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「いたわり」とか「いたわる」という言葉は極めて日常的な言葉で知らない人はいないが、「漢字で書いてみなさい」と言うと、多くの人が考え込んでしまう。そして、自信なげに「慰たわる」とか「癒たわる」などと書いてしまう。情け無いが、正しく「労(いた)わる」と書ける人は殆どいないのである。ということは、「いたわる」という意味を正確に理解している人も意外と少ないのではないだろうかということである。
確かに「いたわる」という行為には、「慰(なぐさ)める」という行為や「癒(いや)してあげる」という行為も伴っていることは間違いない。「いたわり」という行為は、「労わり」と書くように「労を厭わず思いやる行為」であることを意味している。しかも、「労を厭わず」という言葉は、報酬や対価を予定しない奉仕の行動であることを意味しているのである。つまり、善意の行動なのである。
善意に対する言葉は悪意ということになるが、善意とは「他人に対して良かれ」と思う無償の気持ち(意識)であり、悪意とはその反対に「他人を落とし入れよう」あるいは「他人を害しよう」と企図する意識である。一面から見れば、無償を境に善意と悪意が分かれているとも言える。そして、これらが言葉や態度や表情や行動に意図的にあるいは無意識的に現れる発現の仕方に大きな個人差があるところに問題がある。早く言えば、感謝心の有無や強弱の問題である。
例えば、多くの企業において当番制というものがある。掃除当番、お茶碗などの後片付け当番、早番遅番などの待機当番などが一般的であるが、この当番制がどのように運営されているかによってその企業風土に「労わる」という倫理的価値観が育まれているか否かが分かる。当番制というのは、一見、合理的な制度のように思いがちであるが、実はそうではない。当番制とは義務の強制なのである。義務の強制と労わりとは相反するように見えるが、十分共存出来る。
例えば、「労わる」心のある人は、当番外の日でも早く出社した時は自ら進んで当番の人の掃除を手伝う。手伝うのが嫌だから出勤を遅くするような人ではない。誰の当番のときには手伝い、誰の当番の時には手伝わないといった分け隔てのない人である。朝の忙しい時に率先して手伝ってくれる仲間に感謝しない人はない筈である。善意が溢れた労わりの行動と言える。そうは言っても気持ちの何処かには、自分が当番のときにも手伝って貰えるだろうという淡い期待感めいたものがないとは否定できないかも知れない。
「労わる」ことが出来ない人は悲しい人である。自分が労わられていることに気が付いていない人であるが、多くは何事にも対価を要求する人である。従って、対価を期待しない行動がある筈がないという観念が強く、「労わる」人の行為に対して素直に感謝の気持ちを表すことが出来ない。そのために、対価が得られそうにないことや判然としないことには関わり合おうとしない行動を取りがちである。
「労わる」という文化のない組織は、当然ながら、人間関係はギスギスとした隙間だらけで摩擦の絶えない組織となっていることが多いものである。労わりと感謝は表裏の関係にあり、共に必ず行動が伴わなければならない。
ついでに言えば、「慰める」「癒す」という意味は、精神的肉体的休養としての「くつろぎ」という意味に等しい。「くつろぐ」という言葉を感じで書くと「寛ぐ」と書くが、「寛」という字の持つ意味は「ひろくする」ということである。手足を伸ばして力を抜くことも「寛ぐ」という一つの形であり、集中心を解き放って心を無にして忘我の境に彷徨(さまよ)うことも一つの形である。各人各様思いのままの「寛ぎ」のスタイルを側面から手助けしてあげるのが「慰」と「癒」という行為ということになる。
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