面の声が聞こえてくるようです。しかし、相性もあるのかもしれ
ません。聴いていて、こちらの側にもコミットしてくると感じる人は、そんなに沢山はいません。
小菅さんの演奏は、気になる演奏とでも言いますか、何かをしながら聞き流すというわけにはいかずに、
どうしてもちゃんと聴きとめたくなります。リストの超絶技巧練習曲集を初めに聴きましたが、精一杯の
生命力が輝いていると感じます。モーツァルトの演奏(ピアノ協奏曲第9番『ジュノム』、ピアノ協奏曲
第21番)も、聴き入ってしまいます。カーネギー・ホールのコンサートのCDも、とても充実している
内容です。バッハのシャコンヌ、ハイドンのピアノソナタ第42番、ベートーヴェンの熱情、武満徹の
雨の樹素描、シューマンのダヴィッド同盟舞曲集、アンコールでは、グラナドス、リスト、ショパン。
このショパンはノクターンの第20番です。これなどは、胸が熱くなります。あと、聴いてみたいのは、
ショパンの前奏曲のCDなのですが、いつもお店にありません。そのうち、どこかで見つけて聴いてみ
たいものです。ちょっと、今、はまっているピアニストです。素晴らしいのです。
先週に引続き今週もまた。
小菅さんの演奏を繰り返し聴いています。特に気に入っているのが、武満徹さんの雨の樹素描の曲です。
この曲は、以前にピーター・ゼルキンさんの演奏をCDで聴いていますが、その時にはあまり印象深くあり
ませんでした。今回、小菅さんの演奏を聴いてみて、まぁ、本当に水が滴るような感じの演奏です。
この雨は、重くも暗くもなく、命の源のように循環していて、滋養に富んでいる気がします。この曲が作ら
れる契機となった大江健三郎さんの『「雨の木」を聴く女たち』をきちんと読んでみようかなと思います
(というのも、一度読んだはずなのに、読んだことすら忘れていることにこの間気が付いて・・・)。
それにしても、一人の演奏家によって、新しい世界へ誘われるような気持ちになっています。これは、とても
嬉しいことです。
さて、打って変わって現実の私のレッスンです。左手と右手の音量のバランスが上手くとれません。
左手は分散和音を弾き、右手はメロディを歌います。いつもは、左手の音が小さいと言われているのに、
こんなときは、左手の音がやけに大きく、自分で弾いていても、あぁ、うるさいななどとため息がでます。
若い男の子じゃないですけど、本当に、難しいっす。
久しぶりの雨降りです。雨が降っていると、花粉の心配がないのでほっとします。さてさて、とうとう
発表するまでに、ひと月というところに来ました。レッスンの練習内容も少しずつ変わってきました。
曲全体から見ていくようになります。前提として細かい部分は弾けていなければならないということに
なりますが、ここでため息です。今度の曲は、私にとっては長い曲です。7ページの楽譜のうち、ちゃん
と弾けるようにしなくてはという箇所が、まぁ数知れず。要求されていることは、頭では理解できますが、
未だお手手のほうがついていけません。なんだか、ちょっとヤケになりますね。ここのフレーズは、
一息で流れるように弾いてみましょう、と教わったって、ハイと答えはしますが、その口から次に出る
言葉は、ここ、指が動きません。なんですからね。全く。部品交換しないで、ギアチェンジできるかしら。
ロンドハ長調作品51の1は、1797年に出版されているそうです。ベートーヴェンが20代後半に作曲した
もので、優雅で溌剌とした曲です。2人のピアニストの演奏を聴いてみました。一人は、ブレンデル。
語りかけるような演奏です。演奏時間は6分13秒。もう一人は、シュナーベル。こちらは、1933年の
録音ですから、随分と前です。コロコロと音が転がっていくような演奏です。演奏時間は、4分40秒。
しかし、とても優雅です。私は、どちらの演奏も好きです。澄んだ気持ちになるような、本当に良い曲
です。
並んでいる音符を音楽にするって、本当に難しいものですね。フレーズの始まりの音と終わりの音では、 当然音の響きは違ってきますが、これも指摘されてはじめて気が付いたりします。一本調子で弾いて いるのです。またあるところでは、細部が弾けないことにばかり気を取られて、曲の流れが滞ったりします。 細かいところも、まだまだ練習ですが、しかし気持ちも大切。乗って弾くことも大事なのだそうです。 無難に弾いて何が面白いっていうことかな・・・
3.9.2007...<仕上げのために>ここにきて、指がもつれるようになってしまいました。ゆっくりとリズムとテンポをさらいます。ここで 気持ちが焦ってはいけません。2週間の時間がまだあるので、じっくりと腰を据えて、身体に浸透させるように、 曲の流れをつかんで仕上げにもっていきたいものです。ここはじっくりじっくり踏ん張ってというところです。 それにしても、指の練習を特別にしなくても、一曲練習するだけで、もう指の訓練になり ますね。短い曲の中にもいろいろな指の動きが要求されます。指先を硬くして、コツコツと叩いたり 、指を柔らかく伸ばして、鍵盤の上を撫でるように弾いたり、本当にさまざまな動きをします。上手く動か ないけれど面白いところです。面白がってばかりいても・・・やっぱり練習です。
3.16.2007...<足りないもの>
先日、書店で料理の本を見ていたら、楽しい本を見つけました。指揮者のチョン・ミョンフンさんの
料理の本です。将来、指揮者を辞めたら、農夫になって奥さんの助手になりた
いのだそうです。レシピをいろいろ見てみると、難しい料理ではなくて、私にも作れそうなものばかり
です。あまり小さな事にこだわらないところが、作ってみようかという気にさせます。けれども作り方は、
すごく丁寧で、とても親切に書いてあります。それに、気に入ったところは、料理に合った音
楽がさりげなく紹介されているところです。本当にさりげなく、でもだからこそ
聴いてみようかしらとも思います。音楽にまつわること、料理のこと、文章もとても分かりやすくて、
読み物としても楽しめます。
チョン・ミョンフンの「幸せの食卓」音楽之友社、2006年8月発行
さて、仕上げのためにちょこちょこっと録音をして、客観的に聴いてみたりしています。現実は厳しい
なと、それでもじっくり聴いていたら、どうにも可笑しくなって噴き出してしまいました。もう、必死な
弾き方で、酷いものです。気が付けば、涙を流して笑っています。余裕がちっともありません。でもネ、
笑っている場合じゃありません。音楽として、何かが決定的に足りないのです。何かっていうのは、
実は少しだけ分かっています。心と言ったらいいのか、気持ちと言ったらいいのか。そういうものが、
ちょっと欠けています。
先週の土曜日、楽器店の2階の小さなホールで、ささやかな発表会がありました。ピアノソロの演奏は、
17曲、エレクトーンとピアノの合奏が3曲、エレクトーンのソロが1曲でした。今回は子どもたちも一緒
でした。達者にピアノを弾く人(子どもも大人も)もいれば、覚束なく緊張で固まって弾く人(こちらも
子どもも大人も)もいます。私は、もちろん後者です。伸びやかに気持ちよく弾いてみたい、それは目標
ではあったのですが、間近になると、とにかく止まらずに弾ききろうという現実的な目標に変更です。
出番が来て、ピアノの前に座って、深呼吸をしてから、心の中で、"それ行け"と号令をかけてからは、
夢中で弾いて、何ヶ所か指が滑って音を外しても、どんどん前に進みました。この頃は、緊張していても
指が震えてしまうということはなくなりました。でも、人前で弾くのは本当に難しいことです。
人の弾くピアノを聴いていると、今回は何故か目頭が熱くなってしまいました。上手下手なんて問題じゃ
なくて、こういう時間を持てるということがね。やっぱり穏やかで嬉しいことだななんて思ったりしたの
です。
69.ベートーヴェン ロンドハ長調作品51-1<6分39秒>(L322-334)
今回の録音は、midiのリアルタイム録音ではなく、マイクでピアノの音をそのまま録音しました。
3月の発表会が終わって、しばらくの休憩があり(その間、私は小さな引っ越しをしていました。)また、 レッスンが再開しました。秋の発表会に向けて新しい曲を練習します。次の曲もベートーヴェンです。 今回もまた先生が勧めてくださった曲にしました。初めてピアノ・ソナタに挑戦です。といいましても 第1楽章だけですが。それでも、最初は、私なんかには無理と腰が引けていたのですが、その曲の持って いる美しさに、すっかりまいってしまいました。数あるピアノ・ソナタの中では、とても地味な曲です。 第28番イ長調作品101、後期の作品です。なんだか感性といったらいいのか、精神性といったらいいのか、 深くて、でも明るさがあって、心にじわっと沁みてくる音楽です。はたしてこの曲を弾けるように なれるのだろうかと思ってしまいますが、半年間かけて練習していくことを嬉しくも思っています。 一つ一つこうやって音楽の扉を開けていくと、未だ経験したことのない世界がそこにはあって、心を 満たしてくれます。音楽と出会えたこと、ピアノと出会えたことが心底嬉しくなります。非常にゆっくり としたスピードでしか扉は開いてくれませんが。
4.27.2007...<稽古ごと>
レッスンが終わっての帰り道、案外上手くいったという日もあれば、全然ダメだったというときも
あります。今日は、全くなってない日です。
新しい曲の練習が始まって、レッスンは2回目。まだ音符を一つ一つ拾っている状態です。よく譜読みとか
いいますが、今の状態はそれ以前。えーと、えーとと言いながら指を確認し、目指す鍵盤を探して、
やっとこさ音を鳴らしています(鳴らすというよりは、あ、この音ね、と確認しているといったほうが正しいかも)。
遅遅として進まないのは仕方がないにしても、こんなふうに家でやっていることを、そのまま先生の前でやって
いてもレッスンにはなりません。そもそも先生の前では緊張もしていますし、要らぬ力も入っていて、鳴らすべき
鍵盤は直ぐには見つからず、焦った頭からの混乱した指令によって、アル中のようにふるえる指が、鍵盤の上をさ
まようことになります。少ない小節でもいいから、レッスンのときにはある程度音の固まりとして弾けていなければ
レッスンは進みません。いろいろ忙しくてというのは、あんまり言い訳にもしたくありません。どんどん曲が難しく
なっていくのですから、それに見合ったように練習量を増やさなければ追いつきません。今日はすっかり反省モードに
入っていますが、さて、どうやっていったらいいかなーなんて思っているところです。来週はGWでお休みです。この
機会にいろいろと検討してみましょう。
練習量を増やすことはどうしても必要ですが、やっぱりその内容が問題ですね。だらだらと練習していても
効果はありませんから、ちょっと疲れたと感じたらすぐにピアノの前から離れることにしました。そんなわけで
息抜きしているときに見つけたページです。
OTTAVA(一日中クラシック音楽ばかりを放送しているラジオです。)
ずっと聴いていたいけれど、そうもいきません。ちょっと聴くだけですが、けっこう楽しいです。
地デジラジオが欲しくなってしまいました。
14日に国民投票法が通過しましたね。民主主義が成熟したなんて本当でしょうか。投票権が18歳からと
いうのも、作為的と感じます。選挙権は二十歳からなのですから。若い人々も舐められたもんだと思ってし
まいます。あれよあれよという間の進み具合です。今後の3年間に、どんなことが行われるのか、どんな
甘い言葉を囁かれるのか、その先には一体どんな暗い道が広がっているのか。末恐ろしいと感じます。
肝に銘じて、間違った選択をしないように、奇策や甘言に弄されない知恵が必要とつくづく感じてしまいます。
さて、レッスンです。こちらは、遅々としていて進みません。やはり難しいものです。今週までは、ツェルニー
で指の練習もしていましたが、当分これは休ませてもらうことにしました。気持ちとしては、指の練習もしたいのですが
状況が状況なだけに。今の状態は、鳴らしている音が悲鳴とかわらないのですから。今までで
一番に難しくて、どうにかしてこの状態を乗り越えていきたいと思っているのですが・・・。左手と右手を分けて
和音の響きをよく聴いて、行きつ戻りつの地味な繰り返しの練習が必要です。と言われています。
進むべき道はこっちとわかっていても、遠巻きに周辺をぐるぐるとまわってみたり、もうそろそろやらなくちゃ
いけないと気になりながらも、まったく違うことに時間を費やしてしまったり、気がつけば
ひと月もの時が過ぎてしまいました。今までの練習では、あまりこういったことはなかったのですが、今回は、
曲の持っている雰囲気にのまれてしまったようです。今度の曲は、とても大きく指を開いて音をつかんだりし
ますが、指の動きそれ自体は、それほど難しいものではありません。ゆったりとした曲ですから、スピードに
ついていけないということもありません。楽譜にしてもたったの4ページです。でも最初にこの曲を聴いてみた
ときに感じたことが、ずっと頭にあるのかもしれません。胸の奥に沁み込んでくるような、なんとも言えない
安らぎを感じさせる美しい旋律ですが、これは、感性と言ったらいいのか、あるいは音楽的なセンスと言うのか、
そういったものがないと弾けないかもしれない、と感じました。私には持ち合わせがないなーと、早々にがっくり
きてしまったみたいです。
しかし、やっと前に進もうと思うようになりました。先生の言われることをじっくりと聞いて、特に左手の和音
をよく聞くようにしています。右手の旋律とあわさったとき、美しさにため息がでます。どんな小さな小節も本当に
美しい音です。ようやく音楽が、音楽を教えてくれるかもしれないと思うようになりました。それに、この間、
調律の人が言っていた“ピアノが教えてくれることもあります。”という言葉も頭に残っています。
先生からも、楽しく練習してくださいと云われました。もう、落ち込まずに、耳を傾けることから、やってみます。
ピアノは蓋を開けて、鍵盤を叩いてみればとりあえず音はでます。何をいまさら、の話ですが、この点は
恵まれていますね。メンテナンスも調律の人が専門的に見てくれますし。しかし音を出すまでが、ひと仕事という
楽器は多いのですね。オーボエという楽器のことも、私はよく知りませんでした。オーボエ奏者の宮本文昭
さんという方が書かれた本には、音を出すまでのことが詳細に説明されていて、これは大変だなーとびっくり
したりしました。この本は、今までオーボエ奏者として音楽と向き合ってきたことが、分かりやすい表現で
書かれています。“歌うように演奏する” とか “力の抜き方” とか “日本にもグールドが育つような教育が
必要” とか、興味深く、真面目に、そして面白く読むことができました。
なかなか肉声という感じがしないなーと感じることも多い音楽家の本の中でも、この方は軽妙なタッチですが、
ズシリと印象に残りました。鍛えるものは、筋肉ではなくて“耳”というのも、確かにそうだ、と納得します。
BGMばかりでは、やっぱりね、なんて思ってしまいました。
『オーボエとの「時間」(とき)』 宮本文昭著 時事通信社発行
梅雨入り宣言があったばかりなのに、今日は透き通った青空が広がっています。吸い込まれそうなブルーです。 澄みきった青空には、どんな音楽が合うでしょうか。さて、レッスンも次第に全体の音楽の流れをつかむようにと、 かわってきました。と言っても、私自身は、まだまだ小さなフレーズに四苦八苦の状態ですが。細かいところも勿論指導が ありますし、分からないところにも答えてくださいますが、それだけではなく前方への道筋を、レッスンの度 に先生は示されます。音符を大きな視野からとらえることを、それとなく教わっている気がします。自分で考えること、 それが一番大切とも言われています。前にも書きましたが、私の習っている先生は、物語や、言葉を当てはめて 教えることはされません。その点は、大変に助かっています。どんな時代に、どんな状況のもと、あるいは作曲家は どんな気持ちで作ったのかとかは、考えていく上ではとても大切な要素だと思いますが、曲の受け止め方は、一人 ひとり違うのじゃないかと感じます。でも、自分らしく弾くって、それも難しいと思いますけど。「指がとどきませーん」 ただそれだけで、頭を悩ますのは止めなさい、ということみたいなのです。
6.22.2007...<グールドのフィルム>
たとえば多作の小説家、どの小説も大当たりということは、めったにないものですね。中には、どうみても
首をひねってしまうものもあります。ま、内容についていけないだけと言う状況の時もありますが。
グールドのフィルムやリヒテルのフィルム制作で、名前を知ったブルーノ・モンサンジョン、なんとなく
この人の作品だったら大丈夫と思ったものの、ああ、やっぱりこういうこともあるんだなーなんて感じてしまい
ました。「グレン・グールド・ヒアアフター、時の向こう側へ」モンサンジョンが2005年に作ったフィルムを
見てみました。ヴァイオリニストのメニューインとの演奏についての対話や、グールドが何頭かの象の前で歌を
歌う様子などは、私には目新しく愉快に感じましたが、大方の映像は、すでに今まで見たフィルムの中にあった
ものでした。以前見た映像は、部分的なものであっても、あるものは印象深く記憶に残っていますから、それを、
新しい文脈の中で使用されると、気分は白けてしまいます。またグールドのファンという人たちが、さまざまに
グールドにアプローチしていく様子も映像は追いかけますが、日本語の字幕で“グールドする”という言葉を
見たときには、なんだかぞっーとしたりしました。字幕と言えば、ときどきは普通の日本語にもなっていなくて、これ、
海賊版なのかしらと、一瞬思ってしまうほど。死後も型にはまらないのがグールドがグールドで有る証拠よなんて
思ってしまうフィルムでした。
嘘でもいいから、リラックスしてしなやかに優雅に弾こう、と固く決心して家を出たはずなのに、 先生の前では、相も変わらずつんのめるように弾いてしまいます。<ちゃんと息をして、吸って、吐いて> などと言われる最中も、もしかしたら息は止めっぱなしだったみたいです。掛声がまるでレントゲン撮影のよう みたいと笑ってしまったら、やっと少し肩の力も抜けました。30分なんて、あっという間です。帰りの 電車の中で、さっきまでの音符のことを考えていたら、この曲の総ての音符の一つ一つが、生き物の細胞のように 思えてきました。いったい幾つの音符から成り立っているのかは数えたことはありませんが、どれ一つとして なおざりにできるものはありません。部分が全体なのですから。とても静かな曲ですが、深いエネルギーを 感じるようになってきました。
7.13.2007...<フレーズの句切り>
今週の練習では、歌をうたっているように自然な呼吸を目指してピアノに向っていましたが、
これは、私には本当に難しくて、ひきつったような無理な呼吸をしたりしています。25メートルプールで
クロールなら息継ぎしなくてもあっちまでいけるもんね、というのは、ここでは何の役にも立ちません。
しばらくは不自然な状態が続きそうです。呼吸を意識するためには、フレーズの始まりと終わりを
把握しなければなりません。ここにきて、いい加減にフレーズの句切りをしていたことを発見。
サインは確かにあったのでした。でも、
なんだかよく分からなくて音符にまかせて弾くだけで、ちょっとばかり頭の片隅に、変だなーと
いう泡みたいなものが浮かんだり消えたりしていたのに、まぁ、いいかと結局素通りしていました。
バスの音がもう少し聞こえてくるといいわねーと言われて、繰り返し弾いていたら、どうしてそこで
止めるのといわれて、初めて間違っていたことに気付いたりしています。小節の区切りの縦線を、
安易にフレーズの句切りとしていたところがありました。あの縦線は、原稿用紙の升目みたいなものですよね。
句切りと区切りが同じということももちろんありますが、注意深く音の流れを見ないと駄目だなーとおもいました。
変だと感じたら素通りしない。今後の教訓としなくちゃ。これがまた直ぐに、ノー天気に忘れるのですけれど。
この28番、CDでいろんな人の演奏を聞き始めました。グールドの演奏も聴いています。
次第に曲にも馴染んできました。と同時に、どうしてだろうという疑問点もでてきました。
この曲の中ほどに、高音部が、まるで水面が透明な光を浴びて、キラキラするような旋律が
でてくるところがあります。低音部は、シンコペーションの和音がささえます。このシンコペーションは、
フォルテとピアノが交互にでてきて、高音部に陰影をつけているような感じです。このキラキラする
イメージが終わるあたり、締めくくりのところで、高低ともに弱拍のところでスフォルツァンドの記号が
4箇所でてきます。弾いていると、ガクン、ガクンとしてしまい、あれ、これは・・・いったい何?
まぁ、指が思うように動かないこともあるのですが、いきなり現実に戻されるような気分になったり
しています。このスフォルツァンドは、他にも高音部が低い音から高い音へのびていってフレーズを
終えるときにも、最後のひとつ手前についていたりして、記号の有る音符は特に強く弾くにしても、
それなら、いっとう最後の音は、更に強く弾くのか、同じ強さで弾くのか、まはた抜けるような弱い
音になるのか。CDで聴いていると、最後の音は、弱くしている人が多いみたいです。でも、ここは、
次にピアノ記号のついた音が来るので、やっぱり抜けるのかなーなどと思ってみたりします。
と、まぁ楽譜をじっくり眺め始めて、首を傾げたりしています。短い曲なのですけれど、いろんなことが
詰まっていて、面白いな〜なんて感じています。来週はプレ夏休み、お休みします。
図書館からベートーヴェンに関する本を借りてきて読んでみました。二冊読みましたが、どちらも
とても印象深いものでした。まず、「ベートーヴェン闘いの軌跡、弦楽四重奏が語るその生涯」
(音楽之友社)
著者の井上和雄さんは、ご自身もカルテットを組まれヴァイオリンを演奏される方のようです。
楽譜からベートーヴェンの気持ちのありようを捉えようとされていて、ベートーヴェンの初期の
作品から後期の弦楽四重奏曲まで、細かく楽譜を見ていって、ご自身の演奏と絡ませて具体的に
記されています。始めのほうですぐに、弱拍のスフォルツァンドのことがでてきて、私は、興味津津で
その部分を読みました。<錯綜したリズムの核心>また<情念の表れ>という言葉がそこにはありま
した。私は、全部の弦楽四重奏曲を聴いたこともありませんし、手元にあるのもほんの僅かのCDが
あるだけです。どうしても輪郭を追うだけの読み方しかできないもどかしさを感じましたが、演奏を
通して真っ向から、まるで格闘するように記述される様子に最後まで惹きつけられました。
もう一冊は、「本当は聞こえていたベートーヴェンの耳」(NTT出版)という本で、著者は、江時久さんという
方です。ご自身の聴覚障害という体験を元に書かれています。音は、通常は、「あぶみ骨」の振動で
伝わるらしいのですが、その他にも楽器の強い音などは、頭の骨を通しても内耳に伝わるそうです。
あぶみ骨が固まってしまって、人の会話などは聞き取れなくなっても、楽器の音などは聞こえる状態に
あるようです。ベートーヴェンの耳の病気をこの「あぶみ骨」の固着の難聴だったのではないかと
推測されています。また、ベートーヴェンの行動にも、ご自身の難聴という経験をとおして目を向け
られています。まったく無音の状態で作曲ができるものだろうかと思っていましたが、やっぱり天才だから
できてしまうのかなと、天才ゆえに・・・その先は考えないことにしようなんて思っていたのですが、
なんとなく謎が解けたような気持ちになっています。それと聴覚に障害があるということが、どういう
ことなのか、考えるきっかけを与えられた本です。この先二週夏休みです。
7月の時点では、今年の夏は冷夏かもと言われていたのに、8月に入っての巻き返しは、相当な
ものですね。笑っちゃうような暑さだわと余裕だったのは、最初の数日くらいで、さすがに体温と
同じくらいの日々が続くと堪えます。まったく夏を過ごすのもサバイバル・ゲームのようになって
きました。
休みの間、ベートーヴェンの曲はあまり練習しませんでした。めったにまとまった時間は取れないので
前々から練習してみたいなとおもっていた、簡単で楽しくてという初心者用のテキストを使って
ピアノを楽しんでいました。もちろん、大きな曲に体当たりしていくのは、それなりに興味が尽きなく
喜びを感じますが、時には気分転換も必要ですから。と、まぁ、結局のところ、あれやこれやと弾いてみたいのです。
ツェルニーの「5つの音による24の練習曲」は、全音楽譜出版社では星のマークが一つです。
初見でなんとか弾けます。一つの曲が、平均すれば20小節くらいの長さです。音符もスキスキで
ゆっくりと全体を眺めて弾いてみます。リズムやテンポやハーモニーなど、ゆっくり確かめながら、
繰り返し弾いてみます。無邪気な可愛らしい曲ばかりです。と言っても、すぐに飽きてしまうような
曲でもありません。こういう練習曲も良いものです。風通しがいいので、直ぐに音と戯れることが
できますから。しかし、今日からまたベートーヴェンの曲の練習が再開しました。いやー、暑かった
ものですから、なんていう言い訳は、1回くらいしか使えませんね。気持ちを切り替えて、練習です。
ここ2,3日、風の向きも変わり気温もだいぶ下がって、しのぎやすくなってきました。夜間には、
秋の虫も盛んに鳴いています。やれやれ、これで夏が終わってくれるのでしょうか。
今日のレッスン。先週とはまるで別人のようだ、なんて言われてしまいました。まぁ、大げさなんです
けれど。先週は、全くボロボロでレッスンが終るやいなや、さようならと逃げるように帰ってきましたから。
今週は、挽回です。はっきり言ってかなり練習をしてでかけました。先週の私は、私ではなーい、と力いっぱい
ピアノを叩いていたら、マァマァと、あるいは気分としてはドウドウと肩をたたかれ、あのね、リラックスも必要よ、
とそっと言われました。そうです。確かに。音符がほんのちょっと込み入っているところなど、弾いている音にぐーっと
集中して指を動かしていると、知らず知らずに身体が縮こまってしまいます。身体が固くなっていると音ものびませんね。
無理矢理にでも身体をゆったりさせて音づくりをするようにとのことです。何回かその部分をゆったりと
させたつもりで弾きましたが、どうも身体が不自然に引きつります。ああ、リラックスするのも
難しいです。曲の全体のできは、やっと5合目くらいです。9月は暑いの涼しいのなんて言っていられません。
猛練習しなくては。できるかなー。
台風9号のため、レッスンはお休みです。
9.14.2007...<タフでなければ>
インドネシアのスマトラ島で、また大きな地震がありました。たまたま読んでいた幕末動乱に
関する本の中に、安政の大地震の記述があり、やはり2,3年の間、日本列島は揺れていたと
あります。なんとなく地震は、1回大きなものが起こると、次はしばらくはないものかもしれ
ないと思っていたのは、間違っていて、巨大地震となると、その規模はとてつもないものなの
ですね。日本も活動期に入ったと言われていますから、備えは必要とはいえ、何をどうしたら
いいのやら。地球の動きに比べたら、まぁ人間のやっていることなんて小さい小さいとは思い
ますが、感覚不通という状態はイヤですね。
さて、久し振りのレッスン。今日は装飾音の速さについて注意を受けました。音の飾りである
べきところが、間合いといい、音色といいやけに不釣り合いでした。とってつけたような不自然さ
です。ゆるやかに、何気なく弾いていけるようになりたいものです。いろんな人の演奏で、この
28番の第1楽章を聴いています。ポリーニ、グルダ、アラウ、ケンプ、リヒテル、グールドで。
リヒテルは70歳を過ぎてからの演奏ですが、とてもゆっくりと弾いていて情感があるなーと
感じます。グールドは、34歳ぐらいの時。最初、とっても荒っぽく感じたのですが、繰り返し
聴いていると、やっぱりすごいなーと思います。同じ曲でも、本当に演奏者の個性がそれぞれにあって
面白いものですね。さて、私は私の練習をしなくては。
家の前には、某大学の野球場とサッカー場があるのだが、その周囲を囲むように植わっている
樹木が9月下旬の朝日とは思えないような強い日差しを浴びて、くっきりはっきりと地面にその影を
伸ばしている。家はグラウンドより高台にあるので、少し見下ろすことになるけれど、朝の6時過ぎ、
その影の形を見て入れば、今日一日どのくらい暑くなるかが、おおよそ見当がつく。一度涼しく
なった後の残暑は、厳しい。夏バテではなく、はやくも秋バテです。
と、言っても週に一度のレッスンは、貴重なものです。なんとなく最近は当たり前のように、
レッスンに通っていますが、ピアノを始める前のことを考えれば、一回でもおろそかに出かけて
行ってはならないのだと、今日も道々考えていました。どうしてピアノを弾くのか、この先も長く
弾き続けたいと思うのは何故なのか。つい昨日から始めたようなもので、全然上達はみられないし、
短い曲を仕上げるのだって、相当の時間がかかります。でも、練習の最中に、ほんの一瞬ですけれど
音の世界に浸れる時があります。鍵盤の向こうから音が、音楽として立ち上がってくるように
感じるとき(だいだいは、曲の断片でしかありませんが)、音楽の透明な光も一緒に感じるような気持ち
になります。そんなときは、なんとも言えず幸せで嬉しいという感情が湧いてきます。いつもは、
練習していても、ちっとも上手くいかないなとか、相変わらず進歩なしなんていうことばかりですが、
めったにやってこない、あの一瞬を求めて。バテた日には、初心に帰って、いやこれは違います。
練習を続けてきてはじめて分かってきたことなのですから。
練習曲は、ようやくなんとか一応曲らしくなってきたものの、ペダルの使い方や、弱くて
やさしい音の出し方などで、あれこれ悩んでしまいます。大きな音よりも小さな音を出す
のは難しいものですね。うまくコントロールができません。特に音が盛り上がった後に
ふっと弱い音がくるときなどがそうで、力の抜き具合というのか、力の入れ具合がイマイチ
決まりません。この曲には、「 いくぶん快活に、そして心からなる感情をもって 」という、
ベートーヴェン自身の言葉が添えられています。ですから、その心からなる感情がだせなければ
と思うのですが。これは、むずかしなーと、どうしたらいいのだろうと、ここでまた悩みます。
こんなところは、レッスンでは教えてもらえませんから、自分でどうにかするしかないのです。
とある晩、食事を終えて一服しているときのこと。「 ア・ノ・ネェ 」と声をかけると、すぐさま
家人は、若干身を引き気味にして、恐る恐るといった様子で「 な、なに? 」と答えました。
「 ちょっとね、秋の洋服、買いたいんだけど、良いかな? 」やっぱりという顔をして、直接の
返事よりも前に「 頼みごとが有る時には、どうしてそう、いつもと違う声が出るんだろうね。
日頃と違いすぎる。 」などと言います。しかし、これは意識して出る声ではないのです。
自分でも驚くような猫なで声が、ごく自然に出るのです。脳の中で何が働いているのでしょう。
そこで、ひらめきました。この一種の使い分けの能力?を、ピアノの練習のときに応用
できないものかと。でも、感情と下心では、ま、どうみても違いますね。
<心からなる感情>、これは難題です。全く。
先生のご都合で普段より一日早いレッスン。右手の親指と小指で1オクターブに プラス1までは鍵盤を抑えることができますが、途中に黒鍵を抑えると、小指が不安定 になり音は、出たり出なかったりします。椅子の高さを最高にして、前傾姿勢で体重を かけて弾いてみても、あまり成果がありません。今まで、物理的に無理と、ほったらかし にしておいたのがいけないのですが、だんだん仕上がってくると、やはり一つの音、それも そこのフレーズでは、山にあたる音がでないのは、どうもパッとしません。ペダルを使ったり して、なんとか出さなくてはならないのですが、ああ、困りました。そこでまた悪知恵が 働いています。要するに小指を少し長くすればどうかしらなんて。小指に包帯をぐるぐる 巻きにして、先っぽを伸ばして固めて、バンドエイドを張り付けるのはどうでしょう。 じゃなかったら、小指用にプラスチックか何かでサックを作り、小指に被せるとか。 どんどん本筋から離れていきそうですが、やってみなければ。
10.12.2007...<デリケートなもの>小指の先に、何重にもバンドエイドを張り付けてみたりして、2日間ほどは、 鍵盤に指がとどいて、音が出たーと喜んでいたけれど、そのうち、なんて浅はかな 考え方しかできないのだろうと、自分自身がイヤになってしまった。張りぼてまでは いかないものの、いつもよりわずかでも膨らんだ小指は、 他のところの打鍵には不都合だし、肝心なところでも微妙な音はやっぱりでない。 たとえば柔らかい音を出したいとき、生の指のバネや、皮膚の摩擦などや、気持ちの 入り方が鍵盤に伝わる力は、計り知れないものがあるのでしょうね。目的の鍵盤を 叩くことばかりにこだわっていました。 なんだか馬鹿なことをやったおかげで、鍵盤に指がタッチするときの感触をもっと 感じて、それを大切にしようとしなければ、なんて感じています。あと一歩で出たり 出なかったりするところは、精一杯指を拡げて慌てずに、逃げずに音をだせたらなー なんて思ってます。それに、楽器はみんなそうかもしれないけれど、ピアノも本当に デリケートな楽器ですね。楽器ってすごいななどと認識を新たにしています。
10.19.2007...<丁寧に弾こう>
本番まであと2週間。10月に入ってからは、飛ぶように毎日が過ぎていくけど、できない
ところも慌てずに繰り返し練習をして、良い状態で本番に臨みたいものです。今日は、練習の
合間に次に弾く曲の話などを少ししました。やっぱりもうちょっとベートーヴェンの曲を
弾きたい事や、できれば小さな変奏曲を弾いてみたい気持ちを話しました。それから、
いつの日か、モーツァルトの曲も弾きたいし、ロマン派にも挑戦したいし、そして、
もっと時間が経ったら、やっぱりバッハをまた弾きたいことなど。切りなく夢を話していたら、
「やりたいことがいっぱいね」と言われました。本当に、そうです。長生きしたいですねー。
夏から星のマークが一つの楽譜を探してきて、少しずつ練習するのが習慣になってきましたが、今は
カバレフスキーの小さな作品を一週間に一曲の割合で練習しています。自己流ですが、結構楽しい
時間です。ちょっと録音してみました。こういう曲を15分ほど弾いてから、べートーヴェンの曲を
練習しています。
70.カバレフスキー 24の小品集より前奏曲<39秒>
先生方が自主的にはじめられた大人のためのピアノ発表会、今年でもう5回になります。 今日は当日のプログラムをいただきました。参加者一人一人のコメントも載っています。 読んでいると、演奏する曲への想いや、発表することの緊張感が伝わってきます。プログラムの 作成や会場の段取りなど、みんな先生がされます。面倒なこともあるでしょうし、 毎年続けることは、やはり大変なことです。せめて私たちは、当日精一杯気持ちを入れて演奏をし なければと思います。今日のレッスンでは、現状維持してこの先は、根を詰めないようにと 言われました。いつも発表会前のこの時期は、肩がバリバリで身体が硬くなっていますが、 今年は、肩も凝らず腰も痛まず身体的には、割とリラックスできています。 (相当前から「薬」に頼っているのが実情ですが、この際致し方がないのです。) それにどうあがいてみても実力以上のものがでるわけもないので、慌てずにゆっくり丁寧 に弾こうと決めたら、気持ちも落ち着いてきました。あとは集中力。 この曲を弾いていると、なんとなく物語りがあるようで、その物語のページを一枚一枚繰っていくように 弾くことができたら、きっと素敵です。そんなふうに弾いてみたいものです。
11.3.2007...<秋の発表会>人前で発表するのは、いつまでたっても慣れるということはありません。心臓はバクバクしますし、 自分の番になったら、弾く曲のメロディさえ忘れてしまうのではないかと心配になったりします。 リハーサルの間も、そわそわしてやたらとコーヒーを飲んで、たびたびトイレに走り、手を洗い ながら曲の出だしを忘れないように低く口ずさんでみたり、でもまた、控え室に戻ってきてよその人の ピアノの音が聞こえてくると、すごいなーと圧倒されて、私はああいうふうには、この先もずっと弾けないと 溜息ついたり、気分転換に散歩にでも出ればいいのですけれど、1年ぶりに会う参加者の人たちと、 ぺちゃくちゃおしゃべりもしていたいし、でもみんな気持ちは落ち着かないのですけれど。
そしていよいよ本番の時がきて、慌てずにゆっくりと言い聞かせていても、やっぱり無理です。 演奏後すぐに左手の音を外してしまって、そのまま弾いていたら悪循環になることは分かったので、 切りのいいところまで右手だけでのりきって(と言っても2小節分くらい)、後はなんとか普段と 同じように弾くことができました。わずか4分ほどの曲なのですが、終わった直後はぐったりでした。 でも一段落したら、みるみる緊張も解けて、すっかりリラックスして他の人の演奏をじっくり聴くことも できました。それぞれに個性的で楽しい発表会でした。この会が縁でロマンスになったカップルがいて、 男性の方の変わりように目を見張りました。あっ、この場合は耳ですね。とても溌剌として素敵な演奏で、 恋の力はすごいんだなーと感じました。恋する気持ちって良いですね。さて、おばさんは、どうやったら 上手くなれるのでしょう。
71.ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第28番、第1楽章 作品101 <4分14秒>練習を始めたときは、ちょっと太刀打ちできないなーと感じた曲ですが、練習するうちにどんどん好きに なった曲です。私には、この曲は、「人生は良いものだ」という励ましのような感じを受けました。 11.9.2007...<反省会>
今日のレッスンは、前半が発表会の感想と反省、後半に新曲の練習をしました。自分で考える 今後の課題は、音を作っていくということです。鍵盤は叩けば音はでるけれど、例えばある音は、 どういう音色になったら、曲の中で活きてくるのか、また、重音など同時に音をつかむことができなくて 、時間差で音が出たりしてしまうところなどです。どちらも私には本当に難しくて、沢山練習していかな ければ、身に付いていきそうにありません。しかし生意気にも音づくりについて考えるようになった (と言いますか、ピアノっていう楽器、鍵盤を叩けば音がでるってものでもないということが、ようやく 分かってきた)わけですから、小さな進歩はあったと思いたいものです。
新しく練習を始める曲は、ベートーヴェンの「6つの変奏曲」で、パイジェルロというイタリアの 作曲家の「水車小屋の娘」という歌劇の中の「歓びわれを見捨てぬ」という歌が主題となっているもの です。20小節という短い主題が6つ変奏していきます。この主題の曲は、屈託のない明るさがある ように感じます。それがどんなふうに変奏されていくのか、練習していくのが楽しみです。
11.16.2007...<第一変奏>ヴァリエーションというとどんなことを思い浮かべますか?CDでは、いくつか変奏曲を 聴いたりしたことはありますが、ピアノを習って、今回初めて変奏曲を教えてもらいます。 テーマの曲がいろんなふうに変化していって、聞いていて楽しいもの、弾けばもっとその 面白さを実感できるかもしれないと思っているのですが、でも変奏曲ってなんだろうと 考えると、知らないことばかりです。不思議なのは数。どうして変奏曲は、6つとか9つとか 15、30という数が多いのでしょうか。全体を構造物のようにとらえると、シンメトリーが とり易いから? また3という数字が何か関係しているのでしょうか? でもモーツァルトの 変奏曲の楽譜を見ていると、7とか8とか10の数の変奏曲もありますし、3という数字に こだわるのも変なのかもしれないとおもったりします。
手塚治虫さんは、このヴァリエーションを見事に視覚化して見せてくれます。鳩の ような原型の鳥の姿かたちが、その顔の表情まで含めて、華麗に、時には妖艶にさまざまに変化していきます。 これはベートーヴェンを題材にした作品にでてきますが、その変化の様に見入ってしまいます。 今回は、小さな6つの変奏曲ですが、何はともあれ、その一つ一つの変奏をたっぷりと見てみたいものです。 しかし、8分の6拍子のこの曲、変奏となると曲を膨らませていくわけですから、16分音符がずらりと並んでいます。 今日の第一変奏も、ああ、おしゃべりだな〜と感じてしまいました。それにしても、 指の動きが・・・。でも、始まったばかりですから、泣きごとはまだ早い、のです。季節は 一応冬、鍋のヴァリエーションも楽しみながら練習します。
11.30.2007...<変奏の前に元歌のこと>
今使っている楽譜は、全音楽譜出版社の「ベートーベン ピアノ名曲集」です。その一番最後の
曲の6つの変奏曲は、テーマ曲が、"Nel cor piu non mi sento" という題で、この楽譜では、
「歓びわれを見捨てぬ」
となっていますが、「うつろの心」という曲名で広く知られているようです。偶々この歌を聴く
機会があって、その歌詞はどんなだろうと興味を持ちました。イタリア語で歌われていたので、
聴いていた時には、意味がわからなかったのです。でも自分でピアノで音にしてみたときの
屈託なく明るい曲と感じた印象とはちがって、歌を聴いた印象では、どこか大人の歌という感じがしました。
それで、歌詞が知りたくなり、レッスンの帰りにイタリア歌曲集を見てきました。日本語訳も
載っていて、それを読むと、愛に苦悩する初老の女性の歌に感じられます(私の読みが間違っている
かもしれませんが)。文字面だけを追うと、割とシビアな曲なのかも、
と思ったりします。勝手な想像をもう少し、初老と言っても、40代くらいのような。
うーん、危険なんです、この年代は。まぁ、それはさておいて、今日のレッスンは、第2変奏に
入りました。左手の16分音符は、不思議と右手より動いてくれます。元歌から、いや、テーマから
第一変奏、第二変奏と弾いていきますが、第一の右手は、それはもう、話になりません。ガチガチの
力が入っています。脱力、脱力、脱力。なんとかならないものでしょうか。
見てきた歌曲集は、「全音楽譜出版、イタリア歌曲集1、畑中良輔編著」」でした。
近所の銀杏並木が、暖かい陽の光を浴びて黄金色に輝いています。早朝は、気温もかなり 低く冬の朝といった様子なのに、日中は少し早足で歩けば汗ばむほどで、今は冬なのか 秋なのか、季節がどんどん平らになっていく気がします。まぁ、晩秋とか初冬という 言葉もありますが、そういう語から受ける感覚とはまた違うような。
先週、立ち読みしていたイタリア歌曲集には、歌うときの注意点として、過剰に感情移入して 歌うのはよろしくない、ということが書いてありました。ピアノの演奏でもそうかもしれないと 感じます。素直な気持ちで音を紡ぐことができたら・・・。今はまだそのレベルとは掛け離れていますが、 ちょっと頭の中に留めておきたいことです。現実は、音符どおりにさえ弾けずにいます。固まって 練習したせいでひどい肩こりになって、あげくは頭痛まで始まりました。レッスンでは、指がガチンガチンに なって前に進めなくなったら、文字通り手取り指取り教えてもらっています。12個の16分音符を 分解するように、ここの箇所では力を入れて打鍵する、ここでは力を放出して打鍵する。あわせて 肘や手首の動かし方も教わります。その場で何回も繰り返しますが、小指はぐにゃっとするし、 他の指はバタバタします。頭では解ったつもりでも、の世界です。繰り返し指を動かして慣れて いくしかありませんね。思うように指が動いてくれる日が来るかもしれないですし。 次回は、第4変奏、短調に変わります。どんな感じになるのでしょう。
12.14.2007...<まあだだよ>先日友人と会っておしゃべりを楽しんでいたら、お孫さんのピアノレッスンのことが 話題となりました。二世帯住宅に住む5人家族の中で、今年から幼稚園に通っている 4歳の男の子が、突然にピアノを弾きたいと言い始めたのだそうです。友人のご主人、 つまりおじいちゃんは、大昔に親からヴァイオリンを習うようにいわれて、レッスンには 通ったものの、イヤですぐに辞めてしまったらしいし、不思議だわと言いつつも、今が チャンスと小さな電子ピアノを購入したそうです。幼稚園では、音楽に興味を持つ子は いてもピアノを習いたいという園児は他にいないらしく、その子一人のために ピアノレッスンのクラスが設けられ、先生の手が足りないからと外からピアノの先生が 来てくれているそうです。羨ましくなるような話です。で、どんなレッスンを受けているのと 尋ねてみると、<もういいかい><まあだだよ>などの短い言葉を使って音を叩いている のだそうです。先生と音で掛け合いをしているのかもしれません。なんだか微笑ましく楽しそうな レッスンです。
さて、おばあちゃんの友達のレッスンはと言えば、今日は第4変奏、短調に入りました。 音符も第3変奏までの16分音符から8分音符にかわって、やっとここで一息つけます。 それにしても短調は、実に物悲しい雰囲気です。それなりの気分に浸りながら第5変奏をちらっと見ると、左手で メロディを奏で、右手は16分音符の3連符がびっちり。ギョエーと、目が点になってしまい ました。第1変奏では、右手でバリバリ弾いて、第2は左手が登場、第3では、両手で交互に めまぐるしく弾いて、第4でホッとして、第5は3連符ときました。ついでに第6も見てみると 16分音符がずーと続いているのはもちろんのこと、ご丁寧に片方ずつの手の中に伴奏部分と旋律部分が ありました。ガクッ。変奏曲って楽しそうだからやりたい、と言ったのはこの私、後先を考えずに 選曲したことが悔やまれたりして・・・あああ、 うーんうーん、レッスンは楽しいぞ!!<イツニナッタラ弾ケマスカ?>ずっとずっと<マアダダヨ>かも。
12.21.2007...<伝わらなければ>
言葉の頭文字だけをローマ字で繋げて表記しても、それが一体何を指しているのか
分からないことが多い。無味乾燥な記号の役割を与えて、伝えることを最小限に抑えて
いるとしか思えないこともある。また、他国の言葉のカタカナ表記も、分かったようで
実際には訳が分からないまま一人歩きしている気がする。日本語に置き換えてみると、
何それ、というようなことにもなる。この間、日本で初めて海上配備型迎撃ミサイルの
発射実験が成功したと報道していたけれど、関連して10年までに首都圏を中心にパトリオットミサイルが
10箇所も配備されるらしい(すでに2箇所は配備済み)。このパトリオットにしても、英語では
「愛国者」という意味らしい、そうと知るとなんとも薄気味悪い言葉の重みが実感できる。
と、まぁすっかり
話はそれてしまったけれど、音楽だって伝わらなければ意味がない。記号としての音符を
意味のあるものとして理解できるまでに、自分なりに噛み砕いて演奏できるまでに果たして
どのくらいの時間が必要なのだろう。日々の練習では、延々と指が動かない、そればかりのような気もするけれど、
直截に気持ちの中に入り込んでくる饒舌な音楽の言葉を少しでも知っていきたいと思う。
うまく言葉で表現できないけれど、人が生きていく上で、音楽が教えてくれることは計り知れない
ものがある、そんなことがうっすらではあるけれど解ってきた。毎年、今日あたりが
年末最後のレッスンだけど、今年は、来週にもう一度。実際年末のこの時期、めまぐるしい
忙しさでも、その気になれば練習の時間は取れるもの。有難いと思って、第6変奏の練習開始です。
今日は今年最後のレッスン。朝、でかける前に20分ほど練習をしてみる。 指が硬い。昨日の午後は動いていたのに、一晩眠るとまたはじめからやり直し。 ぎりぎりまで指を動かしてみたけれど、時間切れです。ピアノに蓋をして、 楽譜をカバンに入れ、本格的に寒くなってきたので 厚手のコートを羽織って、坂道を転げるように駅へ向かいます。 第6変奏は、いままでよりは少し長いけれど、最後のレッスンでもあるので気張って楽譜の 終りまで一応音符を拾っていくことにしました。と言っても、つっかえつっかえでしか 弾けません。まぁ、それでよしと自分では思っていたのですが、教室で、これをやっていると 話にならないことをレッスン中に思い知ることになりました。今日は先生の弾かれる ピアノに付いていくことが完全にできませんでした。指の動きが止まって、ただ聴いている だけというのは、なんとも不甲斐無いものがあります。リズムも頭で追っているだけで、 身体では感じていないのです。自宅練習の組み立て方の失敗の見本のようなものです。 骨を折った割には効果のでなかったやり方でした。このもやもやした悔しい思いを良い方向へ 転化させるには、気持ちの有り様から変えることにします。気落ちした時にこそ、トボトボ歩きを止めて、 ほんのちょっと歩幅を伸ばせば(無理にでも)気持ちもいつまでもくよくよはしていられません。 何しろ身体全体で歩かなければ進みませんから、そんなことをしていれば気分も自然と前向きになりそうです。 そんな単純なの?そうです、単純です。ベースはピアノが好きだっていうことですから。 さて、今年もそろそろ幕を閉じます。変わり映えのしない練習記ですが、 お立ち寄りくださってありがとうございます。心から良いお年を!