昨年末、一ヶ月の間に日本の古代史を代表する二大遺跡、青森の三内丸山(さんないまるやま)遺跡と佐賀の吉野ケ里(よしのがり)遺跡を見学する機会を得た。吉野ヶ里は私の郷里からも近く、いつでも行ける所であるが、青森の三内丸山遺跡は殆ど機会のない地であった。ところが、青森県に新規の取引先が出来たので表敬訪問することになった。
青森市内の取引先の用事が11時半に済んだ。後は食事して午後から市内の取引先を一軒と弘前の取引先を訪問する予定である。三内丸山遺跡は、青森市南西部の、東北自動車道の終点青森インターからほど近い青森市郊外の緩やかな丘陵地帯にある。弘前への途中でもあり、折角、青森まで来たのだから、どうせなら昼食は三内丸山遺跡の近くで食べようと同行の社員に提案した。
ところが、青森市内から車で30分足らずの近郊の筈であるが、彼らが言うには遺跡の近くには人家もなく、もちろん店など一軒もないとのことである。だから、食事を済ませてから行きましょうと言う。
「しかし、観光客や観光バスも来ているんだろう?」
「観光客は多いですよ」
「それなら、遺跡内に食堂がない筈はない、絶対ある筈だ。行こう、昼食は三内丸山だ!」
彼らの主張を押し切って、陸奥湾を背にし山手へ向かう。田舎の道路は殆ど車も走っておらず、20分ばかり走って12時前には三内丸山遺跡の入り口に到着した。縄文時代前期中頃〜中期の大遺跡で、広さが80ha弱もある広大な遺跡である。昼食の前に直ちに遺跡の見学である。遺跡はなだらかな丘陵地にあった。現在も広大な遺跡のあちこちでは、大勢の人たちが小さなスコップと出土品の汚れを落とす刷毛を使って緻密な発掘調査にたずさわっていた。広大な敷地の中での気の遠くなるような微細な精神集中作業である。調査が完了すればその場所は埋め戻され、そして次の場所へ移動して発掘するという単純繰り返し作業の連続である。
三内丸山遺跡は、江戸時代から既にその存在が知られていたという有名な遺跡だそうである。発掘費用がなく、やっと1994年になって本格的な発掘が始まった。その途端、縄文時代の大規模集落の遺跡であることが判明し脚光を浴びることとなった。大規模集落は弥生時代に発生したと考えられていたのが、縄文時代に既に大集落が誕生していたことが証明されたのである。しかも、さらに弥生時代から縄文前期までの痕跡が深さ10数メートルの地層の中から階層的に発見された。弥生人が縄文人を追い出したのであろうが、いずれにしても人間が住みたいと考える場所は弥生人であろうと縄文人であろうとそう変わらないのである。だから、争いが起こるとも言えるが…。
縄文前期の地層からは、竪穴住居、掘立柱建物、墓などのほか、溝・柵・道や大規模な土木工事の痕跡などが発見されている。縄文前期には既に社会共同体としての邑(むら:村)の形が出来上がっていたようである。特に、六個の巨大な柱の穴とその穴に残っていた炭化した巨大な楠の残骸の発見がセンセーショナルな話題となった。
六個の柱穴が2m20cmの間隔で二列並行して並んでおり、その柱穴の中から直径60cm前後の大楠木の残留物が発見されたのである。一抱えもあるような大木が六本も立っている建造物とはどんなものだったのだろうか?柱の大きさから推定される建造物の高さは15mから24mくらいの大きな建物だったのではないかと言われているが、底辺はさほど長くはないので5階建てから8階建てのペンシルビルのようなものを想像した。
建物の造りは、恐らく櫓(やぐら)のようなもので、用途としては見張り台だろうとか、農作業のための四季認識用の塔だろうとか、宗教儀式のための建物だろうとか、いろいろと想像されているが、未だ結論は出ていない。1000km以上も離れた佐賀の吉野ヶ里遺跡でも同じような建造物跡が発見されている。
仮に見張り台とすれば、吉野ヶ里には防護用の深い環濠があるように、三内丸山の大集落の周りにも何らかの防御施設があってもよいように思うが、環濠らしきものはなかった。それでも、木製の柵ぐらいはあった可能性はある。吉野ヶ里よりも数百年も古い遺跡であるので、当時はまだ環濠を掘るまでの文化がなかったのかもしれない。
遺跡の傍らにある発掘物の博物館には、おびただしい出土品が地層の時代を追って丁寧に整理され、分かりやすく展示されている。鯨の骨の細工物、北陸産出の翡翠(ヒスイ)、やはり北陸産出と思われる黒曜石の発見は既に交易が始まっていたことを窺わせ、稗、粟、とうもろこし、麦などの発見は階層社会の存在を証明している。階層社会は弥生時代から始まったとされていたが、三内丸山遺跡の発掘によってその説が覆(くつがえ)されたという考古学的な大発見であったのである。
現在はまだ発掘途上で公園としては未整備であるが、将来は総面積76.8haという広大な県営の遺跡公園になるらしい。吉野ヶ里遺跡公園の110haという広大な広さに比べればやや狭いが、日本を代表する南の吉野ヶ里遺跡公園、北の三内丸山遺跡公園となることは間違いない。
私が中学生の頃は、静岡市南部にある弥生時代後期の登呂遺跡が、住居跡や水田跡および多種の出土品により、当時の農村集落の実態を示したものとして代表的な遺跡であった。この登呂遺跡に比べれば双方とも比較にならないほどの大きさであるが、登呂遺跡ももっと周辺まで広げて発掘調査をしていれば、また何かが発見されていたのかもしれない。駆けるが如く足早に40分ほどで遺跡と博物館を見学した。
「丁度、お腹もいい具合に空いてきた。さて、昼食にするか」
ところが、今見て回った範囲には、何処にも食堂の案内もお土産屋さんの案内もなかった。大抵、食堂とお土産屋さんは一緒のところにあるものだ。そう、思ってお土産屋さんを探すと、案の定、奥の一角に「縄文ラーメン」と書いた旗を掲げているラーメン屋さんが一軒あった。メニューを見ると、味噌ラーメン、バターラーメン、醤油ラーメンと書いた隣に「縄文ラーメン」とある。値段は750円と一番高い。
博物館には縄文人が食していたと思われる食事などの遺物も展示してある。カレーライスのようなものもあった。遺物の印象が鮮明な中で「縄文ラーメン」という名称を見ると、一瞬、縄文人が食べていたラーメンの復刻品かな?と錯覚してしまうが、勿論、縄文時代にラーメンがあろう筈がない。「縄文」とは名ばかりで、ごく当たり前のワカメとコーンとバターの入った醤油ラーメンであった。普通と違うのはヌメヌメとしてトロリとした蓴菜(じゅんさい)の若芽が入っていることだった。北国特産の蓴菜(じゅんさい)がラーメンに合っているようには思えなかったが、ラーメンは量もたっぷりでなかなか美味だった。