以久遠氏 Beauty,Business & Favorites     文化人間学    VOL-09/ 1999.5.1号

お節介  

 夏目漱石が小説「三四郎」の中で「人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ」と述べているように、親切とは最も人間らしい感情に基づいた最も人間らしい行動と言えるかもしれない。しかし、裏から見れば極めて通俗的で人間的な、ある種の好奇心と言えないこともない。

 親切とお節介の差は微妙に紙一重で、人への関わり方において双方よく似ている。親切とは、お互いが分を知って相手のために行う奉仕行為でなくてはならない。行為が対価を期待するようなものであってはならないことは勿論のこと、利害や損得によって左右されてはならないのである。これは博く愛に通じる行為である。

 従って、人に関わるからには、損得勘定を度外視してとことん親身に尽くすという覚悟、即ち自らの行為に対しては毅然として自ら責任をとるという胆を持たなければならない。人に何かを求めることも、人に責任を振り替えることも許されないのである。それだけの肚と自信がなければ、無闇やたらと人に関わることは厳に慎まなければならない。

 人に関わるということは、大袈裟に言えば命懸けの行動なのである。親切という行為が分を超えた時、即ち自らのなせる限界を超えた時、それは親切を超えてお節介となる。分が過ぎることは、度が過ぎたことになる。そうなれば、折角の親切心は却って仇となり、相手からお節介と解されてしまう。

 このように、親切という行為は極めて誤解を生じやすい。つまり、自分の言行に責任の取れない親切心というものは、自分自身は意識していないことの方が多いが、相手から見れば、興味本位の度を過ぎた親切心にしか見えないこともある。責任を取れない親切心は、非情の無責任行為であり、お節介そのものとなるのである。この線引きは、実に難しい。

 女性にお節介やきが多いと言われるのは、女性特有の母性本能が居たたまれなくなって行動を起こす所為ではないだろうか。女性は一般的に、経済的にも、体力的にも、あるいは時間的にも余裕のない人が多い。それが制約となって、自らの言行に責任が取れなくなることが多々ある筈である。そのために「立ち入り過ぎ」あるいは「関わり過ぎ」という現象が起こる。結果としてお節介となってしまうのだろうと思う。

 忠告も、非難や批判と隣り合わせにあり、指導も、強要と隣り合わせにある。これらがお節介になるか親切心と映るかは、その言動が分を弁(わきま)えたものか否かにかかっている。宣教師が偽善者と呼ばれる所以(ゆえん)は、案外、ここら辺りにあるのではないだろうか。


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