以久遠氏 Beauty,Business & Favorites   文化人間学    VOL-10/1999.5.15

    説  

 近年、小説や文庫本の売れ行きがよくないらしい。出版物の種類は毎年増えているそうであるが、本の売れ部数は頭打ちで毎年殆ど変化ないらしい。若い時の読書は、本を読むことで集中力と忍耐力と表現力と情緒を育んで呉れるが、最近は漫画を読む人ばかりが増え、その結果、街中にはコミック本の販売店と漫画喫茶だけが増え続けている。情緒に鈍感な若者や耐えることから逃避し手軽さを求める若者が増えているのは残念なことである。

 芳しくない売れ行きの中で、池波正太郎氏や藤沢周平氏などの武家物人情小説だけは静かなブームを呼んでいるらしく、着実に安定して売上が増えているそうである。その所為で、このジャンルのものは書店の本棚にも直ぐ目に付くだけのスペースが取ってある。本屋さんの話でも、昔は推理小説が多かったそうだが、近年は武家物や歴史小説や江戸下町の人情物などが中年のサラリーマンによく読まれているとのことである。

 そう言えば、最近、通勤電車の中で武家物の文庫本を読んでいるサラリーマンをよく見掛ける。大抵は、管理者と見受ける40代のサラリーマンである。わが国のサラリーマン社会は、江戸時代の下級武士の悲哀と処世観に相通じるところがあるので、心理的にも下級武士とサラリーマンには共感するところが多いのだろう。

 例えば、お上の言う通りにしておけば、たとえ出来映えが悪くとも文句を言われないで済む。仮に言われたとしても、「よく分かりました。今後はよく注意します」と素直に謝れば、大抵、見逃して貰える。贅沢な生活さえ我慢すれば、それなりの生活は一応保証されているようなものである。また、サラリーマンというだけでローンも組めるし、社会的な信用も得られる。

 江戸時代の下級武士が、使命感やプライドに押しつぶされそうになりながらも、現実の生活にじっと耐え忍ぶ姿や、あるいは逆に武士としての体裁だけを整えておけば、誰からも後ろ指を指されることはないという気楽な一面に、サラリーマンである自分の日常の姿を映して共感しているのかも知れない。あるいは、サラリーマン残酷物語のような現代社会における自分の姿を武家物小説の主人公に複写して見ているのかもしれない。

 しかし、江戸時代の下級武士に比べれば、現代のサラリーマンの方がむしろ気楽であるかもしれない。何故なら、下級武士といえども殿様に仕えている以上、家に帰ってからも節度を保って「いざ、鎌倉」の出陣に備えておかなければならないという忠誠心が常に求められている。また、町人に対しても、身分制度の上位者としての品格を保たねばならないという堅苦しさもある。

 ところが、現代のサラリーマンは仕事を終えれば、ぐでんぐでんに呑んだくれて所在不明になろうとも、上司を肴に管巻いても、翌日の始業にさえ遅刻しないで出社していれば、誰も文句を言う人はいない。就業時間内だけの忠誠心なのである。武士の世であれば、放逐ものか切腹ものであるが、気楽なものである。


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