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<いじめ考> 「いじめえる   

 小中学校におけるいじめが教育界と現場を巻き込んで大きな社会問題になっている。あたかも教育基本法を改正しなければいじめ問題は解決しないかのように安倍総理は説明しているが、いじめと教育基本法改正とは別個に考えなければならない。教育基本法改正の主目的は憲法改正の前の準備であって、いじめ問題を解決しようとするものではない。憲法改正によって軍隊が誕生することは明白であるが、愛国心」を持たない軍隊というのはあり得ないので、先ずは教育基本法を改正して国民に「愛国心」を義務付けようとするものである。従って、ここでは「いじめ」問題にのみ触れて、教育基本法改正の問題は別途憲法改正を論じるときに一緒に触れることとする。

 テレビ情報であるが、いじめたことのある人といじめられたことのある人の比率は、いじめられた人の方が若干多いくらいで、殆ど半々であるらしい。いじめ人間というのはごく少数の限られた特定の人間で、大半はいじめられる側だろうと想像していたが、案に相違していじめ経験者の多さに驚いた。ということは、成人して社会人になっている人たちの半数、即ちごく身近にいる人たち、案外、隣の席に座っている人もかってはいじめ人間だった可能性が極めて高いということになる。かってのいじめ人間たちが、そんな素振りはおくびにも出さず露ほども見せずに一所懸命仕事に取り組んでいるのである。この現実にもまたまた驚かされた。

 我々が子供の頃は、いじめを行なう人間は一握りのごく限られた特定の人間で、クラスに数名しかいなかった。しかも、いじめ人間が幅を利かしてクラス全体を支配しているようなこともなく、どちらかと言えば皆から半端者扱いをされて強がっている輩であったように思う。しかも、どのクラスにも勉強は出来ないが皆から頼もしがられている正義感のあるガキ大将が必ずいて、先生とはまた違った立場で彼らに対して睨にらみを利かせ我々を護ってくれていたような記憶がある。

 いじめ行為も、椅子に押しピンを逆さに置いて嫌がらせしたり、机に落書きしたり、机の中のノートに落書きをしたり隠したり、チビとかデブと侮辱したり、といった程度の嫌がらせであった。今はこの程度の意地悪もいじめと言うようであるが、当時はいじめと感じている人は少なかったのではなかろうか。従って、いじめが原因で自殺した人など一人もいない。

 それが数十年を経た今、半数の人がいじめの経験があるという。性格の悪い人が急激に増えたとは考えられないので、情けないが、自分がいじめられないために、即ち自己防衛のためにいじめ側に身を置いていた人が多かったということだろう。あるいは、何が正義で、何が不正義かという判断のつかない人が増えているのかも知れない。あるいはまた、人がいたぶられている姿を見て野次馬的に喜ぶ愉快犯的人間が増えているのかもしれない。テレビに映し出されたいじめに加担した先生の姿や言葉を見ていて、そのような人がそのまま先生になったような人もいるように感じる。

 いじめを漢字で書くと虐めあるいは苛めとなる。本来、いじめ問題で最も問題にされなければならないのはいじめを行なった本人である。にもかかわらず、いじめ行為を隠したという理由で担任の先生や校長先生が矢面に立たされている。学校や教育委員会の姑息な隠ぺい行為は許しがたいが、せいぜい8時間前後しか児童を監督できない学校関係者にいじめに対する全ての責任を問うことは行き過ぎではないか、とも思う。

 何故?いじめの加害者を厳しく叩かないのだろうか?福岡の筑前中学校では、自殺に追い込んだ加害者たちは自省するどころか、また新たにいじめを行なっていたらしいではないか!加害者たちを放って置いて、その周りの事象にばかり捉われていると、いじめ問題は延々と続くことになる。今、やるべきことは早急にいじめによる自殺を食い止めることといじめ行為の撲滅対策である。

1.いじめは犯罪である

 先ず、いじめとは何であるか?という点から全員が正しい認識を共有することが大事である。人に嫌悪感を抱かせることが即犯罪と言えるかどうかについては異論もあると思うが、少なくとも自殺に追い込むような言動は明らかに刑事犯罪であることは疑いの余地無しという立場で検討すべきであろう。刃物や銃器が身体を傷付ける凶器であることは明らかだが、侮辱侮蔑という言動も心身を傷付けるという点において暴力と看做すべきである。自らの命を自らの意思で断つという究極の事態にまで追い詰められた背景には、侮辱や恐喝や窃盗や強要などの犯罪行為が必ず伴っている。この点について、マスコミにコメンテーターとして登場している法曹OBにはもっと鋭く突っ込んだ発言を期待したい。

 刑法に即して述べれば、いじめは犯罪である。刑法は第1条において日本国内において罪を犯した全ての者に適用すると定めており、子供だからと言って罪を免除している訳ではなく、特例的に取り扱っているに過ぎない。特に、お金を巻き上げたり、恐喝してお金を貢がせるような行為は刑法第223条の強要罪あるいは第222条の脅迫罪民法では強迫:第4章法律行為第96強迫に因る意思表示は之を取消すことを得」)や第249条の恐喝罪にあたる。侮辱すれば第231条の侮辱罪である。小刀等で脅せば第234条の威力妨害罪になる。第36章窃盗及び強盗の罪、第37章の詐欺及び恐喝の罪には未遂罪も適用される。

 とあるように、少年と言えども罪を犯せば犯罪者であることに変わりはない。少年法という特例によって刑の執行が減免あるいは延期あるいは免除されているに過ぎない。ところが、世間の目は少年の犯罪行為であることは認めながらも、「子供、可愛さ」故ということもあるのかも知れないが、敢えて犯罪という目では見ようとしていないようなところがある。加害者が未成年者であれば後見人である親も含めて厳しく処断すべきであろう。マスコミは被害者の親の意見は事細かに報道しているが、加害者側に対してもっと声を大にして発言すべきであると考える。そうすれば、加害者の論理も違法性も明白になると思われ、いじめに対する具体的な対策も明確となるのではないだろうか。

 私自身は、前述したように罪は罪として確定させ、少年院や矯正養護の学校や施設等で人格教育を行なって、その間に正常に立ち直れば刑に服することを免除するような方法で少年の立ち直りに資すべきではないだろうかと考えている。ある一定年齢に達するまでは情状酌量と同じ考え方で刑罰の執行を停止し再犯を防止する訳である。

2.いじめと不登校 

 いじめの陰湿さが増幅されていることに比例して不登校児童も増加の一途を辿っているようである。現在の学校教育の、塾と同じような知識優先の教育のあり方に大きな原因があると想像されるが、「いじめ人間」を無くすには「弱いものを労わる」優しさを育成する人格教育が大切であろう。知識授与教育は黒板と白墨があればできるが、人格形成教育は児童に自ら考える訓練が重要で、そのためには人間と人間、親も先生方も児童と正面からぶつかって身体を張った教育でなければならない。

 そういう意味で、先生方も、義務教育は知識教育と同じくらいに人間教育が大切であることを自覚して限られた時間を労わる心を持った人間を育てるために真剣に取り組んで貰いたい。さもないと、成長するほどにいじめ人間を更に増長させるだけで、いじめによる自殺は減らないだろう。社会人組織の中においても陰湿な「いじめ」がまかり通っているところが多々あるやに聞く。将来、いじめ人間が更に幅を利かす世の中が来ないとも限らない。

3.いじめを防止するには

 いじめが何故起きるのか、という問題は根が深い。いじめを行なう人間といじめられる人間、それにいじめの周辺にいる人間等、それぞれが深くあるいは浅く関わっている。極めて社会性の高い事象であると言え、これらの複雑に絡み合う人間関係を抜きにしては解決策を見出すことは出来ないだろう。

 動物が無意識的に自己を守ろうとする防衛本能というか防御本能というものを持っているように、人間も同様にそれらの本能を持っている。動物と人間の違いは人間が理性と知性を有しているだけで本質的違いはないといえるが、この本能が攻撃的に出る外向型の人間もいれば、自己防衛的に出る内向型の人間もいる。

 猫が小動物をいたぶって楽しんでいる光景を見たことのない人はいないと思うが、猫は自分と同じくらいの動物や自分より明らかに小さな動物に対しては直ぐさまちょっかいを出して相手の反応を見るという行動をとる。しかし、自分より大きなものや強いものに対しては最初から避ける行動をとったり、あるいは最初は相手を怒らせるような行為はせず、少しづつ様子を窺いながら用心深くちょっかいを出し始めたりする。小動物が案に相違して強かったり、あるいは相手が猛然と反撃して来たり、あるいは思わぬ応援部隊が現われたりすると、二度とちょっかいは出さなくなる。猫の自己防衛本能は、強弱を明白にすることが自分の立場を弱くすることを本能的に知っているのである。

 身近にいる猛獣の子孫である猫の行動を見ていると、これらの本能的行動がよく分かる。この一連の行為行動こそが、いじめの最も初期の段階と言え、そのまま人間にも当てはまる。少しづつ高じていじめの兆候となる。喜怒哀楽のうち喜怒の感情しか持たない動物のいじめ行為は生存本能だけで説明できるが、喜怒哀楽に加え怨嗟嫉妬の感情を持つ人間のいじめ行為はそれらの感情が複雑に絡み合って外に現われる。

 従って、いじめの原因となる切っ掛けは、容姿であったり、勉強の出来不出来であったり、清潔感であったり、富裕貧困であったり、運動神経の過敏鈍感であったりする。概ね、優越感を満たすための行動と考えられるが、それは鬱積した劣等感の裏返しの行動とも言える。優越感の最たるものが支配欲で、隷属者を作ろうとする。手下をたずさえ、力を誇示することになる。

 しかし、人間の場合も動物と同じで、大勢の仲間がいる人間にはいじめ行動は起こさない。自分より劣る者や弱い者、殆どは個人に対してしか起こらない。ということは、いじめ防止やいじめ対策のヒントはこんなところにあると言える。従って、学校が今大至急に採るべき対策は、仲間外れにされている子供や友達の殆どいない子供たちを先生や先輩たちが集団化を図ることである。同時に、いじめを行なった者に対しては厳しい懲罰を課して、「いじめは犯罪である」ことを徹底的に体得させることが必要だろう。

4.社会的背景

 いじめが起こる社会的背景について考えて見たい。全ての子供たちが、富裕貧困を問わず、同じような遊びをしようとすることは同じだが、昔の子供と現代の子供の遊びには隔世の感がある。昔は、金の掛かる遊びはちょっと思い出そうとしてもなかなか思い浮かばないくらい少なく、お金持ちの子供も貧乏人の子供も同じような遊びをしていた。綱とゴムボールと網があれば沢山の遊びがあった。

 ところが、現代の遊びはお金の掛からない遊びを探す方が難しい。現代の遊びは電子ゲームばかりで、嫌でも金が掛かるように出来ている。遊び場自体が少なく、遊び場はゲームセンターとなり、ゲーム代と飲食代に追われる子供たちが現われる。電子玩具には数万円もするものがある。

 お金のない子供は遊びすらも限定されていることになるが、現代の「強者を崇め弱者を切り捨てる」ような市場原理主義という価値観を反映して、子供たちまでもが弱肉強食の価値観を無批判的に受け入れてしまったのかもしれない。このような社会では欲望の強い子供は何としてでもお金を手に入れようとする。狙われるのは必然的に気の弱い子供で、力ずくで脅してでもお金を手に入れようとする子供が現われてもおかしくない。終わりの見えない「いじめの始まり」である。こうして、一部の欲望の塊のような子供たちのために盗みやかっぱらいなどの悪事に狩り出される子供たちが生まれる。そして、連鎖的に次のいじめ人間が育って行く。この連鎖を断ち切ることで、いじめの何割かは減る筈である。

5.いじめ報道のあり方

 いじめ問題が日を追う毎に拡大している。更に、自殺までもが学童のみならず校長先生にまで波及して来ている。連鎖反応とは思いたくないが、毎日毎日自殺者が発生する状況を見ると連鎖を否定できない。由々しきことである。しかし、マスコミは、被害者側ばかり、それも微に入り細に亘って繰り返し繰り返し報道しているばかりで、何故、加害者について報道しないのだろうか?

 物事を解決するには、何事も元を断たなければならない。これが鉄則であるにも拘わらず、先生方もマスコミもまるで加害者を庇(かば)うかのように加害者の罪を咎(とが)めようとはしていない。これだけいじめ問題が大きくなっていても、依然としていじめが無くならないということは、加害者自身が「何がいじめか」ということを理解していないこともあり得る。今、いじめをやっている加害者たちは自分のやっていることは「いじめではない」と錯覚する恐れさえある。また、いじめも減らないどころか逆にエスカレートする恐れさえある。

 加害者には悪戯やからかいのつもりでも、それらの言動が被害者を自己否定に追い込むことがあることは否定できない。そのためにも加害者追求はなされなければならない。加害者追及の報道が連日行なわれれば、「何がいじめか」ということが自ずと明らかになって行く。と同時に、加害者の理解も促進する筈であるし、いじめの歯止めにもなることが期待できる。従って、今からでも遅くはないから、いじめを元から断つためには、加害者たちに対して自殺に追い込んだ責任を徹底的に追求しなければならない。これらの行動が、被害者を救うことにもなるし、生きる希望を呼び覚ますことにもなるし、自殺を思い止まらせることにもなる。さもないと、被害者の自殺は今後も増加して行くだろう。

 マスコミの報道姿勢も問題である。自殺について、マスコミは事細かに報道し過ぎるのではないだろうか。イギリスでは、自殺については連鎖が起こることを懸念して報道を控えているらしいが、わが国の報道理念はどうなっているのだろうか?連日、連鎖、連鎖と煽っているような報道姿勢は考え直すべきである。

6.いじめ人間を作らないためには

 上流階級の子供を全寮制で受け入れて徹底的に人格教育を行なっているという英国のパブリックスクールでは、先生が寮監を兼ね四六時中、24時間体制で監視監督して、ジェントルマン教育をしているらしい。ジェントルマンとは、一言で言えば、優しさを有している人である。人間としての優しさとは、弱者を護り、相手の人格を尊び、人間の尊厳を理解し、社会を正義に導くことである。従って、他人に意地悪をし、悪口雑言を吐き、いじめを行なう輩はジェントルマンたり得ない。わが国の小中学校も、家庭も、知識教育に走り過ぎ、この「優しさ育成教育」が不足しているように感じる。

 いじめ人間は家庭教育から作られるという意見がある。そうであれば、人間教育を主眼に置いた英国の全寮制殿パブリックスクールはあり得ないだろう。英国のジェントルマン教育の根本にあるのは騎士道精神である。騎士道が、わが国の武士道やアメリカの士官学校精神に相通じることは有名である。「恥の美学」とも称される武士道も論語などの中国古典思想の影響を受けている。ということは、人格形成の基礎となる哲学は人種地域は異なっても世界中大差ないということになる。

 先にも述べたように、いじめ人間が半数以上を占めているということは、これらの人格形成に大きく影響を与えた哲学や「道」がわが国の精神文化から滅びつつあることを示している、と言ってもよいかもしれない。何故、哲学が滅びつつあるのか?

 いじめ人間が作られる、あるいは発生するその背景には時代や社会の価値観が大きく影響していることは否定できないだろう。その明白な原因のひとつは、市場原理思想とか受益者負担思想とか拝金思想といった「勝ち組・負け組」あるいは「強者・弱者」という、人間を差別化する思想が社会に蔓延化し、子供たちまでもがその価値観に溺れ込んでしまったところにあるのではないだろうか。

 いじめを減らすためには、いじめ人間を作らない、あるいはいじめ人間を減らす必要があるが、いじめは、幼稚園や小学校の一、二年生くらいまでは殆ど起きていないらしい。ということは、「三つ子の魂、百まで」と言われるように、人格の基礎部分の殆どが幼児期に形成されることを考えると、幼稚園から小学校一、二年生までの「優しさ育成教育」や「善悪教育」が極めて重要であることが分かる。


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