| がんこ高瀬川二条苑 |
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阪急デパート前で待ち合わせをしていました。
ところが待ち合わせの時間から15分を経過しても叔父は現れません。
京都には学生時代からよく来ている叔父のことなので、道に迷う心配はしていませんでしたが、
私は叔父が現れないことに一抹の不安を感じていました。
その日はちょうど祇園祭の「還幸祭」でパレードが行われており、警備の警官がたくさん出動していました。
叔父は50代を目前にして半年間、ザックをしょって世界一周の旅に出たのですが、
ヨーロッパのある国では、駅で寝ていたらホームレスと間違えられて警官に追い出されたこともあったそうで、
そのいでたちにはいつもどこか年齢不詳、国籍不明なところがありました。
「ひょっとして『御用』になってるんじゃ・・・」
と思いかけたところに無事、叔父が到着しました。いろんな意味でホッとしました。
京都の暑さにやられてあまり食欲がないという叔父を、
私はお気に入りの老舗の麺処「大黒屋」に連れて行くつもりで木屋町へ向かいました。
暑さも寒さも関係なく、食欲だけは年中無休が取柄の私は、叔父には「ざる」でも食べてもらって
自分はしっかり「天ぷらそば」でも「ごちそうになろう」と勝手に段取りを決めていました。
ところが私の人並外れた方向感覚は、建築物に興味を持つ叔父と一緒に
「あのビルの壁がいい」「この喫茶店の窓がいい」とあちこちキョロキョロしながら歩いているうちに、
「木屋町を歩いていればそのへんに見つかるはず」とタカをくくっていた大黒屋をあっさりと見失い、
気がつくと先斗町の歌舞練場まで来てしまっていました。
◆ ◆ ◆ ◆
木屋町通りのほとりを流れているのは高瀬川。
高瀬川といえば森鴎外の小説「高瀬舟」でおなじみですね、って自分は読んじゃいないんですけど。
叔父は「昔はもっと水があった」と言いますが、普段は足首まで漬かるかどうかくらいの水位しかありません。
川幅はもうとっくの昔に狭められてしまったようで、今では舟が通れるような川ではなくなっているのです。
それでも春には桜並木、夏になると柳が涼しげにそよぎ、
昼間なら四条通りや河原町通りを歩き疲れたあとに来るとホッと和ませてくれる風景があります。
反対に夜になると、川を挟んだ狭い通りの両側には飲食店やカラオケボックスの入った雑居ビルがぎっしり並んでいるため、
遅くまで学生やサラリーマンなどで賑わう京都一の繁華街になり、ホッとするどころではありません。
そうなると私みたいな田舎者は、ワルい人に引っかからないよう荷物をしっかり持って、
ひたすら目的地を目指して競歩のように早足で歩くハメになるのです。
でもそんなときの私の顔の方がよっぽどコワイらしく、
これまで一度も危ない目どころか甘い声すら掛けられたことはありません。
その日は休日の昼間らしく人通りもまばらで、お昼ゴハンを食べようと思えばお店はいくらでも空いてそうでしたが、
私には「高瀬川」と聞くたびに思い出すお店がありました。
それが、「がんこ高瀬川二条苑」です。
叔父にごちそうになる(と勝手に決めている)手前、あまり敷居の高そうなお店は選べませんでしたが
チェーン店の「がんこ」なら大丈夫だろうと、叔父の意向も確かめないまま、
「いいお店があるから」とどこかの客引きのように強引にずんずん先へと進んでいったのでした。
◆ ◆ ◆ ◆
高瀬川に沿って三条通り、御池通りと進んでしばらく行くと、
一艘の舟が川に浮かんでいるのが目に留まります。
ここは高瀬川に舟が行き来していた頃にいくつかあった「舟入(ふないり)=船着き場」のひとつで、
一番源流に近い場所であることから「一之舟入(いちのふないり)」といわれている所です。
細長く底の浅い高瀬舟には酒樽や俵が積まれていて、酒処伏見の港と往来していた当時が偲ばれます。
その一帯にある数軒の古い家は川にせり出すように建っていて、
ひょっとしたら家から直接舟に乗れるようになっていたのかもしれません。
今はそこが舟入だったような雰囲気はなく、柳の下に記念碑が建てられ、
舟の周りをカモがスイスイ泳いでいる、そんなのどかな風景になっています。
「がんこ高瀬川二条苑」は一之舟入の斜め向かいにあって、
背の高さ以上の石垣で1,100坪の敷地を囲まれているため見過ごすことはまずありません。
石垣はあとから造られたものなのか、石質のせいなのかあまり威圧感は感じられませんが、
もしもそこに見慣れた「がんこ」の看板がなかったら、どこかのお屋敷か高級料亭と間違えてしまうような雰囲気ではあります。
それもそのはず、この「がんこ」はその昔高瀬川を拓いた角倉了以(すみのくらりょうい)の別邸で、
その後様々な人を経て明治の政治家・山県有朋(やまがたありとも)の別邸として用いられたお屋敷だったのです。
山県有朋の別邸といえば、南禅寺の近くにある「無鄰庵(むりんあん)」が有名ですが、
ここは「第二無鄰庵」と言われていたようです。
◆ ◆ ◆ ◆
門の前に立て掛けられたそんなご立派な由縁を読んでしまうと、いくら「がんこ」とはいえ心臓は高鳴り、
小心者の叔父と姪の視線は自然と「お品書き」とサンプルケースに釘付けになるのでした。
叔父が自主的に1歩踏み出すのを確かめてから後に続いて門をくぐると、
入り口までは石畳の露地になっていて打ち水がされており、いわゆる「京都」な雰囲気が醸し出されています。
でも入り口そのものはまだ新しそうな自動ドアで、「グイーン」という音と共に「がんこ」を感じさせてくれました。
お店に入ると和服姿の店員さんが「いらっしゃいませ」と迎えてくれ、
靴を脱いで1つずつに鍵のついた木製の下駄箱に預けるとスリッパはありません。
その日ちょうど素足にサンダルだった私は、足袋をはいてススッと滑るように歩いていく店員さんの後を
ぺったぺったと歩いていかなければなりませんでした。
古い建物をそのまま使っているということで、ミーハーな私としては床や襖はもちろん柱の傷までに
「歴史」を感じずにはいられませんでした。覚えているだけでも洋間が3つに和室が8つくらいはあり、
ひとつずつに「東山」「円山」「衣笠」「嵐山」といった京都らしい名前がつけられていました。
この命名は「がんこ」の仕業のような気がします。
長い廊下を何回も曲がって案内されたのは、普段は使っていないという「加茂」というお茶室のひと部屋でした。
10畳ほどの和室には机が4つ用意されていて、窓辺に立つとすぐ下に鴨川が流れていて、
斜め左には如意ヶ岳、いわゆる「大文字」がくっきりと見えています。
私はこんなところにくつろぎながら送り火を見物できる場所があったなんて考えたこともなかったので、
あまりの見晴らしの良さに驚くとともに、いつか人込みの中でもみくちゃにされながら汗ぐっしょり、
体ぐったりで見た大文字焼を思い出さずにはいられませんでした。
席に座ると店員さんがおしぼりを手渡してくれながら、
お昼の特別懐石(\2,800〜)のメニューをひとつずつ紹介してくれましたが、
叔父と姪は「うわあ、すごいなあ」「そんなに食べきれるかなあ」と大げさに反応しながら一応説明を終わりまで聞くと、
示し合せたように同時に懐石以外のメニューのページを開いてお手軽な定食を注文したのでした。
お料理は「がんこ」のせいかお部屋のせいか、とてもおいしくいただけました。
◆ ◆ ◆ ◆
食事のあと、迷ったと見せかけてあちこち探検していたところ、空いている4畳半のお茶室を見つけました。
あまり雰囲気がよさそうなので上がり込んでみると、小窓から見えるお庭がまた素敵でした。
叔父も姪も「ここで本読みたいな」「ここで昼寝したいな」などと勝手なことを言っていると店員さんに見つかりました。
「素敵なお茶室ですねえ。お庭も気に入りました。」なんて気取って言ってみると、店員さんは誇らしげに語り始めました。
「ありがとうございます。そのお庭は小堀遠州作のお庭でしてね、
禅宗のお庭ということでワビ・サビがありますでしょ…。」
なるほど、小堀遠州といえば江戸時代のマルチ人間で、南禅寺のお庭を作った人でもあります。
笑顔でそそくさとそのお茶室を出て、性懲りもなく別のお茶室を覗いていると、また別の店員さんに見つかりました。
ひとつ覚えで「ここのお茶室は素敵ですね。」と言うと、
なんと今度は「ありがとうございます。このお茶室はもうすぐ文化財になる予定でして、
そうなるともう公開できなくなるかもしれないんですよ。」とのことでした。なんと「がんこ」に文化財とは…。
普通のお茶室が4畳半なのに対してそのお茶室は2畳しかなく、
当時からきっとごく親密な人同士か身分の高いお客さんにしか使われなかったんじゃないかと思います。
そこからもお庭が見えていましたが、私も叔父もさっきのお庭の方が気に入っていました。
そのことをその店員さんに言うと、「ありがとうございます。あちらのお庭は小堀遠州作のお庭でして、
禅宗のお庭ということでワビ・サビがありますでしょ…。」
どうやら店員さん教育はバッチリのようでした。
ロビーまで行く間、そんなふうにあちこちの部屋を覗きながら歩いていると、外国人の行列に行き当たりました。
それはツアーのお客さんらしく全員が胸にバッジをつけていました。
行列の先はお手洗いで、入り口では添乗員らしきお姉さんが手を挙げながら
「ジャパニーズスターイル!」「ウエスタンスターイル!」と叫んでは並んでいる人を案内していました。
外国人観光客にとってはイメージ通りの「お食事 In 京都」だったことと思います。
◆ ◆ ◆ ◆
さて、すっかり「がんこ」を宣伝してしまいましたが、
私がここに来たかった理由は食事ではなく、実は「高瀬川源流庭苑」を見たかったからでした。
「ちょうど」お昼時で「ちょうど」叔父と一緒だったので食事までしてしまいましたが、
ここで食事をしなくても無料でお庭だけ見せてもらうこともできるのです。
ここのお庭は、さっきのお茶室から見えた小堀遠州作のお庭を別にすれば、
小川治兵衛という人が基礎を作ったそうで、1,100坪の敷地のうちの80%が地泉回遊式庭園になっています。
小川治兵衛という人は明治の庭作りの名人で、無鄰庵や平安神宮の作庭も手がけた人です。
このお庭には全国から集めたという巨大な石があちこちに置かれていたり、
滝が流れていたりする豪勢な作りになっています。
どの石も相当高価なものらしく、案内係のおじさんに「何処其処の○○石」と自慢されてもチンプンカンプンでしたが、
ひとつだけ「君が代に出てくるさざれ石」はわかりました。
それはこぶし大の石で川の水に浸かっていましたが、さざれ石は水に当たると音を出すのだそうです。
でも蝉の声のせいかあんまりよくわかりませんでした。
ここの水は鴨川から引かれていて、このお庭を通って木屋町通りの下をくぐり、
先ほどの一之舟入へ出て「高瀬川」となるわけです。
高瀬川はこのまま十条のあたりまで続いて鴨川を越え、そして伏見へと続いて海運が行われていたそうです。
私は高瀬川の源流が鴨川だということすら知りませんでした。
高瀬川を拓いた角倉了以。京都と大阪を結ぶ海運の起点が自分の屋敷の庭だったなんて、
当時の豪商だったからこそ成せる業だったんでしょうね。
お屋敷といい、お庭といい、さぞかしご自慢だったことだろうと思います。
そしてそんな庭園付きお屋敷を手に入れた「がんこ」もさぞかしご満悦でしょう。
小市民の叔父と私は、いつの日かあの「加茂」ひと部屋を親戚一同で借り切って、
ゆったり涼しく「大文字」を見物しようというささやかな夢を胸に、
「グイーン」というドアの音に送られながら「がんこ」を後にしたのでした。
でも個人的には阪急の「河原町」もしくは京阪の「四条」「三条」あたりで降りて、
ブラブラ歩きながら行かれるのをオススメします。