
仙台名物と言えば、毎年7月6日に始まる仙台七夕と通称「ササカマ」と呼ばれる笹蒲鉾と独眼流伊達政宗とくらいが有名であるが、若い人は牛タン焼きを一番に挙げるかも知れない。私はこれに「仙台の長茄子漬」と「白松ヶ最中」を加えるが、仙台という町は伊達政宗の街として有名であるように歴史が古い割には全国的な名産の少ない街と言えるのではないだろうか。
今でこそ、仙台の牛タン焼きが超メジャーな名物になったが、私が初めて仙台を訪れた1967年(昭和42年)には聞いたこともなかった。その後、盛岡に単身赴任したのが1976年(昭和51年)で、そのとき先輩に連れて行ってもらったのが牛タン焼きの店(名前は忘れたが市内中心部にあった)だった。料理そのものは今の牛タン焼きと同じだが、当時は非常に珍しく、驚異的に美味であったという記憶が残っている。
丁度、盛岡で牛タン焼きが流行り始めた頃だったように思う。常連の関取衆も大勢いたようで、店内の壁には大相撲の関取衆の色紙が何枚も飾ってあった。同じ頃に仙台の事務所に何度も行っているが、当時、仙台で牛タン焼きのことを聞いたことがない。そこで、仙台の牛タン焼きはそれほど古いものではないだろうと思ってインターネットで調べてみたら牛タン焼きの由緒を記したページがあり、案の定、次のような記事があった。
「戦後まもなくの昭和20年代、和食の料理職人である佐野啓四郎(牛タン焼き「太助」の初代店主故人)という人が、進駐軍が食
べない牛の舌を、おいしく食べられるよう試行錯誤を重ねた末に開発誕生したのが「牛たん焼き」だそうである。そ
れが仙台の郷土料理として知られるようになったのは、昭和50年代の終わり頃、仙台商工会議所から佐野啓四郎氏に
『郷土料理として牛タン焼きを売り出したいので協力してほしい』と要請があり、それから市を挙げて「牛タン焼き」
を宣伝したらしい。その後、アッという間に仙台の名物料理として「牛タン」が広まったそうである」
昔、私がいた頃には聞いたこともなかった牛タン焼きが、何故、突然仙台名物になったのか、やっと理解出来た。「太助」という店はまだ訪れていないが、仙台市若林区の問屋町近くの国道から一本か二本入った住宅街のなかに、庭を駐車場にして大きな田舎家を店にした佇まいの店がある。牛タン焼き専門の「太古福」である。名前はそのまま「たこふく」と読む。
この店には仙台に来る度に訪れているが、いつも駐車場が満杯で、店内には空き席待ちのお客さんが並び店員さんがてんてこ舞いしている。この店を教えてくれたのは、仙台の問屋町に営業所を構える商社の所長さんであるが、地元の人たちには有名な知る人ぞ知る店だそうである。
料理は牛タン焼きの焼肉定食一種類しかない。牛タンはちょっと大振りで厚目で、ご飯は麦飯で、スープは細く切った白髭ねぎのテールスープである。食器もごく田舎風の雑器が使われていて、細く切ったキャベツの上に焦げたような牛タン焼きが乗っかっただけの、見るからに如何にも素朴な料理である。独楽鼠のように忙しく立ち働く店員さんが、焦げ茶色の牛タンと真っ白なテールスープと粗末な食事に見える麦飯を和卓の上に雑然と並べて行く。
牛タンが焦げたような色をしているので、一見すると肉が硬そうな印象を受ける。和卓の上の箸立てから割り箸を一本抜き、硬いと思って、かぶりついたら、なんと拍子抜けするほどに柔らかい。そして美味で、一口食べただけで唸ってしまった。焼き過ぎのように見えた焦げ茶色はこの店独特のタレの色であった。適度に焦げた牛タンも肉汁が香ばしい。値段も1200円と極めて安い。
入り口を入った直ぐ左側で、日本タオルを鉢巻にしてむっつりと愛想の無い無表情で牛タンを焼いている人がこの店の大将である。牛タンはこの大将が独りで焼いている。その大将の焼く姿を眺めながら食事できるカウンターもある。昼食時には、居間のようなところまで開放されているので、かなりな人数が入る。54席もあるそうである。山形の蕎麦屋もそうであったが、東北にはこのような大きな民家をそのまま店にした料理屋が多い。