福岡県南部、筑後地方の八女(やめ)市北部の八女丘陵地に岩戸山古墳という弥生時代の遺跡がある。昔、人形原(にんぎょうばる)と言った地名のところであるが、多分、古代の石人石馬像があったことからこの地名が付いたのだろうと思う。八女丘陵は、考古学者の間では八女古墳群と呼ばれている有名な地域で、東西10数km南北数Kmの狭い範囲に旧石器時代から弥生時代頃の遺跡や古墳が大量に発見されている。旧石器時代から縄文時代、弥生時代の遺跡の宝庫で、石造物文化、石器文化、装飾古墳、竪穴遺跡、横穴遺跡などが狭い地域に入り乱れて存在している。その数は数百にも上るらしい。
八女丘陵を含む北部九州は前方後円墳誕生の地と考えられているところで、前方後円墳だけでも12個発見されている。その八女丘陵の中心部、八女市長峰に前方後円墳の岩戸山古墳がある。丘陵部の平坦なところに、東西135m、南北92m、高さ18m、後円部直径90mの小山が築かれ、周りを一重の濠と高さ1mくらいの堤防が取り囲んだ環濠構造となっている。近畿地方の巨大な前方後円墳には及びもつかないが、九州では最大の前方後円墳である。
数値だけを見ると、大して大きな感じはしないかも知れないが、実際に古墳を訪れ一周してみると、一気には歩けないくらいの規模があり、結構疲れる。まだ古墳内部の発掘はされていない。いずれ発掘されるだろうと期待しているが、その時何が出て来るか楽しみである。現存する「筑後の国風土記」によって紀元527年には既に存在していたことが判明しており、6世紀初頭、筑紫の君(あるいは筑紫の国造)と呼ばれて北部九州を統治していた豪族磐井(いわい)の墓で、磐井が生前に造らせたということまで判っている。
百済(くだら)と新羅(しらぎ)の戦争(鉄争奪の戦いと言われている)において新羅を応援した磐井は、百済を応援した大和朝廷(物部麁鹿火)によって西暦528年に滅ぼされるが、年代と埋葬者が古代文書によって確認されている前方後円墳としては日本最古のもので、考古学的に極めて意義の高いものである。ただ、昭和30年以前は、八女丘陵の西端地に当たる筑後市にある同じ前方後円墳の石人山古墳が磐井の墓と言われていたらしい。私も中学生のとき、石人山古墳に石造りの亀棺を見に行ったことがあるが、当時は、石人山古墳の方がメジャー扱いで、岩戸山古墳はマイナー扱いであった。
ところが、地元の中学校の藤島という歴史の先生が「筑後の国風土記 逸文(いつぶん)」を綿密に読解したところ、磐井の墓の東北隅に「衙頭(がとう)」という名称の「別区」が存在することを突き止めた。参考までに「筑後の国風土記 逸文」を掲げておこう。
「筑後の国の風土記に曰はく、上妻の県。県の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、 南と北と各六十丈、東と西と各四十丈なり。石人と石盾と各六十枚、交陣なり行を成して四面に周匝れり。東北の角 に当りて一つの別区あり。号けて衛頭と曰ふ。衛頭は政所なり。其の中に一の石人あり、縦容に地に立てり。号けて 解部と曰ふ。前に一人あり、裸形にして地に伏せり。号けて偸人と曰ふ。生けりしとき、猪を偸みき。仍りて罪を決 められむとす。側に石猪四頭あり。臓物と号く。臓物は盗みし物なり。彼の処に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あ り。・・・生平けりし時、預め此の墓を造りき。」
逸文の大意は、「上妻(こうづま:投馬国の比定地)の県(あがた)の南二里のところに筑紫君磐井の墓がある。…東北の角に衛頭(がとう)という別区(べっく)がある。衛頭(がとう)は政治を掌る所である。…裸で地に伏せった一人の石人あり。猪を盗んだ偸人(盗人)である。その裁判の様子が描かれている。・・・磐井は生前この自分の墓を築いた」といった内容であるが、藤島先生は岩戸山古墳こそ磐井の墓であると確信し、昭和31年に岩戸山古墳の東北部を発掘したのである。
すると、予想通り一辺が43mの方形の「別区」が現われたのだ。更にその広場を発掘したところ、石人、石馬、武人、裁判官、盗人、盾、猪(犬?)などの巨大な石造物の破片が発見された。衙頭(がとう)とは、磐井の君が罪人を裁いたり政(まつりごと)を行なっていた場所であろうと推測されている。現在、現物は岩戸山古墳の直ぐ下にある資料館に保存されており、「別区」にはレプリカが立てられ運動場のように広い衙頭(がとう)が復元されている。不思議なことだが、これらの石造物は福岡北部の遺跡とも熊本県の石造物遺跡とも異なる異質のものである。これは何を意味するのであろうか?
しかも、磐井の君が「衙頭(がとう)という場所で解部(ときべ:裁判官)が罪人を裁いた」と古代文書に記されている事実は、磐井の勢力下の北九州では、大和政権よりも2世紀も早い6世紀初頭において既に律令制が敷かれていたことを意味する。魏志倭人伝にも罪人を裁く記述があることから推測しても邪馬台国においては既に律令制が存在したことが窺われるので、磐井の君が支配していた八女地区は当時としては既に極めて文化の高い地区であったことが推測される。
邪馬台国の制度が承継されていることから見ても、やはりこの地区が邪馬台国であった可能性が大であると考えられる。ということは、大和朝廷は磐井を征服した後に律令制を作ったことになる。西暦701年に敷かれた大宝律令がわが国での初めての律令制と言われているけれども、これを訂正しなければならないのではないだろうか?
話は元に戻るが、岩戸山古墳が磐井の墓であるとなると、それでは石人山古墳は誰の墓か?ということになる。岩戸山古墳資料館の学芸員の方の説明では、おそらく磐井の父親の墓だろうということであった。そして、近くにある善蔵塚古墳という前方後円墳が磐井の息子の墓と想定されているようである。
戦時中、岩戸山古墳の西の台地に岡山飛行場が建設された。ここは亀の甲という地名で、「亀の甲土器」という素焼きの土器が発見されているところであるが、おそらくここが磐井の息子の墓だったのではないかという説もあるらしい。しかし今となっては、遺跡が破壊されているので調べようにも調べる術はないが、5世紀から6世紀の状況がかなり正確に捉えられている地区であることは間違いない。(亀の甲という地名は熊本県北の玉名市にも「亀甲」という地名が残っている。福岡県山門郡の南部地になる熊本県玉名市は博多とは別の「もう一つの奴国」という説もある。)
ただ、不思議なことに、新羅を応援した磐井が大和朝廷軍に敗れて背走した先が大分県の宇佐、即ち「豊(とよ)の国」である。大分県の耶馬溪(やばけい)の近くで死んだようであるが、3世紀ほど前の卑弥呼の宗女「臺与(とよ)」も邪馬台国から大分県の宇佐に逃げている。筑後地区は北と南から攻められると、地形的に見て必然的に日田市辺りが背走口となる。邪馬台国の時代から200年ほど下った時代の事件であるが、よく似た話である。
新羅(しらぎ)は、紀元50年頃には中国から「倭」と呼ばれていたようである。百済(くだら)や高句麗(こうくり)のいわゆる狗邪韓国(くやかんこく)民族が日本を攻め、大和朝廷を造ったのではないかと思う。民族的にも北方の高句麗系や百済系と南部の新羅系には言葉や文化等にも明らかな違いが見られるようである。韓国南部の新羅に任那(みまな)日本府が置かれていたことと磐井は何らかの関係がありそうである。大和朝廷は磐井を滅ぼすが、完全に壊滅させたわけではなく、結局は磐井一族と和解したのではないだろうか?そうでないと、近畿に前方後円墳が広まったことと、磐井の子供たちの立派な古墳墓が八女丘陵に残っていることの理由が説明できない。