昼下がりのマッサージ



それまで私にとって「マッサージ」とは、父との交流を図る手段であり、

それはいつも無償のものであったために、お金を払って他人に体を触られるリスクを負ってまで、

世間一般の人の通う「マッサージ」に行こうと思ったことはありませんでした。



ところが、大学を卒業してアルバイトをしながら職を探していたある日、

家から歩いて1分のところに「クイックマッサージ」がオープンしてしまったのです。

ありがちなことに家のポストには毎週のように相当力の入ったチラシが配られ、

街中でよく見かけるクイックマッサージが10分1200円なのに対し、

そこは街中ではないためか10分1000円となっていました。



そして、その頃しばらく実家に帰っていなかったこともあり、周期的な腰痛と猫背と「右肩下がり癖」に悩んでいた私は、

いつもなら捨ててしまっていたであろうそのチラシをしつこいくらいに熟読していました。

そのチラシにはたしか「姿勢が悪いと健康にも影響が!マッサージで治ります!」

というような太字の宣伝文句が躍っていたように記憶しています。

「右肩下がり癖」というのは当然のことながら私が勝手に名付けたのですが、

写真を撮るとき、自分ではまっすぐ立っているつもりなのに、

出来上がった写真を見るといつも大体右肩が下がって写っているのです。

そのことを父に言うと、「それは家の血統なんだ。お父さんもそうだもん。」となぜか得意げで、

父と私の二人だけなのに「血統」と言い切るところはさすがですが、

治してやろうなどとはこれっぽっちも思わないようでした。



姿勢が悪いと健康に悪影響を及ぼすというのはテレビでも見たことがあり、

そういう時に限って日頃の不摂生な生活を棚に上げて、

自分の体の調子が悪いのは全部姿勢のせいに思えてくるから不思議です。

「安い!」「近い!」「健康のため!」

となんでもいいから3拍子揃うと納得してしまうのが私の浅はかなところで、

そうやって理由を並べ立てるうち、近所にオープンしたのも神様の思し召しに違いないとまで思うようになり、

次にどこか調子が悪くなったら行くことにしようと決心したのでした。



◆  ◆  ◆  ◆



デビューの日は案の定すぐにやってきました。

その日も就職活動でスーツを着ていたために、じっとしていても痛いほど肩が凝っていました。

面接が終わって最寄りの駅に着いたとき、時間は1時半頃だったと思います。

アルバイトに出かけるまで、まだたっぷりと時間がありました。

クイックマッサージは家までの帰り道にあり、覗いてみたところ空いてそうな様子でした。

ここでもまた「肩凝った」「時間ある」「空いている」と3拍子揃ってしまい、

今までの警戒心はどこへ行ってしまったのか、吸い寄せられるように中へと入っていったのでした。



靴を脱いで中へ入ると、空いているどころか「受付」とされているところにさえ人影はなく、

代わりに「ご用の方は鳴らしてください」とベルが置いてありました。

「ひょっとしてアヤシイ所へ来てしまったのだろうか」と一瞬ひるみましたが、

室内にはまだ新しいパステル調のかわいらしいソファが置いてあって、

木目調の机の上に置かれている雑誌も「JJ」や「anan」などギャル向けのものが多かったため、

「きっとたまたま空いているだけに違いない」と自分に言い聞かせ、思い切ってベルを鳴らしてみました。



出てきたのは白衣を着た先生自身でした。

マッサージ師といえばおじさんかおばさんを想像していたのですが、

その人は年齢30才前後、スラリとした長身、長髪のオトコマエ。

しかも私好みなことにワイルドな雰囲気で口髭を生やしていました。



◆  ◆  ◆  ◆



「マッサージをお願いしたいんですけど・・・」おずおずと話しかけると、

「初めての方ですね?ではこちらに記入してください」と問診表を渡されました。

それには名前や住所を書く欄の下に、体の全身を描いた図があって、

「調子の悪いところに○をしてください」とありました。

私はここぞとばかり、思いつくままに「首」「肩」「背中」「腰」「脚」「足の裏」と、

上から下まで隙間もなくなるくらい○をつけていきました。



しばらくして先生が出てきて、「今日は何分コースにされますか?」と聞かれました。

私は迷うことなく「10分コースでお願いします」と答えました。

すると先生は私が渡した問診表を見ながら、

「これだけ○がついていると10分じゃ足りないですよ。45分の全身マッサージコースというのもあるんですけど、

そちらは予約制なので、とりあえず20分コースでどうでしょう。お時間ありますか?」と言われました。

私はまさかこの10分で全部やってもらうつもりで○をつけたわけではなかったのですが、

そう言われるとそれもいいかなと思ってしまい、時間もあることなので20分コースをお願いすることにしました。



◆  ◆  ◆  ◆



案内されて奥へ入ると、その部屋には病院の診察台のようなベッドが5台置かれていて、

それぞれの周りにカーテンが付いていました。ベッドは全部空いていて、先生以外に人はいませんでした。

私は一番手前のベッドで、手渡されたモスグリーンのスウェットスーツに着替えるよう言われました。

そのスウェットスーツはきちんと洗濯された匂いがしましたが、

首回りやパンツのゴムが伸びていて、どう見ても休日におっちゃんが家の中で着ているアレでした。

こんなことなら自分のを持ってくるんだったと思いながらも、着替えてベッドに腰掛けていると、

カーテンの外で「準備できましたか?」と声がして、返事をすると先生が入ってきました。

嫁入り前の娘としては、おっちゃんスーツに身を包んだ姿を若い男性に見られるのは耐え難いものがありましたが、

ここはクイックマッサージだと割り切ることにして、言われるままにうつ伏せになりました。



そんな私の気持ちはもちろん一方通行だったようで、

「じゃあまず肩からいきますね」というクールな声と共に先生の手が肩に触れました。

はうっ・・・!!その気持ち良さはハンパではありませんでした。

生まれてこのかた、父以外の人に肩を揉まれたことなどなかった私ですが、

これまで父以上にうまい人などいるはずもないと信じて疑いませんでした。

しかしその気持ち良さといったら、この世の感覚とは思えないほどだったのです。



「ああ、ずいぶん凝ってますねえ」先生が言いました。

肩を揉んでもらって何が悲しいかって、

「なんだ、そんなに凝ってないじゃない」と言われることほど悲しいことはありません。

反対に「凝ってますね」と言われると、ツライはずなのになぜか嬉しくなるのです。

「そうですか・・・。はぁ・・・。気持ちいいですう・・・。」といいながら、

私はあまりの気持ちの良さに早速夢と現実の境界をさまよい始めていました。



肩の次は背中でした。背中といえば父の「バキバキ」でしたが、

先生はあくまで下から上へと撫でるようにマッサージを続けていきます。

ツボ押しの痛みとは別世界のマッサージの気持ち良さと、体に程よく先生の体重がかかることによって、

無意識のうちに「ハーッ、ハーッ、・・・」と妖しげな吐息が漏れ始めていました。

その後も腰、腿、ふくらはぎと、私が○をしたところを全て網羅するかのように至福のマッサージは続いていきました。



新たなお客さんが来ることもなく、その部屋には依然として私と先生の二人きり。

しかも私は相変らず「ハァ、ハァ、気持ちいい・・・」を繰り返し、

もしカーテンの外に人がいたとしたら、「それ」は誤解されても仕方のない光景でした。



◆  ◆  ◆  ◆



そうこうしながら先生の指が私の足首を優しく包み始めたときには、

ほとんど夢の中だった私もさすがにもう20分は過ぎていることに気が付いていました。

そこで先生に「もう20分過ぎてますよね?」と聞いてみると、先生は事も無げに言ったのです。

「ええ、それどころかねえ、もうすぐ2時間になりますよ」

にっ、ににににに、2時間?!

いくら「光陰矢のごとし」とはいえ、2時間も経っていたとは思いも寄らないことでした。



私の脳はその言葉によって一気に覚醒し、すぐさま計算を始めました。

「10分で1000円ということは2時間だったら、ににににに、にまんえん?」

ただでさえ計算が苦手な私の脳みそは、不意打ちを食らっていっそう狂っているようでした。

冷静に計算し直したところで1万2000円なんて大金、お財布を逆さにしたって出てきやしません。

そうなると、それまですっかり身を任せてフニャフニャしていたくせに、

「ああ、やっぱり来るんじゃなかった。こんなことだから誰もお客さんがいなかったんだ。

ヒゲも生やしてるし、長髪だし、きっとあっち系のヤバい人に違いない」と妄想は止まるところを知らず、

もしも「払え」と言われたら、ひるまずビシッと「そっちが勝手に時間オーバーしたんだから!」とでも言ってやろうかと、

ベッドにうつ伏せになりながらも徐々に戦闘態勢を整えていったのでした。



マッサージはなおも続いていましたが、頭の中はパニックでもはや無感覚でした。

先生は急に私の「ハァハァ」が止まった理由を察したかのように、手を動かしながら言いました。

「あのう、いいですよ、これサービスですから。お時間は大丈夫なんですよね?」



なな、なんとっ!!地獄で仏というか、天国で天使とはこのことです。

私の不安は一気に安堵に変わり、思わず涙が出そうになりました。

それでもにわかには信じられず、払うつもりもなかったくせに「えっ?いいんですか?」と言うと、

「ええ、だってお客さんノセるの上手いんですもん。

あんなに気持ちいいって言われたら、マッサージ師冥利に尽きるっていうか、嬉しくなっちゃうんですよね。

今日はお客さんも来ないし、いいですよ」と言ってくれました。



◆  ◆  ◆  ◆



私はこのときほど父に感謝したことはありませんでした。

なぜって、父こそノセるほどマッサージを続けてくれる人だったからです。

そのため、私は子どもの頃から父にマッサージしてもらったら、

気持ちよかろうが痛かろうがとにかく「褒める」ことが習慣になっていたので、

今回のように本当に気持ちよかった場合、心から「気持ちいい」と言っていたことは間違いありませんでした。



その後はまた「ハァハァ」が復活し、最後に「首」をしてもらってマッサージは終了しました。

体は生まれ変わったように軽くなり、服を着替えて外に出ると受付で先生が待っていました。

料金は初めに言った通り「20分」分の2000円でした。

まさに快感とスリルを一度に味わう「火曜サスペンス(略して「火サス)」のような2時間ドラマの後だっただけに、

先生とはもう他人ではないような空気さえ漂っていましたが、

「また来てくださいね」「はい、また来ます」といって別れたものの、それから2度と行くことはありませんでした。

ドラマはやっぱり1度きりでなくてはならないのです。



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