以久遠氏の Beauty,Business & Favorites      旅紀行      VOL. 41 / 2002.04.15

山形、奥の細道を酒田へ  

 江戸時代の山国の米沢藩と海浜の庄内藩が現在の山形県であるが、山形県は、位置的には、北方は日本海に開かれているが南方は奥羽山脈で遮られている。まるで文明に背を向けて文明の進入を拒否しているかのように位置している。ひそやかに存在している県である。

 山形県を代表するものと言えば、米沢藩の上杉鷹山、庄内藩は日本一の大地主の本間さまであろう。年若い殿様上杉鷹山が崩壊寸前の米沢藩を殖産振興によって藩財政を建て直したことが有名である。その先取的伝統が連綿と現在までつながっているのか、山形県は多くの大企業の工場を誘致して今も殖産興業に意を注いでいる。保守性の強い東北6県の中では最も先進的で、経済的にも豊かな方に入るだろう。

 山形県を有名にしたものは、「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして…」の書き出しで始まる俳人松尾芭蕉の「奥の細道」に出て来る山寺(やまでら)と最上(もがみ)川である。少し長いが、「奥の細道」の出だしを紹介すると、

   「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる者

    は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて

    漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年(こぞ)の秋、江上(ごうしょう)の破屋(はおく)に蜘(くも)の古巣をはらひて、やや年も暮れ春

    立てる霞の空に白川の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につか

    ず、股引(ももひき)の破れをつづり笠の緒付けかえて、三里に灸すうるより、松嶋の月まづ心にかかりて、住る方は人に譲

    り杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、

       『草の戸も 住替(すみかわ)る代ぞ 雛(ひな)の家』

    表八句(おもてはちく)を庵の柱に懸け置く。」

という文である。この余りにも有名な「奥の細道」の書き出しの「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人也」という気宇壮大(きうそうだい)な名文句は、読む人に芭蕉の歩いた奥の細道をせめて一度は訪ねてみたいという気持ちを起こさせる。

 「奥の細道」とは、芭蕉とその弟子の曾良(そら)が江戸の下町深川の芭蕉庵を出て、岩手県平泉の中尊寺を最北地として山形から秋田県の象潟(きさがた)を経て新潟を廻って芭蕉の生まれ故郷である三重県の伊賀上野に帰り着くまでの俳諧紀行である。しかし、旅の途中の6月2日(新暦7月18日)に雪解け水の荒々しく流れる最上川を詠んだ、

    「五月雨(さみだれ)を あつめて早し 最上(もがみ)川」

の句と、山形の山寺で詠んだ

    「閑(しずけ)さや 岩にしみ入る 蝉の声」

という、たった17文字の二つの句が余りにも有名になり過ぎて、多くの人に「『奥の細道』とは岩手から山形までの紀行文」という勘違いをさせる因となったようである。松尾芭蕉は青葉の5月中旬、

    「行く春や 鳥啼(な)き 魚の目は泪(なみだ)

と詠って東京都江東区深川の芭蕉庵を早朝出立(しゅったつ)し、壮大な「奥の細道」の旅が始まった。埼玉県の春日部(かすかべ)、栃木県の小山を経て日光を訪れ、日光の東照宮では、

    「あらたふと 青葉若葉の 日の光」

と詠う。さらに郡山、福島を経て仙台、松島から太平洋岸を北へ上り、石巻から内陸部へ向かい岩手県の一ノ関に入る。一ノ関の平泉では藤原三代の菩提寺中尊寺を訪れ、

    「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」

の名句を残し、杉小立の中に輝く金色堂を見て、

    「五月雨の 降り残してや 光堂(ひかりどう)

の名句を生む。一ノ関から南へ下り、こけしで有名な鳴子から宝珠山(ほうじゅさん)立石寺(りゅうしゃくじ)を訪れる。JR山寺(やまでら)駅の駅前に屏風のように聳え立つ宝珠山は標高こそ左程ないが、芭蕉が「岩に巌(いわお)を重ねて山とし、松柏(しょうはく)年旧(としふ)り土石老いて苔(こけ)滑らか」と表現したように、今も松の木の合間に荒々しい岩肌を顕わにした凄絶な山である。芭蕉記念館の庭に立つと、急峻な崖にしがみつくようにして建っている立石寺や、山寺、立石寺の僧坊やお堂や石段が手にとるように望める。芭蕉はこの立石寺で、

    「閑(しずけ)さや 岩にしみ入る 蝉の声」

の名句を詠む。その後、新庄から「五月雨を あつめて早し 最上川」の最上川沿いに酒田へ向かう。酒田では、

    「暑き日を 海に入れたり 最上川」

の句を残す。途中、お皿を伏せたような巨大な山塊の月山(がっさん)に登って、北の終着、秋田県の象潟(きさがた)を訪れ、

    「象潟や 雨に西施(せいし)が 合歓(ねぶ)の花」

の情感溢れる名句を詠む。

 最上川は源流を奥羽山脈に発し、北に鳥海山(ちょうかいざん)、南に月山と羽黒山という修験道の霊山に挟まれた山形県の中央部を曲がりくねって流れている。最上川は河口の酒田で日本海に注ぐが、「五月雨を あつめて早し 最上川」という句の素晴らしさは、実際に最上川を見たことのある人には説明は不要であろう。たった17文字だが、最上川の男性的で雄大な悠久の流れを髣髴(ほうふつ)と思い起こさせる筈である。

 昨年の暮れ、豪雪の山形を訪れた。秋田から山形、米沢を経て福島から東京へという逆のコースであったため、芭蕉の歩いた奥の細道を辿(たど)ることは出来なかった。いつか再び訪れることもあるだろうと思っていたが、近くまでは行くものの意外と機会はないもので、いつの間にか20数年が過ぎてしまった。

 随分昔の話で恐縮であるが、30年近く前、仙台から酒田まで「奥の細道」コースを旅したことがある。まだ高速道路のない頃で、仙台から仙山(せんざん)線で作並温泉を経て将棋の駒で有名な天童まで汽車で出て、天童から車に乗り換えて最上川沿いに酒田へ下った。国道347号線から曲がりくねって流れる最上川に沿うようにして北の空を見ながら酒田に向かって走る国道47号線は暗く、如何にも「奥の細道」という感じがした。

 左に行者信仰の霊山羽黒山と優美な姿の月山(がっさん)連峰を、右にゆるやかながらも力強いうねりの最上川の川面を見ながら渋滞のない国道をすいすいと走った。鳥海(ちょうかい)山山系と月山山系に挟まれた最上川は、如何にも「鳥海山と月山の水を集めて」という感じがぴったりである。

 車の窓を開けていると、流れ込む川風が心地良く頬に触れる。時代が違うとは言え、芭蕉と曾良が何日も掛けて歩いて下った道を車で一瞬のうちに走り去るのは、芭蕉の感じた最上川とはまた違った最上川だろう。

 しかし、涸(か)れることなく永遠に流れ続けるだろうと思わせる水量豊かな最上川はまさしく「月日は百代の過客」という思いを抱かせる。うねる様にして力強く流れる様は、まるで水中を龍が身体をくねらせて泳いでいるかのように見える。芭蕉の見た最上川も私が見た最上川もさして大きな違いはないだろうと思いながら酒田へ向かった。途中にある最上峡の山水画の世界を楽しみながらの実に心地よいドライブであった。

 私が初めて酒田を訪れたのは「酒田の大火」の半年後ぐらいだったと思う。酒田駅近くにある本間美術館の辺りは殆ど一軒の家も無いぐらいに焼け落ちて一面焼け野が原になっていた。鉄筋造りの本間美術館だけが焼け野が原の中にポツンと一軒建っているという、まるで終戦時の古ぼけた写真に見る大空襲の跡地のような異様な光景であった。

 色褪せてセピア色に変色した写真も侘(わび)しいが、人々の営みが絶えた街ほど凄惨なものはない。現場検証に手間取っているのか、廃墟と化した街には、力なくのろのろと後片付けをする人影がパラパラと目に付くだけで復興の気配もなかった。「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」と俗謡に歌われた豪商で日本一の大地主本間一族の土地である酒田の活気はどこにも残っていなかった。


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