以久遠氏の Beauty,Business & Favorites 食紀行 VOL-03/1999.01.15号

新幹線の静岡駅を、北口の三菱銀行側に出て、二本程北側の大きな通りを安倍川の方へ車で10分ばかり行ったところに、三百数十年の歴史を有する山葵(わさび)漬けの元祖の田尻屋がある。山葵漬けというのは、7代か8代前の先祖が考え出したものであるそうである。さほど広くない道路の角に鉄筋コンクリートの4階建ての工場が建っている。その建物の入り口の傍らの小さな店舗で出来立ての新鮮な山葵漬けが売られている。
誰もいない店先に立ってキョロキョロと見廻し、店員さんを探していると、口数の少ない頑固そうな白髪の主人がどこからともなく現われ、相手をしてくれた。しかし、「いらっしゃませ」といった挨拶もお愛想もない。こちらから問い掛けない限り、いつまでも沈黙が続くのではないのかといった風情で、全く商売っ気がない店である。
商売っ気のある人であれば、お客さんの言葉を聞いて「どちらからですか?」とか、「東京からですか?」といった愛想の言葉のひとつもあるものだが、実に淡々としていて挨拶もない。商人というより、職人さんがお客の相手をしているといった感じである。主人にとってはどんなお客さんも単なるお客さんに過ぎず、お客さんがどんな人であろうと何処から来た人であろうと関係ないのだろう。
山葵漬けには甘口と辛口の二種類がある。「どちらがよいですか?」と聞かれるので辛口をお勧めする。やはり、山葵漬けは山葵特有の鼻にツーンと来る刺激的な香りが失ければ山葵漬けではない。香りと味が勝負なのである。と言うことは、香りが保てる間、せいぜい一週間分くらいの量を買うようにした方がよいということである。小さな箱が丁度一週間分くらいの量で300円くらいの値段であるが、沢山欲しい時はその小さな箱を幾つか買って、冷凍庫で冷凍保存する。こうすればいつまでも山葵漬けの香りが保てる。
山葵漬けの美味しい食べ方は無限にある。ということは、自分の好きな食べ方で食べればよいということである。私は、刺し身につけたり、蒲鉾につけたり、味噌汁に入れたり、単に醤油をちょっとつけてご飯に乗せて食べている。お茶漬けにしてもいける。食欲が減退している時などは特に食が進む。色々な食べ方に挑戦されることを期待する。
田尻屋を過ぎて、更に西へ行くと安倍川畔に出る。安倍川橋の袂に安倍川餅の元祖「せきべや」がある。普通の民家っぽい造りの小さな製造場併設の店である。看板は出ていることは出ているが、よく注意して見ていないと見過ごして通り過ぎてしまう。敢えてそういうつもりかも知れないが、もう少し大きくした方が親切であるように思う。
この店も田尻屋と同じく300 年以上の歴史のある店らしい。商売っ気と愛想の無さは田尻屋に匹敵する。愛想で商売しているんではない、と言いたいのだろうが、老舗というのは、揃いも揃ってどうしてこんなに愛想が悪いのだろうか。小豆餡(あずきあん)をまぶしたものと黄な粉をまぶしたものの二種類がある。店に入ると、直ぐ目の前の作業場で安倍川餅を作っているのが見えるが、店に来たお客さんには注文を聞いてから作り始めるという店である。だから一寸ばかり時間が掛かる。
店に入ったところに5〜6人座れる畳敷の和室があり、お客さんは安倍川餅ができるまでこの部屋に上がって待つことになる。静岡ならではの美味い日本茶が出る。お茶を頂いて暫く待っていると、目の前で安倍川餅を作ってお盆にのせて持って来て呉れる。この和室で美味いお茶をお代わりして食べて行ってもよいし、勿論、持ち帰ってもよい。持ち帰る場合、出来るだけその日の内に食べたがよい。一日経つと、餅が固くなって折角の味が落ちる。
両方とも製造直売で、店頭でしか販売していない。従って、静岡へ行った時に時間を作って買いに行くしかない。場所は、一度行けば分かり易いところで忘れないが、町中、到るところに「元祖 わさび漬け本舗」、「元祖 安倍川餅本舗」という看板を掲げた店がある。根っからの地元人は皆知っているが、「元祖」が多過ぎて静岡に住んでいる人でもこの二店を知らない人が沢山いる。元祖を称する山葵漬けの店なんか、100 軒以上もあるらしいので、二、三回は尋ねないと分からないかも知れない。