前号で、邪馬台国連邦に卑弥呼の時代の前期邪馬台国時代と、宗女臺与(とよ:正しくは臺與)が女王となった後期邪馬台国時代があった、という仮説を述べた。即ち、邪馬台国連邦は、前期も後期も北部九州の筑後・筑紫を中心とした福岡県・佐賀県・大分県宇佐地方という広大な地域に存在していたことは同じだが、「女王の都する所」が前期は筑後地区の八女地方に存在し、後期は大分県の宇佐地方に移動したという仮説である。
この仮説に立てば、現在の「こちら立てればあちら立たず」という矛盾だらけの地理的な問題点がほぼ解決される。魏志倭人伝や宋書・隋書・後漢書等にちょっとずつ異なった表現がされているために様々な矛盾の因となっている点が合理的に説明出来るのである。
これらの誌書が、いつ頃編纂されたのか?そして、倭国のどの時代を記したものか?という点が分かれば理解しやすいが、「倭国のどの時代を記したものか?」という点においては、他の誌書からの書写の部分も多く、また数行の中に「数十年あるいは百年くらい」の事柄が記されているという大雑把なものもあるので、編者の生存年代から記事の信頼性を判断するしかないだろうと思う。参考までに各書の編者を生存年代順に並べてみると下表のようになる。
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上表からも分かるように、倭国については一世紀の時点で既に、「前漢書・地理誌燕地の条」に「楽浪海中有倭人分為百餘国以歳時来献見云々」と簡単に記されている。この書を編纂したのは後漢の班固(はんこ:32〜92)という人であるが、古代中国では、紀元前後から既に倭国の存在を知っていたことが分かる。ある程度詳しい記述となると、魏略と魏志倭人伝が最も古いが、この「楽浪海中…」という文章からも分かるように、表現に若干の違いこそあれ、魏志倭人伝の冒頭はそっくり前漢書を参考にしていることが分かる。
従って、200年以上も後世に書かれた他の6誌に比べれば、魏略と魏志倭人伝が最も信頼性が高い書であろうことが推定できる。また、魏志倭人伝の文章表現を見ると、魏略のそれをそのまま使っている所も多く、魏略を大いに参考にしていることが判っている。
編者の生存年代についても、「魏略」の編者魚豢(ぎょけん)と「魏志倭人伝」の編者陳寿(ちんじゅ)はほぼ同時期の人であり、また政府の同じような役目にいた人だと思われるので両者に交流があったであろうと考えて不思議はない。むしろ、お互いに積極的な情報交換があったと考える方が自然であろう。また、没年から見れば、247年か248年に死んだと言われている邪馬台国の女王卑弥呼とも同時代の人ということになる。そういう意味では邪馬台国を最も身近に感じていた人たちであるかも知れない。
後漢書倭伝を書いた范曄(はんよう)は、陳寿や魚豢より160年ばかり後代の人で、宋書倭国伝の沈約(ちんよう)は200年ばかり後代の人、隋書倭国伝の魏徴(ぎちょう)は350年ほど後代の人である。後漢書倭伝・隋書倭国伝・宋書倭国伝は魏志倭人伝に100年〜250年ほども遅れて編纂されたものであるが、現存する魏志倭人伝に記載の無い事柄が記載されていることから考えると、魏志倭人伝以外にも情報源が存在したことが推定される。しかし、残念ながら魏略の全文も消滅している。
邪馬台国の場所について、魏志倭人伝には「(伊都国…郡使往来常所駐)南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」と、伊都国の南に邪馬台国があったと記され、「…此女王境界所盡其南有狗奴国…」と、女王国が狗奴国に隣接していたことも記されている。ということは即ち、邪馬台国の中の女王国は最も南の地にあったということが分かる。
このことは、邪馬台国連邦と交流が途絶えて100年くらい経ってから書かれた後漢書倭伝に、「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南也」と邪馬台国連邦成立よりも100年ほど前のことが記されている。西暦57年に「大夫」と称する倭奴国の使いが朝貢して来た、と書かれており、その場所は「倭国の極南である」と記されている。「極南」という表現から、倭国は広大な領地を持っていた国であったことと、倭奴国は狗奴国に接していたことが分かる。「極南の地」が、後世の女王国である可能性は極めて大である。
そしてまた、後漢書倭伝には「永初元年倭国王師升等献生口百六十人…倭国大乱…有一女子名曰卑弥呼…」と、西暦107年に倭国王が奴隷(どれい)160人を光武帝に献じたが、「倭国は内戦で数十年間(83〜178年)大いに乱れ、卑弥呼という年配の独身女性を王に立ててやっと国が治まった」と記されている。ということは、西暦178年頃、卑弥呼を女王に立てたことによって邪馬台国連邦が成立したことになる。
その文章に続けて、「…自女王国東度海千餘里至拘奴国雖皆倭種而不属女王(女王国から東へ海を渡ると女王国に属さない倭種の国、拘奴国(狗奴国)がある)」と書かれている。この部分は、近畿の大和朝廷は宮崎の方から東征して来た豪族が樹立したという説と大いに関係する。非常に重要なところである。また、大和朝廷は出雲王国や邪馬台国や九州南部政権などが連合して成立したという説もあり、これについては別項で触れてみたいと思っている。
九州南部政権とは狗奴(くな)国のことだろうと思う。邪馬台国としょっちゅう争っていた狗奴国は九州南部を平らげ、その勢力を四国まで広げていたのではないだろうか。こう考えると、後期邪馬台国の女王国(注:大分県宇佐市辺りを想定)の東の愛媛県松山市あたりにも狗奴国の一部がなければならない訳で、後漢書倭伝の「邪馬台国女王国の東の海の中に狗奴国がある」という記事が無理なく理解できることになる。
景初二年(西暦238年)に卑弥呼は使いを魏に遣わし、魏の王明帝から「銅鏡100枚と親魏倭王の金印綬」を賜っている。邪馬台国近畿説の根拠となった「景初三年製」と記された「三角縁神獣鏡」がその銅鏡ではないかと言われているものである。しかし、年号は景初三年で終了したにもかかわらず「景初四年」製という年号の符合しない銅鏡が存在することや、100枚以内であるべき「三角縁神獣鏡」が300枚以上も発見されているという不合理が指摘され、「三角縁神獣鏡」が「卑弥呼へ授けられた銅鏡」ではないという説が強いことを付記して置く。
卑弥呼の死については「卑弥呼以死」と記されているが、卑弥呼は西暦247年の終わりか248年に死んだのではないか、と言われている。「以て」が死因を意味している筈だが不明であり、「以て死す」の解釈が定まっていない。何かの原因によって死んだのか、既に死んでいたのか、いずれの意味とも判じがたい。しかし、最近の古代天文学では、247年と248年の二年にわたって皆既日食が起こったことが分かっているらしい。これが何となく曰くありげな匂いがする。
魏志倭人伝に、人々の安全を祈願する「持衰(じさい)」という神官のような役目の人のことが記されているが、鬼道を能くする卑弥呼は、謂わば持衰の頭領みたいなものであると言えよう。航海中に事故が発生すると、船の安全を祈願する持衰は乗組員によって殺されたそうであるから、太陽が暗く欠けるのを見た住民たちは、持衰と同じように太陽の子(日の御子)である卑弥呼も殺してしまったのではないだろうか。私はその可能性は大であると思っている。なお、仏教における持斎(じさい)という言葉は「持衰(じさい)」の名残であろう。
卑弥呼の死について、魏志倭人伝には「卑弥呼以死大作冢径百餘歩」と記され、「梁書諸夷伝・倭」には「…正始中卑弥死更立男王国中不服…」と記されている。卑弥呼は正始7年(247年)に狗奴国との戦況を帯方郡に報告しているので、その直後か翌年に死亡したのではないか。「径100余歩の大きな塚を作った」とあるが、この墓はまだ発見されていない。私は、前号にて述べたように、大分県の宇佐神宮の奥院である御許山山頂がそうではないかと考えているが、この地は有刺鉄線が張り巡らされ立ち入り禁止になっているようである。
卑弥呼が死んだ後、魏志倭人伝には「…男王立国中不服更相誅殺…復立卑弥呼宗女壹與年十三為王国中遂定」と書かれている。魏志倭人伝には卑弥呼の宗女を「壹與(いよ)」と記しているが、何故か他の誌書には全て「臺與(とよ:通常は臺与、台与と表記)」と記されている。ここでは「臺與」と呼ぶことにする。
臺與がいつ女王になったのか、定かではないが、卑弥呼が亡くなったのが248年頃とすると、臺與は既に5歳〜10歳になっていたのではないか。卑弥呼が死亡した後「再び倭国乱れる」と記載されているところから考えて、「13歳で女王となった」と記されているので、恐らく250年〜253年頃だろうと思う。
女王臺與の登場が日本統一の夜明けとなったのではないだろうか、という気がしている。日本書紀の中に「豊(とよ)」の字がつく神様が大勢いること、大分県は昔「豊の国」であったこと、本州のことを「大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)と呼ぶことなど、これ以後、大和朝廷時代の日本において「とよ(豊)」という言葉が大きな意味を持つようになる。これは一体何を意味するのか?
これまで多くの邪馬台国研究者が「里数」に拘って来た。しかし、私が敢えて「里数」に触れて来なかったのには理由がある。それは魏志倭人伝や隋書倭国伝など多くの誌書に「夷(倭)人不知里数但計以日(倭人は距離を測るに里数を知らず。日を以て計る)」と記されていたためである。
「日を以て計る」というのは極めて曖昧である。雨の降る日は旅をしなかったという説もあるし、草花の咲いているような野原を歩くのと「…草木茂盛行不見前」と表現したような茫々とした原野や山林地区を歩くのとでは、同じ「一日」でも距離的には雲泥の差が生じる。倭人に聞いて知った日数を、中国の役人は彼らなりに「里数」に換算して記載したのではないかと思うのである。そうであれば、倭国内の里数は信頼性が極めて低い、ということになる。
また、隋書倭国伝には「其国境東西五月行南北三月行各至於海」と邪馬台国の大きさを記している。前号までで、邪馬台国は佐賀県から大分県までの横に長い地域であると想定したが、この大きさは「東西五月行南北三月行」というくらいの広さにはなるだろう。しかし、「東、西、北は海に至るが、南は狗奴国を介してしか海に至らない」という不都合が起きる。しかしこれも、伊都国を基準に見れば、南は背振山系を越えれば有明海であり、「南も海に至る」ことになる。
そして、その地勢について「其地勢東高西下…」と、「東は高く西に下っている」と表現している。これは、卑弥呼の時代の前期邪馬台国(筑後の八女地域)を紹介したものではないか?と考えると、ピッタリ符合するのである。筑後地区は西に有明海があり、東に九州の屋根と呼ばれる九州山脈がある。まさしく「東は高く、西に下る」のである。
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