以久遠氏の Beauty,Business & Favorites         文化紀行     VOL.16 / 2000.03.01号

<岩手と熊本>  詩人を生んだ街、渋民村と南関町

 石川啄木と北原白秋の生まれ育った地に縁を得た。生い立ちには天と地ほどの差があるが、よく似た風土の中で育った二人である。九州の熊本県北の南関(なんかん)町と東北の岩手県盛岡市郊外の渋民(しぶたみ)村である。盛岡には一年半ほど単身赴任した。九州は私の故郷(福岡県)である。

 石川啄木が生まれ育った渋民村は、盛岡市から国道4号線を青森に向かって20kmばかり北上した岩手県の北部にある。西に岩手山、東に姫神山に挟まれて北上川に沿うように静かに佇む、冬には雪深い山間(やまあい)の小さな村である。国道4号線から宝徳寺の方へ向かうと、左手に村営の小さな石川啄木記念館がある。

 啄木はお寺の住職の長男に生まれ、父住職の失敗で石を持って追われるように渋民村を去った。盛岡市に出て代用教員になり、妻を娶る。生活の糧を稼ぐために、東京に出たり、函館に渡ったり、新聞記者をしたり、小学校の代用教員を勤めたりしたが、啄木自身が「はたらけど、はたらけど (なお)わが生活(くらし)楽にならざり じっと手を見る」と歌ったように、一生、赤貧の生活から抜け出すことは出来なかった。

 一方、北原白秋は柳川の醸造家の長男に生まれ、何不自由ない暮らしをして成長した。白秋が育った柳川の北原酒造は、殿様屋敷で有名な料亭「お花」の近く、沖ノ端川沿いに白秋記念館として保存され、柳川藩主立花家の料亭「お花」とともに水郷柳川を代表する名所となっている。白秋の故郷は福岡県柳川市ということになっているが、生まれたのは熊本県の北部の、福岡県との県境に近い山間の玉名郡南関町という小さな静かな町で、白秋の母方の里である。生家の門を入ったところにある生誕歌碑に「春霞 関の外目は玉蘭のはなざかりかも母の玉名は」という歌が刻まれている。実家は南関町長を務めた家で、現在もある。

 熊本には阿蘇山、盛岡には岩手山という土地を象徴する山がある。今も噴煙をたなびかせている険(けわ)しい男性的な活火山である。川についても、熊本には球磨(くま)川という水量の豊富な急流があり、盛岡には緑青める北上川が滔々(とうとう)と音を立てて流れている。村の鎮守様には森がこんもりと繁り、野には稲田が開け、春ともなれば、近隣の小山の麓や小川の両岸には色とりどりの可憐な草花が咲き乱れる。二人の詩人を生んだ故郷(ふるさと)は正しく「うさぎ恋し、かの川…」の世界である。

 この北と南の山間(やまあい)の町は、どちらも不思議なくらい風景がよく似ている。人影の少ない街を歩くと、低い山と些程大きくない小川と小さな田圃(たんぼ)が目に映る。山間にもかかわらず、小川はサラサラとゆるやかに優しく流れている。澄んだ清らかな川である。どちらも冬季には冷たい木枯らしが吹く山間の寒冷の地で、南国の南関町にも年に数度は雪が降る。人影のない朝靄(あさもや)の風景は侘しい農村を描いた一服の水墨画を思わせる。南北どちらも静かな寂しい風景の街である。

 ただ、明らかに異なるものは草木の色合いと彩やかさだろう。一般的に、南北の草木を比べて見ると、太陽に近くなるほど色鮮やかになる。南関町は南の地だけあって草や木の緑は逞(たくま)しく輝くように明るい黄色系の緑であるが、北国の渋民村の樹木は深い青緑色で暗く沈んでいる。花の色も同じで、南関町の花は赤や黄や青の原色が華やかに輝いているが、渋民村の花は白色や淡い色が多く強い原色は少ない。

 二人が育った柳川と盛岡の町には柳川城と不来方(こずかた)城があり、インテリジェンス(知的水準)の高い街であっただろうことが推察できる。どちらも城下町育ちで、勉学に何不自由なくお金を掛けて貰えた北原白秋と、片田舎では高い知的環境である住職の子息という環境が共に文学に目を向けさせたことは間違いないだろう。育ちと風土の違いが啄木の歌には暗い陰を落とし、白秋の短歌には際立った明るい影を落としているのではないかという気がする。

 啄木記念館は渋谷村の外には盛岡市と函館市にある。白秋記念館は柳川と神奈川県三浦半島の城ケ崎海岸にもある。奇しくも、記念館までもが明暗、寒暖の地に分かれて存在しているのである。


Enter From 検索  Update & Back-number index  Home  Tour  Gourmet  Culture  Business01  Business02  Business03  Profile