
2000年の寒い2月、150億光年の彼方にある銀河系を見ることが出来るという、ハワイ島マウナケア山頂の「すばる天文台」(正しくはすばる望遠鏡)を見学する機会を得た。すばる望遠鏡は、10年前、世界最大の可視型天体望遠鏡建設を目指して予算400億円の国家プロジェクトとして発足した。わが国の最先端最高の技術を結集して世界最大のアナログ型の天体望遠鏡をマウナケア山頂に建設しようという国立天文台の計画である。
その計画に、私が勤務している会社が開発した音叉式力センサーが精度と耐久性を評価され、巨大天体望遠鏡の心臓部である鏡面の歪(ひずみ)の補正装置(アクチュエイター)に採用されている。すばる望遠鏡は昨年9月にほぼ完成を見、マウナケア山頂に紀宮様を迎えて、ファーストライトの式典が執り行われた。その後、NHKなどですばる望遠鏡の特集が日夜放送されたので、記憶されている方も多い筈である。完成を機に国家プロジェクトの協力会社に対して見学が開放され、今回、私達の会社も特別に見学が許された。
雪明けの成田空港を21時40分に飛び立った。途中、大きな揺れもなく、時速250kmのジェットストリーム(偏西風)に乗って時速950〜1000kmの高速で運ばれ、現地時間の朝8時半、6時間弱のフライトでハワイ島西北部のコナ空港に着陸した。ハワイ王朝最後の王様カメハメハ大王が余生を送った地である。ハワイ島観光の拠点となるカメハメハ・ホテルにチェックインする前にキラウエア火山公園に向かう。
4度目のハワイで、初めてハワイ島を訪れたが、ハワイ島はまさしく「もうひとつのハワイ」である。飛行機が高度を下げるにつれて、まるでハワイ島を風呂敷でふわりと覆ったような緩やかな勾配で円弧を描いたマウナロアとマウナケアの巨大な山地が目に飛び込んで来る。島全体が黒々とした砂漠のようで、オアフ島のワイキキビーチのような林立するホテル群もなく、一面、溶岩に覆われた逞しい島である。ハワイと言えば派手な賑わいのワイキキを思い浮かべるが、ハワイ島はこれまで抱いていたハワイの認識を一変させた。
海中へ流れ込んだ溶岩流の突端にコナ空港がある。国際空港であるが、ホノルル空港のような賑やかさも華やかさもなく、管理棟も小さく質素で、広大なローカル空港といった風情である。ホノルル空港のように延々と待たされることもなく、粗末なテントハウスの閑散としたイミグレーションで入国手続きを済ませる。小振りの黄色いハイビスカスの花が出迎えてくれた。
ハワイ島は今も成長し続けている最も新しい島である。ハワイ諸島最大の島であることから通称ビッグアイランド(Big Island)と呼ばれ、四国の60%の大きさがある。コナコーヒーと火の女神ペレが住むという南部のキラウェア火山が世界的に有名で、キラウェア火山は今も噴煙を上げて活発に活動している。海岸部では溶岩が海中へ噴流して一年に数センチずつ島が成長しているそうである。南部にはTVコマーシャルで紹介された風力発電所もある。
その溶岩ばかりの広大な島に、人口は12万人しか住んでいない。街中はそうでもないが、車で一旦山に入ると人家や人影は殆どない。世界最大のパーカー牧場が果てしなく続く、まるで無人島のような島である。東部最大の街ヒロに5万人、西部のリゾート地コナに4〜5万人、島央部の巨大なパーカー牧場の中にある街に1万人、その他に1〜2万人という内訳である。
島の中央部には「北半球の天文台村」で有名な、現地語で「白い山」を意味する標高4205mのマウナケア山と「荒々しい山」を意味する4169mの活火山、マウナロア山が島を東西に二分している。
特にマウナロア山の偉容は目を見張るものがある。南端の岬から立ち上がりそのまま緩やかに4169mの頂上までほぼ一直線に稜線が続き、北方へ緩やかな弧を描いてマウナケア山に合流している。単一の山がハワイ島の4分の3を占領しているのである。山裾から山裾までの距離が200kmくらいあるそうであるから、東京を0m起点とすればそこから緩やかな上り坂が延々と続き、浜松あたりが4169mの頂上ということになり、名古屋あたりが2000mの中央高原という想像を絶する巨大な山ということになる。
その高原のすぐ北に4205mのマウナケア山がある。四国の60%しかない島に富士山よりも遥かに高い山が二つもあるのには驚く。ロッキー山脈の最大の幅が東京から広島までにあたる約900kmあるそうだが、島の大きさから見ればマウナケア山は驚くべき巨大さで、体積的には単独の山としては世界最大だそうである。
西海岸は水も豊富で緑も多いが、車で20分ほど山に入ると一面黒色と赤茶色の溶岩高原になる。溶岩塊の合間に疎らに背の低い草木が生えているだけで、山間部には人間が住んでいる気配はなくなる。人間は海岸部の幹線周回道路の脇に200〜300人くらいの小さな集落を作って生活しているが、まるで溶岩と溶岩の間に人間が遠慮しながら住んでいるような島である。
そんな田舎であるから泥棒もおらず、昼夜、鍵を掛ける必要もないくらい安全だそうである。ただ、溶岩地であるために殆ど地下水がなく、西南部の住民は雨水を巨大な平べったい樽のような形状をしたタンクに貯めて飲料水にしている。
ハワイ名産と言えば、砂糖きびとパイナップルを思い浮かべるが、ハワイ島にはコナコーヒーがあるだけで砂糖きび畑もパイナップル畑も見当たらなかった。とっくの昔に産業として成り立たなくなったのだそうである。今はどちらも殆どを輸入に頼っているらしい。
島央部の標高4169mの巨大なマウナロア山塊のために東側と西側では気候が著しく異なっている。マウナロア山の東側は年降雨量が3800mmくらいもある熱帯雨林地区で、ジャングルが到る所にある。
ところがそれにひきかえ、マウナロア山の裏側の西側の雨量は150mmくらいしかない乾燥地帯で、土壌はかなり乾燥しており背丈の低い潅木(かんぼく)林がある程度である。雨量から見れば、西側は普通なら砂漠のようにになるところであるが、巨大な後背山地からの水に恵まれて地下水が流れ出る海岸平地には豊かな緑がある。
また、平地は一年中30度前後の熱帯であるが、マウナケア山の山頂は零下になることも多く、12月から5月ごろまで残雪がある。今の季節にはスキーも出来るらしい。私達が訪問したときも天文台の北側斜面には残雪があり、斜面には沢山のシュプール(スキーの跡)が見られた。氷河の跡も残っていた。
北半球ではここが、南半球ではチリのアンデス山脈がもっとも空気が澄んでいて、天体観測には最も適しているのだそうである。国立天文台のすばる望遠鏡はマウナケア山頂のすぐ近く4100mくらいのところに、強い太陽の光を浴び銀色に輝いて外の12基の天文台を圧倒するように建っている。ハワイもわが国の山と同じで山頂は神聖な場所という認識があるそうで、4205mの山頂には何も建ててはいけないらしい。
山頂直下は天文台銀座で、アメリカ、イギリス、フランス、カナダなど世界各国の天文台が13基もあって壮観である。ハワイ島では一集落にも相当する200人以上の科学者が60%の希薄な酸素しかない劣悪な環境の中で研究を続けているのである。そういう意味では十分「国際天文台村」と言うことができる。
気圧は海中では10m毎に1気圧ずつ高くなるが、山では1000mごとに0.1気圧ずつ減少する。従って4200mの山頂では60%の気圧しかない。ということは酸素も60%しかない訳である。60%の気圧がどのくらいかと言えば、持参したポテトチップスの袋がパンパンに膨張するほどである。中には、パンッ!と破裂することもあるらしい。
今、私は虫歯の治療をしているが、歯医者さんに「4200mの山に登るが大丈夫でしょうか?」と尋ねたところ、即座に「詰めるのは止めましょう」という返事で、治療は帰って来るまで一時中断することになった。詰め物をした場合、詰めた中が1気圧で外が0.6気圧になり、詰め物が浮いて歯が痛み始めることがあるらしい。
マウナケアに登る前に、ガイドから「心臓などに疾患のある人は遠慮してください。オニヅカセンターでは水分を十分補給してください」という注意がある。水は酸素を含んでいるので高山病の予防に効き目があるらしい。私達は高山病に罹らないように500mmリットル入りのミネラルウォーターの瓶を一本ずつ携えて4輪駆動の車上の人となった。
人間は大体、高度3000mくらいから高山病に悩まされるそうであるが、車も酸素不足のためにパワーが落ちて走れなくなるそうである。高地対応の特別仕様の4輪駆動車をチャーターした。特別仕様車は簡易舗装された山道を快調なエンジン音と共に殆ど直線的に登って高度を上げて行く。
途中、高地順応のために標高2800mにあるオニヅカセンターで、ホテルが用意してくれたランチボックスで昼食を摂り、ミネラルウォーターで体内に水分を補給し45分ほど休憩する。一気に登ると、高山病になりやすいのだそうである。高山病の症状は、頭痛やめまい、視野狭窄、吐き気などの症状で現れる。センターのすぐ上には、天文台に研究に来る学者さん達のための宿舎があった。先生方も大変である。
再び登攀を開始し、25分くらいで頂上のすばる望遠鏡観測棟の玄関に着く。群青色の空の中に聳えるように建つ想像以上に巨大な建造物である。遠くから見ると長方形のビルに見えるが、球形のドーム型の天文台と違って、すばる望遠鏡は洒落たオフィスビルのような円筒形の建物である。観測棟の玄関前に立つとカメラのファインダーに余るほど大きい。
案内役の天文台のN助教授から、建物の仕様、望遠鏡の機構、建設の目的、他国の天文台との比較、「すばる望遠鏡」の役割、などなど微に入り細にわたって懇切丁寧な説明を聞く。見学の途中、「遅れてもいいですから、ゆっくり歩いてください。平地と同じ感覚で歩くと気分が悪くなりますよ。おかしくなったら深呼吸し、吐き出さずに息を止めて胸に力を入れてください」と注意があった。
館内にはどの部屋にも片隅に酸素吸入器が設置され、不慮の事故に備えられている。大変な仕事場である。皆、緩慢な足取りで随いて行く。それでも、ちょっと歩く度に誰かが高山病の軽い症状を訴えた。一回の呼吸で60%の酸素しか吸入できない訳だから、当然である。その度に立ち止まって深呼吸をし、息を止めて胸に力を込める。こうすることで、胸郭がポンプの役目を果たし、血管に酸素を強制的に送る訳である。4、5回深呼吸すると平常に戻る。
見学の途中、同行者の娘さんで18歳になるお嬢さんが、突然、気を失って倒れるというハプニングがあった。直ちに酸素吸入治療を受けて数分で正常に戻ったが、倒れた前後の記憶が全くなかったのには吃驚した。最悪の場合、死亡することもあるそうである。時々、新聞紙上で酸欠事故を目にするが、酸欠とは恐ろしいものである。
出発の朝は雲一つ無く快晴で、頭上真上にオリオン座の三つの星が手が届くような近さに見えた。中腹にある標高2800mのオニヅカセンターには11時半ごろに着いたが、真昼間だというのに三日月が中空にくっきりと浮かんでいるのが、まるで望遠鏡で覗いたようにはっきりと見える。
4200mの山頂の空は群青色のような深い紺碧の色で心持ち暗い感じがするが、刺すような強い太陽光が印象的である。サングラス持参を勧められたのがよく分かった。空気が澄んで気圧が薄い所為らしい。夜になると、明かるく輝く星の光で人の影が地面にくっきりと映るらしい。機会があれば、夜の星空も見物してみたいものだ。