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最近の世相は荒んでいる。と言うより、病んでいると言った方が当たっているように思う。毎日、日本の何処かで殺人事件が起こり、賄賂事件が露呈し、弱者を狙った詐欺事件が発生し、様々な強奪事件が起きている。単純にお金目当ての粗暴事件もあれば精神の異常に因(よ)る病的事件もある、権力や金力を笠に着た収賄買収事件もある。岐阜県庁のような官庁ぐるみの税金詐取事件まで明るみに出ている。そういう意味では荒み病んだ社会になったと言えるかも知れない。
他人の生命を虫けらを踏み潰すようにして奪った殺人者も、己が極刑に処されるとなれば出鱈目を言い、証拠隠滅や証拠偽造を行なってでも命乞いをしようとする。政治家は政治資金と称して賄賂を要求し、経営者は裏であこぎなことをしてもバレなければ犯罪ではないと詭弁を弄して金儲けを企んでいるし、私腹と私欲を満たすためなら殺人さえも厭わぬ輩が身の周りを徘徊している油断出来ない社会となった。
何でこんな世の中になってしまったのだろうか?世間の善悪正邪の基準が曖昧希薄になってしまったことが最大の要因だろうが、いずれにしても社会の自浄作用力が低下して来ていることは間違いない。この遠因についてつらつら考えてみた。
価値多様化社会と言われて久しいが、この原因は善悪正邪の概念と価値を同列において、ある場面ではそれらを置換させて来た論理のすり替えにあるのではないか。これが、無意識に行なわれたのか、意図してそのように誘導したのか、という点では「誰が」という問題は残る。いずれにしろその論理の誤りを指摘し矯正し得ない個人や世間にも問題はあるが、昔は存在した「おばぁちゃんの物差し」が無くなったことも大きいように思う。
昔は三世代が同居する家が多かったが、今は親は親、子は子というように独立し生計を別々にする家が増えている。これには経済面、人間関係面等から見て長所も短所もあり、別生計ということを否定するつもりは毛頭も無い。ここで見直したいのは、幼年から青年、青年から壮年に至る人格形成や思想形成の中で家庭が行なって来た有形無形の教育において、同居して日々の言動を見聞して声高にたしなめて来た「おばぁちゃん(祖母と言う意味ではなく、老齢あるいは年老いた母と言う意味で)」の存在が極めて大きかったと思えることである。
「おばぁちゃん」の善悪正邪の判断基準が「おばぁちゃんの物差し」である。どんなに高等教育を受けていても、どんなに栄達していても、おばぁちゃんに「恥ずかしいと思いなさい!」「あなたのやっていることは間違っている!」あるいは「あなたの考えは間違っている!」と一言言われただけで、多くの栄達者たちは原点に立ち戻って冷静に自分の物差しを修正したものである。今思えば、「おばぁちゃんの物差し」とは、老若男女上下を問わず、「人間としての恥」という誰にも分かりやすい善悪正邪の基準であったように思う。
「おばぁちゃんの物差し」とはある面では理屈もへったくれもあったものではなく、「ダメなものは駄目!」というような乱暴な物差しでもあったが、おばぁちゃんとしての生活者の知恵であり生活者としての正義意識そのもので、大抵、正しかった。昔、おばぁちゃんは世間という歴史と文化の縮図社会の代表者として存在し認知されていたのである。「おばぁちゃんの物差し」とはそれほど厳然たる基準だったのである。
現代人の心の中で、拝金主義という物質文明が世間価値という文化を凌駕(りょうが)してしまっていることが「おばぁちゃんの物差し」を消滅させた大きな要因であるが、それに拍車を駆けたのが核家族化と「・・・の常識」ではないだろうか。よく「常識で判断しろ」とか「常識が無いな」などと言われる。実は、この常識というものが曲者である。常識とは、普通の一般人が当然有しておらなければならない程度の知識や知力、あるいは思慮分別という意味であり、常識を超える専門的知識や高度判断理解力と使い分けている。
しかし、常識という言葉がどのように使われているかについて考えて見ると、「・・・の常識」という使われ方が大半である。口語的に使われている常識をピックアップすると、世間の常識、永田町の常識、業界常識、企業の常識、花柳界の常識、やくざ社会の常識、そしてそれらの非常識…などなど。実際には、このように幾種類もの常識が数限りなく存在している。
一般人が永田町のことなど知る筈もないにもかかわらず、政治家の不徳悪事が「永田町の常識だよ」という言葉で濁されてしまうこともある。業界のことを知らない一般人には到底理解できないことや判断不能に陥るようなことがしばしば起こる。にも拘らず、常識が不足しているとか常識的判断が出来ないなどと評されることになる。しかし、物事や業界の裏表まで知っていることが常識なのか?そうではあるまい。物事の善悪、是非の判断が的確にできれば、それが常識があるという証明になるのではないだろうか。常識とは知識の量と考える力の積である。
従って、「・・・の常識」というが如く数多くの常識が存在すること自体が奇怪(おか)しいことは明らかである。まるで「ウチらのルール」が常識であるような話である。正確には「・・・の常識」ではなく、「・・・の知識」あるいは「・・・の慣行」と言い換えねばならない。
何故なら、「…の常識」と呼ばれている業界や社会においてそれぞれに価値基準が異なっているのであるから、不知の一般人が理解も判断も出来ないのは当たり前である。それ故に、このような場面に遭遇すると、一般の多くの人達はそれらを「なるほど、なるほど」と頷きながら、むしろ自らの不知を恥じるかのように無批判に受け入れ納得してしまう。まるで価値観の多様化を受け入れた同じ感覚で、常識の多様化(?)があっても然るべきであるかのような錯覚に陥っているのである。
現実に目を向けても、幾種類もの善悪是非の判断基準を業界や社会に認めたがために、いろいろな人が色々な場面で慣行を常識と言い換えて言葉巧みに使い分けている。慣行であれば、即座に「改めよ」となることも、常識という言葉になると自らに非を咎めるような内的働きがあり、矛先が鈍る。これ自体が極めて異常であると考えるべきにも拘わらず、「・・・だから仕方がない」と容認してしまいがちな「甘やかし」風土を育み、金銭感覚が麻痺している不徳政治家や、倫理観が欠如している権力者や、飲酒運転者を徹底的に糾弾しない社会を作ってしまったと言えるのではないだろうか。
善か悪か、是か非かの境界線はひとつしか無い筈である。と言うより、複数あることが可笑しなことで、ひとつでなければならない。そもそも、常識という曖昧基準は、「何はさて置き、先ずはお金」という拝金思想というか先金思想というかそういう意識の発端となったHOW-TO思考が「考える」という行為を人々から剥ぎ取って、多くの一般人が「考える」ことを放棄したことから来ている。ここに、常識の混濁が起こり善悪是非混迷の因があるのではないだろうか。
また、「・・・の常識」というのは女性よりも男性に強く働いている意識であるように思うが、いずれにしても常識の多様化なんてことがある筈がないことぐらいは理解する必要があるだろう。常識が全て正しいかと言うと、常識の嘘、という言葉もあることも忘れてはならない。
最近、ボクサー親子や利得制限法に関わる族議員たちの言動を見ていると、昔はおばぁちゃんに「馬鹿モン!」と一喝された「自分だけの常識」が堂々とまかり通って来ているような気配を感じる。恥知らずが世に憚らない世の中になりつつあるのかも知れない。そんなことになれば社会の自浄機能は失われ、善悪是非の判定は司法に委ねることにもなりかねず、社会規範も道徳規律も無い恐ろしい世の中となってしまうことになる。今こそ、失われた「おばぁちゃんの物差し」が必要とされる時が来ているように思う。
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