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文字が読めるようになったと思った途端、文字によって全てが理解できると錯覚し、目も耳も閉じてしまう人は結構多い。特に高学歴の人に顕著であるようである。文字とは妙に自信を育むものであるが、そういう人には身近の現象を卑近な特殊例と看做(みな)してし、普遍的現象として真剣に捉えようとしない傾向が見られる。文字が音や光景を記録するための手段であることを忘れ、文字の理解力が現象の理解力を超えるという錯覚に陥っているのである。
心の機微は文字では表現できない。心の動きは言葉の端々、目の動きや振る舞いに微かな現象として現われる。にもかかわらず、現象に接するよりも文字を介して考えることの方が主観に捉われず客観的で良いのだと考えたりする。これが錯覚である。
理解の深さと広さを的確に表現するためには豊富な語彙(ごい)力を要するが、理解の深度は経験の深さと広さに依ることを忘れてはならない。目も耳も現象を知覚するためにある。文字への依頼心が高まると目は文字を見るだけにしか働かなくなり、現実の事象を見ようとしなくなる。文字を見て事象を思い浮かべることで理解しているつもりになるのである。こうして現実の事象に目を瞑ってしまうことになる。頭の中で音を文字化して考えるようになり、光景を文字化して見るようになる。そして何も見えなくなるし何も聞こえなくなる。
東京の空しか見たことのない人には青く澄み渡った東北の高い秋の空を想像できないように、過去に蒸気機関車を見たことのない人には「ピーッ」というけたたましい汽笛の音も、大地を揺るがす轟き渡るような汽車の音も脳裏に思い浮かべることは出来ない。「ピーッ」と記述された文字から耳をつんざくような甲高い音を想像し、「轟音」という言葉を見ては過去の経験の音の箱を開けて想像することしか出来ない。現象に接して初めて、現象の持つ迫力と、文字という表現の限界を知る。
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