以久遠氏の Beauty,Business & Favorites       食紀行      VOL.19/2000.06.01号

鎌倉山、手打ち蕎麦の「らい亭」

 手打ち蕎麦の「らい亭」は本当は漢字である。パソコンでは表記できないようなので「らい」と平仮名書きにしたが、「らい」という字は「木」偏に「雷」と書く。その店は神奈川県の鎌倉市の西奥、源頼朝の鎌倉幕府の後背地、鎌倉山にある。鎌倉山は桜の名所で、春には徒歩や車の花見客で全山が混み合う。

 「らい亭」は、鎌倉山のほぼ山頂あたりにある。まず、骨董品のような山門構えの入り口に圧倒される。入園料を払って山門を潜ると、目の前に敷地3万余坪という広大な庭園というより眺望の良い山地が展がる。そのまま山道風の狭い道を暫く行くと、鄙びた木造二階建ての小さな建物がある。一階は百姓家造りの手打ち蕎麦の「らい亭」で、二階は瀟洒な洋館造りでフランス料理のレストランという不思議な建物である。

 「らい亭」を初めて訪れる人は、入り口の豪壮な山門構えを一目見ただけで、そっと財布の中身を確認したくなる筈である。入ろうか止めようかと躊躇するくらい、それくらい豪壮な造りである。しかし、それも杞憂である。入り口の威容さに比べれば、蕎麦の値段は極めて庶民的で750円からある。高くても2500円止まりで決して驚くような値段ではない。

 麺も手打ちで、味もよい。入ってみれば、安すぎるという感じを抱くこと請け合いである。店員さんの応対も丁寧で、気持ちを安らげさせてくれる良心的な店である。地元の鎌倉や藤沢で知らない人のいない店で、年に必ず数回は訪れるという常連さんが大勢いる。

 入り口の山門は、1642年建立の鎌倉の古刹(こさつ)寿延山高松寺の山門を昭和の初めに移設したものだそうである。蕎麦と懐石料理を食べさせて呉れる鄙びた本館の建物は横浜市戸塚の豪農、猪熊家の旧宅を移したものだそうで、外観は何処にでもある鄙びた一軒家である。

 一階は農家造りの土間、二階は大正時代に建て増しされたという洒落た洋館造りというユニークな和洋折衷の建物である。一階の、如何にも百姓家風の土間からギシギシと音のしそうな素朴な階段を登ると、二階には緋毛氈が敷いてあるロビーのような広い洋間がある。窓のステンドグラスを通して柔らかい光が射し込んでいて雰囲気ががらりと一変する。二階は予約制のフランス料理レストランである。

 私たちは一階の「らい亭」で昼食を摂った。自然木を手斧(ちょうな)で削って作ったような粗々しい細工のテーブルと椅子に腰をおろして手打ち蕎麦を注文した。窓外の広大な庭園を眺めながら、腰の強い蕎麦を食する。天気の良い日には庭の彼方に由比ヶ浜の小波(さざなみ)がキラキラ、キラキラ、太陽の光に反射して美しく輝いて見える。悠揚として寛いだ気分になれる。

 三万数千坪もある広大な庭は食後の散策に丁度よい。庭園というより鎌倉山の自然そのものといった風情で適度の高低差があり、ハイキングに来ているような気分になる。しかし、目に映る山も樹も全てが「らい亭」の庭なのであるから驚く。まるで太陽は庭の東端から昇り庭の西端へ沈んでいるような錯覚に陥る。とてつもない広さである。

 自然そのままの山と谷の中に人一人がやっと歩ける程の狭い回遊式の散歩道が設営されている。上ったり下ったり、やや勾配がきついが、木々が鬱蒼(うっそう)と繁って谷間には陽光も射し込まず、昼なお暗い。所々に竹林、梅林などもある。道端には、日本や中国の石仏や羅漢さん、石塔などの骨董品が露天のままさりげなく展示してある。決して趣味が良いとは言いがたいが、香港の大金持ちの私邸風で異国情緒が漂っている。それはそれで、広大な自然庭園にマッチして不可思議な味がある。

 狭い山道を下っていくと、左手に文化財に指定された茶室「月庵(つきあん)」がある。さらに右手に降りていくと、中国の石塔や百羅漢があり、その先に農家造りの甘味処「露庵(ろあん)」がある。蕎麦や蕎麦団子を入れたお汁粉が名物だそうである。露庵の庭から見る相模灘に沈む夕陽が絶景である。同じ敷地の中には高級懐石料亭「山椒洞(さんしょどう)」もある。まだ行ったことはないが、「山椒洞」は露庵の庭先から西北の方、やや見上げるくらいの位置に木立の合間にかすかに見える。

 恐らく、鎌倉山の所有者であった大地主さんが、高級住宅地として名高い鎌倉山の宅地分譲で得た財力に物を言わせて収集したものであろう。如何にも大金持ちの粋人が作ったという感じの山地庭園である。鎌倉山一帯は戦前は別荘や保養地であったが、現在も豪邸の多いところである。そんな中でも「らい亭」は恐らく鎌倉山一の規模を誇るだろう。


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