| 西陣を歩いてみれば |
| 写真はいつかまた。 |
西陣は言わずとしれた「西陣織」の街。
今もその界隈を歩くと普通の一軒家の中からカシャンカシャンと機を織る音が聞こえてきます。
また昔からの家が多いらしく、家と家がこれでもかというくらい密着して建っていて、
その間の細い路地は、昼間から町中揃って留守なのかと思うくらい
しんと静まり返って人通りもありません。
3月のある日「千本えんま堂」を訪れたとき、
京都の「通称寺めぐり」というおもしろい本を見つけました。
「千本えんま堂」というのも実は通称で、
正式には「引接寺(いんしょうじ)」というのだそうです。
その本を見ていると、西陣にはほかにもいくつか通称のついたお寺があり、
せっかくなので行ってみることにしました。
◆ ◆ ◆ ◆
まず最初に目に付いたのは、えんま堂の一番近くにあった称念寺(しょうねんじ)、
通称「猫寺(ねこでら)」でした。
謂われを見ると、江戸時代の住職が飼っていた猫に恩を受けたため、
そう呼ばれるようになったそうです。
手元に地図はあるものの、路地が多くてわかりにくかったので、
途中のスーパーで立ち話をしていた3人連れのおかあさんたちに道をたずねることにしました。
「すみません、ちょっとお尋ねしたいんですが、
この辺に猫寺というお寺があると聞いたんですが・・・」
同行してもらっていた京都人の☆さんが丁寧に道をたずねると、
おかあさんたちも丁寧に一人ずつ同じことを教えてくれました。
先に訪れたえんま堂のご住職と係の方たちがとても親切だったので、
私としては「この辺の人たちは親切なんだな。観光客も多そうだし、
道を聞かれるのにも慣れてるんだろうな」といいイメージを持ちました。
2人でお礼を言って立ち去ろうとした矢先、一人のおばちゃんが言いました。
「あんなあ、『猫寺』違ごて『称念寺』言うんやで!」
ほかのおばちゃんも笑いながら口々に「そやで!ちゃうで!」「そやで称念寺やで!」
その迫力にすっかり圧倒され、愛想笑いを浮かべながら会釈して歩きかけると、
「ほんまになあ、最近はカメラ持った若い人がこの辺をチョロチョロと・・・」
と背後からさっきのおばちゃんたちのヒソヒソ声が聞こえてきました。
◆ ◆ ◆ ◆
それは確かに親切な一言だったのかもしれません。
でも・・・。これが世に言う「京都人気質」なのでしょうか。
よそ者の私は、めったにこういう「近所のおばちゃん」たちの会話に出会うことがないため、
実物に出会ってなんだか嬉しくなってしまいました。
西陣のわりと近所に住んでいる☆さんは「やっぱりこの辺やなあ」と苦笑い。
私もこの日はカメラをバッグに入れていたので「外に出してなくてよかった」と笑っていると、
前を歩いていた頭の薄いおじさんがクルリと振り向き、
「そんなん言うたらあかん!ここら親切なとこやろ!意地悪言うたらあかん!」
・・・怒られてしまいました。
まさしく神出鬼没。壁に耳あり障子に目あり。どこで誰が聞いているかわかりません。
◆ ◆ ◆ ◆
やっぱりこういう古くからの街では近所同士でいろいろあっても、
「外」に対しては一丸となるものなのでしょう。
冷や汗をかきながら教えられたとおり「称念寺」へたどりつくと、
門前には京都市が設置したらしいまだ新しい看板が立っていて、
カッコはついていたものの黒字でくっきり「猫寺」と書かれていました。
しかも英語の説明ではそのまま「Cat Temple」。
ここまでしておいて「猫寺」じゃなくてなんなのでしょうか。
そもそも「猫寺」と呼ばれるのが気にくわないなら
初めから「通称寺めぐり」の本なんかに載せなきゃいいのに。
でも「通称」というのは、「外」の人に知ったかぶりして言ってほしくない、
自分たちの間だけで通じるものであってほしいという気持ちはわかります。
なんだか町の人たちの「おもしろくなさ」を想像するとおかしくて、
看板の前で大笑いしてしまいました。
◆ ◆ ◆ ◆
そんなことを話しながらまた細い路地を歩いていると、
今度は向かい同士の60代くらいのおかあさんがエプロン姿で立ち話を終えて
それぞれの家に戻っていく場面に出くわしました。
何気なくその場を通り過ぎるつもりが、
またもや衝撃的な出来事を目の当たりにしてしまったのです。
なんの話をしていたのかは知りませんが、
別れ際一人のおかあさんが自分の家の玄関で「そら結構なことでしたなあ」と言いました。
が。言い終わらないうちに体は家の中に入っており、
もちろん相手の方は見ないまま戸を閉めてしまいました。
普通こういう言葉は相手の顔を見ていうものではないのでしょうか。
相手の人も怒るはず・・・ともう一人のおかあさんをみると、
こちらも背中を向けて「へえ」と言いながら、やっぱりそのまま中へ入っていきました。
これがこの辺の近所づきあいなら、何も言うことはありません。
私も☆さんも、しばらく無言でした。
◆ ◆ ◆ ◆
でもこういう「本心がわからない京都人気質」というものは、
他府県の人に何かと批判的な言われ方をすることが多いように思いますが、
私はそういうところも嫌いではありません。
それも「京都らしさ」だと思うのです。
といって、よそ者の私がわかったふうなことを言うのも、
京都の人は気にくわないかもしれません。
京都に来て7年とはいっても、
一人暮らしでは地元の人とのつきあいもほとんどないままに過ごしてきました。
街を歩いてもお寺へ行っても、そこには同世代の人や観光客が多くて、
「素」の京都の人に近づけることはほとんどありません。
アルバイトをしていた頃は、パートのおばちゃんたちの会話がそれでした。
誉めているのかけなしているのかわからない、
だから返事も同意しているのか反対しているのかわからない。
そういうやりとりを無関係な立場で聞いているのは楽しく、
会話に混ざらなければならないときはスリル満点で刺激的でした。
◆ ◆ ◆ ◆
だから私にとっては西陣のような京都らしい街で、
偶然そんな場面に出会えたことはむしろ嬉しかったりするのです。
私は京都では自分は「よそ者」だと思っています。
でもそれはネガティブな見方ではありません。
私が京都にいるのは、ふらりと旅行に来てみて、
そこが気に入って住み着いてしまったようなもので、
どんなことも「京都らしさ」として外から見られる今の状態が気に入っているのです。
西陣には、えんま堂や釘抜き地蔵など、
地元の人たちが日課のようにお参りに集まる場所があります。
そんなところへ出くわしたら、しばらくカメラとおしゃべりはお休みにして、
周りの人たちの様子を観察してみてはどうでしょうか。
きっと、観光地では滅多に見ることができない「京都らしさ」に出会えると思います。