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自分の先祖やルーツが分からないというのが気持ちを不安定にさせるように、日本人としては、日本のルーツである「邪馬台国」が何処にあったのかということは気になる。中国の史書を解読しても、「邪馬台国」の所在地は抽象的に記述されているに過ぎず、「ここだ」と断定できるほどには明確でない。江戸時代、日本書紀が暗に「邪馬台国=畿内大和(朝廷)」という表現をしていることに疑念を抱いた新井白石が「魏誌は実録に候」と述べて「邪馬台国=福岡県山門郡」説を唱えたことが、日本のルーツ探し、本格的な「邪馬台国探し」の始まりである。その後、「魏誌は信じるに足らず」と記述に間違いありの立場に立った本居宣長は「邪馬台国=筑紫(九州)」説を唱えた。その後、畿内派、九州派が入り乱れることになるが、「邪馬台国探し」はこの二人の先駆者に始まると言ってよい。
近年の奈良・桜井地区の遺跡発掘は目覚しい成果を挙げ、中国史書が記すわが国の2〜3世紀頃の状況を検証している観がある。漢書・地理誌は「紀元前1世紀に100余の小国」が存在したことを記載、後漢書・倭伝は、紀元57年に100余国の中の30カ国が武帝に朝貢したと記載、同じく後漢書・倭伝には、西暦107年、倭国王師升等が奴隷(どれい)160人を光武帝に献じたと記載している。そして、倭国は内戦で数十年間(83〜178年)大いに乱れたとある。
最近、箸墓古墳のある奈良・三輪山麓の纏向(まきむく)遺跡の発掘で3世紀頃の大規模な都市遺構や物品が発見され、わが国には邪馬台国以外に吉備王国や出雲王国、あるいは名も知れぬ小さな国々が各地に散在し、纏向王国はそれらの国々と積極的に交易していたらしいことなど、3世紀頃のわが国の状況がかなり判明して来た。このことは、九州以外の地に多くの小国が存在していたことの証明でもある。邪馬台国と同時代に畿内に東部諸国の中心的存在である古代国家が存在していたことが判明したことによって、魏誌や後漢書の記述が正しいことが証明されたと言える。
そして、魏志倭人伝が「東渡海 千余里 復有国 皆倭種 (東へ渡海すること千余里。また国あり。皆倭人である)」と書き、後漢書・倭伝が「…自女王国 東度海 千餘里 至拘奴国 雖皆倭種 而 不属女王(女王国から東へ千余里ほど海を渡ると拘奴国(狗奴国)に至る。皆、倭種であるが、女王国に属していない)」と書いているように、邪馬台国の東方に、中国史書がわざわざ特筆した「もう一つの倭種の国」が存在していたことが証明されたことになる。
邪馬台国誕生以前から中国との交易があり、紀元57年に奴国王が、107年に倭国王帥升が後漢に朝貢したことが「後漢書東夷伝」に記されている。当時、中国がわが国を総称して「倭」と呼び、わが国も中国に対しては「倭」という国名を名乗っていたことが推測される。5世紀前半に書かれた後漢書・倭伝(范曄:398〜445)に「桓霊間 倭国大乱 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑弥呼…共立為王…[桓帝(147〜167在位)・霊帝(168〜188在位)の間、倭国大いに乱れ、交互に攻伐し合い、歴年、主がいなかった。一女子が有り、名を卑弥呼と言った。…共に立てて王とした]」と小国が乱立し、争いが絶えなかったことが記されている。
この小国乱立が「倭国乱」へと続く。遺跡の兵士の墓から「首無し」遺体等も発見されている吉野ヶ里遺跡も小国の一つと見られ、邪馬台国に統合された「弥奴」国ではないかと想定されている(「吉野ヶ里」国は紀元50年頃が全盛期とみられ、弥生末期の3世紀初めまで続いたと見られている)。こうして争いが治まった。二世紀後半、「倭国内乱」が起こり、卑弥呼が王となった。邪馬台国連邦の誕生である。卑弥呼は景初二年(238年)30数カ国の王をまとめて「魏」に朝貢した(魏志倭人伝)。
纏向遺跡の年代は、これまで紀元300年頃のものとされて来た。邪馬台国の時代と数十年の差があることが近畿説の最大の弱点であった。それが、纏向石塚遺跡の調査で、紀元250年頃の日本最古の前方後円墳であることが分かり、時代が徐々に繰り上がって、邪馬台国とほぼ同時代の遺跡であることが明らかになって来た。247年か248年に亡くなった卑弥呼の時代と合うことになり、邪馬台国畿内説の人たちにとっては、これで益々箸墓前方後円墳が邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかと期待を抱いた感がある。
纏向遺跡、特に箸墓古墳(前方後円墳)を卑弥呼の墓と唱える人たちにとっては、時代が古く繰り上がることは推論根拠としても有利になることは間違いないが、纏向遺跡は3世紀の遺跡であるという近年の発掘結果によって直ちに邪馬台国は近畿にあったと結論付けるのはやや早とちりの感があると言わざるを得ない。何故なら、発掘によって纏向遺跡の社会と邪馬台国が同じ時代に存在したことの証明にはなるが、それが直ちに邪馬台国が近畿に存在した証明とはならないからである。
箸墓古墳が前方後円墳であることも弱い。魏志倭人伝には「…卑弥呼以死 大作冢 径百余歩・・・」とあることから、卑弥呼の墓は「径100余歩の円墳」と考えられる。箸墓古墳の円墳部の径は160歩ほどあって大き過ぎ、卑弥呼の墓に比定するにはやや無理がある。更に、銅鐸や銅剣や銅矛の問題、刺青の問題、絹織物の問題、等々、邪馬台国を畿内に比定するには解決できていない問題が残っている。二世紀後半頃、北九州・四国は「銅剣・銅矛」文化圏であり、近畿は限定的な「銅鐸」文化圏であった。仮に邪馬台国が大和にあったと仮定しても、魏との交易窓口が北九州伊都国や奴国であったことは魏志倭人伝の記事等から見ても間違いない。それでいて、双方の文化に融合が見られないというのは合理性がない。
宮内庁は、箸墓古墳を「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)」の墓とし、天皇家の始祖である天照大神は「筑紫の日向の橘の小門(おど)」で生まれたとしている。「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)」が鬼道を能くすることから卑弥呼に当てる説もあるが、これらのことから推測すると、箸墓古墳を卑弥呼の墓とすることには無理があるが、宗女臺與(壹與)の墓である可能性は否定できない。卑弥呼の邪馬台国が宗女臺與(壹與)の時代に東遷して近畿の古代国家を統合して「倭」を「大倭」と称したのではないだろうか。
魏志倭人伝に「…使大倭監之」、後漢書・倭伝に「・・・大倭王居邪馬台国」とあるように、畿内政権は自らのことを「倭」あるいは「大倭」と称していたようである。記紀の編者に、わが国のことを「大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま:本州島)」など「大倭」と表記させていることから考えても、「大倭」と書いて「邪馬台」に絡めて「やまと」と読ませていたようである。しかし、「倭」という字が卑字であるために「和」に換えて「大倭」を「大和」に換え、「やまと」と読ませることで、畿内大和政権を邪馬台国から一連的に続く国家として顕わしたのだろうと思う。
これははからずも、記紀編纂政権が、「大和国は邪馬台国の後に出来た国である」と証言しているに等しく、「邪馬台国は畿内には存在しなかった」ことを自ら証していることになる。纏向遺跡の発掘が進む毎に新しい発見があるが、そのたびに「邪馬台国=九州」が確信的になるような気がしているが、「邪馬台国=久留米南部〜旧八女郡」地区も徹底的に発掘すれば、驚くべき発見があるのではないだろうか。