現在、邪馬台国論争の原典とも言うべき「魏志倭人伝」の正式名称は「三国志魏書(ぎしょ)東夷伝(とういでん)倭人条(わじんのじょう)」というものであるが、残念ながら原本は残っていない。一般的に言われている「魏志倭人伝」とは、実は「魏志倭人伝・紹興(しょうこう)本」と言われているもので、「紹興本」という「写し」である。「写し」であるがために「都合の悪いところは『写し間違い』という論理がまかり通るなど、現在の邪馬台国論争の混迷あるいは迷走の大部分はこの「写し」を出発点としているところから始まっている。
1500年以上も昔のこの原本が実在しているか否かは定かではないが、もし発見されれば、現在混乱している邪馬台国論争のかなりな部分が明瞭になる筈である。実は、「ヤマタイコク」という読み方でさえ怪しげなものである。昔、「邪馬台」を無理に「やまと」と読んだ学者がいるのである。江戸時代から明治・大正・昭和初期の頃は、邪馬台国は「大和朝廷」と同一でなければ天皇の萬世一系(ばんせいいっけい)が成り立たなくなり、天皇制にとって都合が悪いという政治的あるいは社会的事情から「やまと」と読ませたという訳であるが、中国の古書においても「やまだい」とか「やまい」と記されているのに、「邪馬台」がどうして「やまと」と読めるのだろうか?
恐らく、その学者にはどうしても「大和朝廷」と絡めて考えなければならないという意識が働いたのだろうと思われる。そのために、「倭」という漢字さえも無理に「やまと」と読ませてしまったのではないだろうか?しかし、「倭」はあくまで「わ」であり、当時の中国では朝鮮半島の南部地域から日本までの広い地域を呼んでいた名称である。従って、「倭人」とは「南部韓国人」と「日本人」を総称していたのである。
江戸時代に無理にでも「やまと」と、そう読まなければならなかったのは、当時の政治的な社会背景が強く働いていたのだろうと思う。公家を中心とする朝廷と武家の政権争いを見ても、それほど力を持っているとも思えない公家の頭領である天皇の認証を得ることが何よりも権威のある大義であった時代である。江戸時代から明治時代、そして戦前の軍国時代まで、わが国は政治的に「神国」でなければならなかった。
全ての政治は「萬世一系」の天皇を中心にして行なわれて来たという歴史があるからである。従って、天皇の権威が絶対であるためには、天皇は必然的に邪馬台国の時代から「一系」的に連綿と連なるものでなければならなかったのである。これは日本書紀に書かれたわが国の歴史、すなわち天皇の歴史が意図的に作り変えられたものであることによっても証明される。
しかし、魏の使節が、朝鮮半島の帯方郡から対馬(つしま)、壱岐(いき)を経て九州の末盧(まつら)国に入り、伊都(いと)国に滞在したことは明白になっている。如何に大和朝廷といえども、魏志倭人伝が述べている紀元50年頃から200年頃のわが国のこれらの事実まで改ざんすることは不可能である。従って、辻褄(つじつま)合わせのために、大和朝廷が九州政権を制覇する「九州征伐説」をでっち上げざるを得なかったのではないだろうか。
また、わが国では通説となっている「邪馬台国」という表記にしても、魏書や隋書や宋書などの中国の文献には全く出て来ない。後世の隋書や宋書には「邪馬臺国」という表記が見えるが、肝心の「魏志倭人伝・紹興本」には「邪馬壹国」としか記されていない。「台」は確かに「臺」の略語ではあるが、学者の表記にしては乱暴すぎるように思う。本来は正確に「邪馬臺国」もしくは「邪馬壹国」と記されるべきものである。
本稿では、私も便宜的に「邪馬台国」と記述することにするが、隋書には「当時の魏では『耶麻惟(やまい)』と発音されていた『邪馬臺国』という国があった」という不思議な記述もある。また、宋書には「魏の時代に倭に耶麻堆(やまだい)国があった」とも記されている。当時の中国においても既に混乱が生じていて、「やまい」と言っている役人と、「やまだい」と言っている役人がいたことになる。
謂わば現在の外務官僚にあたる役人がこの程度の知識であることを思えば、当時の中国でのわが国の評価が如何に低かったか、という証のようなものだが、その程度の認識であるから卑弥呼が死んでから100年か150年ほどの間、中国の記録から消えてしまったのだろうと考えざるを得ない。
しかし、卑弥呼の時代の邪馬台国が「国が乱れている」とか「狗奴(くな)国と戦争をしている」などとかなり詳細な記事が残されている。しかも、魏志倭人伝には狗奴(くな)国について「男王あり。名前は卑弥弓呼(ひみここ)で、官を狗古智卑呼(くこちひこ)という。もともとから両国は和やかではなく、戦争ばかりしていた」と、狗奴国の存在を非常に意識していたような表現がある。何故、これほどまでに狗奴国について詳しく記述する必要があったのだろうか?この点は要注意であろう。そう考えると、魏国は陰で邪馬台国を応援していたのではないか、と思いたくなる。
また、文中に「曹」とか「張」という字が見えるのも、「魏の曹操」や「呉の張飛」を思い起こさせ気になる。魏の時代は、魏と呉と蜀の三国鼎立(ていりつ)の時代であり、魏が邪馬台国を応援していることから考えると、狗奴国を応援している国があってもおかしくない。むしろ、そう考える方が自然であろう。恐らく地理的に見て、応援していたのは呉国だろうと思うが、「卑弥呼が死んで再び内乱状態に陥り1000数百人の兵士が死んだ」という詳細に国情を表現した記事があることから見て、魏国がこの内乱を注目していたことが窺われる。
「邪馬台国が卑弥呼の宗女臺與(とよ臺与:壹與(いよ)という説もあり)を立てて国が治まった」という記事が、邪馬台国連邦内の内乱を意味するのか、邪馬台国連邦対狗奴国を含めたその他の国との、いわゆる「倭国の全体的な内乱」を意味するのかが明確に書かれていないが、私は後者ではないかと考えている。何故なら、邪馬台国連邦内の内乱であれば「倭国乱れる」という書き方ではなく、「女王国乱れる」といった表現になる筈だからである。
すなわち、「倭国乱れる」という意味は、実態は邪馬台国を応援する魏と、狗奴国を応援する呉との戦いではなかったのだろうか?そして、魏の記録から倭国の記事が消えたのは呉国が応援した狗奴国連合が邪馬台国を破って勝利したからではないのか?また、「狗」とは「犬」を意味する。邪馬国の入り口部にあたる福岡県筑後市の「羽犬塚」と「犬塚」という地名は狗奴国の名残りではないのか?紀元527年に「磐井(いわい)の乱」を起こした八女の豪族磐井は狗奴国出身の豪族の末裔ではなかったのか?呉の書を詳しく研究してみる価値がありそうである。
と考えると、邪馬台国は、卑弥呼の時代まではいわゆる「邪馬(やま?やめ?)国」として福岡県の八女(やめ)地方にあったが、狗奴国との戦いに破れて邪馬国は狗奴国に占領されたのではないのか?女王卑弥呼が死ぬと、邪馬台国連邦軍は卑弥呼の亡骸を抱えて大分県の宇佐(うさ)に逃げ、13歳の宗女臺與(とよ)を立てて新たに邪馬台国連邦を再興したのではないだろうか?という気がする。
即ち、卑弥呼の時代の邪馬台国の女王国は八女地域であり、臺與(とよ)の時代の邪馬台国の女王国は大分県の宇佐地域ではなかったのか、と思うのである。「邪馬台国は移動した」と考えると、このことは次回に述べるが、「邪馬台国はどこにあったか?」という推理が極めて合理的に進めることができる。
そして、卑弥呼の亡骸を宇佐神宮の奥宮と言われる御許山(おもとやま:647m)の大元(おおもと)神社に弔(とむら)って祀ったのではないだろうか?宇佐神宮には「一之神殿」「二之神殿」「三之神殿」という三つの神殿が並んで建っているそうである。もともとは「一之神殿」と「三之神殿」の二つしかなかったらしいが、宇佐神宮建立から7年後に御許山の大元神社の奥院から移したものを「二之神殿」として中央に祀ったのだそうである。何故に、わざわざ中央に祀らなければならないのだろうか?「二之神殿」に祀られている神は余程大切な神様なのだろう。
いつ頃から始まったか知らないが、毎年、二之神殿の前で巫女の舞う行事が行なわれているそうである。地元では「宇佐神宮の二之神殿に祀られている比売大神(ひめおおかみ)というのは卑弥呼である」という言い伝えもあるらしい。舞が一之神殿の前ではなく、二之神殿の前で行なわれている事実が何かを暗示しているように思える。魏志倭人伝にわざわざ「卑弥呼死ぬ。径100余歩の塚を造る。奴婢100余人が殉葬する」と詳しく書かれているのは狗奴国に敗れたことが余程残念だったのだろう。
これまで4回にわたって「邪馬台国考」を推考して来たが、その結果、前期邪馬台国の中心は八女地方に、後期邪馬台国の中心は宇佐地方に、そして卑弥呼の墓は大分県の御許山(おもとやま)山頂にあるというところまで辿り着いた。
御許山山頂の大元神社の「奥院」は、現在、鉄条網が張り巡らされ「立ち入り禁止」になっているらしい。頂上は恐らく小高い丘になっているのではないかと想像している。卑弥呼の遺体が御許山に埋葬されているのか、あるいは宇佐神宮の二之神殿の下に葬られているのかは定かではないが、多分、ここが卑弥呼の墓の最有力候補地だろう。と言いながら、実はまだ宇佐神宮も大元神社も訪れたことがない。近々、何かの機会に是非訪れてみたい。