明治21年1月29日(日)の東京日日新聞1面は「鯨大猟ニ付鯨肉発売広告」(日本橋区通1丁目 鯨猟鯨組)から始まる。土佐沖で18日に長須2頭、18日坐頭3頭、23日坐頭2頭コクジラ1頭を捕獲したので、鮮肉が到着したと知らせるものである。これを含め3つの広告が、暹羅国と修好通商に関する宣言を批准したとする勅令官報の前に置かれている。沿岸捕鯨は関東では房総半島で盛んであったが、寛政10(1798)年5月1日には、品川猟師町沖で惣長9間1尺(16.5m)の鯨が仕留められた。東京湾にも鯨が入って来た時もあったのである。鯨肉発売特別広告が掲載された新聞の3面下段に人魚に関する記事がある。
四谷の薬種屋に多年秘蔵する人魚があるという。人魚には種々の効能があるが、第一の特効は防火だ。火事の際には鼻から海水を吐き、鎮火に効ありと、徳川御三家の極め紙が付いている。(人魚ミイラは避病・延命以上に火防の力によって、大名家、豪商などに秘蔵されていた。)人魚の存否を研究するために、医科大学が四谷の人魚を借り受けたところ、頭部と体骨格を比較するに、遊泳可能のものとは思われなかった。動物学的見地からは、鯉と猿を嵌め込んだものと判明した。他の同様のものを検査すると、頭は猿、体はホウボウの結合であった。記事の結論としては、「干からびたる人魚が防火の特効あれば消火水や其他の器械は不用に属すべきが其昔は随分斯る奇特のもの無きにしもあらず今日は如何にや」と、迷信撲滅の啓蒙に努めている。
同内容の記事は、3日後の2月1日「東京絵入新聞」2面にも「人魚の研究」として伝えられている。人魚は拵え物と大学で結論されたのであるが、その2年後には、博物館が人魚を調べることとなった。「東京中新聞」明治23年8月19日号3面「人魚上京せんとす」によると、下総古河の豪商三村家にも人魚が伝わっていた。由来は、永禄4(1561)年4月、奥州金華山下の海中で網に掛かったもので、丈は1尺2・3寸、鼻の上に水を吹く穴がある。三村家では、床の間の置物として飾っていたのであるが、古河に巡回に来た藤波言忠(1853−1926、子爵、明治天皇側近)の眼に留まり、藤波が博物館員に伝えたので、照会があり、博物館へ送ることとなった。三村家にある由来書には、人魚の鳴声は「ザンゴロウ」と聞こえるとある。ザンは沖縄でジュゴンを指す語であるが、あるいは捕らえられた網の中で叫ぶ、無残・残念・残酷の「残」ででもあるのか。ゴロウはこれまでの人魚記述に出て来た、佐伯の「五兵衛」、あま彦に出会った「柴田五郎右衛門」などが思い出される。東京絵入新聞には、大木伯(喬任、1832−1899、枢密院議長)も、金華山下海中産の人魚を所持していて、猟師の話では二百年目には必ず一尾網に掛かると言う。
不思議の物を入手すると人々は物産会や博物館に送って、正体を極め、多くの人に見てもらおうをした。避病図にも「見てもらう」という意味があったが、明治の人々は科学に解明を求め、博物館を利用しようとした。明治16年、越後刈羽郡(先頃、原発プルサーマル住民投票があった)の猟師も人魚を博物館へ出品しようとした。同年、三重県尾鷲南浦念仏寺で催された珍奇共進会には、長さ8尺5寸の人魚が、珊瑚、龍角、三足牛、猫皮などと共に陳列された。また、明治10年、横須賀の漁師は、足のついた異魚を獲て、博覧会に出品したいと騒いだ。海外でも、ルイジアナで海蛇を格闘の末捕らえた水夫たちは、その頭部をワシントンの国立博物館に陳列して「学者の研究評判を仰ぐつもり」だと言う。啓蒙の時代、博物館・大学・博覧会は人々の憧れの場所であり、人魚・ミイラは最大の呼び物の一つであった。新聞もまた啓蒙の一機関であった。
by 櫛田公造
人魚来ると言う意味の立看板が私の心をそそる。入ってみれば何のこと、2メートルにはならぬスナメリというイルカがその正体であった。これを人魚即ちジュゴンと鑑定した水族館主は糾弾されねばならぬ。昭和10年4月6日東京荒川放水路岩淵水門傍で捕獲された“鯨”は“隅田川で鯨退治”というような見出しで東京の各新聞に特報され、翌日からは見世物になった。私は見物する機を逸したが、新聞紙上に掲げられた写真や見物に行った人の談から推してこれがスナメリであったことに疑い無い。とある。平田式水族館のスナメリは剥製に仕上げられ、何と黒田長礼の所蔵となったが、空襲によって失われた、と伝えるのも高島春雄であった。

1.国民新聞、昭和10年4月6日、夕刊2面
4月6日満州国皇帝の日本訪問で各紙号外が出るというこの時期、数日来、荒川に鯨が泳いでいるという噂が広まっていた。ところが、水門付近で回収されたのは男の溺死体であった。着ていた厚司が鯨と間違えられた(時事、4/6)。一件落着かと思ったら、海獣はやはりいたのである。6日朝に荒川堤近くに現れたのを、貸しボート業の高田助次が追い掛けて槍で一突きしたが潜行されてしまったので、一家総掛かりで捜索すること5時間余、放水路近くで再度見付け、槍で突きまくりオールで滅多打ちにして捕獲した。陸に揚げたのはイルカで、前身銀色を帯びており、花見客を見込み、ボート倉庫で、大人5銭・子供3銭(朝日)を取り7日から見世物にすることになった。イルカの種を特定しているのは朝日新聞のみ(ごんどう鯨)。写真を掲載しているのは朝日と時事。読売は槍で付いている所を挿絵にしているが、イルカの姿は不正確である。読売によれば、明治43年頃にもイルカの放水路付近への遡上があった。江戸時代であったならば、水死体とイルカが合体して、人面魚尾の怪物が江戸に出現とでもなり、かわら版の版行、見世物興行も盛況を極めることであろう。ともかく、イルカの種の特定を含め、事件の経緯と背景は一つの新聞記事だけでは窺い知ることは出来ない。各紙を総合することで、事件の輪郭は得られる。
by 櫛田公造
2001年5月21日の金子兜太選「朝日俳壇」には、浜田順子「若葉雨人魚となれず地に生まる」が採られていた。俳句、新聞、人魚と、三題咄ではないがつなげてみると、昭和2年4月18日「東京日日新聞」朝刊(7)面、「南欧遍路「人魚の糞」コスモポリートの俳句」が思い出される。吾に児女なし。春の夢人魚うまれし潮の色
イギリスの西方コーンヲルにも「人魚の像」の口碑あり。人魚は潮流に乗りて遠くイギリスに遊びしならむ。
春潮に黒髪ながき人魚かな収穫の秋。 月蝕めば人魚は糞をおとしけり
吾がこの詩集の名に題して。 人魚糞す伊太利亜の海月おぼろ
寒月
鳥飛て高台橋の寒の月
荒海に人魚浮けり寒の月
by 櫛田公造
殊に牝獣の幼児に哺乳する際其子を前肢に抱きて自己の如く児の頭を水上に支う其状幾と人類の遊泳するが如し其際若し事に駭きて波間に入るときは魚鰭に似たる尾部の水上に現わるるに由り印度洋を航海せる旅客は之を遠望して妄想を描き魚身人面の獣とか海女とか人魚とか呼称して種々の説をなせしより遂に世上の談柄となり又図画となり何国の諸書にも雑出するに至りしなり
と、今日までも引用され尽くされてきた合理的説明がなされている。
松原の「日本ニ於テノ儒艮」はM.N.の一文を受けて、「余ハ昨年官用ヲ帯ビ琉球各島ヲ巡回セシ際耳ニセシ琉球方言海馬(即儒艮ノコトナレドモ夫ノ地ニテハざんのいをト云ウ方分カリ易シ)ノコトヲ調ベタリ」と書き出されている。内容は、儒艮の生息は従来の琉球先島のみに限られて言われてきたが、琉球各島、奄美大島に産し、さらには鳥島、鬼界ケ島などにも生息域を広げることができるかもしれないとする。食草は方言でヒラナ(アマモ)、スソサ(コアマモ)と呼ぶ二種。一年を通じて見ることはできるが、捕獲が多いのは旧暦の3、4月。4、5頭連行することもあるあるが、大抵は単独か二頭連れである。生殖については不明の部分が多いが、土地の老人がいうことでは、儒艮は牡が多く牝は少ない。捕獲したものも牡ばかりである。その理由として、産児が牡の時のみ親獣がよく保護し、牝児は外敵に襲われやすいのだ、と伝えた。旧琉球藩時代は、新城島漁民に儒艮捕獲を課していた。旧暦3、4、5月の朔望の潮を伺い、まず舟三艘を出して海浜を捜索し、見付けた時は網を張って退路を遮断する。網はアダンの繊維製で、次第に縮めて行き儒艮を絡めて二艘の舟の間に挟み岸にあげ撲殺する。儒艮漁は旧藩時代のことで、皮を藩主に献上して、肉は村人が食し、内臓と肉の一部を煮て燈用油を得る。長さ1丈の儒艮から3升の油を得るだけだ。明治21年の時点では需要もないのでこの漁は行われてはいないが、松原の巡回中に石垣島河平村で、体長5尺5寸の若い儒艮を得たので、骨格を持ち帰った。以上が「動物学雑誌」に報告されたものの要旨である。琉球に海馬が産することは江戸時代から知られていたことであるが、分布域、食草、生態、漁法、活用法が一般に知られたのは初めてのことであったろう。
ほぼ同時期に出版された『水産調査予察報告』第1冊では巻末の第1図として儒艮が描かれている。陸に上げられたザンノイヨ(ヲ)は顔が少々おかしいものの全体の雰囲気は伝えているのではないだろうか。学名はHalicore indica, Desmを使用している。現在のジュゴンの学名はDugong dugonである。説明の「儒艮ハ海馬トモ称シ葢シ学問上クジラ、イルカト目ヲ同ウスル者ニシテ沖縄県地方大抵之ヲ見ザルナシ」はもはや分類上正確ではない。沖縄の儒艮が分布の北端に位置し、名護湾中に来泳することを記述していることは、昨今のアメリカ軍基地移転問題でのジュゴンの注目のされ方を思い出させる。
松原新之助はジュゴンの専門家ではない。養殖漁業に力を注ぐと共に、私立水産伝習所の創設に参加し、伝習所が後に官立水産講習所(現、東京水産大学)となると、専任の初代所長(1903-1911)を努め、1916年2月14日に亡くなった。松井魁の『書誌学的水産史並びに魚学史』に次のような記述がある。
欧米の学者の指導と刺激によって、日本人として魚学の熱心な研究者が現れた。
その代表的な者は、田中芳男、箕作佳吉、松原新之助、内村鑑三である。その後、大学の動物学科や外国に留学して学んだ者に石川千代松、岸上鎌吉、藤田経信、田中茂穂などが輩出し、日本の魚学を発展させる基礎を造った。
ここで指摘されている動物学者の多くには「人魚」についての記述がある。その最大の者は実は著者の松井魁その人でもあるのだが、それらについては追々お知らせして行こう。今回は、儒艮=人魚説が明治21年に現われていたこと、沖縄のジュゴンの報告が松原新之助によって明治22年にされていたことを紹介した。最後に、1868年第2版のJOHN TIMBS 著“STRANGE STORIES OF THE ANIMAL WORLD”にオーウェン教授(リチャード・オーウェン。1804−1892。恐竜概念の命名者)の言として、「人魚の実在説は明らかにギュヴィエの分類による二種類の海牛類―マナティーとジュゴンによるものである。」(p.329)が引用されていることを付け加えておこう。この書ではHalicoreは海の乙女、人魚の意味だと指摘している。
by 二龍是矢
これらの報告は琉球の黒岩恒(くろいわひさし)によってなされた。黒岩がシンノスケ2号というわけである。「儒艮の漁場」を東京動物学会へ送った時点で、黒岩は沖縄師範学校の博物・農業教諭であった。その経歴は、安政5(1858)高知県佐川町生れ(同町の出身者には3歳年下に牧野富太郎がいる)、家塾で学問の手ほどきを受け、その後各種の学校で学び、教員検定資格を得た。明治25年に沖縄に渡り、師範学校の教師を10年勤め、その間、沖縄の各島の生物調査に従い、「動物学雑誌」「地質学雑誌」「人類学雑誌」「植物学雑誌」に報告を載せるとともに、標本を学会に提供した。そのため、今日クロイワトカゲモドキ・クロイワハゼ・クロイワゼミ・クロイワランなど和名にクロイワがつく動植物が数十種類知られている。
チョコエッグ第2弾中のオビトカゲモドキは徳之島に棲息するクロイワトカゲモドキの亜種である。明治35年、国頭郡組合立農学校創設とともに校長に就任。同校が明治44年に沖縄県立へ移管の後も大正3年まで校長を勤めた。当時の沖縄県では「黒岩校長」として知れ渡っていた。その校長も、子供たちに早く死なれ、大正9年、沖縄を離れ和歌山県に移り住むこととなる。養子を迎え、昭和5年、高野口町で死去。ちなみに、高野口町隣の橋本市学文路の苅萱堂には人魚のミイラが保管されていて、時々博物館の展示で見ることができる。
ジュゴンの骨が上野の教育水族館にもたらされたのが明治40年のことである。この年、3月20日から7月31日まで東京府主催の東京勧業博覧会が上野公園で開催されている。「帝国画報」のグラビア頁「教育水族館」の説明書きには次のようにある。博覧会中見るべきもの多きが中に、又彼の水族館に至りては、流石に教育と云える二字を冠せるだけありて、或は海獣あり、魚介あり、海底あり、その他珍物人魚などありて、我が思想界の迷信を打破せるなどは、誠に其の名に背かざるものと謂うべし。
頭骨とともに飾られたのは、生体ではなく標本のジュゴンであったようだ。「理学界」にも関連の「人魚の記」が掲載された。その中で、「人魚というものは我が国では沖縄県下の近海で稀に捕れるものであって、同地では之をザンといい或は海馬というて居る。(中略)斯の如き珍動物を教育水族館に出品して、親しく其の実物を世に示し、以って古来の誤想を一掃することの機会を得たのは吾人の愉快とするところである。」と、人魚=儒艮だと宣言している。科学啓蒙思想の行き着いた一つの見解である。半人半魚の人魚は迷信で、研究すべきはジュゴンという海獣である。そのための解剖学的記述も「理学界」の記事にはある。それでも、沖縄ではザンの皮膚の乾物を鉋で削って吸い物に入れること、産気付いた妊婦にその煎汁を飲ませること、海馬は熟睡すると干潮で取り残されることがあり、農夫が死体だと思って牛に引かせたら、目覚めた途端、牛もろ共海に逃げ帰ったという奇談があることなど、興味深い部分も「人魚の記」にはある。また、「帝国画報」の記事「人魚の実物」の文末に、「人魚の肉」という笑い話が載っていたので紹介しよう。
明治の大久保彦左ェ門、時の総理大臣を招いて人魚の肉を御馳走した、何かと思ったらつまらぬ魚肉と蒜のごた煮である。首相あきれて「これが人魚の肉か」と語ると、彦左すかさず、「にんにく(人肉)の中に魚がはいって居ますので、それで、人魚の肉でござる−」
御後が宜しいようで。次回もシンノスケ3号で頁をふさぐ予定である。
by 二龍是矢