以久遠氏の Beauty,Business & Favorites        旅紀行     VOL.15 / 2000.02.01号

平泉、奥州藤原氏の中尊寺金色堂   

  芭蕉が「五月雨(さみだれ)の 降り残してや 光(ひかり)堂」と「奥の細道」に詠(うた)った中尊寺金色堂は岩手県南部、一ノ関市の平泉にある。数年前、家族四人で東北旅行をするついでに、仙台から盛岡に向かう国道4号線に添うように走っている東北新幹線を一ノ関駅で途中下車した。駅前の観光タクシーをチャーターして国道4号線を10kmほど田畑地帯を北上すると、まもなく平泉の小さな街並みに着く。藤原三代を祀(まつ)った中尊寺金色堂は、うねるように蛇行して流れる北上川に沿って走る国道4号線と東北高速道路に挟まれて、平野部から山に向かう小高い山の上にある。

 中尊寺参道の登り口の桜川というところから月見坂をテクテクと登り始める。老齢者にはかなり酷な登り坂が延々と続き、ただひたすら登るだけで金色堂に至るまで一回も下りがない。途中、休憩を兼ねた展望台が数箇所ある。そこだけが数少ない平坦地で、ここで一休みするしかない。そこからの眼下の緩やかに蛇行した北上川の眺望が素晴らしい。一休みして、再び胸突き八丁の坂をひたすら40分ほど登り続けると中尊寺のある頂上に着く。

 中尊寺は想像していたより遥かに豪壮で立派な建造物であった。本堂の屋根は聳え立つように高く、そして大きく堂々としている。平地の神社に些かも引けを取らない。こんな険しい坂の山頂にこれほど大きなお寺を、よくぞ建てたものである。境内は急峻な山の頂上にもかかわらずゆったりと広く、平坦な広場になっていて山の頂にいるという感じを全く与えない。境内から少し離れた、金色堂に行く途中に博物館や茶室がある。眼下には、平泉の盆地のような平野が開け、ゆったりと曲がりくねった北上川と衣(きぬ)川の流れが一望できる。如何にも難攻不落の要塞といった感じがする立地である。

 更に数分上った薄暗い杉木立の古木の中に、コンクリートの保護建物(覆堂)に覆われた金色堂が黄金の輝きを殺すかのようにしてひっそりと建っている。中尊寺は想像した以上に大きな建造物であったが、五間四方の金色堂は思ったより小さく、遠目にはちょっと大き目の「お堂」という感じの建物であった。しかし、一歩入って見ると、金箔をふんだんに使った造りは、秀吉の黄金の茶室と甲乙付け難いほどの豪華絢爛であったが、黄金の茶室に無い重厚な荘厳さがあり、小さいながらも堂々としていた。さすがに奥州藤原氏の栄耀栄華の限りが偲ばれる。

 昭和20年代に金色堂の大規模な発掘調査が行われている。金色堂の傍の博物館では、15分ほどの短い映画であるが、その時の発掘作業を記録した映画が上映されている。歴史を感じさせる白黒の16mmのフィルムで、画面には大雨が降っているような筋が走りかなり傷んでいてちょっと見辛いが、さすがに作り物でない迫力は見る者を吸い込むように引き込み画面の傷みを忘れさせる。

 このときの発掘の状況は三好京三氏の「秀衡の漆」という小説にもドキュメンタリータッチで詳細に書かれている。博物館の映画を見て、この本を読むと実に分かりやすい。この発掘によって、金色堂伽藍(がらん)の阿弥陀如来、観音菩薩、勢至(せいし)菩薩の三尊仏の須弥壇(しゅみだん)の下から藤原三代、清衡、基衡、秀衡のミイラと、泰衡と思われる胴のない頭蓋骨一個が発見されたそうである。

 博物館には藤原清衡、基衡、秀衡三代にまつわる発掘遺品や生活雑器などが数多く展示されている。多くの観光客が800年前の世界に誘(いざな)われるような気持ちである。二階の展示室には、藤原秀衡像が想像復元されていた。ミイラで発見されているので原形に近いものだと思われるが、身長160cmくらいの筋肉質で、むしろ小柄な体格なのに驚かされる。中高の面長で鼻が高く、なかなか知的でハンサムなソース顔である。武人というより文人という印象を受ける。基衡は167cmくらいあったらしい。当時、東北地方に原住していたアイヌ民族とは明らかに異なる人種であることがいろいろな点から判明したそうである。

 山頂の中尊寺や金色堂とその周辺施設を見て下ると、大体一時間半から二時間の行程である。その待ち時間を利用して、タクシーの運転手さんは外(ほか)のお客さんを拾って営業しているが、我々が山を降りて来る時間に合わせて巧い具合に登り口脇のタクシー乗り場で待っていてくれる。タクシーの運転手さんがしきりに、

   「是非、毛越寺(もうつうじ)の庭も見て行きなさい。綺麗ですから。」

と勧められ、「それじゃ、折角だから」と立ち寄ることにした。毛越寺は奥州藤原氏の菩提寺である。桜川から車で10分くらい南の平泉小学校の前にある。それほど大きなお寺でもなく、鎌倉や京都のお寺を見慣れている私の目には特に驚くほどのお寺ではなかった。

 しかし、松林と広大な池の庭園にはどことなくのびやかな雰囲気が漂っていて気分が良い。松林に囲まれた広大な池は雄大で、満々と水を湛えた池には岩石は三つか四つしかなく、それが却って池を広々とした感じにしているのかもしれない。

 境内では、地面に敷き詰めた青色のビニールシートの上で、平泉小学校の20人ばかりの生徒たちが華やかな赤青黄緑の原色の衣帯を付け、テープから流れる笙(しょう)の音に合わせて雅楽の舞の練習に励んでいた。中国の雲南省の民族舞踊とそっくりな異国情緒の漂う舞は神社の御祭りには合いそうだが、奥州藤原氏の菩提寺に何故?雅楽?という思いが走り、一種異様な感じを受けた。驚いたことに、舞を教えていた先生は青い目の若い白人女性であった。

 運転手さんの案内で毛越寺を30分ばかりで見て廻り、一ノ関駅に戻る。これだけ乗ってタクシー代は数千円である。しかも「観光タクシー」と銘打っているだけのことあって、運転手さんがハンドル片手に平泉の歴史を懇切丁寧に講釈しながら、自分で勝手にルートを決めて見所を案内してくれる。人任せの観光も良いものである。気さくで親切な憎めない運転手さんで非常に心地よい旅であった。

 平泉の駅の近くには、源義経が匿(かくま)われていた屋敷の跡という判官館(ほうがんやかた)跡があり、観光用の義経道や弁慶道などという桜並木の道路まで出来ている。花の季節には弁慶を引き連れた義経道中の行列でもするのだろう。義経は、ここから山深い奥州街道を抜けて津軽半島先端の十三湖に逃れ、蒙古に渡ってチンギスハーン(ヂンギスカンともいう)になったという伝説も生まれている。十三湖までの道々には義経に縁のある品を祭っている祠や神社が方々にあるらしい。英雄は民衆の心の中に永遠に生き続けているのである。


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