承前、『もうひとりの・・・』
定期刊行物の中から拾った言葉。
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「川端康成作品におけるドッペルゲンガー的要素については、既に多くの指摘があり、それらは<構成>という手法の域を越えた根本的なモティーフであるといわれている。」「分身、二重身に最も近い双生児の登場する川端作品では、「古都」を先ず挙げねばならない。★
「そして問題は、「知られざる」だ。(中略)この言葉を付けさえすれば、どんなものでも怪しく見えてくるから不思議だと誰もが気がつくはずで、(中略)つい興味を抱く。」★
“The calendar is crammed with more events than I possibly can attend, even if I were cloned.”★
“A card says it belonged to man named Louis Bannet, who was know as “The Dutch Louis Armstrong””★
水原紫苑「名医K」(すばる)と三浦しをん「妄想炸裂」(草思)★
今橋映子と今橋理子書こう、仮構本かきくけこ
ここう本ブックレビュー@
大増刷出来!3刷15万部突破!!
と言っても、水谷の本のことではない。石原良純『石原家のひとびと』(新潮社)である。発売10日あまりで、この数字。慎太郎・裕次郎・伸晃・良純ら四兄弟。有名人親族に興味を持つ人は多いらしい。また、佐藤愛子の『血脈』も売れているようだ。俳人・小説家である父、佐藤紅緑、その父に「やつらのために、俺の寿命はどれだけ縮んだかしれやせん」と言わしめた四人兄弟の異母兄、八郎・節・弥・久、そして同母の六郎・早苗・愛子、さらに与四男という兄。これらの血族が全3巻、原稿用紙3400枚の小説に完結した。そこで思いだしたのが、去年の暮れに、秋田の小出版社から出された『はらから12組』である。
水谷は兄弟という言葉は使いにくいと言う。「きょうだい」とは、もちろん姉妹も含むのであるが、男ジェンダーに染まり過ぎたきらいがある。兄弟姉妹と言えばよいかというと、なぜ男が先で、姉妹兄弟と言わないかという問題が派生する。英語にsiblingという語があるように、ニュートラルな言葉を使いたいと思うが最適なものが見つからない。その中で、母系的な響きがあるが、「はらから」を一応使ってみることにすると、わざわざ断っている。評者である私は、12組のことごとくが戦前に生を受けているので、「時代背景」を考慮し、兄弟で女も含むとして使用する。
12組の兄弟とは、以下の通りである。
東北の出版社であるためか、4と7が福島と秋田の出身である。服部兄弟は須賀川の生まれで、兄は歌人、ケサは国立癩病院の基礎を築いた医師、仙子は大正前期に活躍した小説家である。安成兄弟は、貞雄・二郎は比較的知られている。もっとも人名辞典の記述の域をあまり出ない程度のところであろうが。評者は以前より安成貞雄に興味を持っていたので、12組の中でも、とりわけこの兄弟の部分に魅力を感じた。少し詳しく紹介したい。
つづく
書こう、仮構本かきくけこ
ここう本ブックレビューA
安成兄弟の父は、正治。四国艦隊下関砲撃事件(1864)に際し、乃木希典らと共に戦った
長州藩士。維新後、工部大学で学び、秋田県阿仁銅山で働いていたが、1884年、佐藤きみと結婚。正治38歳、きみ17歳であった。1904年に正
治は死亡。その間、貞雄(1885)、二郎(1886)、クラ(1894)、四郎(1900)が誕生。二郎直筆の年譜によれば、「四男一女
あり、皆な愚なり」とある。二郎以下四郎まで、単純な命名であるが、長男の誕生には、貞任・貞雄・貞宗の中から籤引きされ
たものであったらしい。コナン・ドイルの探偵譚を読んだ人は知っている。シヤアロック・ホームズが、疲労れた時、気の滅入った時、身体のだるい時、頭を神速に働かせなければならなぬ時 、其のポケットから小型の皮下注射器を取り出して、自分で自分の腕へ少量の塩酸コカインを注射する。助手で医者であるワトソンは其の廃止を勧告するが、ホームズは肯き入れない。
1917年当時、コカイン一瓶、75銭。貞雄にとってのワトソンは、星一(星新一の父)であった。1918年、星一が出してくれた金で、順天堂に2ヶ月入院した。つづく
書こう、仮構本かきくけこ
ここう本ブックレビュー最終回
貞雄が早稲田英文科卒業であるのに対し、年子の二郎は、父の死のため秋田大館中学四年で退学、事務員・職工などをしていたが、金尾文淵堂店員を皮切りに、サンデー、楽天パック・実業之世界・読売新聞・毎日新聞・平凡社と、ジャーナリストとして明治末期から昭和初期を経て、以後歌人として文筆に従事し、1974年、満87歳で死去した。歌人としての二郎については、斉藤英子(安成二郎おぼえがき―豊葦原瑞穂の国に生まれて来て米が食えぬとは嘘のような話―の歌人』に詳しい。明治四十年前後の、早稲田の文科生の一部の間には、よく『貞子嬢』という名が呼ばれた。花のような人、新しい洋画をかく人、そしてそれが下宿の娘で、高等の教育をも受けた人であったのだから、荒涼たる学生生活が、この『貞子嬢』によって彩れたものも少なくなかった。散文詩家のSなどは、在学四年半の間ずっとその下宿を変えずにいた。海外文芸の紹介者として知られていたYもいたことがある。自然の詩人なるWもいた。散文詩家のFもいた。始めてこの文章を読んだ時には、S、Y、W、Fはよく分からなかった。安成貞雄の経歴を知ると、Yは当然安成、Sは佐藤緑葉(1886−1960)、Wは若山牧水(1885−1928)、Fは福永挽歌(1886−1936)、そしてXは土岐哀果(善麿1885−1980)であろうと見当がつく。そして、女王『貞子嬢』は、「青鞜」に小説を載せていた小笠原貞子(1887−1988)である。保険会社勤務の奥村豊蔵と1913年に結婚、小説の筆を絶つも、百歳に渡った生涯の晩年には、再び油絵の筆を手にした。なお、八雲館は安成の卒業後、2年程で大洪水のため流され廃業した。
これらが一つの部屋に集まって、芸術を談じ、人生を語る時には、きっとそこに『貞子嬢』も坐っていた。この連中の間に流行した『ドミノ』という遊び、『貞子嬢』はそれが非常に上手であった。『八雲館』−それが下宿の名であった−は、当時まあ謂わば連中の遊楽場であった。そして、『貞子嬢』は実にその女王(クヰーン)であったのである。X生『新しき女』,1913年
兄さんの貞雄君が生活に執着力がなかったために大変な損をしていたと、別の性格の現れ方で、二郎君の場合では寧ろ生活に臆病であったために、思い切って芸術に没頭することが出来なかったとも言えるのである。
成功者の言は聞くべきであろうか。
(by 小栗持国)
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