以久遠氏 Beauty,Business & Favorites   文化紀行   VOL. 29/ 2001.4.1号

邪馬台国考シリーズ<1>   魏志倭人伝 

 4月1日、私の住んでいる藤沢で古田武彦氏の講演会があった。「卑弥呼はどこで死んだか」というテーマである。古代史流行りの風潮を反映し、500人定員の会場はほぼ満員で3時間半に渡る大講演会は途中退席する人もなく、熱心に耳を傾けての盛況であった。

 「邪馬台国は何処にあったか」ということについては、私自身が邪馬台国候補地のひとつに比定されている福岡県の八女地方に生まれ育った所為もあるが、中学高校時代から非常に興味があったテーマである。古田武彦氏は「邪馬台国は無かった」という本でも述べられているように、「邪馬臺(台)国」ではなく「邪馬壹国」であるという説である。確かに魏志倭人伝には「邪馬臺国」とは書かれておらず、古田氏が言うように「邪馬壹国」と記されている。

 邪馬台国の所在については遠くはインドネシア説やエジプト説まで諸説紛々であるが、やはり主流は近畿説と九州説である。近畿説は、「南邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」の「南」を「東」と写し間違えたという前提に立たないと成り立たない。これには、「天皇家は萬世一系でなければならない」という証のためにも、邪馬台国は大和王朝の前身でなければならないという事情があるからだろうと推察している。

 しかし、この説には無理がある。何故なら、韓国から船で倭国に来ている船乗りが方角を間違えることは考えにくいからである。船乗りは方角には敏感であると考える方が常識的で、彼らの何がしかは陸に上がって道案内や警護の役に就いた筈である。となれば、むしろ魏志倭人伝の方位は正確であるという前提に立って考えるべきであろう。

 従って、私は九州説を支持しているが、邪馬台国が何処かとなるとまだ決めかねている。佐賀県南西部の鹿島市あたりのような気もするし、大宰府に近い福岡県の大野城(おおのじょう)市や春日(かすが)市あたりのような気もするし、有明海東岸部の筑後地区のような気もする。これから、後漢書倭伝、宋書倭国伝、隋書倭国伝などの原文を読みながら邪馬台国の場所比定を試みてみたい。

 邪馬台国や伊都国などの「××国」という「国」表現も、果たして「国家」を意味しているのか、それとも単に「地域」や「小さな行政体」を意味しているのかもはっきりしない。「××国」とは「××という名前の地域」を意味していることも十分に考えられるのである。そうなれば極めて小さな行政単位ということが考えられる訳で、その規模が村程度だとすれば、国王とは村長みたいなものということになる。であれば、卑弥呼が30ヶ国を統率していたことも無理ではない。古代の百里が大体8km10km程度だったとすると、隣の国まで「百里」という距離も村の大きさからみれば妥当な距離である。

 「倭人在帯方東南大海之中依山…」という記述で有名な魏志倭人伝の原文を読んでいて不思議なことに気がついた。当然、漢文であるから極めて簡単な表現で、ただ漢字がずらずらと書き連ねてあるだけで、もちろん「」点もなければ「一、二」や「。」もない。文章がどこで切れているのかさえも定かでない。従って、文章の切り方次第では別の意味になるところもある。

 例えば、文中に「…有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深浅皆…」という記述がある。一般的には「…草木が茂っており行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕らえ…」と訳されている。しかし、「人」を後ろの文章に付けて解釈すると「…草木が茂っていて行こうにも前が見えない人柄は好く、魚鰒を捕らえ…」と全く違った意味になる。倭国の人たちの人柄・人間性が良かったことが分かり、「好」という意味が素直に現れて来る。

 また、「…丗有王皆統屬女王国…」は「世々王あり。皆女王国に属す」と解釈されているが、「漢の時代には三十ヶ国が使節を送って来た」という記述があることから見ても、「三十ヶ国には王あり。皆女王国に属す」と解釈する方が文理に適っているように思う。卑弥呼や臺与(とよ)が女王であった期間だけが女王国であった訳で、その期間が極めて短いことからみても、「世々」と表現するにはややオーバーに感じる。

 このように、邪馬台国が何処かという解釈には殆ど影響はないけれども、漢文を「どこで切るか」ということは非常に大事なことのように思う。

 「水行二十日」の「水行」は、これまで「海を船で行く」と解釈する人が多いように思うが、むしろ「川を船で行く」ことも意味するのではないか。とすれば、邪馬台国の近くに大河がなくてはならぬ。筑後平野には「筑紫次郎」と呼ばれている日本三大河川の筑後川がある。今でこそ上流にダムが出来て穏やかな悠久の流れと変わってしまったが、本来は流れの急な「暴れ」川なので、川上へ上るとなると「水行」何日もかかっただろう。

 対馬から壱岐の島を経て、末蘆国(佐賀県松浦半島か?)、伊都国(糸島郡か?)、奴国(博多の那の津あたりか?)、不彌国(福岡県宇美市あたりか?)辺りまでは中国の使節もやって来ているようであるが、投馬国(久留米と八女の境の上妻(こうづま)あたりか?それとも福岡県三潴(みずま)郡あたりか?)や邪馬壹国(魏志倭人伝には『邪馬壹国』と記されている)など邪馬台国国境の国々までは来ていないとみえ、「…自女王国以北其戸数道里可得略載(戸数や距離について概略も記載できない)」と記述内容は大雑把な表現になっている。

 概ね「伊都国」までは、近畿説も九州説も異議ないようであるが、「斯馬国」は不明である。糸島郡という地名が残っているところを見ると、伊都国と斯馬国は近隣地であってもおかしくない。そして、更に「其餘旁国遠絶不可得詳…(それ以外の国は遠くて詳しくは分からない)」と記述している。従って、邪馬台国の周辺の国々がどのように並んでいるかさえ不明である。それらの国は、「…此女王境界所」と記述されている邪馬台国と男子王の狗奴国との境界の国である。

 奴国、烏奴国(福岡県大野城市あたりか?)、支惟国(佐賀県三養基郡基山あたりか?基山の麓に基肄(きい)城址もある)、巴利国(福岡県粕屋市原(はる)町あたりか、それとも「ばる」と呼ばれる福岡県春日原や原田あたりか?、躬臣国、邪馬国(熊本県境の福岡県八女市あたりか?)、鬼奴国、為吾国、鬼国、華奴蘇奴国、呼邑国(糸島半島の可也あるいは芥屋(けや)あたりか?)、蘇奴国、對蘇国(佐賀県鳥栖市あたりか?)、姐奴国、不呼国、好古都国、彌奴国(福岡県柳川市あたりか?あるいは久留米と八女の境にある水縄山地の耳納(みのう)あたりか?)、都支国、伊邪国、巳百支国、斯馬国(糸島半島の志摩あたりか?)がある、とされている。

 魏志倭人伝から370年ばかり後に発刊された「隋書東夷伝・倭国」には、「邪馬台国では、夷人は里数を知らず。距離を計るに日をもってす」、「国境は東西五月行、南北三月行にして各々海に至る」、「地勢は、東が高く、西が低い」とある。この記述から九州説を見てみると、「東西五月行、南北三月行で海に至る」という部分が合致しない。東西に長く南北が短いという地形だけ見れば、四国説も一理あるようにも思える。おいおいとこれらのことについても検討したい。

 このように、魏志倭人伝に記されていないことが「隋書東夷伝・倭国」に記述されていることから考えると、魏志以外にも邪馬台国のことを記した書が存在していたことを窺わせる。邪馬台国は想像力を掻き立ててくれるテーマである。

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