以久遠氏 Beauty, Business & Favorites   文化紀行   VOL. 34 / 2001.9.15
邪馬台国考シリーズ<>      狗奴(くな)国は何処か?

 邪馬台国探しをするためには、狗奴国の所在が何処であるかを探ることが非常に重要になる。狗奴(くな)国の所在地は、現在の通説では熊本県以南の南九州ということになっているが、現在判明している限りでは、狗奴国が火の国熊本県や鹿児島県であるという確たる証拠は何も無い。魏志倭人伝に「邪馬台国の南に狗奴国があり、倭女王卑弥呼は狗奴国男王卑弥弓呼は素より仲が悪く、しょっちゅう戦をし、多くの兵士が死んだ」という記事と、「狗奴国の官吏の名前が狗古智卑呼(くこちひこ又はきくちひこ)である」という記載があるところから推測されているだけなのである。

 「しょっちゅう戦をしていた」ということは、女王国と狗奴国との間に他の国が挟まっていたら「しょっちゅう戦が出来る筈がない」ので、両国は隣接していなければならないということである。「魏略」逸文「翰苑」に「…女王之南 又有狗奴国…」とあるように、邪馬台国と狗奴国は南北の位置関係で接していたことは間違いない。また、この狗古智卑呼(くこちひこ又はきくちひこ)を菊池彦に当てて、菊池氏の発祥の地である菊池郡という地名が熊本県北部の福岡県との県境に存在しているところから、何となく熊本県北部が狗奴国と比定されているだけなのである。

 詳しい仮説は後に譲るとして、概略を述べてみたい。

 状況証拠的には、福岡県北部と熊本県では、縄文時代から弥生式時代の古墳の構造や装飾文様などに著しい差異が認められる。その差は全く異なる民族の文化ほどの違いがある。これは学問的にも共通認識されていることであるが、古代において、大陸の先進文明は福岡県北部には高句麗、百済、新羅などの朝鮮の国々を経て北方から到来したと考えられ、古墳に残されている壁画なども朝鮮系の色合いが強い文様である。

 一方、熊本県側は東シナ海や琉球列島を経て南や南西から伝来した石造物文化である。太陽を示す円形文様や円形図形、あるいは岩石に彫刻された文字など福岡県北部遺跡には全く見られない独特なものである。恐らく、これらの石造物文化は中国南部から台湾を経由して琉球列島や五島列島などを経て南方から渡来した文化であろうと考えている。

 時代的には200年以上下るが、八女市長峰の岩戸山古墳、豪族磐井(いわい)の墓の衙頭(がとう)に副(そ)えられた石人・石馬や、筑後市北部の一条塚古墳に見られるような石棺や、古墳の石室などにも見られるように、筑後の八女地方には一種独特の石造物遺跡が現存している。また、大分県の玖珠(くす)郡や国東(くにさき)半島には石窟や磨崖仏(まがいぶつ)などの石造物文化が認められることから考えると、これらの地区は魏志倭人伝に「内国大いに乱れ、1000人の兵士が死んだ」と書かれた邪馬台国と狗奴国との内乱地区であったのかもしれない。

 狗奴国と邪馬台国がしょっちゅう戦(いくさ)をしていたという状況から判断すると、邪馬台国の一部地域が狗奴国に占領されたり、取り返されたりということがあっただろうということは容易に想像できる。熊本県と福岡県の県境近くで有明海に面した、邪馬台国の有力な比定地にもなっている山門(やまと)郡あたりから大分県日田市あたりの筑後川以南の地がその占領されたり取り戻されたりという地域に当たりそうである。

 山門(やまと)郡をその読みから邪馬台国に比定している人も多いが、常識的に見て邪馬台国女王国が海浜近くのそのような危険な戦闘地区に存在したとは想定し難く、山門郡が邪馬台国であるという説には肯んずることはできない。むしろ、「邪馬戸=邪馬国の入り口」あるいは「邪馬国の港」と解すべきであろう。山間部には、有明海を見張るようにして地元で「女王山」と呼ばれる「女山(ぞやま)」という山もある。

 脱線したので元の狗奴国の話に戻すが、山門郡の隣に筑後市羽犬塚(はいぬづか)というところがある。「狗」という漢字が「犬」を意味することから、筑後市の羽犬塚や同市北部の犬塚(いぬづか)という地名を「狗奴国所縁(ゆかり)の地」とする人もいる。確かに羽犬塚という奇妙な名前には何か謂(いわ)れがありそうだが、現時点ではまだ断定するだけの証拠めいたものはない。しかし前にも述べたように、邪馬台国と狗奴国との戦争が度々起こっているところから見て、私個人としては、その戦いで亡くなった「狗奴国の兵士を弔った地」ではないかと考えている。犬塚辺りを発掘してみたら古代人の人骨が大量に出て来るのではないだろうか。

 神功皇后の伝説も気になる。神功皇后が卑弥呼や天照大神に擬せられるためには、宮崎県の高天原から出て東征して近畿大和朝廷に入ったということにならなければならない。そうなると神功皇后は狗奴国の女性である可能性が大となり、卑弥呼に比定することは理に合わない。しかも、神功皇后には西征伝説もあり、紀元世紀ごろに女性が近畿と九州を往復することは考えにくい。となると、神功皇后とは如何なる素性の女性であるか?という疑問が湧いて来る。

 また、紀元世紀頃にはかなり大規模な広域国家が日本の各地に誕生していたようである。恐らく、西日本には狗奴国、邪馬台国に並んで王国とまではいかなくても後年の出雲王国、吉備(きび)王国、国東王国などの前身の国家が成立していたのではないか。そして、南九州の熊襲(くまそ)の王国が狗奴国だろうと想像しているが、それらの国々の中では、狗奴国の勢力が最も強大だったのではないだろうか。

 というのは、最近の宮崎地方の遺跡発掘によって九州の南部政権がかなり強大であったことが想像されるからである。でないと、神武東征伝説や九州南部地域から天照大神が誕生したという伝説は生まれないのではないか、という気がする。そういう意味から、狗奴国が近畿大和朝廷の成立に大きな役割を担っていた可能性が大きいと考えるのである。

 九州南部政権、即ち狗奴国が陸路を伝って近畿に入るには北部九州を経なければならないが、当時の南北のいがみ合い状況から想像すると、陸路を伝ったとは考えにくい。四国が九州と同じく銅矛銅剣文化圏であることから見ても、やはり、前号に触れたように狗奴国が四国を制覇していたと考える方が最も順当である。神功皇后は、一路、海路を取って四国に入り、香川県から淡路島、兵庫を経て奈良へ入ったか、あるいは徳島辺りから奈良へ入ったと考える方が自然であろう。

 こう考えると、魏志倭人伝の「邪馬台国の東に海があり、また倭種の国がある」という記述が素直に理解でき、前号にも書いたように後期邪馬台国時代の国内状況を記載したものと考えるのが最も素直な読み方のように思える。

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