∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 以久遠氏の Beauty,Business & Favorites 巻頭 <125号>VOL. '0905/ 2009.05.01号 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
昔、と言っても、数十年前のことである。当時、昭和の中頃まで、日本は「恥の文化」の国と言われ、老若男女多くの人々の心には「恥」を貴ぶ気力があった。そして、その気力が毅然の気と浩然の気を生んだ。ところがたった数十年の間に、今、巷間には恥を恥とも思わない「恥知らず」人間が溢(あふ)れ、「恥の文化」と称えられた素晴らしい精神文化が消滅してしまった観がある。
ここで言う「恥」とは己の良心に対する「恥」の心で、そもそもは武士道における「恥」を指す。武士の道徳観が日本人の道徳意識の原点となったものである。卑怯や自堕落を「恥」として最も忌み、名誉を最高規範とする。恥を掻くような行為は勿論のこと、相手に恥を掻かせることや非礼も「恥」の行為である。こんな立派な道徳規範を持っている国民でありながら、どうしてこんな情け無い国になってしまったのか?一体、「恥の文化」は何処へ行ってしまったのだろうか?
昔に比べれば、国も個人も物質的にも文明的にも随分豊かになった。しかし、周りが物質的に豊かになった分、精神的にはあるいは思想文化的にはむしろ貧窮してしまったように感じる。昔は、幼い頃、家庭や学校や路地裏の小さな社会には、読み書き算盤よりも先ずは「恥」の気概を徹底的に身体に躾ける思想があった。「恥」を知り「恥」を体得することで、自ずとプライドが身に付き、他者を思い遣る公徳心が身に付いた。
丁稚奉公の小僧は、師匠に「後世の人に笑われぬよう、恥ずかしくない仕事をしろ」とか「いい加減な気持ちを恥じろ」と教えられ、祖父母は幼い孫に、孫が分かろうが分かるまいがそんなことは意にも介せず、口を酸っぱくして他人に蔑まれ馬鹿にされることを「恥とする」よう、「男として」「女として」「人として」というプライド(名誉心)の大切さを教えて呉れた。生徒も、先生の言動から「恥とは何ぞや?」を学び、「恥を知る」という名誉心を植え付けられ自ら育んだ。叱る方も叱られる方も、教える方も学ぶ方も、恥を身近に見聞し遭遇しながら良心と恥について学習していたのである。
幼い頃の「恥を知る心」の教えが人間を育てたと言っても過言ではない。社会の価値観だけでなく社会の構造から何もかもが「恥を知る」ことを礎にして成り立っていたように思う。それが「恥」を知らない、あるいは知ろうとしない社会風潮が社会の礎を壊して来たのではないだろうか?
この原因を教育に求めるのは酷かも知れないが、いつの頃からか、親も、先生も、誰もが「損得」は教えても「恥」については教えようとしない風潮が蔓延(はびこ)っていることだけは間違いない。何にでもかんにでも競争原理を持ち込み、新自由主義や新市場主義を讃えることによって利益の独占を正当化させ、「波乗り」人間を肯定する一方、「流れに棹(さお)を差す」人間を否定するという風潮を生み出した。これが、「自分さえ良ければ」という自己主義、利己主義、我利我利亡者意識を蔓延させた因そのものに外ならない。
価値判断の基準を「我に利有りや?」という名誉よりも損得を優先する功利的人間が世の中の主流となったことが、人間の良心を希薄化させ、近年の「偽装」「詐欺」「詐言」「欺瞞」「いじめ」等の「偽」の世相を現出させているように思える。恥と毅然は表裏の関係にあり一体である。寂しいことだが、「偽」の社会には毅然とした人間の居場所がなくなってしまった。のみならず、「金が全て」という拝金の風潮は、古来、日本人が有した「知足」の精神をも失わせしめたと言える。同時に人間の生き様に「名誉」という価値を認めない「無恥」人間を増やし、個々人の社会観をも歪めてしまった。ここらでもう一度、「恥を知る」教育について考えてみる必要があるのではないか。
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