受益者負担という社会 最近の政治や社会の動きを見ていて気になることがある。あたかも伝家の宝刀の如く、いろいろな場面で「受益者負担」という言葉が使われている。そして、多くの人たちがその言葉の意味を何の疑問も抱かずに受け入れているように思えてならない。
近くは地方自治体への国家補助である地方交付金にかこつけた社会資本投資の地方へのすり替え、高速道路の建設論議、本四国架橋の民営化あるいは地方自治体へのすり替え問題、数年前の高齢者の医療初診料負担からその増額、最近では課税最低額の見直し…等々。
この「受益者負担」という言葉は、昔は法律を学んだ者たちが好んで口にする言葉であったが、最近では日常の生活のあらゆる場面でごく日常的に使われるようになった。法律用語が一般化することは良いことだが、自分勝手な解釈で勝手な使い方をされると、本来の意味が誤って通用し始め、本来、社会に対し利益をもたらすべきものが逆に不利益をもたらすといった危険性がある。本来が法律用語であるだけに、余計に始末が悪くなるということも念頭において置かなければならない。
全ての人たちに平等に与えられている権利について、その権利を行使して利益を享受する人もいれば、その権利を行使していないために利益を享受していない人もいる。傍から見れば、前者は如何にも受益者に見える。従って、発生する費用を受益者負担という理屈で当該者に負担させようとする。こういう論理を組み立てる人が多いが、これは詭弁的間違いである。このような場合は受益者負担という概念には入らないことを知らなければならない。
この「受益者負担」という言葉は、一見、公平の論理に適ったもののように聞こえる。しかし、受益者負担という思想は強者の論理から出たものである。先代ブッシュも湾岸戦争において好んで使った。その挙句、湾岸戦争費用の分担金として日本は200億ドルという巨額な額を負担させられた。
受益者負担と社会福祉とは、その実は相容れないものである。朝日新聞が毎年発行している「民力」という資料本があるが、それを見ていると戸数が1000戸に満たない数百戸という町や村が全国到るところにある。しかも、所得額を比べても東京と最下位の地区とでは「2:1」の開きがある。そういう町村は年金生活の年寄りだけの町で、過疎化が進行している若者のいない町である。第二次産業も第三次産業も殆どなく、細々と第一次産業に依存して生活しているに過ぎない弱者の社会である。
このような弱者の社会に「受益者負担」の思想を持ち込んだらどうなるだろうか?改めての説明は不要であろう。田中角栄総理が日本列島改造論をぶって地方都市の再生を図ったことについては賛否両論あるが、労働力の大都市集中現象が一時Uターン現象やJターン現象という社会現象を惹き起こした点については評価しても良いと思う。産業と若い労働力を地方へ分散させるという効果を生み、地方社会(Community)の活性化に貢献した筈である。
「受益者負担」という言葉は、一見、合理的に見える思想だが、負担しようにも負担できない弱者はどうすればよいのか。その境界を何処においてバランスを取るのか。単なる受益者負担という考え方は極めて危険な発想である。健全なる行政のためには慎重に考慮されるべき非常に大事なことであると言える。
憲法前文において、「…その福利は国民が享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである」と述べ、憲法第十三条[個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉]において「…立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と具体的に謳(うた)っている。再選された田中長野県知事は弱者の論理に立って行政を進めようとしている数少ない行政者のように見えるが、小泉内閣の面々のこれまでの行政振りを見ていると、どうも憲法の精神をきちんと理解していないのではないか、と思う。
バブル期に立派な市庁舎や市民センターなどのいわゆる「箱もの行政」に溺れたツケによって各自治体が財政破綻状況に陥っていることは論を俟たないが、小泉政権の格差政策によって地方自治体の財政の実情は今や余力皆無という有様にまで陥らされている。このようなところに「受益者負担」の思想を持ち込んでも、自治体自身が何かをする力を失っているのであるから、何も出来る筈はない。
何も出来ない自治体に、二言目には「地方に出来ることは地方に…」「民間に出来ることは民間に…」とオームのように繰り返す小泉首相と竹中大臣の言葉の虚ろな響きほど白けるものは無い。過疎地住民に対する行政施策、社会資本の充実や福祉福利については、やはり国家が責任を持って国民全員に公平に行き渡るような行政を採るべきであろう。それが憲法の精神を尊重することである。
また、「受益者負担」という思想を推し進めると、消費税の使用目的を特定化することで消費税率アップを正当化させる危険性がある。趣味嗜好の世界においては受益者負担という論理は成り立つが、日常の生活の世界では「生きる」という原点に視点を置けば、米や豆腐や野菜や魚などに掛ける消費税率をアップすることは更に弱者切捨て思想に拍車が掛かることになる。小泉内閣の金融財政政策は強者の論理が顔を出していると言わざるを得ない。「受益者負担」という言葉と対をなすものに「自己責任」という言葉があるが、これについても今まで述べて来たことがそのまま当てはまる。
三田文学の創始者で「墨東奇談(ぼくとうきだん)」を書いた永井荷風(かふう)が、江戸川区の自宅の前の道路がいつまで待っても舗装されないことに憤慨して、区役所が自宅前を舗装するまで税金は納めないと滞納した有名な話がある。「雨が降ると泥が飛び跳ねて難儀しており、役所に自宅前の道路を舗装してくれるようお願いしているのだが、一向に聞いて貰えない。俺は多額の納税をしているのだから、そのくらい聞いて呉れてもよいだろう」という論理である。
時代は違うが、これも強者の論理である。税金の使い方というのは個人や業界の意向で左右されるようではいけない。国民は「受益者負担」と「自己責任」という一見綺麗に響く言葉に眩(くら)まされてはならない。