ビジネス座談-3-     以久遠氏の Beauty,Business & Favorites       VOL.19/2000.06.01号

忠告中傷批判非難    

 忠告と中傷

 噂や他人の告げ口を何の疑いも抱かずに単純に信じ込んでしまう人がいる。それだけならまだ害は少ないが、問題なのはその内容を確認もせずに本人を呼びつけて頭ごなしに諌(いさ)める人がいることである。こういう性格の人はきわめて事実誤認に陥りやすい。本人にしてみれば親切心から忠告しているつもりだろうとは思うが、一方の言い分だけを聞いて相手の言い分を聞かないというのは方手落ちである。事実確認という点で完全な手落ちがある。

 このような人は、無意識の内に己の偏向した人間性を露け出しているようなもので、周りの人からの信頼を得ることは到底出来ない。人間関係においても事実確認というマーケットイン思考が必要なのである。忠告をする前に双方の言い分をじっくり聞いた上で、どちらの言い分が正しいのかを発生した状況を思い浮かべながら冷静に判断しなければならない。そうでないと、折角の忠告が相手には中傷となって伝わり、折角培われた人間関係に無用なヒビを生じさせることになる。

 広辞苑によれば、忠告とは、「真心をもって他人の過失・欠点を指摘して戒め諭すこと」とある。即ち忠告とは、事実を取り違えたり、間違って思い込んでいたりしている時、あるいは誤った行動をとっている時、きちんと分かりやすく理由を説明して、取り違えや誤り等を本人に気付かせる善意から出た行為ということになる。即ち、「真心をもって」というところに大きな意味がある。

 また、中傷は「無実のことを言って、他人の名誉を傷つけること」と解説されている。「無実のことを言う」のであるから、極めて悪意のある卑劣な行為ということになる。明らかに嘘の告げ口をする行為である。中傷というのは、名誉棄損罪が適用されるくらいの悪質な行為なのである。

 従って、中傷は事実を意図的に歪曲(わいきょく)して名誉を傷つけたり、あるいは一方的に事実に反したことを言って責め咎(とが)めるという行為であるから、これには必ず何か良からぬ悪巧みが隠れていると見てよい。噂や告げ口の中には、当人同士を喧嘩させて両方を潰してしまおうとする策略のこともあるのである。

 殊に、気心の知れた人から告げ口された場合や、気に食わない相手の場合など、軽々と信じてしまいがちである。こと、人に関することで失敗すれば取り返しのつかないことになるので、冷静に公平に事実を見つめるよう心掛けなければならない。出来るだけ、自分で確認するように心掛けておいた方が良い。特に、真心の通じない忠告は、相手にとっては中傷に等しいことを知らねばならない。

 批判と非難

 鍋島藩の葉隠という本の中に「人を超えようと思ったら、自分を批判させよ」という言葉がある。また、福沢諭吉翁は「行為する者にとって、行為せざる者は最も苛酷な批判者である」と述べている。共に、批判する者と批判される者との関係を鋭く表現している、批判についての名言である。

 葉隠の言葉は、批判とは「下位者の上位者に対する行為」という前提の下に述べられている。上位者が下位者を批判するということは、通常あり得ないことである。本来、上位者が下位者の言動をたしなめる言葉は叱責でなければならない。それを承知で、上位者が下位者を批判するということは、上位と下位の関係が逆転していることに外ならない。仮に部長が平社員を批判すれば、自分が平社員に劣ることを暗に認めていることになるのである。

 同様に福沢諭吉翁の言葉も、「トップは結果で示すしかなく、何や彼やと言い訳することは出来ないが、下位者はどんな苛酷なことも平気で言える」という意味に解釈することができる。行為する者と行為せざるものという関係の中で述べられているが、決断するものと決断しない者という関係の中で考えればよく分かる。福沢諭吉翁の評論家的面が出ている言葉とも言えるが、さすがは慶応義塾を創設して実学を若者に奨励し尊重した創始者らしい言葉とも言える。

 批判によく似た言葉に非難という言葉がある。広辞苑を紐解いてみると、批判とは「人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価・検討すること。否定的内容を持つものを言う場合が多い」と書いてある。そして、非難の項には「欠点・過失などを責め咎めること」と記されている。

 さらに似た言葉に誹謗(ひぼう)という言葉があるが、これは「そしること。悪口を言うこと」という意味で、批判とは少し意味合いが異なり、非難に近い。「そしる」を漢字で書くと「誹る」あるいは「謗る」となる。同じような意味に使われている言葉に中傷という言葉があるが、前述したように、これは「無実のことを言って他人の名誉を傷つけること」という意味で、これは少し意味合いが違う。

 批判は、企業内においては、非建設的な発言として見られることが多い。非難者については、全く無視されるか、力で屈伏させられるか、あるいは逆に目には目をとばかりに轟々たる非難を浴びせ返されることになる。批判と非難は、どっちにしてもいいことはない。

 大抵の場合、決まり文句のように「文句があるのなら代案を出して文句を言え」と言う人が多い。特に、批判のしっ放しというのが一番まずい。解決案が提示出来ない単なる批判者は、組織を攪乱するだけの者として見られ、批判分子とかマイナー人間とか非協力者という不名誉なレッテルを貼られる。そして、そのレッテルは少々のことでは剥がされることはない。さらに、管理者の独善的な評価の下に、ある時は組織から無視され、ある時は組織の力によって抹殺されるのである。

 企業も一般社会も、人によって出来ており、人によって運営されている点では同じようなものである。規模の大小こそあれ、人の心の上に成り立っていることでは何ら変わりはない。そこにはオーソリティーもいれば未熟な者もいる。オーソリティーであれば代案を出すことも出来ようが、未熟な者には「ただ何となくおかしい」と直観的に疑問を抱くことは出来ても、代案を提示するだけの知識もノーハウも持ち合わせていないかも知れないのである。

 問題提起が出来るということは、現状認識に優れ課題発見能力が高いということである。経験と知識を蓄積して行けば、自ずと代案を提案するだけの能力を有するようになる。立派な管理者予備軍に育つ可能性があるのである。従って、「批判するのなら代案を出せ」という言葉は一見「なるほど」という印象を与えるが、現実には未熟者の直観的な問題提起を封じ込める働きをすることになりやすい。

 時と場合によっては問題提起をした未熟者の居場所を奪うことにもなりかねない。結果として、未熟者は自らが企業に存在する価値を見出すことが出来ずに、企業を去ってしまうかもしれない。そうなれば折角の有為の若者を失うことになり、企業にとっては大きな財産の流出となる。幼児が何にでも疑問を抱いてしつこいほど質問をして成長するように、若者の疑問心を奪うようなことは避けなければならない。


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