Vol-30号で「邪馬台国は無かった。あったのは邪馬台国連邦である」と書いたが、やはり邪馬台国という国は無かったのではないだろうか。いろいろ考えていると、そんな気がして仕様がない。
邪馬台国の外交地、謂わば江戸幕府の長崎の出島のような役割を担っていたのが「一大率(いちだいそつ)」という連邦諸国を検察監督する役目の官庁が置かれていた伊都(いと)国(現在の糸島郡)である。魏(ぎ)の特使が朝鮮半島の帯方(たいほう)郡から壱岐(いき)、対馬(つしま)を経て玄界灘の荒海を越えて邪馬台国を訪れるには、やはり佐賀の松浦半島(末盧国)を目指すのが最も近く都合がよい。これについては学者も町の研究家の誰も異論がない。
しかし、伊都国から先は千路(ちじ)に論が分かれている。というのは、魏志倭人伝の「南至邪馬壹国 女王之所都 水行十日陸行一月」という記載がその原因で、「陸行一月」「水行十日」の解釈次第で邪馬台国の所在地が諸説紛々となっているのである。私は、女王卑弥呼の住む「女王国」は様々な理由から筑後の八女地域だろうと推定しているが、古代においては玄界灘の海岸地区から奥地の八女までを陸路で行くことは極めて難しかっただろうと推測している。
本稿では、これについて述べたい。魏志倭人伝の原本である魏略本には「邪馬臺国」と表記されているそうだが、現存する魏志倭人伝紹興本(しょうこうほん)にだけ「邪馬壹国」とある。古田武彦氏だけが「邪馬壹国」説を採っているが、他の人達は皆、「壹」は「臺」の写し間違いという見解で、これが通説となっている。
しかし、私には、漢字文化の国の写本家がそう簡単に文字を写し間違える筈がない、という思いが強い。従って、その前提に立って「臺」も「壹」も正しいと考えてみた。即ち、「邪馬壹国」も正しいという前提に立って魏志倭人伝を解釈して、「伊都国から女王国までの間には沢山の国があるが、南には女王の都する邪馬国一国しかない」と読んだらどうなるだろうか?という訳である。魏志倭人伝にも、邪馬国について「可七萬餘戸」とあり、女王卑弥呼の住む邪馬国は巨大な国であったことが推察出来る。
しかし、「可七萬餘戸」と書いてあるから「邪馬台国は巨大な国家である」と簡単に信用する訳にはいかない。何故なら、「七萬餘戸」と言えば、古代は大家族制が多いので一戸に10人以上住んでいれば邪馬台国の人口は70万人以上となる。仮に少なく見て6、7人住んでいたとしても、邪馬台国の人口は4、50万人ということになり、この人口を賄うためにはかなり豊かな地区でなければならない。
この人口は、邪馬国に比定する現在の大牟田、柳川、八女、筑後、大川地区の総人口に匹敵する。現在の久留米地区の人口を加えても邪馬国と思われる地域の総人口は110万人である。邪馬国が如何に大きな国で豊かな国であったとしても、1700〜1800年も昔に4、50万人という人口は古代にしてはちょっと多過ぎるのではないだろうか。もっとも、女王国以外の国が狭小であるために、日本の外交役人が魏の使者に「邪馬台国は力のある巨大な国である」という印象を与えるために意図的に「可七萬餘戸」とオーバーに喋った可能性があることは十分考えられるだろう。
陸路について述べる。玄界灘に面した糸島郡(伊都国)から博多(奴国あるいは好古都国)を経て八女郡(邪馬国)へ入るには、佐賀県を南北に分断している最高峰1055mの背振山系と、標高862mの古処山、978mの馬見山を主峰とする宝満古処山系とが両側から迫り来る隘路(あいろ)の町原田(はるだ)まで南下することになる。ただひたすら、50kmほど「行くに前人を見ず」と魏志倭人伝に表現された鬱蒼と繁る照葉樹林の森林(亜熱帯から暖温帯にかけて見られる常緑広葉樹を主とする樹林)や草木の生い茂る山道を登り続けなければならない。これは大変な労力である。
峠の原田を過ぎてからは下り坂で、いよいよ広大な筑後平野に入ることになる。だらだらと平野部へ15kmばかり降りて行くと、筑後平野の中央部を流れる筑後川に出る。筑後川は日本三大河川のひとつに数えられ、「坂東太郎(利根川)」「四国三郎(吉野川)」と並んで「筑紫次郎」と呼ばれている水量の豊富な川である。上流の大分県側に「夜明けダム」が出来るまでは、大洪水を引き起こす天下の暴れ川として有名で、毎年、台風シーズンになると筑後平野一帯を冠水させていた。
恐らく、ダムは勿論のこと堤防もなかった古代は今以上に猛々しい暴れ狂っていた川であった筈である。勿論、橋などある筈もない古代に、このような流れの急な暴れ川である筑後川を渡るのは極めて困難だったろうと想像する。何とかしてその筑後川を渡ったとしても、すぐ目の前に耳納(みのう:水縄とも書く)山脈が聳(そび)え立っている。
筑後川辺りから見ると、耳納山脈の北面は屏風のように切り立った崖で、迫ってくるような急峻な山塊である。屏風か壁のように聳えている様はまるで要塞である。耳納山脈は標高802mの鷹取山、931mの耳納(みのう)山を主峰とする山脈で、大分県の日田の方から脈々と連なっているが、その山並みを越えると南斜面はいわゆる「八女茶」で有名な茶処の八女郡である。八女郡側は緩やかな丘陵地で、燦々(さんさん)と降り注ぐ陽射しを受けて如何にも南国産のお茶がよく育ちそうなところで見渡す限り茶畑が広がっている。
古代には殆ど道も無かったであろうから、急峻に切り立った耳納山脈を越えるのは一苦労だった筈である。その山越えを避けて耳納山脈の西端部の低い高良(こうら)山の方から迂回したとしても、八女郡に入るまでに低い丘陵がいくつもあり、上ったり下ったりを数度繰り返してやっと筑紫の国造磐井(いわい)の墓がある八女市の長峰丘陵に到達する。距離にして10数km、現代では大した距離ではないが、博多湾岸から八女に至るまでの行程は山あり大河ありで結構難所が多く、道路も定かでないような古代においては大変だったであろうことは容易に想像できる。
八女市・八女郡は、北に802mの鷹取山、東に1231mの釈迦岳、南に994mの三国山、595mの姫御前岳と三方を山に囲まれた盆地状の地形で、西の有明海に面した山門郡側だけが開けている。このように八女地区は中央部を矢部(やべ)川が流れ、自然の要塞のような地形をしており、内部には八女平野とでも言うべき肥沃な田畑地が開けた農産物の豊かな地域である。そして、有明海側から見ると、山門郡山川町の標高405mの御牧山が邪馬台国への入り口の見張り台のように聳えている。御牧山近隣の女山(ぞやま)には、後代になるが、神籠石(神護石:こうごいし)の遺跡がある。
魏志倭人伝に末盧(まつら)の国は「行くに前人を見ず」と評されたくらい草木が鬱蒼と繁っていた国である。魏の特使が訪れ滞在していた伊都国でさえこうであるから、北九州の内陸部である筑後地区には樟(くす)や欅(けやき)の大木も多く、当時は想像を絶するような原生林や原野だっただろうと思う。札幌を訪れた時、北海道の札幌の市街地が明治の半ばまでは巨大な蝦夷松の原生林だった、と現地の70歳半ばの老人が述懐していたことから推察しても、邪馬台国の時代の筑後地区も照葉樹林の原生林であっただろうくらいのことは十分窺われる。
伊都国や奴国から福岡県の中央内陸部を通って、背振山系の山並みと筑後川と筑後の原野を越え、更に耳納山脈を越えて邪馬国に入るには直線距離にして70kmくらいある。この行程は並大抵のものではなかった筈で、晴れた日に一日5kmくらいしか移動しなかった古代においては優に「陸行一月」くらいの行程になるのではないかと思う。
従って、古代において八女郡に入るには、山越え川越えの内陸部を通る方法と、遠回りにはなるが長崎県の西彼杵(そのき)半島、雲仙岳のある島原半島廻りで有明海に入り、柳川か三潴郡辺りから山門郡を経て八女郡に入る二つの方法が考えられる。行程的にはむしろ後者の船便の方が良いように思う。
こうして見て来ると、魏志倭人伝に「陸行すれば一月」、「水行すれば10日」と二通りの方法が書いてある意味が明確になる。しかも、八女に入る途中には、三潴(みずま)郡や三根(みつね)町などの「投馬(つま)国」の名残りとも思われる地名が残っており、魏志倭人伝の記載にも合致する。山門(やまと)とは「邪馬(国)+戸」で、まさしく「邪馬国への入り口」という意味であることから見ても納得できる。
次に、邪馬台国という名称について考えてみたい。魏志倭人伝には、邪馬台国の出先の大使館か領事館みたいな「一大率」が伊都国に置かれていたことが明記されているが、邪馬台国という独立した国が存在していたとはどこにも書いてない。卑弥呼が女王であることは「共に女子を立て王となす」という文章から明白であるが、「女王国東渡千餘里 復有国 皆倭種」という記述や、「女王国」あるいは「女王の都する所」という表現がされているだけで、邪馬台国を具体的に特定するような表現はどこにも見当たらない。
あるのは、女王国の北、つまり伊都国から女王国の間に30カ国余りが存在し、邪馬台国連邦の最南端に「女王国」があり、「その南は全て狗奴国である」という表現である。しかも、倭国が乱れていたがために、「共に女王を立て」て卑弥呼が邪馬台国の代表者となったことから考えても卑弥呼の国はそれ以前から存在していたことは明白である。
となると、卑弥呼の国にも正式な国名があった筈である。それを敢えて魏志倭人伝が「女王国」という略称を用いているのは、正式国名を省略しても意味が通じるからではないかと思う。即ち、邪馬台国の「邪馬」と邪馬国の「邪馬」は同一で、「邪馬壹国」とは「邪馬一国」のことではあるまいか。七万余戸の大国一国が狗奴国と国境を接していたのだろうと想像している。
こう考えると、邪馬国は卑弥呼が領し常住していた国だった可能性が極めて大きいことになる。そもそも「臺(台)」という字は「見晴らしの利く高い台地」とか「貴人の居住する場所」を意味する。女王卑弥呼が住んでいる所という意味から貴字である「臺」という字が当てられたのではないだろうか。即ち、邪馬臺国とは「女王卑弥呼が居住している邪馬という国」という意味になり、卑弥呼を女王とする邪馬臺国連邦を意味することになる。
筑後南部の八女郡で「臺」に相応しい見晴らしのいい所と言えば、耳納山脈の西端部の高良(こうら)大社のある高良(こうら)山辺りが該当する。雄大な筑後川の流れ、久留米方面から浮羽郡辺りの筑後平野、三潴郡や八女郡の展望が利く。従って、これらの理由から魏志倭人伝に「狗奴国と接する」と書かれている女王国は邪馬国に違いないと考えるのである。即ち、卑弥呼は邪馬国の国王であり、邪馬臺国連邦の女王だったのである。
「八女(やめ)」という地名が「邪馬(やま)国」に似ているだけで、八女地区を邪馬台国女王国の「邪馬国」に当てている訳ではないが、「やめ」と「やま」という名称の相似や、昔から福岡県最大の「郡」であったことも捨て難い。特に、広大な狗奴国に接している邪馬台国が大国であったということにも合致する。後代の熊の国、曽(襲)の国辺りが狗奴国と想定されることから考えると、八女地区が邪馬国である可能性が大きいのである。「八女」という名前は、古代にこの地区に住んでいた「八女津媛(やめつひめ)」というお姫様に由来したものと言われている。熊本県境の山地には八女津媛山とか姫御前岳という山もある。
八女津媛がどういう素性の人であるかまで調べていないが、ひょっとしたら卑弥呼や卑弥呼の宗女臺與(とよ:通常、臺与又は台与と表記))に関係がある女性かも知れないという気もしている。「やめつひめ」の「つ」が「の」を意味することを考えると、八女津媛は「八女の姫」ということになる。これを「邪馬の姫」と考えれば、自ずと卑弥呼の宗女臺与(とよ)あるいは臺与の娘という線が浮かんで来る。
しかも、耳納山脈の主峰耳納山の八女郡側の麓の、訪れる人も殆どいないような所に天照神社がある。何でこんな田舎の山の中にというような処にである。しかも、耳納山の北側の浮羽郡側の麓には「日向(ひむか)」という地名もある。また、西暦1200年ごろとか700年ごろとか500年ごろとかいろいろ諸説あるが、「八女茶」で全国的に有名な八女地方は、中国から帰国したお坊さんが日本で最初にお茶の木を移植した地、と言われているところでもある。年代を考えると疑問もあるが、不老長寿の薬を探して来日した徐福伝説もある。これらのことから考えても、八女地区が古代から中国との交流が頻繁にあった地区であることは間違いない。