
企業の中では、権利と義務という言葉がいろんな場面でしばしば使われる。「給料を貰っているんだから、給料分は働け」とか、「君はこれだけやっておればいいんだ」というように、露骨に義務が強制されることもある。非道いときは、辞めろと言わんばかりに「給料泥棒」呼ばわりする経営者もいる。
権利と義務という関係は、雇用者と被雇用者、あるいは権力者と非権力者というように双方の立場を明確に白黒つけようとする面があり、どうしても対立関係になり安い。そのために、相互の信頼関係の上に成り立っている筈の企業社会が強引に楔(くさび)を打ち込まれたようになって、企業内の人間関係にヒビが入りやすい。心ならずも、経営者と社員の綾(あや)なす感情を引き割いて、ぎすぎすした関係にしてしまうのである。
従って、権利と義務という言葉は慎重に扱わなければならない。むしろ、企業内では義務という言葉よりも、責務という言葉の方が実態に適っている。責務とは、なさねばならぬ業務範囲の遂行責任である。従って、責務という言葉には、他人から強制されて何かをしなければならないという強迫的な面は義務に比べれば薄く、自らの気持ちの中で「そうしなければ」という意識にさせるものがある。精神的には責任感と同等の感じである。いわば、使命感に似ており、この点が、義務感と根本的に違う。
義務とは、対価としての絶対的な賦役である。分かりやすく言えば、「給料を貰っているのだから、(少なくとも給料分くらいは)なさねばならぬ」ということになる。義務に基づく行動は、自分自身の意思よりも、他人の意思によって行動させられるという意味合いの方が強い。納得できないことでも、「会社のため」あるいは「上司の命令」だから、なさねばならないということになる。
同じような意味の言葉に債務があるが、これは、何かをする約束があるから「なさねばならぬ」ということである。謂わば、借金みたいなものと思えばよい。
社員の中には、義務感的な強制があった方が働く意欲が湧くという人もいる。しかし一般的には、「給料のためには仕方がない」あるいは「雇われの身だからしようがない」と嫌々ながらでも働かざるを得ない弱い立場の人間の方が遙かに多い筈である。しかし、ビジネス社会では、人から言われたから行動する、あるいは判断するというような消極的考えでは生きていけない。結果として、脱落者として誰からも相手にされなくなるか、失格者として自ら去るしかなくなる。
特に、経営者や管理職には、自分のためというより、部下のため会社のために行動するという責務感が要求される。経営の一部を委託されている役職として、自発的に判断する責務が課せられている訳で、勝手に責務を放棄することはできない。判断責務と同時に、機を見て自らが行動するか、あるいは部下を行動させる責務を負っているのである。