以久遠氏の Beauty,Business & Favorites       文化紀行     VOL.13 /1999.12.01

茶道  階層社会     

 茶道は今も根強い人気があり、日本の文化にがっちりと根付いている。特に、日本女性には老若を問わず幅広く支持されているようである。日本人の価値観を検証したり、行動を分析するためには、茶道の精神を研究するのもひとつの切り口である。

 茶道、いわゆる「茶の湯」は、その源を室町足利時代に遡る。当時では最高の社交ツールであった。現代では、接待というと酒肴(しこう)が当たり前のようになっているが、当時においては、お酒は神事やお祭りや祝い事の時くらいしか口にすることが出来ない超高価品だった。というより貴重品だったのである。お茶も決して安いものではないが、当時、接待と言えば茶会、即ち「茶の湯」だったのである。

 そうなれば必然的に作法やしきたりが生まれる。それに哲学が結びつくと「道」になる訳である。茶の湯によって精神を修養し、社交礼法を究めようという発想をする人が現われ、茶道が隆盛を極めるようになった。その茶道の精神の一部が、日本人の価値観として根付いたと考えてもよいだろう。

 茶道の原点は、禅宗にあるようである。室町時代以前から、禅宗のお寺では、「茶礼(されい)」と言って、朝・昼・晩と三時にお茶を点てて出す習慣があったらしい。禅宗のお坊さんが、ここから茶道が生まれたのではないか、と言っているのをテレビで聞いたことがある。

 その時のお坊さんの話では、禅宗にはもともと、「一座建立」、「賓主一体(主賓を分ける以前の世界。あるいは超越した世界)」、「和敬静寂」、「一期一会」という、そのまま現在の茶道の精神となっている思想があるのだそうである。

 禅宗における寂の世界においては、心静かに「寂」であらねばならないとする「三黙堂(さんもくどう)」と言われる場所と、「三黙然(さんもくぜん)」という状況があるとのことである。 三黙堂とは、「浴室、僧堂、東司(トイレ)」の3箇所のことで、三黙然とは、「風呂に入る時、トイレで用を足す時、修行する時」の三つの状態を言うのだそうである。

 トイレで鼻歌交じりで用を足す人はいないだろうが、湯船に浸かって歌謡曲を歌い出す人は多いのではなかろうか。禅宗の修行においてはタブーということになる。 そう言えば、私が小学生の頃、銭湯でタオルを頭において朗々と詩吟を吟じている人を苦々しい表情で手裏剣のような視線を送っていた人がいたのを覚えている。その人はひょっとしたら禅宗の信者だったのかもしれない。

 また、「初発心時 便成正覚(しょうかく)(人間は、「さぁ、やるぞ」と発心した時、既に悟っている。有限である人間が修行あるいは稽古という無限の世界に在る、という意味)」という禅宗の言葉は、無の境地を窺わせる。 

 茶道は、室町時代、京都の大徳寺の一休和尚に師事した村田珠光(じゅこう)が、禅の精神を取り入れ、簡素静寂を本体とする茶道を興したことに始まる。泉州堺の豪商たちのトラスト組織である納屋(なや)衆、武野紹鴎(じょうおう)が珠光に茶道を学び、侘茶(わびちゃ)の骨格を作り上げた。

 豊臣時代に紹鴎の弟子の千利休によって侘茶が完成され、上流階級の社交手段となった。利休の弟子の殆どが大名や旗本や大商人であるところに堺の商人魂が垣間見えるような気がする。利休は、織田信長、豊臣秀吉に仕えたが、秀吉の逆鱗に触れ、町人の身分ながら切腹させられ不遇の死を遂げた。徳川時代に入ると茶道は侘茶や大名茶として益々広まり隆盛を極めた。

 茶道は、千利休の孫の時代に3人の息子達によって裏千家、表千家、武者小路千家の三家に分立した。その後の発展は目覚しく、それぞれに門流も多く、三斎流、織部流、遠州流、藪内流、石州流、宗偏流、庸軒流など多数の分派を生じている。現代では、特に裏千家と表千家が有名で、若い女性の嫁入り前の礼儀作法という感がある。しかしその陰で一部には目に余るような集金マシン化しているところも窺われる。特に彼らが主催する海外ツアーなどは吃驚するくらい高額である。茶の精神文化を求めて参集した茶人の心を裏切っているのは残念である。

 千利休の高弟南坊宗啓が、利休から親しく見聞し習得した茶の湯の心得を記した、茶道の聖書といわれる「南方録」には、「家居の結構、食事の珍味を楽とするは俗世の事也。家は雨漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて足る事也。……これ、茶の湯の本意也」と書かれている。

 詰まるところ、お茶の心は「自然」、即ち「あるがまま」に尽きる。大名茶を興した織田有楽(うらく)(織田信長の弟。有楽町に屋敷があったことから有楽町の名が付いた)が、千利休から「茶道に大事の習いという事さらになし」と口伝されて、「お茶は、すべて人を敬い、敬するところから発する」と境地を開いたように、茶道の精神は、人は皆平等という思想に通じる。貧富の差はあるけれども、貴賤はないのである。

 茶道の精神を、彫刻家や陶芸家として著名な河合寛次郎は、「茶」という字を分解して、「草に非ず、人に非ず、木に非ず」と表現し、掛け軸にしている。この軸は、京都の五条の清水坂下にある河合寛次郎記念館の居間に飾ってあるが、茶の心は、宇宙であり、自然であり、俗世の虚飾に塗(まみ)れたものと一線を画しているのである。

 茶の湯は、庶民から貴族階級まで広範囲にわたって行われていた社交の手段であった。豊臣秀吉も、天下を取った後に平和を示すために「お茶を振る舞うから、茶碗を持って参ぜよ」と世間に触れを出し、「北野天満の大茶会」を二度行っている。豊臣治世の平和の象徴としてお茶を利用したのである。この「同じ場所に茶碗のみを持参すれば、皆、平等にお茶を振舞う」ということは、当然、人に上下貴賤を認めず、町人も大名も皆平等という思想に通じる。

 茶室では身分の上下に関係なく、お客は上座に座り、もてなし側は必ず下座に座るのが習いである。しかも、大名と言えども刀を携えず、裃(かみしも)を脱ぐのが礼儀であった。武士の魂である両刀を茶室の外に置くことは、武士という階級の否定を意味する。

 しかし、千利休が非業の最期を遂げた丁度その頃は、刀狩りや太閤検地などが行なわれ、武士階級が発生し始めていた時期に当たり、士農工商という身分制度が確立しかけていた時期である。このような階層社会構築期に、茶道の精神は武家を頂点とした階層社会を否定する危険思想になりかねず、災いの因になりやしないかと危惧して、秀吉は千利休に切腹を命じたのではないかと想像している。

 茶室建築については、人の手を出来るだけ加えず、自然のあるがままの姿をそのまま茶室の中に取り入れることを尊(たっと)んだ。曲がった木はそのままの姿形で床柱に用いたり、草木を編んで天井を造ったり、孟宋竹の一節を切り取ったものを花入れにして茶道具とした。

 たった一節(ふし)の美を得るために孟宗竹を一本切り倒したのである。これほど贅沢なものはない。茶道は、茶花や茶懐石、掛け軸、茶碗、茶入れ、茶釜、水指し、水屋などの茶道具などを美術工芸品とならしめた。茶道の隆盛は現在も骨董商という茶道具商売を成り立たせているがその中には贋物も多く、茶道具というだけで1.5倍くらい値が上がるだけに素人には手が出せないマーケットと化しているのは残念である。

 お茶の木(原産地は中国の雲南地方)は、遣唐使が中国とわが国を往来していた紀元780年頃に九州の茶処「八女市の山中」に移植したことに始まるという説と、京都に建仁寺を創建した僧栄西(えいさい)によって1200年頃に中国南部からもたらされたという説がある。他にも6世紀半ばに中国の僧が持ち込み八女市上陽町の南面山中に植えたという言い伝えもある。私はこの説を支持している。


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