以久遠氏 の Profile 雑感            VOL. 40 / 2002.03.15

「する」「出来る」 

 「する」と「出来る」は全く異なる行為である。にもかかわらず、多くの人が、この「する」と「出来る」という言葉を同義に解釈してしまうという間違いを犯している。「意思」が言葉となって表れるときは、必ず「する」か「しない」かのどちらかの表現になる。その点、「出来る」「出来ない」という表現は、「筈だ」という言葉を後ろに付けると分かりやすいが、単なる考え方の発露だけで行動を示す言葉ではない。

 これを哲学的な表現を借りて言い換えれば、「する」というのは唯物的表現であり、「出来る」という表現は唯心的表現ということになる。従って、「する」という発言に対して、「出来ない」という発言は、唯物的なものと唯心的なものを比較しているようなもので、次元の異なる事象を同じ土俵の上で評価しようとしている過ちに陥っていることに外ならない。

 「する」という言葉からは強烈な実行意思が伝わって来るが、「出来る」という言葉には、たとえ強く言い切ったにしても、どうしても暗に「…筈だ」という意味合いが感じられ、強い実行意思は伝わって来ない。特に、その言葉の後ろに「…べきである」とか「…ねばならない」という言葉が付加されると益々実行意思が希薄に感じられる。

 実業と虚業に携わるリーダーのタイプを見たとき、現実問題を適宜裁断し処しなければならない実業には唯物的発想の人間が向いており、現実問題を自分の責任において処する必要のない虚業には唯心的発想の人間が向いていると言える。

 「出来る」という観念論的な表現では部下は随いて来ないし、部下を引っ張って行くことも出来ない。しかし、世の中には「出来ることが出来ないのは部下が『やらない』からである」という言い訳をする幹部が大勢いる。そして、現実はその言い訳的論法が通ってしまうのである。

 よく考えていただきたい。「出来る」というのは唯心論であり、「やらない」というのは唯物論ということである。これもまた、次元の異なる事象を同次元で比較していることになる。「私たちの宗教を信じると現世の利益が享受できる。不幸が起こるのは信心が足りないからだ」という新興宗教の論理と全く同じであることを知って欲しい。従って、行政や経営に携わる者は唯物論者でなければならないということになる。

 最近、テレビタレントのような政治評論家や経済評論家たちが国会議員に当選することが多いが、果たして彼らに実行者として行動する能力があるのだろうか?私自身、非常に疑問に思っている。というのは、評論家は「出来る」か「出来ないか」あるいは「どうしたら出来るか」といったことをあたかも自分自身が実行者であるかのように語るのは巧い。

 しかし、ここでよく考えて頂きたい。彼らが実行者であることを志向するのであれば、自分自身に「出来るか否か」を問う必要は何処にもない筈である。それは唯心論的発言であって唯物論的発言にはなっていない。即ち、彼らが語るべきは「自分ならこうして実行する」ということの筈である。従って、彼らは、表面的には実行者の仮面をかぶっているに過ぎない唯心論者ということになる。

 「出来る」か「出来ないか」を自らに問うこと自体が自らが実行者とはなりえないことを表明しているに等しいのである。こう考えると、やはり国会議員になっても評論家的行動しか出来ないのではないだろうか、という気がする。しかし、彼らの発言を聞いた一般の人たちは、得てして「彼だったら、やる(出来る)かもしれない」という幻想を抱いてしまうのである。

 昔、ある会社の社長になった高名な経営評論家がいたが、その会社は数年であっけなく倒産してしまった。また、政権与党の政治家になったテレビで売れっ子の評論家がいたが、何ら実績を残すことなく彼もいつの間にか政界から消えて行った。実行しようにも出来ない野党であれば、評論家即ち唯心論者でも十分に議員たり得たかもしれない。実行が義務付けられている実業の分野は唯物論者でないと務まらないのである。

 また、「する」と「考える」の中間に「ねばならない」という言葉もある。これもやはり唯心論的発言と言える。「しましょう」という言葉も自らの意思を他者に委ねた言葉と言えるだろう。見方によっては、極めてずるい表現方法と言えないこともない。


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