ドアスコープ



七夕の夜、会社帰りにバーゲンに寄って10時頃帰宅すると、なんかヘンでした。

部屋の入り口のドアについているはずのドアスコープが無くなっていて、

代わりにぽっかり穴が空いていたのです。

しかも穴の周りには油っぽいものでこすったような跡がべっとり付いていました。



「空巣ッ?!」穴から見る限り、部屋の電気は消えています。

ドキドキしながらドアノブをそっと回してみました。鍵はかかっているようです。

「でも、もし中にいたら・・・。」辺りを見回しましたがいつも通りの静けさで人気はなく、

お隣さんのドアスコープの向こうも真っ暗で留守のようです。

「もしものとき、周りには誰もいない・・・。」誰かに連絡した方がいいのかどうか、

数分間迷いながらドアの前に立っていました。その間ドアの向こうでは物音ひとつしません。



私は意を決してまずインターホンを鳴らしました。2回、3回。

それからドアを何度も叩きました。ドンドンドン、ドンドンドン・・・。

そしてまたノブをわざと乱暴に回しました。ガチャガチャ、ガチャガチャ。

それから鍵を差し込んで一気にドアを開け中に入りました。

まず電気をつけ中を見回しましたが、視界に入る限り朝と変わったところはありませんでした。

浴室のドアは開けっ放しにしていて、中はいつも通りです。

最後はベランダ。ゆっくり窓に近づいて一気にカーテンを開けましたが、鍵はちゃんとかかっていました。



部屋の中に誰かが入ったという可能性はほぼなくなりホッと一安心すると、

急に今までの自分の行動がおかしくなってきました。

そういえば、今朝部屋を出るとき、急いでいてドアを思い切り閉めてしまったので、

その弾みでドアスコープが外れてどこかへ飛んでしまったのかもしれません。

もう一度落ち着いてよくドアを見てみることにしました。



◆  ◆  ◆  ◆



玄関を見回すと、ドアスコープの内側からはめられている部分が下に落ちていました。

これはいよいよ弾みで外れた可能性が高いなと思って、

外へ出て薄暗い通路や下の駐車場を身をかがめてよく探しましたが、

外側の部分はやっぱり見つかりませんでした。

明るくなってからもう一度探してみようとドアを閉めたとき、

ふと見たドアの内側に、少なくとも朝までは絶対に無かった傷が付いているのを見つけました。

それは鍵の方へ向かって20cmくらい伸びていて、針金のようなもので引っ掻いたような傷でした。

その傷を見てそれまでの楽観的な気分が一気に吹き飛び、

次の瞬間にはマンションの管理会社の電話番号を押していました。



管理会社といってもマンションの仲介をしてくれた不動産屋が兼務しているので、

とっくに営業時間を過ぎたこんな時間にかけても電話は留守番電話になっていました。

でもひょっとしたら誰か残っているかもしれないし、

朝一番で聞いてもらえるなら早いに越したことはありません。

状況を説明してとにかく早く来てほしいという内容のメッセージを入れました。

それから開いた穴を缶のフタでふさぎ、上からガムテープで何重にも押さえつけました。



◆  ◆  ◆  ◆



こういうとき、本当は何でもないようなことでも、

身の回りで起こった全てのことが関係のあることのように思えてきます。

そういえば帰ってきたときガスと電気のメーターボックスが開けっ放しになっていました。

検針日でもないのに開いていたということは、

きっと留守かどうかを見るために開けたに違いありません。



そういえば昨日の夜10時過ぎにインターホンが鳴ったのですが、

友達じゃないし新聞代は払ったし、よく来るブリタニカの勧誘かなんかだと思って出ませんでした。

しばらくしてドアスコープから覗くと、

サラリーマンにしては軽装の20代後半くらいの男の人が、

手に紙袋を下げて同じ階の部屋のドアスコープを1件ずつのぞき込んでいるのを見ました。

ひょっとしてあの人が犯人で下見に来ていたんだろうか?



そういえば昨日帰ってきたとき、下のポストのフタが私の所だけ半開きになっていて、

上がってみると速達でもないのにドアの新聞差しに直接ハガキが入っていました。

ということは犯人は私が女だということも名前も知っていることになります。

もし偶然じゃなく、「わたし」だと知っていて狙ったんだとしたら?



そうなるともう気分はサスペンスのヒロインでした。

でもその時はもちろんそんなことを面白がっている余裕はありませんでした。

考え出すとどんどん妄想が広がってキリがありません。

その夜はしっかりドアチェーンをかけ、窓の鍵を何度も確かめ、

それでもこの私が3時近くまで眠れずにいました。



◆  ◆  ◆  ◆



翌朝、まだ営業していないとは知りながら、

7時から30分おきくらいに管理会社に留守電を入れてプレッシャーをかけ、

とりあえずいつも通り会社に行くことにしました。

会社で早速報告すると、「遅れてきてもよかったのにー。」と言われましたが、

午前中に全部の処置が終わるとは思えなかったので、

午後から帰るつもりで出てきたのでした。



会社から管理会社に電話すると、さすがに留守電メッセージの甲斐あって

既に換えのドアスコープを手配してくれているということでした。

そして一応警察に連絡するようにといわれたので家の近所の派出所に電話すると、

詳しく調べたいので立ち会ってほしいと言われました。



いよいよ午後から半休をもらうつもりで派遣会社に電話すると、

「半休はできないんですよー。午後からだと早退扱いになりますね。

もし有休ということになると午前中に働いた分が無くなってしまいますけど・・・。」と言われました。

派遣スタッフとして働くこと丸2年、今日まで半休が取れないとは知りませんでした。

かといって「有休」を取って働いた分をカットされるのはあまりに悲しすぎ、

仕方がないので「早退」の道を選ぶことにしました。



◆  ◆  ◆  ◆



家に帰って早速警察に連絡し、15分くらいして中年のおまわりさん1人と

若いおまわりさん2人の3人がカンカン照りの中、汗を拭いながら自転車でやってきました。

そしてほぼ同時に管理会社の人がドアスコープの換えを持ってきてくれました。



電話で話したことをもう一度簡単に話すと、

ドアスコープを壊されるというのは初めて聞くことだそうで、

私が電話したときもおまわりさんの最初の反応は「えっ?あれって外れるの?」でした。

ドアの傷については、穴から針金を入れて中から鍵を開けるというのは無理だから、

中に入ろうとしたのではなくてのぞきが目的のいたずらではないかということでした。

3人のおまわりさんのうち、実際に動いているのは中年のおまわりさん1人で、

その人がドアに開けられた穴の大きさや内側についた傷の長さを測ったり、

写真を撮ったりしながら私の話を聞いてくれました。

その中年のおまわりさんはスリムで短髪で口ひげをはやしていて、

「引っ越しのサカイ」の人にちょっと似ていました。



私はここぞとばかりに前日に起こったことなど細々と話しましたが、

おまわりさんの興味はそれよりもドアスコープのしくみの方にあるようでした。

サカイさんは玄関に残っていたドアスコープの部品と、

管理会社の人が持ってきた新しいドアスコープを見比べたり、穴にはめてみたり、

お隣さんのドアスコープを指でクリクリしたりしていましたが、

管理会社の人によるとドアスコープは偶然に外れるようなものではなく、

まずレンズを叩いて割って、それからネジを回して外さなくては取れないということでした。



それから被害届を出すかどうかの話になりましたが、

何かを盗られたわけでも中に入られたわけでもないので、

正式ではなく略式の届けを出すことにし、

名前と住所、生年月日と誕生日、実家の連絡先を知らせて、

次からパトロールの時はこのマンションも巡回してくれるということになりました。



◆  ◆  ◆  ◆



そんなこんなで私と警察の人が話していると、

どこかへ行っていた管理会社のまだ20代くらいの若そうなお兄さんが戻ってきて、

手にはなぜか「炊飯ジャー」をぶらさげていました。

「もしかしてお宅のじゃないですよね?」と聞かれてよく見ると、

うちの炊飯ジャーと全く同じものでしたが、うちのではありません。

なぜかそのジャーは階段の踊り場にある、

マンション共有のコインランドリーの電源プラグにコードが差し込まれていたそうで、

フタを開けると水の中に洗ったお米が入っていました。

「この様子じゃセットしてから1晩たってないな・・・。」

主婦のような発言をしたおまわりさんの視線は俄然この不審なジャーに釘付けになり、

私のことはもう過去のことのようでした。



お兄さんはおもむろにお隣さんのインターホンを鳴らし、

多分通路での全会話をドアの向こうで聞いていたと思われる彼にも

「炊飯ジャー、おたくのじゃありませんよね?」と聞きました。

案の定それだけで意味が通じたらしく「違います」と神妙な声が返ってきました。

ひょっとしたらお隣さんは、ジャーのせいで警察がやって来たと思っているかもしれません。



結論としては電気を止められた学生の住人がやったか、

近所の公園で野宿しているルンペンがやったのだろうということになり、

炊飯ジャーは管理会社の人が持って帰ることになりました。

ジャーの中のお米もまさかこんなに大勢の人の目にさらされるとは思っていなかったことでしょう。

多分きちんと分量を量って入れられたのだろう水の中で、

まだ水を含んでいないほっそりとしたお米が、

なんだかいっそう収縮していくように見えました。



◆  ◆  ◆  ◆



警察の人が帰ったあと、管理会社の人に新しいドアスコープを取りつけてもらいました。

が、新しいドアスコープは穴よりも小さいサイズになっていて、

いかにも「借り物」といったかんじです。

でも無いよりはマシということで、近いうちにまた交換してもらうことにして、

裏からテープでベタベタに固定してもらってひとまず完了ということになりました。



全部が終わったところで5時を過ぎていました。

事件が解決したとはいえませんが、警察に届けたことで気持ちが随分楽になり、

そうなると会社を早退してこんな時間にシャバの空気を吸えることが嬉しくなってきました。

私は早速京都駅へ向かい、お気に入りの大階段に座ってビールを飲みながら、

いつもの人間ウォッチングを始めました。



その頃にはドアスコープのことは自分の中では早くも消化されていて、

怖かったのは昨夜がピークであとは割と落ち着いていたように思います。

日頃からどんなに用心していても、こういうことは運・不運の問題のような気がします。

といっても一人暮らしの場合、夜中はドアチェーンをかけておくとか

手元に大金を置いておかないとか、被害を最小に留めるための用心は

やっぱり必要だと実感しました。それと、近くに信用できる他人がいてくれるということ。

これほど心強いものはありませんね。

ダメージがこの程度で済んだのもそのおかげだと思っています。

このことは実家の両親には報告しないことにしました。



ちなみに今回の事件が起きるまで、私は「ドアスコープ」という単語を知らず、

「のぞき穴」と呼んでいました。



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