以久遠氏の Beauty,Business & Fasvorites     旅紀行   VOL-2 / 1999.01.01号

杜の都、盛岡    

 盛岡市は県央内陸部の三方を山に囲まれた盆地状の中心部にある。岩手県の県庁所在地で県下最大の街である。盛岡市には、1976年から1977年にかけて一年半ばかり単身で住んだことがある。今は出張で年に数回訪れるだけだが、街並様相の変化の激しい都会にありながら、その度に変わらぬ街の静かな佇(たたず)まいには感心する。今も昔と同じように静かに落ち着いた雰囲気の漂う上品な城下町である。

 東北の小京都とも言われるもの静かなこの街は日本史の故郷のようなところで、名所旧跡がそこかしこにあり歴史の香りを色濃く残している。東から流れ込む中津川と西から流れ込んでいる雫石(しずくいし)川が北から流れる北上川に合流するところに盛岡市がある。そして、中津川畔には、

   「不来方(こずかた) お城の草に寝転びて 空に吸われし 十五の心」

と、石川啄木が詩った今は岩手公園となっている不来方(こずかた)(盛岡城)がある。その不来方城を中心に周りを囲むようにして盛岡の街並みが拡がる。典型的な城下町で、紺屋町、馬場町、材木町などの城下町特有の町名が残っている。城址を川の反対側の下の橋町から見ると、中津川に浮かぶ要塞のように見える。

 盛岡市は、東北新幹線が開通するまでは東北の中心地であった。青森、秋田、山形、宮城などの県庁所在地へ2時間以内で行けるという地の利もあって、国や企業の東北支店は殆どが盛岡にあったが、新幹線が開通してからは東北の中心は仙台に移った観がある。しかし、今でも東北第2の中心地である。かっての古き良き盛岡を知るビジネスマンの中には、今も仙台よりも盛岡を好むという盛岡ファンも多い。

 また、原敬や米内(よない)光正などの総理大臣や、金田一京助、宮沢賢治、石川啄木などの文人詩人を生んだインテリジェンスの高い町でもある。歴史的な遺跡も多く、観光客も大勢訪れているが、盛岡市内には観光地には珍しいくらい歓楽街そのものが極めて少ない。市の中心部には飲み屋やクラブもあまりない。カラオケスナックなどの普及は一番遅かったのではないだろうか。長野県も真面目な県であるが、岩手県も負けずに真面目な県なのである。

 盛岡を代表する有名なものとしては、別名岩手富士とも呼ばれて土地の人々に親しまれている標高2038mの岩手山、民芸品の派手に着飾ったチャグチャグ馬っこ、県庁前にある巨大な石を真っ二つに割いたという謂れのある有名な「石割り桜」、そう簡単には「ご馳走様」と箸をおろさせて呉れない直利庵のワンコ蕎麦あたりだろうか。若い人には、岩手山の遥か北方にある安比(あっぴ)スキー場の方がむしろ有名かも知れない。

 南部鉄の鉄瓶や、澄んだ奇麗な音を奏でる南部風鈴などは、知る人ぞ知る隠れた名品である。都会では、風鈴の音色が五月蝿(うるさ)いと近隣の苦情の因になる味気無い世の中になってしまったが、寝苦しい夏の夜、南部風鈴の奏でる澄んだ音色は暫し俳句の世界に誘って、残暑を忘れさせてくれる。

 街の北方には、土地の人達が「岩手富士」と呼んで親しんでいる岩手山の秀峰が盛岡の街を見下ろすように聳え、市の中央部には緑豊かな北上川と中津川が街を二分して流れている。11月になると、盛岡名産の「鼻曲がり鮭」が太平洋から北上川をはるばると上って来て、市の中心を流れる中津川に現れ、 擬宝珠(ぎぼし)飾りの橋の上の観光客の目を楽しませてくれる。街の裏手には雫石(しずくいし)川も流れている山と川の緑の街である。

 詩人石川啄木が「…空に吸われし十五の心」と詩ったように、晴れた日の盛岡の空は高く、青く澄んで美しい。街の雰囲気は静かに佇んでおり、街のたたずまいと人々の心の中にどことなく雅びやかな裕りが感じられる。民情は濃やかで温かく、人々は素朴で奥床しく温和しい。景観豊かな人情味溢れる旅情の街である。ただ、東北弁特有の独特な訛りを聞き取るのは難しい。一年くらい住んだだけではとても十分には理解できない。街中どこもかしこも、啄木が

   「古里の (なま)り懐かし 停車場の 人ごみの中に そを聞きに行く」

と詩った訛りの強い盛岡の言葉である。店の女将さんと話していても、時折り、全く言葉が理解が出来ないことがある。一瞬の気拙い沈黙と静寂が折角盛り上がり掛けた会話に水を差して会話が途絶え、何とも申し訳ないような気持ちになる。慣れるまでは通訳が欲しいくらいである。

 私は、盛岡駅の目と鼻の先にある開運橋から、北上川岸に沿って15分程北に上った材木町にある単身者用のマンションに住んでいた。材木町は夕顔瀬橋の南に位置しており、前九年(ぜんくねん)町は夕顔瀬橋の北側になる。日本史に出て来る前九年の役10511062の舞台となったところである。近くには阿倍仲麻呂の館跡という史跡もあり、阿部館(あべだて)という地名が残っている。

 材木町には、田舎には珍しい名前の「可否館」という瀟洒な喫茶店がある。白壁と赤レンガが印象的な店で、「注文の多い料理店」を出版した光原社(こうげんしゃ)の中庭の一角にある。広い敷地の中にまるでイーハトーブの家を思い出させるような洒落た建物が北上川を背にして建っている。花巻生まれの宮沢賢治所縁(ゆかり)の店である。

 光原社の創業者は宮沢賢治の後輩だった及川四郎という人で、現在は二代目が経営しているそうである。光原社という名前は、「光と原っぱの好きな」宮沢賢治が命名したらしい。造りの洒落た店で、喫茶だけではなく世界各国の民芸品のお土産も売っている。庭のコンクリート塀の白壁に太い墨筆で力強く殴り書きされた「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ…」の詩文に迫るような強烈な印象を与えられた記憶が今も鮮やかに残っている。その白壁と墨書が何とも言えない風情を醸し出している。

 材木町の単身者用のマンションに入居する前は、梨木(なしのき)町の民家に三ヵ月程下宿していた。下宿は、夕顔瀬橋の袂(たもと)で今も「古代染め」をやっている店南部古代型染 蛭子屋 小野染彩所の裏手にあった。ご主人が元県庁の役人だったという老夫婦と、少しばかり婚期を過ぎた娘さんの三人家族の家で、三人の下宿人がいた。一人は仙台市役所から岩手県庁に出向してきていた32、33歳のIさんという単身者、もう一人も同じく仙台出身の、浪人中の受験生S君。大家さんはGさんという名前だったと記憶している。もの静かな倹しい家庭で気持ちの優しい人達だった。

 仙台を「杜(もり)の都」というが、盛岡も昔は「杜岡(もりおか)」と書いたそうである。旧制一関中学の応援歌には盛岡城(又の名を「不来方(こずかた)城」という)のことを「杜陵(とりょう)の城は…と詠っているが、「杜陵」を音読みすると「もりおか」になる。そのくらい緑の豊かな街である。中心部から車で5分も走れば、到る所に田園と川縁の緑と欅(けやき)の大木が目につく。特に欅の木は風防用の屋敷林として多くの家に植えられており、田園地帯の中にポツン、ポツンと濃い緑の塊が散在している。

 九州生まれの私には、東北の濃い緑は暗く沈んでいるように見えた。南国に無い緑色である。九州や四国の緑は跳ねているような活発な緑色である。九州の色艶やかに賑々しい色合いの草木に慣れた私の目には、どこかうら悲しく物足りなく映った。啄木が、

   「やはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」

と詠った、北上川の「泣くような」緑色というのがこれまで想像出来なかったが、北上川の川面に映った暗く沈んだ岸辺の緑色を見て、初めて理解できたような気がした。東北の草木の緑色は日本海側の緑色に似ているように思う。一年ほど生活し住み慣れるにつれて、暗い色合いにも慣れた。住めば都、とはよく言ったものである。むしろ、沈んだ暗さの中に落ち着いた優雅さを感じるようになった。

 内陸部にあるせいか、盛岡の冬は極度に寒い。真冬は、夜になると零下10度くらいになる。昼間は10度くらいになる日もあるが、夕方からは見る見るうちにどんどん気温が下がる。時には、零下15度という厳寒の日もある。雪は内陸のために深くはないと聞いていたが、どっこい、一夜にして50cmの雪が積もることも、しばしば。朝、目覚めてみると、通勤用の軽自動車は雪に埋もれて、車の形をした雪だるまが出来ている。これには流石に驚愕した。

 私は、工場の片隅に乗り捨てたように放置されていたバッテリー切れのホンダN360 を、新しいバッテリーに付け替えて通勤に使用していた。余りの寒さに、取り替えたばかりの新品のバッテリーでも冷え切ったエンジンは簡単には掛かって呉れない。当時は、今のように車もエンジンも高性能ではなく、気温が下がるとなかなかエンジンが言うことを聞いて呉れないのである。チョークを引いたり押したり、アクセルを何度も廻さなければならない。もたもたしているとバッテリーが上がってしまう。

 已む無く、毎朝、沸騰したヤカンをぶら堤げての出勤と相なった。駐車場に行き、ヤカンの熱湯をエンジンやガラスやドアのキー穴にぶっかけて、夜の間に凍った氷を溶かしてからエンジンを掛けるのである。こうすると、見事に一発でかかる。空になったヤカンを後ろの座席に放り投げて、冠雪したコニーデ式火山の岩手山を前方に捕らえながら、北上川に沿って国道4号線を北に下り、職場である厨川(くりやがわ)の工場まで毎朝出勤するのである。


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